>>十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
それは、こう書いてあるからです。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さをむなしくする」
知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
まさしく、「誇る者は主にあって誇れ」と書かれているとおりになるためです。
(コリント人への手紙第一、第1章18~21、25~31節)
大分昔のことになりますが、随分前にこの聖書箇所を通したお証しについて読んだことがありました。
その方は、知的障害があって、そのことにコンプレックスがあったということなのですが、聖書のこの箇所を読んで強められ、イエスさまを信じ、救われたそうです。
短いお証しだったのですが、もし「知的障害がある」と最初のほうに書いてなかったとしたら、障害のある方が書いたとはまったく思えないくらい素晴らしい文章でしたし、普通であれば少し考えられないことかもしれないのですが、その方は聖書は旧約聖書も新約聖書のほうも両方とも読んで内容を理解しておられましたし、むしろ「知恵がない」ということが、神さまを信じる上で益となった……といったお証しだったように記憶しています。
これはその方が書いていたことではないのですが、そのお証しを読んだあと、わたし自身はこう思ったんですよね(^^;)
確かに、「知恵のある」方だけがイエス・キリストのことを神の子であると信じているわけではありませんよね。むしろ、そうしたありありまる知恵によって躓き、イエス・キリストのことを救世主(メシア)として信じることが出来なかったパリサイ人といった宗教権威者たちが、福音書には何度も出てきます。
わたしはキリスト教というものを本当の意味で知らなかった時、こう思っていたことがあります。つまり、「もし神さまが本当に神さまであるのなら、今キリスト教も仏教もイスラム教もなく、『我こそが神であーる。だから我こそを信じるべきであーる』といったような、人間の誰しもが「この方以外神はありえない」という、そのような存在として姿を現すはずだろう……でも今そうなっていないということは、神さまなんてこの世界に存在しないんだ」、と。
つまり、今この瞬間『実はわたしが神さまなんですよーん』という方が本当に現れた場合――キリスト教徒にとっては、それがイエス・キリストの再臨ということなわけですが――地上のすべての人々が、足を屈めてこの方を礼拝する以外にはないでしょう。特にそれがこの世の終末で、世界各地で天変地異が起き、戦争が起き、飢饉が起き……といった、未曾有の大災害に見舞われている最中であったとすれば、なおさら。
でも神さまは、(キリスト教によれば)人間に自由意志という選択肢を与えたと言います。また、同じように御自身に仕える天使たちにも自由意志を与えたわけですが、一部の天使たちはその自由意志によって神さまに背く道を選び、それが悪魔・悪霊となったと言われます。
わたしたちは理屈上、ここまで聞いてきていくつかの疑問が浮かびます。何故なら、一生の間イエスさまのことを知る機会もないままに過ぎるという方もいらっしゃるでしょうし、その場合は「自由意志」云々以前の問題なのではないか、と。
>>神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。
(使徒の働き、第17章26~27節)
人間の知恵には限界がありますから、この地上にいる間、天国であるとか死後の世界であるとか、霊の世界のことについては――知ることが出来るのは、おそらくはほんの極一部ということなのではないでしょうか。
>>テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。
これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。
恵みが、あなたがたとともにありますように。
(テモテへの手紙第一、第6章20~21節)
たとえば、人は死んだあと生まれ変わるとか、またその場合、たとえて言うなら霊の洗濯場のようなところがあって、そこを通って霊というものは浄められてから、再び次の生を生きるのだ……とか、わたし自身は自分がクリスチャンになる前、「もしかしたらそうかもなあ」と思うところが漠然とありました(といっても、小学生とか中学生くらいの話ですけど^^;)。
けれど、死んだあとのことは結局のところ誰にもわかりません。たとえば、臨死体験についてなど、仮にそうした経験について色々聞いたとしても、「その方にとってはそうであっても」、いざ自分が死ぬ番がやって来たとしたらどうでしょう。以前、ホスピスのことについて書かれた本を読んでいた時……あるいは、ホスピスを特集したドキュメンタリーだったかもしれませんが、訪問医の先生がこうおっしゃっていたと思います。
「『わたし、うまく死ねるやろか、先生』という方でも、必ずちゃんと立派に死んでいかれますよ」といったように。キリスト教徒の場合は、死後にイエスさまと出会えること、天国へ行けることを確信して、その前にどんな病いが許されていたとしても、そうした信仰を全うして昇天してゆかれるのだろうと思います。
――でも、もしそうじゃなかったら?
神さまなんてこの世界にいなかったとしたら?
生まれ変わりなんてなかったのだとしたら?
