カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

乃木神社&山城えびす神社。

2015-04-02 19:39:52 | しゃじ
乃木神社、御祭神は乃木希典大人之命(ノギマレスケウシノミコト)、
言わずと知れた(?)乃木希典、大日本帝国陸軍 陸軍大将。僕らの世代でも
もうそれほど馴染は無いのですが、日露戦争の英雄と言われた乃木大将です。
第10代学習院院長も務め、昭和天皇を養育されたことでも知られています。
函館、那須、東京、善通寺、下関にも乃木神社がありますが、京都では
明治天皇陵の麓にあります。



京都に乃木神社が建てられたのは、明治天皇の崩御に際しての「殉死」の一言
にあります。「うつし世を神去りましし大君の御あと慕いて我は逝くなり」
この辞世の句を残しての殉死に、人々の京都の明治天皇陵の傍に“乃木さん”
を祀り、威徳を尊仰し、その赤心を後世に伝えたいという一念からでした。
〔HPより引用〕






日露戦争で活躍した巡洋艦”吾妻”の主錨をモニュメントにした旧海軍将兵慰霊碑



乃木少年が長府(山口県)で父母妹達と慎ましい生活をしていた時代の旧宅



日露戦争時に旅順柳樹房で第三軍司令部として使われた民家を移築した建物


境内には神社としては、ちょっと変った建物や石碑が目につきます。
乃木大将関係のもので、記念館・史料館もあります。

この神社に訪れるのは初めてじゃなく、乃木希典については以前に簡単に
触れた
こともあるので割愛しますが、そのプロフィールで今やっている
大河ドラマ「花燃ゆ」に関連した事柄があるので・・・
江戸時代、長府藩藩士の家に生まれた乃木希典(1849-1912)。
吉田松陰の叔父・玉木文之進の塾に入門、長州藩の学問所の明倫館文学寮でも
学んだ経歴があり。所属していた長府藩報国隊は1865年に奇兵隊と合流し
幕府軍と戦っています。
ちょっとムリからですが、吉田松陰(1830-1859)とは叔父の玉木家を介して
親戚関係にありました。(乃木希典の弟が玉木文之進の養子になっている)
それだけでなく、希典も玉木文之進の弟子でしたので、松陰と希典は
相弟子ってことになりますね。もちろん共に学んだわけでは無いですけど。
ちなみに松下村塾は1858年、松陰が野山獄に再投獄され廃止されています。
吉田松陰が斬首刑になったのはその翌年で、松陰29歳、希典10歳の時です。



〈拝殿〉



絵馬額には乃木大将の愛馬、璞号(あたらまごう)と壽号(すごう)が
彫られています。
乃木家の家紋は「持ち合い四つ井筒」ですが、ここの神紋には乃木玉木家の
「市松四つ目結」が使われていますね。近江源氏、佐々木氏の流れですかね。



「全てに勝ちま栗」、馬とくれば競馬ファンも来るのでは・・・?



ロシアの将軍ステッセリから贈られた白馬の壽号とその子・璞号の銅像が
拝殿前、左右に置かれている。



「勝ちま栗」他にも「幸せになり鯛」ってのも・・・(^_^ゞ



〈本殿〉
伏見桃山御陵(明治天皇陵)を仰いで建っているため北面している。
※本来、神殿は南面もしくは東面。


さて、乃木神社には境内社として山城えびす神社があります。
元「静魂七福社」(シズタマシチフクシャ)として乃木静子刀自之命と
七福神が合祀されていましたが、後年、乃木静子刀自之命の御霊は御本殿へ
遷され、七福神のみを祀る御社となりました。〔HPより引用〕


