神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

マーリン・キャロザースさんの感謝と賛美の教え-【7】-

2017年01月11日 | キリスト教
(いらすとやさんの素材集よりm(_ _)m)


 それでは今回は、マーリン・キャロザースさんの「讃美の力」の第六章、不平よさらばから学んでいきたいと思いますm(_ _)m


 >>私は数年間、自分はめったに不平を言わない、つまり声に出して不平の言葉を言わないと、自らに言い聞かせて満足していたものでした。私はにこやかな外見を保つよう、工夫し努力してきたのです。しかし、心の中では絶えず不平を言っていたのです。当然のことながら、不平の罪を犯していることを認めない間は、私は決して成長していませんでした。

 自分が口にするような不平は正当であると思っていたのです。十分な睡眠が取れず、気持ちよく朝起きれない時、私は不平を言いました。家族のだれかがバスルームを乱雑にしていると、私は小声でつぶやきました。また朝食を急いですまさねばならないことでつぶやきました。オフィスで事が順調に行かなかった時とか、人が自分の思うようにしなかった時に、私は不平を言いました。請求書のことで不平を言い、車のエンジンのかかりが悪い時や、どこかへ行く途中で赤信号に行き当たった時に不平を言いました。夜おそくまでオフィスで働かねばならなくて、時間どおりに就寝できなかった時、不平を言いました。そして翌朝また、初めからこの全部をくり返すのでした。

 聖霊が、あらゆる事において感謝せよという聖書のみ言葉を示し始められた時、私は何年間もその正反対の事をやってきて、しかも、それにすこしも気がついていなかったことを悟り始めました。

 改善への第一歩は、私が常習的不満家であることを認めることでした。

(「讃美の力」マーリン・キャロザースさん著/浜崎英一さん訳より)


 常習的不満家であること、それがあらゆることを神さまに感謝し、讃美するということの反対の態度といっていいかもしれません。


 >>見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

(イザヤ書、第59章1~2節)


 と聖書にありますが、このわたしたち人間と神さまとの間にある罪の仕切りについては、イエスさまが十字架にかかり血の贖いをなしてくださったことで、今は取り除かれています。

 けれども、イエスさまのことを信じ、受け容れたのちも――その喜びと解放の力を十分には体験しないままでいるクリスチャンの方というのは、もしかしたらまだまだ多いのかもしれません。


 >>神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

(ローマ人への手紙、第8章28節)


 >>いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

(テサロニケ人への手紙第一、第5章16~18節)


 わたしたちの、日常生活における不平や不満に対して常につぶやくという対応というのは、こうした聖書の御言葉を元にした神さまへの感謝や讃美の対応とは真逆に当たるものです。

 では、次に、マーリンさんの教えに触れた方が、不満や不平的態度を神さまへの感謝や讃美の対応へと変えた結果――どのように人生が変えられていったのかを、「讃美の力」の中から見ていきたいと思いますm(_ _)m




 >>あるクリスチャンのビジネスマンが、自分の生活を今までより以上にキリストにゆだねました。その後まもなく、役員として高給のある仕事から解雇されてしまったのです。彼は他の仕事をさがしましたが、どこも経営縮小のため、仕事はなかなかありませんでした。家庭は経済的に苦しくなり、請求書がかさむにつれて彼の心配は増大し、祈りも答えられないように思えました。

 こんな失業状態が一年も続いたある土曜日の晩、彼はすべてのことを感謝するという私の講演を聞いたのでした。神がまだ仕事に導かれなかったのには、何かの理由があるのだということが突然彼に分かり始めました。そして失業していることを神に感謝し、失業のため自分と家族が味わっているすべての困難を神に感謝しました。

 翌日の日曜日も一日中、彼は神を讃美し続けました。そして現在の境遇についての恐れと憤りがだんだん弱まってゆき、その代りに真の喜びがわき上がってくるのを感じたのです。

 月曜日の朝早く、電話のベルが鳴りました。もうひとりの役員からで、「私の代わりに働いていただけますか」とたずねてきたのです。

「ええ、喜んで」と彼は答えました。

「いつから始めていただけますか」

「明日からでも」

「では早速仕事にかかっていただくおつもりで、九時にこちらへいらしてください」

 新しい仕事は給料も非常によく、以前より一層重要な仕事で、彼は毎月、多くのビジネスマンと直接に接触することになりました。彼がキリストをあかしすると、つぎつぎと主を救い主として受け入れる人たちが起こってきました。

 そのビジネスマンが私に語りました。

「私が自分の状況について少しでも恐れと憤りを抱いている間は、神が私の生涯に対するご計画を遂行なさるのを、私自身が妨げていたのです。私が神を信頼して、あるがままの私の生活を神に感謝できるようになるとすぐに、神は私をご自分のものとして望まれるところへおくことがおできになるのです」




 >>あるクリスチャンの看護婦が惨めに過した数年のことについてこう書いています。

「小さな事がいつも私の心を乱し、いらだっていました。だんだん私の生活は惨めになっていきました。神さまに、助けを求めて祈りましたが、何も起こりませんでした。

 朝は動けるようになるため薬を飲み、夜は眠れるように薬を飲むようになりました。毎日が、ああ起きなければならないという苦しい思いで始まりました。自分の家事すら、ろくにできませんでした。病院では患者さんたちを世話する過労でつぶされそうでした。

 日、一日と悪くなって行きました。二、三か月前にはたやすくできていた事もできなくなりました。死なせてくださいと神さまに祈るほどの状態に陥っていきました。生きていることが全くの地獄だったのです」

 そのような状態で、ある日彼女は「獄中からの讃美」を読んだのです。 

「まるで希望の光が心中にともされたようでした」と彼女は書いてします。彼女はすべての事で神を讃美しようと決意しました。そして過労の原因となったような事をはじめ、感謝すべき事柄を列挙して長い表をつくりました。その結果はすぐに現われ始めました。

「今私が言えることは、イエスさまが私の心に入られてから、私のうちにすばらしい変化が起こったということです。絶えずつきまとっていた失敗を恐れる極度の不安はもうありません。いろいろの事でいらだったり、心が乱れたりすることもなくなりました。何かがぐあい悪くなりそうな時は、ただ上を仰いで、『主よ、ありがとうございます』と言います。すると本当に讃美の歌が心に起こってきます」




 山のように積もり重なった惨めさにとり囲まれていると思えるときも、ほんの小さなもぐらづかのようなものに悩まされているときも、起点となる所は同じです。不平とつぶやきを罪として告白すること、そしてこれからは感謝しますと神に約束することです。その決断をし、信仰にあってそこに立つ決意をするなら、神がそれを行う力を与えてくださるのです。いったん約束すれば、神に感謝する機会がどっと押し寄せるか、あるいは少しずつくるかは分かりませんが、とにかくやってきます。

(「讃美の力」マーリン・キャロザースさん著/浜崎英一さん訳)


 ではでは、次回はまたマーリンさんの「讃美の力」から、引き続き学んでいきたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!




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