カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

初参り、いつものように。

2016-01-03 19:05:50 | しゃじ
山科毘沙門堂とその塔頭・山科聖天。
もう40年以上、正月と言えばここにお参りに行ってます。



今年は昨日、2日に。昨年は雪景色でしたが、今年は良いお天気で♪



午後になったので、いつもの甘酒のふるまいは終わっていました。











最近では家内と二人だけになりましたが、子供たちや孫連れで
お参りした想い出も・・・




毘沙門堂は天台宗五箇室門跡のひとつ。その塔頭寺院として
護法山 双林院(通称:山科聖天)があります。

ご本尊は歓喜天(聖天)。
頭が象で、首から下は人間の姿。二体が向かい合って抱擁されている
ことから「男女合体神」「陰陽和合」を表わす。
ここのご本尊も秘仏です。そのほか武田信玄や多くの信徒や寺院から
奉納された聖天像を七十数体合祀しているとか。



凝った紋ですね、八つ輪宝・三宅輪宝の一種かな。



正面には不動堂があり、堂内で大護摩が焚ける特別な構造をした
建築物で、比叡山の千日回峰行者であった第二十四代住職が
明治十六年に比叡山無動寺より勧請された不動明王を安置する。



「違い大根」の紋は、大和生駒山宝山寺(生駒聖天)でも見られますね。
今年は「紋」の勉強でもしてみようかな。(^_^ゞ



(左・毘沙門堂)16菊紋の真ん中に何かついている。
天台宗の紋なら菊紋に三諦星がつくのだが・・・。門跡寺院だから
菊紋を許されているのでしょうが、何がついているのか気になる。
ちなみに皇室が菊紋を使うようになったきっかけは、天台宗の開祖・
最澄が桓武天皇に菊の花を献上したためとも言われている。
(右・双林院)「宝袋紋」は「違い大根」と共に聖天さんに
よく使われている紋。四つ割菱は信玄の「武田菱」かな。

これって現地で説明してもらわないと分からないね。(^_^ゞ



2016.1/2、毘沙門堂にて。


清凉寺、弁天堂の紅葉。

2015-12-15 18:06:48 | しゃじ
前回、本堂を拝観せずに帰ったので庭園も見なかったのですが
実は外から覗いたら弁天堂まわりの楓の配置がよく、この時季を
待っていました。



もみじは桜と違い、こういう変化が見られるのが醍醐味ですね。
余談ですが豊臣秀吉の醍醐寺での「醍醐の花見」は有名ですよね、
実は秀吉、醍醐寺で紅葉狩りも計画していたようです。
その前に亡くなり実現することは無かったのですが、どんな豪華な
紅葉狩りになったのでしょうね・・・


渡り廊の桁下から弁天堂を覗き見ると・・・



今回は拝観料を払って、本堂と庭園を見に行きました。

本堂「釈迦堂」にはご本尊の三国伝来生身釈迦如来像(国宝)が
安置されています。
清凉寺は「嵯峨釈迦堂」として有名ですが、京都でタクシーに乗り
「釈迦堂」へ。と言ったら、千本釈迦堂に連れて行かれる可能性が
あると地域の方がおっしゃってました。(^_^ゞ

ここの赤栴檀の釈迦如来、仏像マニアにとってはカリスマ的な存在?
本尊釈迦如来は、古来釈尊37歳の生身のお姿を伝えた霊像として厚く信仰をあつめています。この尊像を北宋より請来した(約千年前)開祖東大寺の然法橋が、尊像内に謹封した五臓六腑・願文・経巻等々(すべて国宝)の発見により、まさに生身仏であることが実証されました。おん丈は等身大の檀像で顔貌・衣文の様式等、マツラ式に似たインド古式の様相を伝えています。(清凉寺HPより引用)
ちなみに大報恩寺「千本釈迦堂」は、おかめさんの方が有名かな?(^_^ゞ

本堂では撮影禁止、ご本尊の前に座り込んでしばらく眺めていたのですが
記録に残せないと、記憶は薄れるばかり・・・


本堂、ご本尊の裏から庭園へと廊下で繋がっています。






弁天堂西、川中島のもみじです。紅葉は思ったより・・・ショボイ?




弁天堂の紅葉も例年ほど茂ってないような・・・
池遊式庭園になっていますが、渡り廊から見るだけで
下には降りられないようです。



弁天堂、宝形造(方形造:ほうぎょうづくり)の頂点・露盤宝珠は
ちょっと凝っていますね、龍がからんでいました。

FUJIFILM X30ですが、望遠端が換算112mm。1200万画素のカメラですが
解像感があるので、ある程度トリミングに耐えてくれます。







もう少し池に紅葉が映ってくれれば・・・





渡り廊を、渡りきった先には大方丈があります。



大方丈の庭園は、小堀遠州作と伝えられる枯山水の平庭。



ここも期待はずれ?(^_^ゞ


行き止まりなので、また戻りましょう・・・



渡り廊から見た弁天堂、額縁の絵のように見えるのがウリかな♪







あぶり餅を売る甘味処 大文字屋さんも賑わっていました。
この聖徳太子殿の周りは夏に来た時、楓の林のようだったので
秋の紅葉に期待したのですが、真っ赤な紅葉の景色には
ほど遠かった・・・

写真を撮ってみて、HPの写真などと比べると歴然。今年の紅葉は
イマイチでしたね。葉の茂り方からして少ないし、紅葉の際の
色も悪く、枯れたまま落ちてなかったり、緑のまま枯れたり・・・
樹がどうしたらよいのか迷っている感じです。
それでも美しい紅葉を見せている樹もあるのが救いかな。(^_^ゞ


2015.11/28、清凉寺にて。

別世界?石手寺。

2015-10-16 22:29:34 | しゃじ
古刹でありながら幾つもの顔を持つ石手寺(いしてじ)、ラストです。

いろんな世界が垣間みれる博覧会のような? 異次元の空間へ迷い込む
ような・・・やはり石手寺は、噂に違わぬ珍スポットでした。

ただ、私の感じた結論を言うと仏教(真言宗)を真剣に考えられている
情熱のようなものを感じずにはいられません。
格式ばかりで観光寺院と成り果てている寺と違い、本来あるべき
仏教寺院としての役割を果たそうと努力されている気がします。
そして平和への願い、追悼の心を忘れない思いが詰まっているとも
感じます。
社会に対し問題意識も高く、人を救いたいと考えられておられる
のであろう住職の信念も強く、実際に戦争反対の座り込みハンガー
ストライキはやる、震災の現地に救援物資を届けると自らの身を
挺して八面六臂の活躍ぶりを聞き伝わる。
古刹の住職という地位に甘んじずその行動力には頭が下がります。



〈硫黄島平和の碑〉








さて、境内につづく山の麓にはまた不思議な空間が広がる。
硫黄島平和の碑をはじめ、除災鎮魂地蔵・天災受難の碑などが
置かれている。

中でも「パゴタ平和記念塔」は異彩を放っていました。



パゴダ (pagoda) とは仏塔(ストゥーパ:卒塔婆)を意味する英語。
日本ではもっぱら、ミャンマー様式の仏塔のことをいいます。



ここでは「ビルマ戦没者慰霊塔」となっている。





第二次世界大戦中、惨烈を極めたビルマの戦線で還らざる人となった
愛媛県で五千五百余柱、全国で十九万柱を数える英霊に捧ぐ・・・



外観はやはりユニーク。



上にも行ってみられるので・・・







この先にも堂宇が見えたので、行ってみる。





「?」人が訪れる気配がない・・・




天災人災供養尊、自殺者供養地蔵だろうか・・・
寺のパンフレットを見るとこのエリアは「供養世界」と書かれている。


まともなものとユニークなものが混在しているので混乱。

ここは倉庫?それともアトリエ?
まだまだ珍スポなネタはありそうやね・・・




!ッ 奥の天災受難の碑と並んでいる、これは・・・・?!!!

キ、キリスト像? 銀色の肌に金髪。しかもポーズが変やろ!
シェーッとも違うし・・・



「・・・・・」理解不能。




・・・軽い疲れを感じながら、それでも何か好感が持てる
四国霊場第51番札所 熊野山 虚空蔵院 石手寺と別れを告げました。


さて、四国と言えば四万十川を見ないとね、今まで幾度と無く
四国には来ていますが、四万十川には行けていませんでした。
で、次の目的地には四万十川沿いのルートを選んでドライブ♪







翼よ! あれが巴里の灯だ・・・ロドスタよ!あれが四万十の川だ!
・・・なんて、念願かなってリバーサイドドライブを楽しみます。



お昼ご飯は、どうせなら名前に「四万十」とついた道の駅がイイな♪



「四万十とおわ」はご覧のとおり、大渋滞。延々と国道に溢れる駐車場
待ちのクルマ!当然、右折では入れず。地元の人は困るやろなぁ。

こんな状態なので、20kmほど先の「四万十大正」へ向かいました。
それが功を奏してか、ここなら河原まで降りられそう♪












それで、夕べの残りのお好み焼きと、ここで買ったお寿司や飲み物を
清流・四万十川の河原でいただきました。(´ ▽ ` )ノ






イマイチ、清流って感じじゃなかったけれど・・・



戻る時にすれ違ったヨチヨチ歩きの女の子、お姉ちゃんが心配そう。
よいちょ、よいちょ、がんばれぇ、気ぃつけて。。。



それでは、もう少し四万十川沿いを走って、次は
私にとってメインとも言える目的地です。



2015.9/22、道の駅 四万十大正にて。

ディープ?石手寺探訪。

2015-10-14 12:10:25 | しゃじ
四国八十八所霊場 第五十一番札所、石手寺(いしてじ)。

四国を代表する名刹にして、珍スポット?そう言われる理由は
ひとつやふたつでは無さそうです・・・

本堂の左手横にはこんなところがあります。



国籍不明な木彫が目を引きますが・・・



「除罪苦与くぐり輪・元気再生石」と書かれています。



七転び八福神?