〈拝殿〉写真は2年前のものですが。

乃木神社もここも拝殿までは、拝観料も駐車料も要りませんが、
本殿に行くには、無人のコインボックスに100円入れて・・・

〈本殿〉

〈乃木大将、静子〉胸像。
1912年9月13日。明治天皇大葬の日、東京赤坂の自宅にて割腹殉死。
妻、静子も夫の後を追い自害。

そんな重苦しい像があるかと思えば・・・


〈和み地蔵〉
思いっきり可愛い、キャラクターみたいなお地藏さんが♪
亀さんも何か可愛い・・・


七福神の名コンビ? 大黒さんと、えべっさん。

春には花が咲き競う気軽に行ける神社。もちろん、乃木大将、日露戦争などの
貴重な史料も見られたりする面白いスポットです。




2015.3/21、乃木神社にて。

シンプル?萬福寺。

2015-02-16 20:19:12 | しゃじ
黄檗山 萬福寺の伽藍配置は、三門-天王殿-大雄宝殿-法堂が一直線に並び、
基本、左右対称に天王殿の右には鐘楼、左に鼓楼。大雄宝殿だと右に
伽藍堂・斎堂、左は祖師堂・禅堂が配置され、
法堂にも右に東方丈、左に西方丈が置かれています。それぞれの伽藍を
回廊や菱形に並べられた踏み石の直線で繋がれ、交差するのも直角。
とても整然とした伽藍配置になっています。



〈月台(げったい)〉大雄宝殿の前。

床は堂内も回廊もこの正方形を45度斜めにした黒瓦が敷き詰められているのが
特徴です。大雄宝殿の前後の庭には白砂が敷かれて、厳かな雰囲気でした。

そう言えば「月台」って中国では駅のプラットホームを指したりもしますね。
月台の中央に置かれている石は、罰跪香頂石(ばっきこうちょうせき)。
何やら怖そうな名前ですね。規約違反者が懺悔をする場所なんだそうです。

大雄宝殿と法堂の間にも白砂が敷かれ直線の文様でならされています。
月の明りをお堂に取り込む効果もあるのだとか。


〈法堂(はっとう)〉

内部には須弥壇のみが置かれており、住職がこの壇上で説法し、衆僧は
問答によって所信をみがく場所。ひらたく言えば教室?(^_^ゞ
禅宗では法堂と呼びますが、他の宗派では「講堂」にあたる伽藍ですね。



直線の意匠が醸し出す潔さは、迷いを吹っ切れる感じがします。(私だけ?)



萬福寺のシンボルのひとつでもある、卍くずしの匂欄(こうらん)も
装飾としてはシンプル、美しいですね。



扉もこんな風に・・・ちょっと阿弥陀くじっぽいかな?(^_^ゞ
キラキラ輝く光線がこういう文様の原点かも知れませんね(私説)


〈開山堂の勾欄〉

卍(まんじ)、日本では仏教を象徴する記号として使われ、仏教寺院を表す
地図記号にもなっていますが、同様の文様は世界各地にあるようです。
中でも有名なのは、ナチスが用いたハーケンクロイツ(鉤十字)でしょうか。
欧州の方が日本の地図を見て、ナチスの施設だと思われないかな・・・(^_^ゞ

法堂の扁額「獅子吼(ししく)」
獅子吼とは、釈迦が説法する姿を獅子のほえる様子にたとえたもの。

〈慈光堂〉一般信徒の位牌を納め永代供養するところです。





〈禅堂〉扁額は「選佛場(せんぶつどう)」。座禅を行うところです。
吊るしてある板には「止静」とありました。

        〈祖師堂〉
達磨禅師(祖師)が祀られています。両脇には歴代住持職の位牌も。
ダルマさんはインドの僧で、釈迦から数えて28代目。禅を伝えるため
中国に渡られ、禅宗の祖とされています。転んでも起きます。(^_^ゞ







伽藍を繋ぐ回廊が、これまた見モノ♪







張り巡らされた回廊も特徴的ですが、突然その回廊の真ん中に・・・





        〈合山鐘(がっさんしょう)〉
開山堂、寿蔵、舎利殿で行われる儀式の出頭時にのみ鳴らされるそうです。



〈寿塔(じゅとう)〉(寿蔵・真空塔)

