召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
(エペソ人への手紙、第4章1節)
>>テレビを消し、大切にとっておいた小説などをももっと霊的な読み物に変え、イエス様に一人でも多くの人を導こうと必死になりました。もうこれで行き着くところに行き着いたのでしょうか。まだまだ程遠い気がしました。まだまだ学ぶべきことがたくさんあるようにも思えました。
ある朝、目覚めると私のペースを変えなくてはいけないのではないかという思いがしました。もし今体を休めなかったら、回復するのに途方もない時間を要するのではないかと思ったのです。外の新鮮な空気を吸いながら、ゴルフをすることはリラックスにもってこいの方法です。そこで私は、ゴルフ・クラブのほこりをはらい、車に積み込み、さあ出かけるぞという時に、主が語られました。
「マーリン、おまえは何をしているのか?」
「主よ、何かためになることをしようとしています。美しいゴルフ・コースの太陽の下で、緑の草の上を歩き、必要な運動をして少し休息を取りたいと考えているんですが。これなら許してくださるでしょう」
「私の栄光のためにしなさい!分かっていますね」
私は当惑してしまいました。私はただ単に健康面を考えているだけなのに、神様の栄光になるようにゴルフができるでしょうか。とりわけ、神様は私たちが全てのことをうまく管理するよう願っておられます。だから自分の体にもきちんと責任を持たなくてはいけません!
たぶん神様は私が休んでいるときでも主に栄光を帰しているという事実を喜んでいらっしゃると言っておられたのかもしれませんが、何かもっと深い意味があることを知って欲しいと願っておられたのかもしれません。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
テレビを見る時間を減らし、娯楽小説よりもクリスチャンが著者の霊的読み物を読むようにしたマーリンさん。ところが、今度はゴルフへ出かけようとすると、またしても神さまの聖霊さまを通した御声があり……流石に本を読まれた方も、「え?ゴルフまでダメなの?はあ~、しょんな~。神さま、厳しすぎやしねえですかい?」と思われたかもしれません
けれども神さまはマーリンさんにゴルフまで禁じられたというよりも、この箇所は次の聖書の御言葉と関係かありそうです
>>だからあなたがたは、食べるにしても飲むにしても何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
(コリント人への手紙第一、第10章31節)
何をするにしても、すべて神さまの栄光のために……そこでマーリンさんはこの時も思いを巡らされた結果、次のようなことに思い至られたということですよね。。。
>>中には意気消沈し、疲れ、傷ついたクリスチャンがいるかもしれません。そのような兄弟と共にゴルフをし、彼の悩みを聞いてあげることを主は願っておられるのかもしれません。私自身の悩みや喜びを分かち合いながら、私自身のことも理解してもらい、祈ってもらうことを主は願っておられるのかもしれません。
ゴルフボールを打つ度毎に、主を救い主として受け入れていることの喜びを分かち合い、主の忠実なる業を喜びあえるかもしれません。あるいは神様に勝利をもたらせて下さるよう立ち止って祈ることができるかもしれません。このようにしてゴルフを楽しむべきではないでしょうか!