石手寺は四国遍路開創の寺としても知られています。その由縁は
「衛門三郎縁起」
伊予国を治めていた河野家の一族で、豪農であった衛門三郎という者が
居た。三郎は権勢をふるっていたが、欲深く、民の人望も薄かったと
いわれる。ある日、みすぼらしい僧が門前に現れ托鉢をこうたところ
その僧が弘法大師とも知らず、追い返してしまう。
弘法大師はこの地を通過されたとき、この男の評判を聞き、悪人を善心に
立ち帰らすのは出家の本分と、托鉢を行い彼を救おうとしたのです。
何日か通い続けたところ、遂に三郎は竹ほうきで大師の眉間に打ちかかり
ました。大師が鉄鉢で受け止めたところ、鉄鉢は八つに砕け散りました。
三郎には八人の子がいましたが、どういうことか、その翌日から子供達は
次々と急死。「八子他界は不憫なこと」と、大師は一夜で八塚を築かれ
菩提を弔られました。
八人の愛する子供を亡くした衛門三郎は、今までの数々の行いを悔い改め、
高僧にお会いして謝罪しようと四国遍路の旅に出たのです。
家を捨て身を忘れ四国を回ること二十回、いつしか三郎の姿はあの薄汚い
僧に似てきます。そして遍路を重ねるにつけ人の心の大切さを学びます。
それでもどうしても大師に出逢うこと叶わず、二十一回目は逆に回って
みますが、遂に阿波の国焼山寺にて倒れてしまいます。
息も絶え絶えの三郎の枕元に突然弘法大師が現れ「よくぞ修行し改心した
望みがあればかなえよう」と言うと、三郎は「領主として生まれ変わって
人を助けたい」と泣き伏しました。
大師は路傍の石に「衛門三郎再生」と刻み、左手に握らせたところ三郎は
眠るがごとく安らかに息絶えたのでした。
時が過ぎ、伊予の国の領主である河野息利に長男が生まれます。しかし
この若君は左手を堅く握ったまま開くことをしませんでした。
若君三歳の春、当寺(この時は安養寺)にて祈願したところ、手を開かれ
その中から「衛門三郎再生」と書かれた石が現れたとされています。
これより安養寺は石手寺と改め、四国遍路開創の寺となりました。
現在もその石は宝物館で見ることができます。
※伝承なので物語は微妙に異なる部分があるようです。


さて、いよいよディープさの本番?マントラ洞窟へと向かいます。



金剛界と胎蔵界を体感できるという・・・



入り口で中を覗き込んで躊躇される方も居られましたが



入る前から何だか怪しいですからね、無理もない。(^_^ゞ



用意されているお賽銭箱に指定の100円を入れて・・・



入るとすぐに現れるのが、やはり手作り感満載のトーテンポール風
不動明王かな?
右手にも通路があります。右に行くと四国八十八カ所霊場洞内巡礼。
その先には弘法大師修行場となっていますが、ほんとうにここで
修行されたのかどうだか・・・
とりあえず正面の通路を進むことにします。



通路を2分するようにパイロン、いや、お地蔵さんが並んでいて
ロープが張られています。洞内はほとんど明かりも無く、真っ暗!
足元も見えない状態です。写真は後で増感しているので見えている
ようですが、実際は探り探りのような・・・



ストロボは使わないようにしようとしましたが、そんなレベルの
暗さじゃありません。カメラのAF補助光照射でもピントがつかめず
シャッターが下りないことしばしば。



途中、薄明かりの中で説明や仏像群を見ることが出来ます。
先を行った家族連れ、子ども達の騒ぐ声が響きます。
アトラクションとしては充分な刺激があったものと・・・(^_^ゞ



結構長い、延々と続いた暗闇の世界からやっと解放されそうです。
出口が見えてきました。その手前には壁画が、暗くて良く見えません。



「地底マントラ」出口もそれなりの演出が。地底と言っても
ほとんど平坦なんですがね・・・




出たら途端に、普通にクルマが走れる生活道路?です。
ここからもよく見えます例の「日中友好弘法大師」。

ディープな地底マントラを体験して、後は引き返すだけ・・・
いえいえ、そんなことでは済みません、このお寺。
道路を隔てたところに「奥の院」が待ち受けています。



その入り口は巨大閻魔像が鎮座したゲート、Welcom maha yenmar・・・
割れてしまって後が読めない英語表記も・・・国際的な感じもしますが
これで良いのやら?

しばらく荒れた庭の小径を歩き進むと、突如見えて来るのが・・・



なんじゃこりゃ? これが奥の院?唖然。(゜〇゜;)



「マントラ塔」と呼ばれているらしい国籍不明な仏塔?
見た人はUFOとか巨大カボチャとも・・・
黒い斑点を書き込めば草間彌生せんせのアート作品になりそう。
パンフレットには永代供養塔とも書かれているので、納骨堂?

当然中に入れるようで、見た方のレポによると天窓ステンドグラス、
シャンデリアが吊られていて2階建て。
おびただしい木彫りの仏像などなど、何とも言えない空間のようです。
入ろうとも思わなかったのですが、今は改装中で入れなかったとか。



サンスクリット文字にカタカナのルビ付きの石塔、その下は仏足石?
何と言っても馬鹿でかい手が!中にはおびただしいビー玉・・・

ここはもう現代アートの展示場?周りの回廊には五百羅漢の木彫り像。





断食修行中のブッダかな?






昼間でも何処かへ連れ去られそうになる空間、夜には来たくないね。







なんとこの場所の横には幼稚園が!(石手寺が経営している)
と言うことは園児の通園路?


〈・・・〉


さて、裏石手寺はこれくらいにして(実際はもっといろいろあるみたい)
またマントル洞を通って表の石手寺に戻りましょう。















ふぅ~ッ、結局、分かれ道の先、弘法大師修行の場には寄らず・・・
他にも見逃したもの多数?

ここに入る前にチラッと見えた、名刹には不相応な建物へと急ぎます。

疲れたので次回にね。(-。-;)



2015.9/22、石手寺にて。

難解な名刹・石手寺探訪。

2015-10-11 21:08:16 | しゃじ
四国霊場第51番札所 熊野山 虚空蔵院 石手寺。名刹?迷刹かも・・・

道後温泉の温泉街から近いため、遍路の他にも、観光客で賑わうことが
多く、2009年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において
1つ星に選定されたお寺でもあります。

縁起によると、728年に伊予の豪族、越智玉純(おちのたまずみ)が
二十五菩薩の降臨を夢で見て、この地を霊地と悟り熊野十二社権現を
祀ったのが始まり。それを機に聖武天皇の勅願所となり、翌年に行基が
薬師如来像を彫造し本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。
のち813年、弘法大師・空海が訪れ、真言宗に改めたとされる。
「石手寺」になったのは892年。最盛期には七堂伽藍六十六坊を数える
大寺院であったとされるが、戦国時代の兵火にあい衰退した。

と、ここまで読むと、古い歴史を持つ立派な名刹なんですが・・・
私が訪ねた理由は、ここが稀に見る珍スポットだと聞いたもので。(^_^ゞ


〈洗い石・別名:渡らずの橋〉
門前にある石橋で弘法大師、お道開きの橋だが、裏に経文が刻まれて
おり、この橋を歩くと足が腐るという。ま、今は歩きたくても上に
コンクリートの橋が被さって、歩けそうに無い。

それより「わらいや」の看板が、何か暗示しているようで・・・



龍神に乗る観音様? 右のは天女?自由の女神風かな。
参道に入る手前でもうこの調子・・・

〈弘法大師像〉ま、まともかな。それにしても像が多い。


何故かガラスケースに、仏陀の像?。ヒンズー風。



なにやら高い櫓が・・・中に木彫りの像が、まるでトーテンポール。
「天照皇大神」と書かれているが、とてもそうは見えない。(^_^ゞ

他にも色々あったが、見て見ぬ振りスルーして参道に入りましょう。



屋根付の参道、まるでアーケード街?左右にはお店がありました。



地蔵院など塔頭らしきお寺も。

ジャァーン!二王門、国宝です。立派な門なんですが・・・


〈二王門〉国宝
ここは仁王じゃなく二王と表記するらしい。

大わらじも飾られています。何故かこの日は通り抜けできず。
門は閉まっていました。
周りには骨董品店かとも思える置物が支離滅裂に?置かれていました。



看板多し、主張するのは良いが、国宝の門が・・・w
中の二王像は運慶派の作らしい。確かめられなかったけれど。



門は閉まっていても、このお寺、何処からでも出入り自由。
ある意味、開かれた寺院。それにしても置物には統一感無し。



パワースポットが幾つもあるらしい。七不思議ってのも・・・
と言うか、不思議と感じるものは無数にあった気がする。




門の横から境内に入ると、いかにも名刹という感じ。
ほとんどの建物が重要文化財に指定されている。

振り返って観た二王門、鎌倉時代に建てられたもので、戦火も逃れた
重厚で、いかにも国宝にふさわしい建造物の気がする。



ん~ッ、置かれているものをいちいち考察していたら
頭がもたない、見てみぬようスルーします。




立派な三重塔、その先に見えるのは巨大な弘法大師像。
この裏山にそびえ立つ大師像は「日中友好弘法大師」だそうで
日中友好戦争反省平和を祈念して建てられたとのことです。