隠元禅師のお墓で、生前に建てられたものです。正面円窓扉に書かれた
「壽蔵」は隠元の書。扁額の「真空塔」は霊元天皇の筆によるものです。





〈舎利殿(しゃりでん)〉

もともと仏舎利(釈迦が荼毘に付された時の遺骨、遺灰)を納める
塔婆(塔)=釈迦のお墓?ですが、これが発展して五重の塔になったり、
金閣寺の建物も舎利殿ですね。

ちなみに仏舎利が日本に持ち込まれた、渡ったと言う確かな文献は無いよう
ですね。明治末期にタイ・スリランカなどから寄贈されたり第二次世界大戦後、
インドのネルー首相から寄贈され各地に納められたようです。
ま、仏舎利自体あいまいなモノだとは思いますが・・・


〈舎利殿〉
寿塔から舎利殿に行ったので気がつきませんでしたが、この石段を降りた
ところに立入り禁止の看板が・・・。おそらくこの石段が荒れていて
危険だからでしょうね。降りたところが開山堂のすぐ横になります。


        〈開山堂〉
開山 隠元禅師を祀っている建物で、隠元禅師の木像が安置されています。
ここだけではなく、お寺のあちこちで桃の意匠が見られます。
桃は仙果と言われ、中国や日本では古代より邪気を祓い不老長寿を与える
植物とされていますね。




開山堂の勾欄は綺麗な卍文様。 ん~、ラーメン食べたい・・・(^_^ゞ





〈開山堂〉全景。
ここのアプローチ、石畳は日本海を表しているのだとか・・・?何でやろ。



大屋根下の扁額には「瞎驢眼(かつろがん)」と書かれています。
瞎驢とは「目の開かない驢馬(ろば)」のことで、これは、禅の師匠が
未熟な弟子に対して吐く言葉で、この他に
「飯袋子(はんたいす)…能無しの無駄飯食い」や
「擔版漢(たんばんかん)…視野の狭い偏見持ち」などの激しく厳しい
言葉を用いつつ、弟子たちを叱咤激励して、禅の正道へ導いたのだそうです。


順序が逆になりややこしいですが、

〈通玄門〉
ここをくぐれば、奥に開山堂があるわけで・・・


最後に

〈怨親平等塔〉

「昭和12年(1937)日中両国干戈を交うるに至り、痛恨にも両国の
戦病死者夥し。当寺はその創立中国と最も深き因縁にあり、
当時の住職山田玉田和尚いたくこれを愁い、
戦禍に斃れた両国の将兵及び諸民の精霊を慰めんと、
妙法蓮華経六万九千六百四十三文字を一字一石に謹書して宝筐印塔に収め、
その冥福を祈ることを発願された。
(中略)この塔を建立し怨親平等塔と銘し、両国が一日も早く友好の昔に
かえり親和親善の浄界実現を心から祈願された。」
                    出展:【怨親平等塔由来】より

怨親平等とは仏教用語で、大慈大悲の心から、自分に仇なす怨敵も憎むべき
でなく、自分を愛する親しい者にも執着するべきでなく、平等にこれらを
愛憐する心をもつべきだと云う教えです。

敵味方の差別なく、恩讐を超えて平等に解脱や極楽往生を願う思想でもあり、
それゆえ日本各地に敵味方合同の供養碑などが見られますね。
ちなみに元寇の際の蒙古兵や秀吉の朝鮮出兵「文禄・慶長の役」での
朝鮮および明の戦死者の供養碑もあります。

日本は古来から、多くの事を大陸や半島から学びました。
大きな過ちも犯し傷つけたりしたことは申し訳ないですが、
日本人も犠牲を被りました。が反米教育などはしていませんね・・・


これにて萬福寺のレポ終了です。やっとこさ・・・(^_^ゞ



2015.1/25、宇治 黄檗山 萬福寺にて。

ずらり揃って、萬福寺。

2015-02-12 00:25:27 | しゃじ
実は大王殿、伽藍堂、斎堂と回って南から入ったので、正面の写真を撮るの
忘れてしまいました。
それというのも、ここの仏像を撮るのに熱中してしまったから・・・(^_^ゞ

なかなかこれだけの仏像を写真に撮ることって無いですものね。
ただし、他のお参りの方の迷惑にならないようストロボは控えました。
もちろん三脚もね。禁止はされていませんがエチケットとして。暗いけどね。
結果、ピンボケ連発、特にDP2Mは手振れ補正機能ありませんから。