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
大体のところこれと同じ原理で、買い物、ショッピングする時でさえも、「神さまの栄光を現すために!」と意識することは出来るとマーリンさんはおっしゃっておられます。つまり、本の中に書かれていることと言い方は少し違うかもしれませんが、一緒に買い物に行った方に福音を語ることが出来るかもしれませんし、ショッピングしている他のお客さんや店員さんが救われるように祈ることも出来る、と……。
>>私たちが、その人たちのために祈り、ありとあらゆる機会を利用して、買い物客や、店員と神様の愛を分かち合うことができます。もし私たちが、神様に買い物や、幻や、会話を導いてくださるよう頼むなら、私たちは教会に行ってきたような気分で家に帰ることができるはずです。
会話の真ん中に神様がいるかぎり、電話で話したり、コーヒーや食事をしながら、何時間も話したってかまわないのです。クリスチャンにしても、ノンクリスチャンにしても、私たちがくつろいで、神様の栄光を求めていくなら、素晴らしい働きができます。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
いや、そうは言ってもですね……実際、これはとても難しいことではないかと個人的には思います(^^;)
もちろんわたしも、たとえばデパートなどに行って店員さんにとても親切にしていただき、「この人、イエスさまのことを語ったら信じそうだな~」みたいには、時折思うことがあります。また、色々な出先で出会った人のために心の中で祈るということはあるにしても……なんと言いますか、心のどこか底のほうではわかっているわけです。何分、日本というのはキリスト教というのものに関して特別な環境にある国ですから、そんなふうに「軽く祈った」程度で人が救われるのなら、とっくに日本国内におけるキリスト教徒のパーセンテージはもっと上がっているだろう、と……。
かといって、では偽善的になんとなくそう祈ったりしているのかと言われればそんなこともなく、その時々で本当に心からの願いをもって祈ってはいるのですが、もっとこう「あなたのために祈っていいですか?」といった、具体的な信仰の踏み出しの一歩を歩むことが出来ないと言いますか(^^;)
また、マーリンさんは>>「私はよく電話帳を開いて、そこに載っている人たち一人ひとりに電話してみてはと提案することがあります」と書かれているのですが、これも日本の場合は難しいように感じたり。。。
>>「もしもし、メアリー・スミスというものですが、何人の人が天国へ行けると思っていらっしゃるか、調査しているのですが、御意見をお聞かせいただけないでしょうか」
もし、「ええ。行けると思っています」と答えられたら、イエス様の救いが本当に分かっているか、問いただしてみることです。でももし、「天国に行けると思っていません」と答えられたら、神様の永遠の賜物を説明してあげるとよいでしょう。
ある女性は、私のこの申し出を受け入れ、今や毎日平均一人の割合で、電話を使って、イエスさまに導いています。そして、時間が許すかぎり、その人たちをいい地方教会に導いています。自分の余生をその仕事に当てたいと思っている彼女は、教会の人たちにも呼びかけています。この仕事は費用もかからないし、電話を持っている人たちにまたとないチャンスです。素晴らしい伝道の機会ではありませんか。
あなたの町には、ひょっとしたら、イエス様の救いをまだ一度も聞いたことがない人がいるかもしれません。何かを買ってくれという電話は多いです。この世の中は金儲けに必死ですから。しかし、イエス様のために、もっと必死になろうではありませんか。
イエス様が真ん中にいるかぎり、ゲームをして楽しんだってよいでしょう。家族で共にゲームをすることも大事なことです。楽しく笑っているその中で、神様の素晴らしさを語る機会が訪れるでしょうし、子供たちや、孫にみことばに沿って生活し、私たちの人生にみこころがなされるよう、生きたお手本を見せるチャンスもあるでしょう。家族のきずなを強めていくことはとても大事なことです。そうすれば、どのように時間を過ごすかについて後悔することもないでしょう。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
でも、電話は難しいかもしれませんが、もしかしたらトラクトを配るといった方法はいいかもしれないな、とここを読んでいて思ったりもしました