昨日、クルマで走っていて「なんやろ、あれ」って写真を撮ったのは
これだったのね・・・(^_^ゞ


〈鐘楼〉
ここの鐘は参拝者が自由に撞けます。「仕合わせの鐘」だそうで。
奪い合いではなく与え合う仕合わせの鐘、パワースポットその1。


何か古い写真が大事そうに貼ってありました。

お寺にもいろいろ事情があるようで・・・


〈線香供養所?・札所〉
丸ぁるい石が気になります。実はあちこちに幾つも。



何か分からないけれど、一応触っておきましょう・・・







晴れ晴れとするようなお天気でしたが、すでに首を傾げる事多々。
きっと肩こりにはご利益あるかもです。


〈手前が三重塔、奥が鐘楼〉
どちらも重要文化財です。周りが賑やかなので厳かな感じはしないけど。


〈三重塔〉重文
名刹にふさわしい均整のとれた塔。これも戦火を逃れた鎌倉時代の作。



ここの住職さん、京都大学の出身だそうで、学生時代の癖かな?
京大のキャンパスにもこんな立て看板をよく見た気がするけど・・・
石灯籠は、よくある善導寺型灯籠。ハート形がかわいい♪
茶道具とハートに見える猪目(いのめ)紋で構成されていますね。



〈鐘楼〉重文
こちらの鐘は誰でも撞ける「仕合わせの鐘」とは違い、住職が撞きます。




万灯会に使われたものかな?何かメッセージが浮かび上がるようですが。
数々の立て看板といい、やはり気になりますよね。
『公式ホームページ』はこんな具合です。

今の住職は、世襲で継がれた第43代目加藤俊生住職ですが、京都大学
仏教学専攻卒業し2004年から住職となられています。
タイ南部の孤児支援、ミャンマー人の学校援助など海外救援ボランティア
活動に尽力。
2013年、地元・愛媛の南海放送より南海放送賞特別賞を受賞。
東日本大震災における被災地救援のほか、ホームレスや自殺願望がある
人などを石手寺で預かり、自立や就職支援も行ってきたことが
受賞の理由だそうで。様々な活動経歴があるようです。
ちなみに国宝二王門が閉じられていたのも、安保法抗議のためだった
とのことです。

〈大師像〉

おそらく〈賓頭盧尊者像〉と思われる。

門前、境内に弘法大師の像はいったい何体置かれているんだろ・・・?
金網の中に閉じ込められて?いるのは賓頭盧尊者様かな?
これって撫で仏、撫でた箇所が良くなるという・・・撫で難そうです。



〈本堂〉重文
本堂前には巨大な密教法具?五鈷杵の形をしたオブジェが、で~んと。
本堂の右横に大師堂・絵馬堂、その奥に熊野十二社権現があります。
子授け・安産の神様を祀る訶梨帝母天堂(かりておいもてんどう)も
重要文化財です。ここの石を持ち帰って祈り、無事に出産した時に
持ち帰った石と新しい石を持参してお礼参りする風習があるそうです。

〈阿弥陀堂?〉


熱心に祈られている老婦人、ここって安産祈願・・・じゃないですよね。
ボケ防止にご利益があるとか、私も祈っておけば良かったかな。(^_^ゞ

境内だけでもまだまだ見どころがあるのですが、すでに疲れ気味。
このあと待ち受けるもっとディープな世界を思うと、もちそうにない。
ここらで切り上げて先へ進む事にしました。



2015.9/22、石手寺(いしてじ)にて。

風鈴の音も・・・

2015-08-31 16:46:49 | しゃじ
夏ももう終わりかな、今年はこのまま秋を迎えそうです。
いつもなら9月半ば、いや後半まで残暑って感じだったのにね。

お盆休み、唯一出かけたのがここ『正壽院(しょうじゅいん)』
今まで知らないお寺ですが、京都新聞で風鈴まつりをやっていると
紹介されていたので訪ねてみようかと・・・



小さな境内いっぱいに1000個のガラス製の風鈴が揺れていました。



「まつり」は今日まで。風鈴に絵を描く「絵付け奉納・有料」も。






ホタルからトンボ・・・これも季節の移ろいかな。



3年ほど前から集めた風鈴を飾ったところ、評判を呼び、
今年は新聞に紹介されて大勢の方が来られたようです。


正壽院、ちょっと紹介しようかいね。(^_^ゞ



のどかな山間、茶畑がたくさんある京都府宇治田原町に
ひっそりと佇む高野山真言宗の小さなお寺です。
創建は平安時代と伝えられていますが、不詳。資料としては
1596(慶長元)年、祐胤大徳が再興されたとあります。
北大峯の行場として栄えた鷲峰山金胎寺(じゅぶさん こんたいじ)の
麓にあり修行道場として栄えたが、幾度の火災で今は本堂と地蔵堂が
残るだけだそうです。



樹齢400年とおっしゃってたかな、山門に立派な百日紅の樹があります。
境内に入るとお寺の方が冷た~いお茶をふるまって下さり、お話も。
現在のご住職は27歳、そのお母様なのかな?(勝手に推測)






ご本尊は秘仏の十一面観音ですが、国の重要文化財に指定されている
貴重な「木造不動明王坐像」がある。といっても、今はここにはなく
奈良国立博物館で保管されています。
この不動明王坐像は、快慶作と推定され、台座の銘記・史料から奈良の
興福寺または幻の大寺内山永久寺の関係遺宝といわれている。












大寺院と違い、見どころは少ないですがお寺の方の心遣いといい、
何か癒される場所でした。









涼やかな風鈴の音、夏の想い出のひとつにはなりますね♪

夏の終わり・・・何かやり残したような、そこはかとない寂しさを
感じるのは何でしょうね。子どもの頃、夏休みの終わりに感じた
寂しさからかな・・・(^_^ゞ






2015.8/14、正壽院にて。

嵯峨で黄泉帰り

2015-08-27 00:31:03 | しゃじ
清凉寺(嵯峨阿弥陀堂)の境内にはもうひとつお寺があります。
それは『竜蟠山 嵯峨薬師寺』
819(弘仁9)年に建立された嵯峨天皇の勅願寺です。
普段は一般公開されていませんが、年に一度、8月24日の地蔵盆には
誰でも入れるそうです。


〈本堂〉
嵯峨薬師寺は清凉寺の西門を入ってすぐ左手、狂言堂の向いです。
        〈清凉寺西門〉


嵯峨天皇勅願の寺として大覚寺(嵯峨御所)の保護を受けていましたが、
明治時代以後は大覚寺・真言宗を離れ、現在は浄土宗知恩院派に
属しています。本尊は「心経秘鍵薬師如来像」。
世に疫病が蔓延し、これを憂慮した嵯峨天皇は、弘法大師空海に
薬師如来像を彫ることを命じ、弘法大師が一刀三礼して刻んだ
薬師如来像と伝えられています。
秘仏であり、勅封仏とされて勅命が無いとご開帳出来ませんでした。
その上、厨子の開閉は大覚寺の手で行われ、嵯峨薬師寺の住職は
開くことも許されなかったと言われています。

現在は地蔵盆の日(8月24日)に、拝観できるようです。
かつては厳重な秘仏が、年に一度とはいえ見られるのはスクープ?


〈日月門〉
嵯峨薬師寺の山門です。本堂と並んで建っている、本堂には入れませんが
こちらは入れるので、ちょっと覗いてみます。




〈三地蔵と庫裏〉
庫裏(くり)の手前に三地蔵尊像がありました。




〈三地蔵尊像〉
このお寺には寺宝としてご本尊の他、「嵯峨天皇像」や「阿弥陀三尊像」
などと「生六道地蔵菩薩像」があるのですが、この石仏はその分身?
右より瑠璃光地蔵菩薩像、生六道地蔵菩薩の分身、夕霧地蔵菩薩像。



貴重な仏像群、本堂を覗くと普段でも写真だけは見られます。


〈生(しょう)の六道・石碑〉
さて、だいたい清凉寺を訪ねたのも、これを見に来たかったからです。
今は石碑だけだけど・・・(^_^ゞ

かつてこの近くに小野篁(おののたかむら)由縁の「福生寺」という
お寺があり「生(しょう)の六道」と称されていました。
明治になりこの嵯峨薬師寺に合併され、廃寺となりました。その際、
いくつかの仏像が移され、生六道地蔵菩薩像もそのひとつです。

あの世とこの世とを自在に行き来できた…などの伝説を持つ小野篁。
平安時代前期の公卿・文人ですが、謎の多い興味深い人物ですね。
その小野篁、毎夜東山六波羅にある六道珍皇寺の空井戸から冥土へ
出かけて閻魔王の仕事を助け、朝になると嵯峨六道町の福正寺に
ある空井戸からこの世へ戻ってくるのが常だったそうです。
このため六道珍皇寺は「死の六道」、福正寺は「生の六道」と
呼ばれています。


〈六道珍皇寺・2009.8/9撮影〉
ここには『以前行ったこと』があります。ちょうど六道参りの時期でした。

六道珍皇寺の庭には「冥土通いの井戸」が残されています。さらに
近年、隣接の旧境内で「黄泉がえりの井戸」が発見されたとか。
元祖?福正寺の「黄泉がえりの井戸」はといえば、宅地の開発の際に
7基の井戸が発掘された。ただしこの井戸は間もなく埋め戻され、
宅地となっているそうです。残念ながら井戸の跡は見られません。