大雄宝殿(だいおうほうでん)万福寺の中央に位置する最も大きな建築物です。
日本で唯一最大のチーク材を使った歴史的建造物として、大変重要かつ貴重な
ものだそうで、建築様式はまさに中国そのものの様式。

正面中央にはご本尊、その左右の壁に十八羅漢像がずらりと安置されています。




須弥壇(しゅみだん)の上の額「真空」は明治天皇の御宸筆です。



御本尊は三尊形式で中央は釈迦如来。釈迦如来の場合、一般には
脇侍(きょうじ)は、右に「文殊菩薩、左には「普賢菩薩」ですが、
此処では釈迦十大弟子の筆頭「迦葉(かしょう)尊者」が右に、左には
「阿難(あなん)尊者」が祀られています。







さて、十八体の阿羅漢(あらかん)さまを・・・普通は十六羅漢ですよね。
五百羅漢なんてのもありますが。
そもそも阿羅漢(羅漢)とは、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。
阿羅漢でない者が阿羅漢を名乗ることを故意・過失を問わず「大妄語」とし、
最も重い罪を科して僧団追放の対象としたそうです。

仏法を護持することを誓った16人の弟子を十六羅漢としますが、此処では
賓頭廬(びんづる)尊者と慶友(けいゆう)尊者が加わっての十八羅漢。
この十八羅漢像は、中国の仏師 范 道生(はん どうせい)によるもの。
ちなみに御本尊の三尊である詳細は不明。桃山時代の様式があり、
日本人仏師によるものとみられているとか。







上手く言葉にはできませんが、それぞれの羅漢さんが個性豊かに活き活きと
作られており、迫力のようなものを感じずにはいられませんでした。


第十五尊者 阿氏多(アジタ)



第六尊者 跋陀羅(バダラ)
虎に首輪でも?虎がガラスケースに入っているのは謎。(^_^ゞ


第五尊者 諾矩羅(ナクラ) 読書家なのかな?




第十八尊者 賓頭盧(ビンヅル)
お馴染ですね、よく寺院のお堂の前に置かれており、患部を撫でると除病の
功徳があると信じられ、なで仏として知られています。
ここでもお参りの方が撫でていかれるのでしょうね、この像の膝など
塗りが剥がれて、ぴかぴかに光っていました。



第十七尊者 慶友(ケイユウ)


窓のカタチにも特徴がありますね。






おっと、肝心な方も・・・隠元隆(いんげん りゅうき)禅師です。


〈隠元禅師像〉
まだ新しいものですね、萬福寺開創三百五十年記念で置かれたものですから
数年しか経っていません。獅子に乗られているのかな・・・?



第十一尊者 羅怙羅(ラゴラ) ※写真右
自ら胸を開き、その中から釈迦の顔が!印象的というかショッキングなお姿。
羅怙羅尊者は、釈迦が出家前に生まれた実子でもあります。「人は必ずその
心の中に仏を宿す」と云うことを表しているらしいのですが・・・


折角ですから、十八羅漢像の一覧を♪(並んでいた順ではありません)


第一尊者 賓度羅跋羅堕闍(ビンドラバラダシャ)
第ニ尊者 迦諾迦伐蹉(カナカバサ)
第三尊者 迦諾迦跋釐堕闍(カナカバリダシャ)


第四尊者 蘇頻陀(スビンダ)
第五尊者 諾矩羅(ナゴラ)
第六尊者 跋陀羅(バダラ)


第七尊者 迦理迦(カリカ)
第八尊者 伐闍羅弗多羅(バジャラプタラ)
第九尊者 戌博迦(ジュバカ)


第十尊者  半托迦(パンタカ)
第十一尊者 羅怙羅(ラゴラ)
第十ニ尊者 那伽犀那(ナガセンナ)


第十三尊者 因揚陀(インカダ)
第十四尊者 伐那婆斯(バナバス)
第十五尊者 阿氏多(アジタ)


第十六尊者 注茶半迦(チュウダハンタカ)
第十七尊者 慶 友(ケイユウ)
第十八尊者 賓頭盧(ビンヅル)