キリスト教徒の方の場合の死生観や死後の希望というのは、ある意味とてもシンプルなものと思うのですが、わたし自身は自分がクリスチャンになる前、死んだあとに自分が行く場所は暗闇でも、べつにそれならそれでまったく構わないし、むしろそれでこそいいのではないか……くらいなものでした。科学的にというか、医学的に考えてみても、心臓が止まる→脳へ血液が行かなくなる→意識の消失→そのままであれば死……という、そうしたことなのではないだろうか、と。
そしてこの時、人間の脳というものは意識が死へと向かうに際して、色々な脳内物質を出すことがあり、エンドルフィンが大量に放出された結果として、自分が理性で考えだしたのではない素晴らしい幻の数々を見るとか(いわゆる「お花畑」とかそういう)……それで、結局その後九死に一生を得るような形で戻ってきた方の場合、死にかかった時のこの「幻」がいかに素晴らしかったかという臨死体験について語られることがあるわけですよね。
それで、わたしが人の完全な死後、意識が経験するものはとにかく完璧にして完全な闇と沈黙である……だが、それでこそ「死」というものには救いがあるのではないだろうか、といった死生観だったのが、何故「イエス・キリストにある至福の天国」という、普通に聞いたとすれば人間が死を恐れるあまり生み出したファンタジーなのではないか……ということを、子供のように無邪気に信じられるようになったかといえば、それこそが「信仰の奥義」ということなのだと思います。
もし、わたしがイエスさまのことを信じてなかったとすれば、「あなたは三か月後に亡くなります」とか、「もって余命は半年でしょう」みたいに言われた場合――先に書いた、
――でも、もしそうじゃなかったら?
神さまなんてこの世界にいなかったとしたら?
生まれ変わりなんてなかったのだとしたら?
というこのあたりを、結構うろつくのではないかと思います。
キリスト教では「生まれ変わり」は信じられていないわけですが、「前世の記憶を持って生まれてくる人がいる」、だから生まれ変わりということは確かにあるんだ――ということを、個人的に否定する気持ちはありません。ただ、「生まれ変わり」を信じられる人って、わたし自身は今の人生がある程度恵まれていて幸福な方ではないかと、そんな気がしています。
何故かというと、イエスさまのことを信じる前、わたし自身は「前世で何か悪いことをしたから今こんな目に遭ってるのかなあ」と思ったりしていたわけですし、自分が惨めでつらい立場に置かれた時、「不幸な結果」の原因がよくわからなかった場合、実際そんなふうに考える方は多いみたいです。「これはもう、前世で何か悪いことをしていたから自分は今その報いを受けているとしか思えない」というような。
でも、キリスト教ではそうした考え方をしないんですよね。そもそも「生まれ変わり」自体を否定しているわけですし、イエスさまのことを信じたそのあとは、「イエス・キリストを信じた<今>と<これから>」のみが大切なことになってくるわけですから。
>>やみと死の陰に座す者、
悩みと鉄のかせとに縛られている者、
彼らは、神のことばに逆らい、
いと高き方のさとしを侮ったのである。
それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。
彼らはよろけたが、だれも助けなかった。
この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、
主は彼らを苦悩から救われた。
主は彼らをやみの死の陰から連れ出し、
彼らのかせを打ち砕かれた。
彼らは、主の恵みと、
人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、
鉄のかんぬきを粉々に打ち砕かれた。
(詩篇、第107編10~16節)
魂の暗闇、霊の暗闇に光が差すという瞬間がどのようなものか……イエスさまを信じる者に、神さまは聖霊さまを通して必ず教えてくださいます。そして今年も、その光が近づいてくる瞬間がやって来ました。正確には、12月25日というのはイエスさまの誕生日ではありません。でも、問題はそうしたことではないのです。イエスさまのことを本当の意味では信じていない人々ですらが、この日だけは「家族で心をあっためて過ごそう」と思ったり、プレゼントを交換して愛情を確かめあったり、「何か少しでもいいことを」と思い、募金してみたり――ほとんど世界中の人がそんな意識を同時に持てる日というのは、クリスマス以外滅多にないのではないでしょうか
どうでもいいことですが、わたしの住んでるマンションの電球が交換されていることに、つい先日気づきました。雪の白さと暗闇の中、アイスキャンドルの中の光みたいに、それは輝いていました。わたしは幸せでした。何故かというと、確かに外は寒いのですが、またすぐに戻れるストーブのついた暖かい部屋が待っているのですから。でも本当に、なんの光もなく暖炉も薪もストーブもなく、その他暖を取れる方法すらなかったとしたら、その上、復旧の見込みも当面ないとしたら……まずもって耐えられないと思います。
本当に、今年のクリスマスは、世界中の教会で戦争が終わるため、戦争というもの自体がなくなるためにたくさんの祈りがあげられると思います。けれど、もっとその前に、明日とか明後日でもなく、今日今この瞬間にすべての人が心身ともにあたたかくあれるようにと願います
それではまた~!!
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