昼は朝廷の役職をこなし、夜は閻魔さまの右腕として冥官をこなす
篁さん、あるとき地獄に赴いた際、猛火の中で苦しむ亡者を救い、
その身代わりとなって自ら焼かれている地蔵菩薩のお姿を見ました。
篁はその地蔵菩薩の尊さに心を打たれ、そのお姿を彫刻し、
冥土の出口にある福正寺にお祀りしたそうです。

京都では、8月の13日から始まり16日の五山の送り火に終る
盂蘭盆(うらぼん)の前に、7日から10日までの4日間に精霊を迎える
ために六道珍皇寺に参詣する風習があります。これを「六道まいり」
あるいは「お精霊(しょらい)さん迎え」と言うのですが、
五山の送り火を終えても冥土に帰られてないお精霊さんもいるようで
そのため8月24日には最後の送り火が行なわれます。
嵯峨薬師寺で行なわれる地蔵盆はそう言う意味があるようです。

この日、年に一度だけ公開される本堂の小野篁が刻んだという
生六道地蔵菩薩像の前には、「湯葉でこさえられた帆の立っている
七種(なないろ)の野菜の船(かぼちゃの舟に湯葉の帆)」が
供えられています。
この船に「お精霊さん」を乗せて、彼岸へ送りだすという信仰です。
この時の火が京都最後の送り火となるのだとか。
ちょっと大人の地蔵盆が味わえそうですね、ぜひ来年は・・・(^_^ゞ


さて、怪奇なヒーロー?小野篁に少し触れられた(石碑だけやったけど)
ことだし、また清凉寺に戻ります。


〈秀頼公首塚〉
薬師寺の隣りには「大坂の陣諸供養の碑」とともに豊臣秀頼公の
首塚があります。昭和55年に大阪城・三の丸跡地の発掘現場から
出土した豊臣秀頼の首を、昭和58年、ここに納められたもので、
首に介錯の跡があるそうです。このお寺とは秀頼公が再興に力を
入れていたことの由縁からです。



この先は方丈庭園(有料拝観)かな

〈桂昌院殿遺愛の井戸〉


井戸と言えば・・・と、一瞬思いましたがこちらは五代将軍
徳川綱吉の生母、桂昌院のエピソードがあるのかな?
ま、このお寺の再興を実現したのは桂昌院でしたからね・・・



〈本堂と方丈をつなぐ渡り廊下でしょうか〉



〈放生池(ほうじょうち)と弁天堂〉
中には入らなかったのですが、秋には結構きれいそうなお庭です。
拝観料を払って本堂で「三国伝来の釈迦如来像」をお参りし、
放生池と弁天堂を眺めながら渡り廊下を進むと方丈に行けるようです。
本堂の東後方には、方丈と庫裡そして澄泉閣が並んでいます。



〈渡り廊下の下からちらっと弁天堂を眺める〉



〈阿弥陀堂の前から本堂〉

歴史のエピソードが詰まっていて、見どころもいっぱい。
いつかまた紅葉のシーズンにでも訪れてみたい寺院でした。






2015.7/20、清凉寺(嵯峨釈迦堂)にて。

涼しいのかな?清凉寺。

2015-08-23 23:34:10 | しゃじ
名前は清凉寺ですが、特別涼しいわけではありません。
シュワッ!ともしないし・・・(^_^ゞ
ちなみに、清凉寺の「凉」の字は「にすい」なのです。ご注意を。
意味的には涼と同じく「すずしい」で良いのかな。
そう言えば「冷」(ひえる・さめる)も「にすい」ですね。

『五台山 清凉寺(ごだいさん せいりょうじ)』
創建は987(寛和3)年、「嵯峨釈迦堂」の名前で知られています。



嵐山 渡月橋の道を真っすぐ北へ20分ほど歩くと、この山門に
突き当たります。(有料駐車場もあります)







「五臺山(五台山)」と書かれた額が掲げられているこの山門は
1776(安永6)年に再建されたもので、楼上には十六羅漢が祀られて
いるそうです。室町後期のものといわれる赤い阿形吽形一対の
金剛力士像を置いた仁王門になっています。






〈山門(仁王門)・京都府指定重要文化財〉


結構広い境内ですね、訪ねたのは7月20日、暑かったです。
・・・清凉寺やのに。(^_^ゞ


〈本堂〉


〈振り返って仁王門〉



〈多宝塔〉
1700(元禄13)年、江戸護国寺で行われた釈迦如来の出開帳の際の
寄進により、江戸で造られたものだそうで、部材を廻船で運び、
1703年に清凉寺の境内に建立されました。

※多宝塔とは、釈迦・多宝如来の二仏を祀る塔。
二重の構造をもつ宝塔で、下は方形、上下の連続部分は饅頭形(亀腹)
となっている。二重の軸部は円筒形、屋根は方形。


        〈弥勒多宝石仏〉
空也の作とも言われており、表に弥勒菩薩、裏に宝塔が彫られていて
宝塔は扉が開き釈迦・多宝如来が彫られています。



〈一切経蔵〉
善慧大士座像、普浄、普賢像、四隅に四天王像が祀られ、
中央に輪蔵、経蔵があるようですが閉まっていたので入らず。
法輪一回転100円で回せるという記述があったのですが・・・

        〈愛宕権現社〉

〈聖徳太子殿〉
八角殿堂、奈良法隆寺の夢殿を模しているそうです。



〈法然上人像〉
正式には「法然房源空二十四歳 求道青年像」?
法然は、当寺を訪ねられたようです。



〈然(ちょうねん)上人墓所 〉


〈嵯峨天皇(右)と壇林皇后(左)の宝筐印塔〉
幕末期までは御陵とされていました。現在、嵯峨天皇の陵墓は、
大覚寺の西北、嵯峨野の北にある御廟山の山頂にあります。
嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)。


〈鐘楼〉            〈狂言堂〉
狂言堂では、国の重要無形民俗文化財に指定されている
「嵯峨大念仏狂言」が演じられます。無料で観られますよ♪
壬生寺、千本閻魔(ゑんま)堂とともに京の三大念仏狂言の一つです。

4月第1日曜日と第2土・日曜日、秋は清凉寺大念仏会の創始者円覚上人の
命日である10月26日に近い日曜日に開催されます。
その他、釈迦如来入滅の陰暦2月15日にちなんで毎年3月15日に行われる
清凉寺の涅槃会とお松明式にあわせて開催されます。狂言の上演が
終わってしばらくすると、お松明のおねりと点火が始まります。
清凉寺のお松明式は京に春の訪れを告げる行事として親しまれ、
これと「五山送り火」「鞍馬の火祭り」が、京都の三大火祭りです。


〈鐘楼〉
嵯峨十景の一つ「五台の晨鐘」がこの鐘楼の梵鐘です。



〈本堂・釈迦堂〉
945(天慶8)年に重明親王妃が棲霞寺(せいかじ)の寺域に新堂を
建てたのが始まりで、度重なる焼失に遭うが、その都度再建され、
現在の本堂は1701(元禄14)年に徳川五代将軍綱吉の母・桂昌院、
大阪の豪商泉屋(後の住友)らの発起により再建されたものです。

本堂内には、国宝・本尊釈迦如来立像が安置されていますが、
この釈迦像は大変貴重なもの。
日本三如来※の一つとされる「三国伝来の釈迦如来像」です。
※三如来:天竺伝来の3体の如来。長野善光寺の阿弥陀如来、
京都嵯峨清涼寺の釈迦如来、京都因幡堂の薬師如来。

釈迦の在世中インド(天竺)で作られた釈迦像が中国に伝わり、
奈良東大寺の僧、然(ちょうねん)上人がそれを中国で模刻して
持ち帰ったというもので、インド→中国→日本と三国を伝来。
元の像は中国で焼けてしまってないそうですから、
清凉寺の釈迦如来像は世界で唯一の生身の釈迦像です。

釈迦が37歳のときの生き姿を刻んだものだそうで、162センチの等身大。
体内に内臓を形どった納入物があり、生身如来といわれています。
これは1954(昭和29)年に発見されたもので、模刻の際、中国尼僧が
絹で作った五臓六腑を収めたものだとか、中国において千年の昔に
人間の体構造を知っていた事を示す、解剖学的にも貴重な資料です。
この五臓六腑模型も国宝に指定されています。



美術的にも「清凉寺式釈迦像」として、かつて日本各地で流行した
仏像の一様式であり、その模刻は奈良の西大寺をはじめ
全国に100体ほどあるのだそうです。
なお、清凉寺は「京都十三佛霊場」の第二番札所になっています。


〈本堂の扁額〉「栴檀瑞像」黄檗宗開祖・隠元 筆
釈迦如来立像は栴檀(せんだん)の木で造られていることに因みます。





〈香炉〉寺紋:加賀梅鉢紋
菅原道真を祀る天満宮と関係があるのかと思いましたが、どうも
江戸時代、このお寺を再構した桂昌院がお玉と呼ばれていた頃にいた
野菜屋の紋というのが通説に?「玉の輿」の話ですね。
菅原道真公の末裔、加賀藩主前田氏の家紋が由来とも。菅家党の
漆間(うるま)氏からは法然上人が出ており、法然上人と所縁の深い
清涼寺は寺紋に梅鉢を使っているという説が正しいのかな?