※漢字は違う場合も。読みは出来るだけ此処の木札に忠実にしましたが、
他にも読み方はいろいろあるようです。



〈大雄宝殿〉


そうそう、本堂へ来る前にガランドウも覗いてきましたよ。



伽藍(がらん)=寺院の主要建物群の意味。伽藍堂は、寺院(伽藍)を守る
伽藍神を祀っているお堂です。日本のお寺でいう鎮守社みたいなものかな?
がらんどうかなと思ったら、えらい賑やか・・・まるで中華街。(^_^ゞ
「がらんどう」って、中に何も入っていない、がらんとした空間を意味する
のに、語源とはちと違うものですね。


〈伽藍堂〉
華光菩薩(けこうぼさつ)像が安置されています。あまり馴染の無い菩薩様
ですね。かなり珍しいそうです。ちょっと三蔵法師のようにも・・・
眉間には第三の目が付いています。3×3EYES<サザンアイズ>のパイちゃん
みたいに♪ちなみに私、3×3EYES 40巻全巻読みました。(^_^ゞ
「華光」は明の小説『南遊記』の主人公なんだそうです。
西遊記じゃ無かった。中国には東西南北「四遊記」としてあるようです。
手前に置かれている像は妖怪?孫悟空のようなお伴の者かな・・・


禅宗といえば達磨大師ですね、ここにも変りみくじがありました♪



達磨みくじにしようかと思ったのですが、布袋みくじが可愛かったもので






そろそろこの辺で、お後がもう1回ありますが・・・(^_^ゞ




2015.1/25、黄檗山萬福寺にて。

大陸偲ぶ、万福寺。

2015-02-05 13:44:09 | しゃじ
京都・宇治にある黄檗山萬福寺。京都の寺にしては一風変わっているかも。
菊舎の句は、萬福寺の境内であたかも中国にいるような錯覚に陥っていたところ、
山門を出て茶摘み唄を聞いて「ここは日本、宇治なんだ…」と、我に返った
ことを詠んだものだそうです。

黄檗宗では、儀式作法は明代に制定された仏教儀式で行われ、毎日誦まれる
お経は黄檗唐韻で発音し、中国明代そのままの法式梵唄(ぼんばい)を
継承しています。
建造物も中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置で、創建当初の姿そのままを
今日に伝える寺院は日本では他に例がなく、代表的な禅宗伽藍建築群として、
主要建物、回廊、額、聯(れん)などが国の重要文化財に指定されています。

初代隠元から第13代まで中国渡来僧が代々住持(住職)を占めた。しかし、
時が経つうちに渡来する中国僧が少なくなり、第21代を最後に第22代から
第61代まで和僧が住職となっている。
その61代住職・岡田亘令師が昨年の暮れに亡くなったようで、総門前と
塔頭瑞光院には「山門不幸」の立札が立っていました。



この総門の扁額、表は「第一義」と書かれています。空を以って第一義となす
…ここで学ぶ者は何ものにもとらわれないように。という意味かな。
内側は風水的モチーフの一つ「白虎鏡」で、平等を意味しているのだとか。



〈三門〉
軒の扁額は縦書きで「黄檗山」、門には「萬福寺」。共に隠元禅師の書です。
思いの外、立派な三門でした。
三門とは空門・無相門・無願門の三つの境地を経て、仏国土へと至る門、
「三解脱門」を表すといわれています。
なまぐさもの、酒を禁じるという意味で立てられている「禁牌石」とともに、
ここから先が聖域である事を示す結界であり、入門する者の心得を説いてます。

ちなみに元々、萬福寺には三門は無かった。
それは三門が本来、中国の寺には無く、日本の臨済宗の他の寺(東福寺、
妙心寺、南禅寺、大徳寺など)には三門があるということで、
それに習い、途中で造られたとのこと。