この場合のトラクトというのは、イエスさまの福音や教会への案内の書かれた紙(小冊子)のことですが、これもまたマーリンさんが他の本の中で――「こんなものを配ってどれだけの人が救いに導かれるだろう」と虚しくなっていたら、そのトラクトを受け取ったひとりの青年がきちんとイエスさまのことを信じて救われ、その後その同じ場所でトラクト配りをしていた……と書かれていたように記憶しています。
また、わたしたぶん、この連載の中でも他の記事の中でも、あまりにも普通に「聖霊さまを通した神さま(イエスさま)の御声」といったように書いていますが(汗)、マーリンさんもまたこの章の中で>>「どうやって神様が語られていることが分かるのですか」とか、「神様は普通の声で話してくださるのですか」とよく聞かれます、と書かれておられます。
>>神様は小さな声で語られます。私たちの霊が静まり、神様の声を見分けなれば決して分からないほどです。私たちが、注意して聞くなら、神様は、励ましの言葉をかけ続けて下さったり、指導してくださったり、間違いを正してくださったりします。
神様の声を聞き分けることを学ぶのは時間がかかるし、それよりも強い願いが必要なのです。私たちが、誰かの話に耳を傾けていたり、音楽や、娯楽に興じているなら、神様を追い出してしまう結果になります。
娯楽に慣れていて、一旦静かになると、心は混乱してしまいます。刺激を受け過ぎた心が回復して、「小さな声」を聞き分けることができるようになるまでに、数カ月必要でしょう。しかし、神様の声を聞き分けることを学ぶことは、どんなに時間がかかっても、努力が必要でも、しがいがあります。
というのは、真のイエス様の弟子になるには、その主人の声を聞き分ける以上に大事なことはないからです。ぼんやり、ウトウト寝ている私たちを主は呼ばれます。新しい命と、喜びをもたらし、主の愛のこもった道を教えようと待っておられます。私たちが、主の声に聞き従い、成長していくときに、このアンバランスな世の中で、いかにバランスよく喜びを持って生きていったらよいか、主は私たちに手を差し伸べようと耳元でささやきかけられるのです。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
これは本当のことですし、マーリンさんのように特別に大きな信仰の器でない方でも、教会でイエスさまのことを信じる告白をし、聖霊のバプテスマを受けた方なら、誰でも神さま(イエスさま)の御声を(聖霊さまを通して)聞くことが出来ます。
ただ、人間の肉声のようにはっきり語られる場合というのは稀で、イエスさまのことを信じて教会で学びをし、最初は「聖霊のバプテスマってなんだろう?」くらいなところから信仰がはじまり、その後、祈りの中で聖霊のバプテスマを求めているうちに――「あーっ、そっか、わかった!これが聖霊さまってことだ!!」みたいに、わたしの場合はわかった、という感じだったかもしれません(^^;)
人によっては信じたその瞬間からはっきりわかる方もいらっしゃるそうですが、とにかく一度この「聖霊の力」を経験することの出来た人というのは、それまでキリスト教に対して感じてきた「なんでやのん?」といった疑問が次から次へと解き明かされ、「あーっ、そっかあ。そういうことだったんだあ」となり、もしこの世に神さまがおられるのならば、こうした形でしかありえないのではないだろうか……ということがわかっていくということなのです。
わたしの場合、それは小学生の頃社会の授業で習った<踏み絵>でした。この時、棄教できなかった方というのは、<踏み絵>を踏めなかったわけですが、子供心にもわたし「べつに、その時は踏み絵を踏んだらええやん。ほんで、その人がほんまの神さまやったら、あとからあやまったら絶対許してくれるって!」みたいに思ってました。「でも、そんなことも許してくださらないとかだったら、そんな狭量な神さま、そもそもほんとの神さまなんかじゃないんだよ!」みたいに……。
でも、今ではわたしにもわかります。もし仮にこれから時代が悪くなって、キリスト教に対する迫害がはじまり、<踏み絵>を踏まなかったら処刑される、といった場合、わたしも踏むことは絶対できないと思います。もちろん、かといって一等ひどい方法によって処刑されるといった場合、もしや踏んでしまうのではないか、その可能性は絶対に1%足りともないと言い切れるかといえば、実際その瞬間になってみなければわからないことでもあり――ただ、少なくとも小学生の頃習った「踏み絵を踏めなかった方々の気持ち」というのが、今は本当に痛いほどよくわかるのです
では、次回は「聖なる楽しみ」第13章、「「ノー」と「イエス」の言い方」より、引き続き学んでいきたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
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