この香炉は蓮花の形で、ツボミや実までついている凝ったモノですね。



〈阿弥陀堂〉
嵯峨天皇の皇子で、源氏物語の主人公 光源氏のモデルともされる
左大臣 源融(みなもとのとおる)の別荘・栖霞観(せいかかん)が
あった場所に融の死後、遺族が阿弥陀三尊像を造立し、阿弥陀堂に
安置したことに始まる。
現在の建物は、1863(文久3)年に再建されたものです。



木造阿弥陀三尊坐像は国宝で、この建物の奥にある霊宝館で、
同じく国宝の釈迦如来五臓模型を拝観することができます。





ちなみに『霊宝館』は、毎年春季(4月~5月)、秋季(10月~11月)に
特別公開されているようです。要確認。



2015.7/20、清凉寺(嵯峨釈迦堂)にて。

もんもんもん・・・だもんッ!

2015-08-02 17:19:30 | しゃじ
西本願寺には多くの門がありますが、中でも際立っているのが
国宝「唐門」。あまりの見事さに日が暮れるのも忘れて
見とれてしまうので「日暮し門」とも呼ばれています。

まずは西本願寺の門を振り返ってみると・・・


〈御影堂門(ごえいどうもん)・重文〉〈阿弥陀門(あみだもん)・重文〉


〈御成門(おなりもん)・重文〉   〈総門(そうもん)・重文〉

興正寺との間に〈北小路門〉があり、その先の北小路通には
〈唐門〉〈大玄関門〉〈台所門〉が並びます。
西側にあたる大宮通にも〈大宮門〉があるようですが、確認せず。


なんといっても、これを見ずして西本願寺を去れません。


〈唐門(からもん)・国宝〉


(境内側・北面、内側から)


(北小路通側・南面、表側から)

桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した檜皮葺き・唐破風の四脚門、
伏見城の遺構とも伝わります。

京都の国宝三唐門の一つで、他の二つは豊国神社の拝殿の唐門と
大徳寺の唐門、これは秀吉の聚楽第から移されたもののようです。
日光東照宮の陽明門も日暮御門と呼ばれていますが、あれに比べると、
かなりこじんまりしたものです。ただし、こちらの方が先。(^_^ゞ



(内側)


(表側)

よく見ると、微妙に違います。


(内側)


(表側)


(内側)


(表側)

ちなみに、架空の動物「麒麟」ですが、某ビールメーカーの
商標はここの彫刻を見本に作られたとか言われていますが・・・
知恩院の三門の楼上の天井の麒麟の絵がモデルだとも?
どうやら、実際は長崎のグラバー邸にある狛犬を参考にした
というのが真相のようです。


決定的な違いは、内側には無く、表側には・・・


(内側)


(表側)
見えますか?菊の御紋の上に見事な孔雀の彫刻が。
菊御紋があるということは、勅使門として使われていたのかな、
迎え入れる側にだけ孔雀を配したのかもしれませんね。
その下には豊臣の桐紋が見られます。



側面の破風には鶴が。これは西側だったかな?
反対側の鶴はくちばしを開いて羽ばたいている姿でした。
左甚五郎作と言われ、夜な夜な飛び立つので首を切り落とした
てな話が伝わります。こんな逸話多いよね・・・(^_^ゞ



ここにも豊臣の紋が。天下をとった徳川がよく許したものですね。
ま、東本願寺を造って対抗したから?
強大な本願寺の勢力とトラブルを起こしたく無かったのかな。



(北東角・内側から見て左角)
側面軒下に虎が2頭、柱をはさんで向き合っています。
木鼻(きばな)は、彩色された唐獅子と牡丹の彫刻で賑やかです。
正面は上に獅子、下は麒麟。真ん中に鳳凰の金箔細工、
あちこちに桐と菊の金箔細工が散りばめられていますね。


(北西角・内側から見て右側)
こちらの側面軒下は、奥(表側)に豹がいます。向かい合わずに
虎に威嚇されて豹が逃げ腰のような・・・

獅子に虎、豹、麒麟。孔雀や鳳凰、鶴・・・まるで動物園。(^_^ゞ
植物も菊に桐、松、竹、牡丹や唐草・・・その他まだありそう。
大層な美術品、しかも国宝なのに気軽に無料で鑑賞できるのは
嬉しいのですが、保存管理が心配ですね。
ただ不思議なことに、この門には鳥も蜘蛛も巣を作らないのだとか
そう言えば蜘蛛の巣も見られないし、本堂や御影堂の軒下には
鳥除けの金網が張られているのに、ここにはありません。


袖壁の部分です。写真は内側(北)の左右(東西)






表面(南)には、黄石公と張良の故事が透かし彫りで表されており、
この内側は、許由と巣父の故事になっています。

※黄石公(こうせきこう)と張良(ちょうりょう)の逸話(簡略版)
張良が始皇帝の暗殺に失敗し身を隠していた時、馬上の老人と
出会う。老人は沓を橋の下に落とし、張良にむかって「拾え」と
命じ、張良は怒らずそれに従った。老人はにんまりして去ったが、
戻ってきて五日後の朝に再会を約束。
五日後、日が昇ってから現れた張良に、先に来て待っていた老人は、
「目上の者と約束をしておきながら遅れてくるとは何事か」と、
また五日後に会う約束をし、去る。
張良はまた五日後、今度は日が昇ると同時に約束の場所へ行ったが、
またも老人はすでに来ていて、以前と同じことを言う。
三度目には日が昇る前に行くと、老人は後から来て「その謙虚さ
こそが宝である」と言い、張良に「太公望兵書(六韜)」を与え、
「この書を読み10年後には王者の軍師となるだろう」と告げる。
さらに「13年後にまた逢おう。済北の穀城の下にある黄色い石が
私である」とも。

※許由(きょゆう)と巣父(そうふ)の逸話(簡略版)
許由・巣父はともに中国古代の伝説上の帝王堯(ぎょう)の時代の
高士(世俗を離れて生活している高潔な人物)で、許由は帝堯の
国を譲るとの申し出に対し、耳が汚れたと川の水で洗ったとか。
巣父はそのため川の水が汚れたと牛に水を飲ませず帰ったという。
理想的な高士というものは、権力は汚らわしいものとし、そんな
誘惑に負けない意思を持っていること。許由はそれを実践して
みせたのですが、さらにそのことを知った巣父もまた、許由に
よって洗い流された権力の誘惑が流れる川の水を牛に飲ませまい
とした。高士とは皆こうあるべきという戒めの話なのかな。
水を欲し飲もうとする牛は、無欲を嘲笑するような俗欲、あるいは
心に潜む俗欲を象徴する存在として描かれているのかも知れない。

ちなみに黄石公と張良の俗世の立身出世話が門の表側に置かれ、
許由と単父の戒めが内側にあるのは、意味がある気がしますね。


細かく見ると、ほんと日が暮れるかもね。表と内側でこれほど
違いがあることも気付かず、写真を撮らなかった。
ぜひまた、もっと詳しく観に行きたいものです。



メインとも感じられる扉の獅子の彫刻。黒漆塗りの門に彩色を
施された彫刻が扉一枚を四枡に分けて張られている。
この美感性は素晴らしいですね。
獅子だけに表裏で、シシ16・・・ってか♪(^_^ゞ





写真は、内側だけです。片手落ちになってしまった・・・

表はと言えば、

(北小路通りからの唐門)



表側は柵が高くて、扉などは見にくいです。



実は母子(?)の獅子も見られるのですが…左はじゃれる子獅子、
右はちょうど見えませんが、乳を飲む子獅子の姿が・・・


唐門のすぐ西隣りには〈大玄関門〉があるのですが、補修工事中で
見ることはできませんでした。


〈浪の間玄関・重文〉
切妻に2羽の鳳凰が彫られています。


〈中雀門〉


〈中雀門〉           〈書院の屋根〉

この向こうに白書院・黒書院・北能舞台など、国宝建築物がずらりと
建ち並んでいるのかな。
西本願寺の『国宝・重文 建造物』



2015.7/5、西本願寺 唐門にて。

ゆかいな、床。

2015-07-31 01:08:34 | しゃじ
西本願寺の御影堂、阿弥陀堂と言えば、国宝。その縁側や廊下に、
いつの時代か、きっと伝統的に?大工さん達によって節穴や亀裂を
補修する「埋め木」が施されています。
それがなんとも、遊び心満載の小粋な悪戯?
これもまた、まさに文化遺産かも。(^_^ゞ



Please put your footwear in a plastic bag and take it with you.



お堂に行くには靴をビニール袋に入れてね、持って上がってください。
階段にもすでに埋め木で補修されているのが分かりますね。

見っけ、お魚さん・・・♪









長い歴史をもつお堂、大切に補修を重ねて・・・
それにしても参拝者を楽しませようとしたのか、これは面白い。



これって、探し出すとキリがないくらい。
しかもハマってしまい・・・







こっちにヒヨコが! これは、ひょうたんかな? 富士山発見ッ!
これ、何に見える?・・・てな、具合。



参拝するの忘れて、下ばかり床を見ては、おおっ!って。(^_^ゞ






河童の頭に見えたり、河童の足跡だったり・・・?



トランプ・・・?




モンローのキスマークかな・・・発想が古るかった?

お天気マーク?