境内の奥へと導く参道に敷かれた菱形の石盤は、龍の鱗を表している。
左右対称、回廊が巡らされた伽藍形式も中国の影響を受けているとか。



灯篭も中国風?床も龍の鱗のようです。これほど中国に拘るのには訳が…
そもそも中国福建省で住職をされていて高名だった隠元禅師を、度重ねて
招請し、3年間の約束で来てもらったのですが、3年過ぎても帰したくない。
中国から再三の帰国要請があったものの、どうしても引き留めたいと考え、
隠元禅師が中国で住職をされていた「黄檗山万福寺」の名もそのままに、
ここにそれを模した寺院を建て、留まってもらうことになったようです。
結果、隠元禅師は日本に骨を埋めることに・・・


さてさて、三門から真っ直ぐ。玄関ともされる「天王殿」があります。


〈天王殿〉



天王殿正面には、中国で弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身だと言われている
布袋さんが弥勒浄土の兜卒天(とそつてん)に椅坐(いざ)された姿で
祀られています。


〈弥勒菩薩(布袋)座像〉
布袋は名を契此(かいし)といい、南北朝末後梁の高僧で定応大師と号しました。
中国では弥勒菩薩の化現として信仰されています。

布袋は参拝する人の口からその煩悩を吸い込み、袋から徳を取りだして
授けるとわれています。
萬福寺の布袋さんは「都七福神の布袋さん」としても知られている。
七福神の中では唯一、実在のモデルが居るってことになりますね。
弥勒菩薩の化身と言われていますが、あの広隆寺の弥勒菩薩像と同じ?
随分、体形が違うように思うのですが。(^_^ゞ


この天王殿には他にも同居人がおられます。
正面でどっかり座って、呑気そうに笑っている布袋さんの背面には
韋駄天さん、そして四方を囲むように四天王が力んでいます。(^_^ゞ

左から持国天、増長天。

         韋駄天

左に広目天、右は多聞天。



〈持国天〉東の守護。
甲冑姿で、剣を持ち邪鬼を踏みつけて憤怒の様。増長天とペアで仁王とされる。



〈増長天〉南の守護。
右手に宝刀、左手に戟(げき)を持っているのかな、中国式かも。
持国天とペアを組めば、仁王様(金剛力士像)となります。



〈韋駄天〉
こちらは四天王と違い穏やかな表情をされています。足が速いので有名♪
捷疾鬼が仏舎利を奪って逃げ去った時、これを追って取り戻したという
武勇伝が・・・「韋駄天走り」の語源ですね。
この像を見る限り、若くてスポーツ万能。イケメン アスリート?(^_^ゞ

また、韋駄天が釈尊のために方々を駆け巡って食物を集めたとの俗信に
由来して「ごちそう(御馳走)」という言葉が出来たそうです。
馳走とは食料調達のため奔走することの意味、「ごちそうさま」というのは
馳走してもらったことに対する感謝の気持ちです。

ちなみにこの像には、金網の扉が用意されています。これはこの韋駄天さん
モテモテなので夜遊びをしないように設けられたものだそうです。



〈広目天〉西の守護。
こちらも凄い形相、尋常じゃない眼、千里眼とも。綱など持って邪鬼を
踏みつけています。ちょっとSMチック?(^_^ゞ



〈多聞天〉北の守護。
四天王のリーダー格。さすがに強そう、武神として戦闘の神とされています。
単独の場合は、ご存知「毘沙門天」と呼ばれ、七福神の一員ですね♪



〈天王殿〉東側だったかな?

〈売茶堂〉(まいさどう)。売茶翁こと、月海元昭が祀られている。
全日本煎茶道連盟の本部がここにおかれています。

〈聯燈堂〉(りゅうとうどう?)歴代幹部僧侶の位牌を安置するお堂なのかな。


わおっ!こわッ、鬼瓦というより般若瓦?


〈鐘楼〉階上に梵鐘があります。鐘楼としてはかなり珍しい建物かも。
同じ建物が天王殿を中央にして反対側に鼓楼が配置されています。
朝4時半の開静と晩の9時の開枕に、鐘楼の鐘と鼓楼の太鼓がともに
時を告げ、また賓客来山のときに鐘鼓交鳴して歓迎を表わすのだそうです。


〈伽藍堂〉ここに安置されている華光菩薩像は、大変珍しいものだそうです。

〈斎堂〉食堂のことで、約300人が一堂に会して食事できるとか。



斎堂前の回廊には、青銅製の雲版と木製の開梛が吊るされています。

〈雲版〉(うんぱん)。朝、昼の食事の合図と朝課の時に打つものです。

〈開梛〉(かいぱん)。時を報せたり、人を集める為に鳴らされるもの。

開梛は木魚の原型とも言われ、萬福寺のシンボル的なものですね。
魚の形をしているのは、魚は常に目を開けていることから、修行時に眠る
ことなく精進せよとの意もあるのだそうです。
なお、口の球体は咥えているのではなく、お腹を叩かれ、あぶくとして
吐き出そうとしている煩悩を表していると言うことらしい。


さて、本堂ともいうべき「大雄宝殿」を目指します。伽藍配置は単純な
左右対称なんですが、見どころが多いので迷いそう・・・(^_^ゞ







〈香炉〉
大陸、中国的な意匠が異質な空間をつくり上げている寺院です。
ま、日本の寺院と言ってもルーツは大陸伝来のものですが・・・




2015.1/25、黄檗山萬福寺にて。

どっぷりたっぷり、まんぷく、万福寺。

2015-01-29 10:52:29 | しゃじ
昨年の春にお茶会で訪れましたが入山はせず、一度ゆっくり訪ねてみたかった。
宇治の社寺、観光地といえば圧倒的に平等院。此処は第2位、3位は三室戸寺です。
もともと『黄檗山 萬福寺』オオバクサン マンプクジは観光寺じゃなく禅修業の場?
あまり観光客で賑わうことは無いようです。ただこのくらいの規模の
寺院となると一度や二度訪ねたくらいでは、なかなか見尽くせない。

今回も中途半端ですが、まずは塔頭(たっちゅう)からスタートです・・・


〈天真院〉
荒行で知られている了翁禅師が晩年を過ごされたお寺だそうです。
入口は竜宮城のようですが、萬福寺は全てが中国風。異国感覚です。


みみづく地蔵?

ゆるキャラできそう・・・(^_^ゞ


〈聖林院〉
別名、難を転じる南天寺。みみづく地蔵尊発祥の寺だそうで、合格祈願の
幟が立っていました。受験生をお持ちの方は『バーチャル祈願』でも。



〈法林院〉
ブログがあります『法林院の午後』



〈瑞光院〉
蓮の実入りの銘菓「荷葉露(かようろ)」は此処でしか手に入らないようです。




〈黄檗文化研究所〉   右の門を入れば〈獅子林院〉に行けるのかな?


万福寺の開基である隠元隆(いんげんりゅうき)禅師、中国明朝時代の
臨済宗を代表する僧でしたが、日本の度重なる招請に応じ、63歳の時に来日。
仏教のみならず大陸から多くの文物を伝えられた人物として知られています。
美術、医術、建築、音楽、史学、文学、印刷、煎茶、普茶料理等、広汎にわたり
宗教界だけにとどまらず、広く江戸時代の文化全般に影響を及ぼしました。
この他、隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹・木魚なども禅師が伝えたものです。

印刷も?・・・これには興味津々。
塔頭のひとつに宝蔵院があり、そこに印刷所があるのを知りました。


〈宝蔵院〉



「本邦近代印刷発祥の地」となっています。この塔頭寺院は鉄眼道光禅師が
開創されたもので、鉄眼禅師は隠元・木庵の両禅師に師仕し、艱難辛苦の末、
一切経版木6万枚を録刻して大蔵経刊行を達成。『黄檗版大蔵経(鉄眼版)』
全6,956巻、現在仏教各宗派で使われているお経は、いずれもこの一切経の
うちに含まれているのだそうです。



お寺の後ろに立っている近代的なビルが「一切経蔵庫」。
サントリーの創業者・鳥居信治郎氏によって建てられたのだそうです。
有料(300円)で見学ができます。私も時間的に余裕ができれば、最後にと
思っていたのですが、結局見れず。また次の機会に必ず行こうかと・・・