おッ、世界遺産つながり。




腰をかがめて、あれこれ言いながら、床ばっかり写真に撮っている
熟年夫婦の姿はちょっと怪しかったかも・・・(^_^ゞ




他にも見どころがね、案内されてます。



「沓石(くついし)」は、縁側の束柱を受けるためのもので、
創建時は柘榴の木で造られていたのを、江戸末期の修理の際に
腐らないようにと石に変えたのですが、昔の面影を残すため
一見、木造に見えるよう表面を木で覆ったのだそうです。




隙間をよく見ると、みかげ石が確認できます。


さてさて、愛嬌たっぷり?の天の邪鬼(あまのじゃく)さん。



御影堂正面の左右にある石の天水受けを支えている
ほぼ二頭身の天の邪鬼さん。今のお堂が再建されて380年近く
健気に力強く、重い天水受けを支え続けています。



筋肉隆々だけれど、どこか滑稽な表情で・・・



8体の天の邪鬼、それぞれ違ったポーズ、表情が面白い。




他にもいろいろ見どころがある国宝、世界遺産。
楽しいお寺ですね、訪ねられたら見逃さないようにね♪
こちらで『埋め木の動画』も見られます。


2015.7/5、西本願寺にて。

Go West、西本願寺へ。

2015-07-26 18:45:04 | しゃじ
♪東へ、西へ。ガンバレ、ガンバレ・・・井上陽水の歌のように?
今回は西本願寺しか訪ねていませんが、東本願寺との違い、
分かっているようで、知らないことも多かったので
簡単にまとめながら、書き留めておこうと思います。


〈御影堂門〉重文。



境内東面、堀川通に面しており、一番南にある門です。


〈総門側より堀川通を隔てた・御影堂門〉

総門から真っすぐの位置にあります。ということは正面通りの
どん突き?いやいや、西本願寺の境内西面は大宮通に面しており
正面通りはそこから千本通まで続いています。
すなわち正面通りは、大和大路通の方広寺から千本通までの間、
渉成園(枳殻邸)、東本願寺、西本願寺などで中断しています。

門の正面からは白壁の塀しか見えません。
これ目隠塀(めかくしべい)と言い、東本願寺にはありません。

〈目隠塀〉重文

〈阿弥陀門〉重文




〈阿弥陀門から御影堂を見る〉


〈阿弥陀門、境内外からと内から〉

ちなみに境内を囲んでいる築地塀(ついじべい)も重文です。



〈大銀杏〉天然記念物

御影堂の前にある大きなイチョウの樹、樹齢約400年。
「水吹き銀杏」とか「逆さ銀杏」と呼ばれている有名な樹です。



この樹が「水吹き銀杏」と呼ばれるのは、天明の大火(1788)や
元治元年(1864)の大火の際、水を吹いて御影堂などを火災から
守ったからだそうです。水を吹いたかどうかは分かりませんが、
社寺や城郭にイチョウがよく植えられるのは、この樹が耐火力が強く、
火を食い止める効果があるからのようです。
「逆さ銀杏」とは、まるで根っこを天に広げたような特徴的な
形状からで、ある高僧が苗木の時に逆さに植えたために横に
広がったという言い伝えもあるようですが・・・見事に横に
伸びているのは、手入れが行き届いているのだと思います。



〈大銀杏〉保存樹



阿弥陀堂と経藏の間にも大きなイチョウの樹があります。
黄葉の時季は綺麗でしょうね。
ちなみにGoogleストリートビューで、境内散策ができますが
ちょうど黄葉した銀杏が見られます。粋なことを・・・(^_^ゞ



〈御影堂前の青銅製灯籠〉


〈御影堂前(左)と、阿弥陀堂前(右)の青銅製灯籠です〉



〈御影堂〉国宝


〈阿弥陀堂(本堂)〉国宝

御影堂と阿弥陀堂は渡り廊で繋がっています。
どちらも国宝の建造物ですが、無料で自由に入れます。
西本願寺は世界遺産で国宝の建物も数多くありますが、
一方、東本願寺には国宝、重文の建造物は皆無。
世界遺産にも指定されていません。


ここらで少し、西本願寺(浄土真宗本願寺派)と
東本願寺(真宗大谷派)の違い、経緯を書き留めておきます。

元々は一つで、どちらも親鸞聖人が開祖の浄土真宗の本山です。
本願寺は第7世の存如上人までは不振窮乏の中にありましたが、
第8世「蓮如上人」の時代に、一気にその教線を拡充しました。
蓮如上人は山科に本地を構えましたが、第10世 証如上人の時、
細川・六角氏や日蓮宗の攻撃を受け、山科本願寺は焼け落ち、
証如上人は大坂に本願寺を再興します。(石山本願寺)
第11世「顕如上人」の時、織田信長が退去を要求してきます。
それに反発した本願寺との間に、石山合戦が勃発、11年に及ぶ
信長を最も苦しめた戦も、本願寺が屈する形で和議となります。

和歌山・鷺森に退去。本能寺の変で信長が没した後も豊臣秀吉に
その力を押さえ込まれ、大阪の地を点々とするもののその間、教団は
徹底抗戦を主張していた顕如の長男「教如」の抗戦派と穏健派が対立。
顕如は穏健派が推す三男「准如」に第12世を継がせます。教如は隠居。
それにより秀吉に支持を受け、現在の地に寺領を与えられます。

天下が徳川に変わると、家康は「教如」に本願寺の東側の土地を与え、
ここに西本願寺と東本願寺という構図ができてしまいます。
これは多分に家康の本願寺勢力を分断する為に東西に分けた政略と
考えられますね。

「石山本願寺・顕如」vs「信長」
「西本願寺・顕如三男准如」=「秀吉」
「東本願寺・顕如長男教如」=「家康」
あの戦国三傑が深く関わってますね。ちなみに信長にとって最強の
敵であった顕如は、武田信玄と正室同士が姉妹の義兄弟でした。
秀吉は強固であった石山本願寺跡を利用して大阪城を建てたし、
親秀吉側の本願寺を東西に分裂させ、まんまと力を削いだ家康。
そのツケは幕末にやってくることに・・・






西本願寺には、秀吉の色彩が色濃く、安土桃山文化の遺構が多く
残されています。絢爛豪華と侘びさびの両極の建物、広間があり
国宝や重要文化財だらけ。
東本願寺は、江戸期以降の建物や文化で、大きく、荘厳な建物が
並びます。内部も、絢爛豪華と云うよりは金ぴかで新しい感じ。
国宝や重文の建物は無く、御影堂や阿弥陀堂も登録有形文化財どまり。





家康の意向かどうかは知りませんが、秀吉色を嫌ってか、
御影堂や阿弥陀堂の伽藍配置は全く逆、畳の向きまで
西本願寺の南北方向に対し、東本願寺は東西方向。
柱も「西」は角柱を使うのに対して、「東」は丸柱を使う徹底ぶり。

こういう違いは、仏壇仏具にも表れ、浄土真宗の仏壇を作る際は
「お東さんどすか?そうかお西さん?」って訊かれます。
違いを簡単に言うと、「西」用は金ぴかの仏壇に渋い仏具。逆に
「東」用は仏壇が少し地味で、仏具は金ぴか・・・



京都タワー、京都の人は未だにこれを恥ずかしいと思っている。
私は、他とは違う形態でオリジナリティがあって良いと思うのですが


屋根瓦、獅子口と言われる部分、何か可愛い・・・♪


そうそう、「南無阿弥陀仏」が本願寺派では「なもあみだぶつ」、
それに対して大谷派では「なむあみだぶつ」と唱えます。
ちなみに違いばかりではありません。どちらも浄土真宗ですから。
般若心経は唱えませんし、線香も立てずに折って横にねかせて
くゆらせます。戒名・位牌もありません。(法名・過去帳です)
祈祷・まじない・占いなどを否定するので、おみくじはもちろん、
お札やお守りはありません。御朱印も無いです。
焼香の際、抹香をつまんで香炉に入れるとき、額の位置で"香を
いただく"という動作をしない。
ただし本願寺派は1回、大谷派は2回します。
それと、お盆に特別な飾りや迎え火、送り火などはしません。
霊魂感の助長は本来の仏教にそぐわない行為と考え、御法度です。



〈飛雲閣〉国宝
金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つ。秀吉が建てた聚楽第の
一部ともいわれており、三層からなる楼閣建築です。
写真は隣りの興正寺から塀越しに撮ったもので、南面?

通常非公開の対面所、南能舞台、白書院、北能舞台、飛雲閣など
ほとんどが国宝。事前に龍虎殿(075-371-5181)に申し込むと、
無料で一日2回案内して頂きながら拝観できるらしい。



〈経藏〉重文



〈手水舎(ちょうずや)〉重文



〈太鼓楼〉重文


幕末、本願寺を一時的に屯所としていた新撰組による刀傷が、
今も残っているそうです。

ここで、幕末における西本願寺と東本願寺のスタンスの違いを・・・
古くは信長と戦った11年に及ぶ石山合戦の頃、当時中国の最大勢力
毛利輝元は本願寺を支援しており、強い絆がありました。
豊臣時代は五大老にまでなった輝元、関ヶ原の戦いで総大将であった
責任を問われ、周防国・長門国(長州藩)に減封されます。

その頃、本願寺を継げなかった教如は家康に接近、関ヶ原でも
後方支援に回ったり。逆に准如は石田三成に説き伏せられ、
西軍側にくみすることになります。
結果、教如は家康から東本願寺を与えられ、教団は東と西に
分裂させられてしまいます。

そんな経緯から、幕末動乱期には東本願寺は佐幕派、西本願寺は
倒幕派のスタンスをとることになります。
特に西本願寺は尊攘派の志士の密談所を提供したり、蛤御門の変では
敗走する長州兵を匿います。この露骨な“長州びいき”が京都守護職
松平容保の怒りをかい、傘下の新撰組を西本願寺に乗りこませることに。

それまで壬生にあった新撰組屯所を西本願寺の境内北側にある
600畳敷きの北集会所に移したのですが、新撰組は境内で砲術訓練や
酒宴など騒動が絶えず、大変なやっかみものであったと言われ、
二年後の不動堂村屯所への移転の際には、その費用を西本願寺が
全額負担したという話も残っています。

維新後は、東本願寺が苦しい立場に追いやられますが、西本願寺と
歩調を合わせ、新政府に戊辰戦争の軍資金を出資するなど、償いの
姿を見せることで生き延びたようです。

宗教や歴史、本来専門的で難しいですが、簡単にでも頭の隅に
置いておくと、観光が確かなものになると感じます。


2015.7/5、西本願寺にて。太鼓楼

西本願寺、おとなりさん。

2015-07-21 19:32:25 | しゃじ
西本願寺の南隣りにあって、どうも影が薄いのですが・・・
『円頓山 興正寺(えんとんざん こうしょうじ)』だって
浄土真宗・真宗興正派の「本山」なんです。
とはいえ、かつては西本願寺の脇門跡。1987(明治9)年に独立して
本山となりました。


〈三門〉



京都の人でも興正寺、西本願寺の南隣りのお寺。と言っても
ピンとこないかも。西本願寺の一部に思ってしまいます。



堀川通沿いに堀があり、その上に橋が確か6本続いています。
一番南が興正寺三門の前、北へ次が阿弥陀堂門前、そして北小路門前で、
その先は西本願寺の御影堂門、阿弥陀堂門、御成門の前に架かっています。



〈興正寺・阿弥陀堂門〉


〈北小路門〉


寺伝によると「創建は鎌倉時代にさかのぼり、当初は京都の山科に
建立されました。興正寺は創建後数年を経て、山科から京都東山の
渋谷(しぶたに)へと移りますが、その際、ご本尊が光を放ったこと
から、後醍醐天皇より佛光寺の寺号を賜り名を改めます。
佛光寺の教勢は飛躍的に拡大し、隆盛を極めました。室町時代、
蓮教上人は本願寺の蓮如上人と歩みを共にし、佛光寺を弟に譲り、
再び山科の地に多くの門徒と共に興正寺を興しました。
その後は本願寺と歩調を合わせ、度重なる移転にも常に行動を
同じくしています。
桃山時代、現在の地へ移転し、堂舎が隣接して建てられているのも
本願寺との深い関係を示しています。」とあります。



〈御影堂〉

本堂は起工から128年の年数をかけ、日光東照宮の本廟・知恩院の
三門とともに、日本三建築の一つと称せられた壮大華麗な大伽藍で
あったが、明治35年11月、不慮の火災により、本堂その他、
ほとんど焼失。明治45年、阿弥陀堂とともに大伽藍が再建され
現在に至るというものです。



結構立派なものです。隣りの本願寺が凄過ぎますが・・・


〈御影堂内〉

御影堂、宗祖などの像(=御影)を安置するお堂のことですが、
知恩院や東寺では「みえいどう」と読みますが、親鸞上人の
場合は「ごえいどう」と読むようです。
「見真」の額は、祖師が見真大師だからです。誰のこと・・・?
弘法大師が空海だと言うのはよく知られていますが、
親鸞は見真大師だとはあまり知られていないかも。
ちなみに伝教大師は最澄、慈覚大師は円仁、立正大師は日蓮。
法然は?いっぱい大師号があったりして・・・ワケワカラン


〈渡り廊で阿弥陀堂と繋がっています〉


〈阿弥陀堂内〉


南に御影堂、北に阿弥陀堂がある伽藍配置は西本願寺と同じ。
仲良しですもんね。
東本願寺はというと、これが全く逆!
南に阿弥陀堂、北に御影堂になります。畳の向きも逆です。



〈鐘楼〉
1774(安永3)年建立。皇太后 恭礼門院から、桃園天皇の供養のため、
梵鐘と共に寄進されたもの。明治35年の火災の際、難を逃れたため、
興正寺では一番古い伽藍として残っています。

〈手水舎〉


〈経蔵〉


1848(嘉永元)年の建立。孝明天皇より「法宝蔵」の勅額が下賜。
あまり見かけたことが無いユニークな経蔵ですね。
石積みの段上に、花崗岩の高欄が廻らしてあり、その上に
白壁の土蔵造り、扉の上に唐破風の軒。屋根は、経蔵によくある
宝形造ですが、やはり唐破風を設けた豪華なものです。

西本願寺に行かれたら、訪ねられても良いかも知れません。
観光客もうんと少ないようだし・・・♪



2015.7/5、興正寺にて。

しょうぶの藤森神社

2015-06-18 15:58:38 | しゃじ
先日(5月5日)、駈馬神事を見に行ったもののバイクが停められず
断念した藤森神社、今度は紫陽花を見に行ってみました。

藤森(ふじのもり)神社は、武神と学問、菖蒲の節句発祥の神社、
勝運と馬の神としても知られています。
社伝によると、神功皇后が203(摂政3)年、新羅より凱旋の後、
山城の国 深草の里 藤森の地を神在の聖地として撰び
「いくさ旗」纛旗(とうき)を立て、兵具を納め、塚を造り、
神祀りされたというのが起こりだそうです。
かなり古い縁起ってことになりますね。




この神社、京都の紫陽花の名所として知られていますが、まだ行った
ことがなかったので訪ねてみましたが、紫陽花苑が開苑したばかりの
週末で、3部咲きくらい。ちょっと早かったようです。(6/7)



思ったより広い境内、特設の茶店では、あじさいだんごも
売られています。社務所・宝物殿も立派。



〈神馬像〉
勝運と馬の神様として競馬関係者(馬主・騎手等)また、
競馬ファンの参拝者でにぎわっているそうです。
ま、クルマで20分程走れば淀競馬場もあるしね・・・(^_-)v



〈斎館〉
中には鎧兜や武具が置かれているとか。軒にはデカい太刀が!
ちなみに宝物殿には重文の紫絲威大鎧や大鎧や刀、大筒など
100点余りが展示されているそうです。
斎館に置かれているのはお祭り用の衣装かな?(確証は無いです)
最近では、オンラインゲーム刀剣乱舞の効果で鶴丸国永の聖地として
人気なんだそうですが、今はその名刀「鶴丸」はここにはありません。



〈拝殿〉
真ん中が開いている割拝殿は珍しいですね。
御所より移築されたもののようです。



昔は名前通り“森”だったのでしょうね・・・


〈藤森七福神〉
キャラクターっぽい七福神さん達♪
藤森祭の時は、武者行列とともに七福神に扮した行列もあるとか。


歴史を辿ると、当初は現在の伏見稲荷大社の位置にあったようです。
稲荷大社が建てられることになったため、現在地に遷座。
この地はもともと真幡寸(まはたき)神社があったので、それに伴い
同時に真幡寸神社(現・城南宮)は、今の位置に移ったそうです。

〈藤森稲荷社〉



ご神水〈不二の水〉
二つとないおいしい水という意味で、特に勝ち運を授ける水として
信仰されているとか。みなさん、ペットボトルに入れて持ち帰られる
のでしょうが、樹脂製のロートは風情が無いな・・・


〈御旗塚〉神功皇后が軍旗を立て祭祀を行った場所で、当社の発祥
であるとしている、イチイガシの木株。「いちのきさん」と呼び親しまれ
お参りすると腰痛が治るとか。近藤勇も足しげく通ったのだそうです。

〈本殿〉
祭神は、本殿中央(中座)に素盞鳴命、別雷命、日本武尊、応神天皇、
仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰の七柱。東殿(東座)に学問の神として
舎人親王、天武天皇の二柱。西殿(西座)には早良親王、伊豫親王、
井上内親王の三柱。十二柱が祀られている御霊社です。



〈金太郎像〉auのCM、濱田岳には似ていないね。
藤森神社は「菖蒲の節句発祥の地」といわれています。
菖蒲は尚武、勝負に通じ、勝運を呼ぶ神として信仰を集めてきた。


〈舎人親王崇敬碑〉と〈白松(はくしょう)〉の木。
舎人(とねり)親王は、日本書紀の編者で、日本最初の学者。
それ故、学芸上達絵馬が奉納されている。
この碑の後ろにある白松は、白皮松、白骨松とも称され、中国では
宮殿などに植えられる非常に貴ばれる木。

摂社〈大将軍社〉(重文)

摂社〈天満宮社〉

大将軍社は、桓武天皇が平安京を造営したとき、王城鎮護のため、
京の四方に祀られた大将軍神社のうちの南方の守護神。
ちなみに東方=大将軍神社(東三条大将軍)、西方=大将軍八神社。
北方=今宮神社境内大将軍社。



〈神鎧像〉
菖蒲の節句発祥の地であり、節句に飾る武者人形には、藤森の神様が
宿るといわれており、その象徴として建立されたもの。

〈七宮社〉

〈粗霊社〉


〈絵馬舎〉
かつては拝殿だった。白馬、黒馬の絵馬は、江戸時代のもので、
京都でも古いもののひとつなんだそうです。

摂社〈八幡宮〉(重文)

〈かへし石〉
力石とも呼ばれ、この石を拝殿より鳥居まで転がすという行事が
昔はあり、祭りの時は石を持ち上げて力試しもしたとのこと。


こんな自販機が・・・




運試し?数字が揃えばもう1本ってやつだが・・・
私は、見事に外れ(やったんかいッ!)
必勝絵馬でも奉納すれば当たったのかな・・・(^_^ゞ



2015.6/7、藤森神社にて。

この日のお持ち帰り・・・変わりみくじは、お馬さんでした♪

兎が道案内、宇治神社。

2015-04-12 23:37:30 | しゃじ
この神社も宇治上神社と同じく、創祀(そうし)や創建年代などの起源は
明らかではないですが、創祀は仁徳天皇という説もあります。

主祭神は菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)で、仁徳天皇とは
異母兄弟。父である応神天皇が皇太子と決めていたのですが、兄の仁徳天皇に
皇位を譲るため自害されたとか。
そんな弟の死を悼み、仁徳天皇が創祀されたというものです。

この神社のすぐ近くにある宇治上神社は、菟道稚郎子の離宮
「桐原日桁宮」(きりはらのひげたのみや)の旧跡であるといわれており、
二社を合わせて「離宮明神」とされた時代がありました。
宇治神社を離宮下社、若宮と呼び、宇治上神社を離宮上社と呼んでいた。

写真は朝霧橋ほとりの船着き場跡?

源氏物語 宇治十帖(四)早蕨(さわらび)のくだりが書かれた立札。
ゆかりの地だけあって、あちらこちらにこのような立札がある。
ちなみに、莵道稚郎子は源氏物語の「八の宮」のモデルといわれています。



〈一の鳥居〉
朝霧橋のたもとに鳥居が、ここからが宇治神社です。



参道の石段を上がったところから見ると、宇治川を隔てて対岸にある
平等院の屋根が鳥居越しに見えます♪




石段の右手に宇治七名水で唯一、今でも湧き出る桐原水(きりはらみず)の
手水舎があります。


〈手水舎〉
大きな姿見が備えられたもので水口は龍ではなく、うさぎさんです。



拝殿は「桐原殿」と呼ばれています。


〈拝殿・桐原殿〉


社務所兼案内所?御朱印もここでもらいます〈参集殿〉

〈喜撰法師の歌碑〉
「わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり」
小倉百人一首でもお馴染ですね。絵柄は確か「坊主」だったと・・・(^_^ゞ



〈ニの鳥居〉
拝殿の後ろにある鳥居からまた石段を上がると、本殿があります。


〈本殿〉(重文)
中には木造莵道稚郎子命坐像(重文)が祀られています。



本殿左右には末社群が・・・

右手に、住吉神社、日吉神社、春日神社。左手には、廣田神社、松尾神社、
高良神社、伊勢両宮の四社。
本殿右、末社の手前にパワースポット・願いうさぎ像があったのですが、
気がつきませんでした・・・ザンネン

宇治上神社もそうですが、ここもやたらと兎が出てきます。
菟道に因んでのことなんですが、ここには伝承がもうひとつありまして、
 御祭神が、この地に住まいを定められて、河内の国より向かわれる途中、
 道に迷われ難渋している時に、一羽の兎が現れ、後からついて来られる
 御祭神を振り返り振り返り先導申し上げたという古伝により「みかえり兎」
 と言われ、この後、道徳に叶った正しい人生の道を歩むよう教え諭して
 いるもので、神様のお使いとされております。
 又、菟道という字を「うぢ」と読み、内なる場所の意味を持ち、
 後に「宇治 うじ」という字になったとも言われている。(HPより)

それでですね、私もうさぎちゃんに導かれるよう変りみくじの売り場に・・・



宇治上神社のは碧いうさぎ(別に酒井○子のファンではありませんが)、
宇治神社は「みかえり兎」ですね。ピンクを選びました♪





※注:おまけでカッパ赤ちゃんは付いてきません。(^_^ゞ







2015.3/22、宇治神社にて。

世界遺産・宇治上神社

2015-04-10 22:24:52 | しゃじ
宇治上神社はユネスコの世界遺産「古都京都の文化財」の一つとして、
境内地やその建物、後ろの木々の景観全てを含め世界遺産に登録されています。



京都市・宇治市、滋賀県大津市の17か所の寺社で構成される「古都京都の
文化財」の中でも最も規模が小さく、訪れる人も少ないのではないかな。


〈門〉まるで山寺の山門のよう。
門も、境内も「えっ?」と思うくらい規模が小さいです。

ただ、ここの本殿は現存最古の神社建築であることが証明され、拝殿と共に
国宝に指定されています。それに無料でお参りができる世界遺産は
西本願寺と、この神社だけなんだそうです。


〈拝殿〉(国宝)
ちょうど訪れた日(3/22)は、2年がかりで行われていた本殿と拝殿の
修復工事の完了を祝う竣工奉祝記念祭が営まれていました。
そのためか結構、拝観者の姿も多かったです。


〈桐原水〉
手水舎の中に入っていくと、水溜まり?。お参りをする際の手洗水として
使われてきた湧き水で、宇治七名水として唯一現存しているものです。
ただ、名水と言っても今は飲み水としては適していないとか・・・



〈拝殿〉(国宝)


神社の規模から考えると立派な拝殿で、建築様式も今まで観たこと無いような。

この神社、創建、変遷の詳細は不明なんだそうです。
拝殿は本殿よりやや新しく、近年の年輪年代測定調査により鎌倉時代前期に
伐採された桧が使用されていることが解り、鎌倉初期の貴重な建物遺構で
神社の拝殿としては現存最古のものだとか。
その建築は寝殿造であり、神社建築というよりもむしろ住居建築としての
性格が強いという、珍しい拝殿ということで注目されています。


〈盛り砂〉
拝殿前に盛られた円すい形の砂山。上賀茂神社などと同じようですが、
上賀茂神社の立砂の場合は神の依代とされていますが、こちらのは清め砂
として盛られています。


〈拝殿〉裏から
この日は拝殿の後ろに舞台が設けられ、八坂雅楽会による舞楽の祝いの演目
「蘭陵王」が奉納されたようですが、時間が合わなかったのか観ていません。

拝殿から本殿を見上げると・・・神社っぽくない?(^_^ゞ


当社の起源は明らかではありませんが、延喜式神名帳(927年に編纂された
全国の神社一覧)には記載が確認されているから、それ以前に創建された
ことは確実なようです。
のちに1053年に鳳凰堂が藤原頼通によって建立されると、その鎮守社として
整備されたと考えられています。
宇治上神社のすぐ手前に宇治神社がありますが、明治時代までは宇治神社を
離宮下社、宇治上神社を離宮上社として、二社合わせて宇治離宮明神と
呼ばれていました。離宮といわれるのは、かつてこの地に応神天皇の子である
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の居住があったとされているためです。

ご祭神は菟道稚郎子、その父の応神天皇、兄の仁徳天皇が祀られています。
ちなみに応神天皇の皇子・菟道稚郎子は、天皇に寵愛され皇太子に立て
られたものの、異母兄・大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく
自殺したという美談で知られています。


本殿(国宝)


年輪年代測定調査を行った結果、平安時代後期に伐採された木材が使われて
おり、1060年頃に造られた現存する日本最古の神社建築であることが
裏付けられました。

見えているのは覆屋(おおいや)であり、この中に左殿、中殿、右殿と
三つの社が横一列に並んでいます。格子障壁を通して覗けます。
内殿は左殿(向かって右)に菟道稚郎子命、中殿に応神天皇、
右殿(向かって左)に仁徳天皇が祀られており、中殿は独立しているが
左殿、右殿の側壁や屋根は覆屋と一体化していて通常の覆屋とは構造が
異なっているようです。

修復されたばかりということもあってか、流造、檜皮葺きの屋根は美しい
スロープを描いていました。

さて、回りを見渡すと・・・
末社・左〈住吉社〉、右〈香椎社〉

摂社・〈春日神社〉(重文)


         〈厳島社〉

〈武本稲荷社〉


〈天降石/岩神さん〉
磐境信仰による創祀という説もある。積まれている小石は参拝者が
お願い事をして積んでいったものです。


むふふ、私的に一番の目的はこれだったりして・・・(^_^ゞ



ここの変りみくじは「うさぎ」なんですね。
そもそも宇治って地名、昔は「菟道」うさぎのみちって書いて「うじ」って
読みました。
それにだいたいご祭神が菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)ですもんね。

だからかな、ここの駐車禁止の看板も、うさぎちゃん♪

ゲッ!あかんのちゃうん!!・・・しかも、あんまり見かけん外車やなぁ。
このクルマから降りてこられたのは、ここの宮司さん?どうやらこの看板、
関係者の車を停めるために一般車両を駐禁にしているのかも。マギラワシイ

それにしてもこのクルマですが・・・何なん?

これって、クライスラー・クロスファイアロードスター。
アメリカンな外観ですが、中身はメルセデスベンツの初代SLK320(R170型)。
ドイツのカルマン社が生産したもので、エンジンは3.2L ベンツM112エンジン V6。
確かSLKには無いはずの電動開閉ファブリック製ソフトトップが用意されている。
布幌です♪さすがアメ車?中身はドイツ車なので安心?燃費も8.5km/L。
中古車の価格帯を見ると新車の軽四より安いかも・・・ただし年式は
2004、5年だから10年もの。結構面白いブツだと思いませんか?(^_^ゞ




2015.3/22、宇治上神社にて。