版木6万枚が3階にわたり収蔵されているのはもちろんこと、実際に
刷られているところを見ることができるようです。
版木は全て吉野桜でできており、黄檗(きはだ)色の宇和泉貨紙を水刷毛
して湿らせ、一枚一枚版木に墨を載せてバレンで刷っていくようです。
キハダには防虫効果もあるとか。20文字が20列、つまり400文字。
これ、原稿用紙のルーツなんです。
版木の書体は明朝体であり、現在広く使われている書体としての明朝体は
これから発したものなんだそうです。


お隣りに整った庭が見えます。

〈宝善院〉
廣化庭は、陰陽の二元を配し干支の守り本尊を迎え、人心の安寧を願う
翠松が老いて去るが、松樹千年翠の教えのもと名を廣化庭としたとか。





〈龍興院 リョウコウイン〉
入口の窟門は黄檗宗特有で中国っぽい。横には出世地蔵尊が置かれています。
これは昭和35年に寿塔修理の際に出土した千年以上前の石佛だそうです。
その後ろには酒樽のような造りの庵?がありました。





〈萬松閣/京楽膳 萬〉漆喰壁の中身は煉瓦やったんや・・・(^_^ゞ



〈萬松院 バンショウイン〉
奥には天光塔(開山堂)があります。ここの窟門は紅く塗られていますね。

さて、お腹が空いたので『萬松閣』に入ってみましょう。
お昼はこの駐車場に面した土産物屋さんを兼ねたような入口から・・・



贅沢蕎麦「萬松茶そば」(温)をたのみました。



しこしこの茶そばに胡麻豆腐や温泉玉子も入って具だくさん。
ただ、汁はぶっかけ風。

ちょいと気になったのが・・・

アーケード商店街、京阪電車黄檗駅に通じているのでしょうが、廃虚?(^_^ゞ
駅側には何軒か営業されているお店がありますが・・・


さて、ぼちぼち萬福寺に入りますか。お腹も満腹時になったし・・・


〈総門〉
萬福寺はお寺全体が龍を表しているのだとか、この総門は龍の頭?
特徴的な菱形の敷石が並べられた姿は、龍の背のウロコだそうです。


屋根のシャチホコみたいなのは、魔除けの水神・聖獣のマカラ(摩加羅)、
聖域結界の象徴とされるインド神話に登場する怪魚。ガンジス川のワニに
起源するとも言われています。
鬼瓦は火神のカーラ。このような個性的な鬼瓦が境内の各伽藍で見られます♪


〈紫雲院〉
隠元禅寺の跡を継ぎ萬福寺2世となった木庵禅師が創建。


〈萬寿院〉
木庵禅師の塔所。昨年、お茶会によばれたのは此処でした。

萬福寺塔頭、現在でも19あります。塔頭巡りも面白いですが、全てを1日で
巡るのはムリかな、ともかく駆け足で表だけ見て回りました。
ああ、しんど・・・(^_^ゞ

いよいよ三門をくぐって伽藍を見て回ります。



2015.1/25、黄檗山萬福寺。冬枯れの放生池から見る三門。

勧修寺ロマンス

2014-06-23 21:04:23 | しゃじ
亀甲山 勧修寺(かじゅうじ)、創建は900年、藤原定方(さだかた)
開基:醍醐天皇・開山:承俊律師。真言宗山階派(やましなは)の大本山で
十三門跡寺院のひとつ。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院です。

もともとこの地は、宇治大領であった宮道弥益(みやじのいやます)の
邸宅だったものを、ひ孫にあたる醍醐天皇が若くして亡くなった
生母・藤原胤子(いんし/たねこ)追善のため創建したものです。


〈正門〉門跡寺院らしく、菊の御紋が使われています。

タイトルをロマンスとした理由は、醍醐天皇の生母・藤原胤子の両親である
藤原高藤(たかふじ)と宮道列子(みやじのたまこ/れっし/つらこ)が、
ここで運命的な出会いをして恋に落ちたエピソードが『今昔物語集』に
描かれているからです。

先に整理しておくと、宮道弥益の娘・宮道列子-藤原高藤→その子・藤原胤子
胤子と宇多天皇の間にできた子が醍醐天皇ってことになります。


山号が亀甲山だから亀の紋なのかな?

〈書院〉
立札には「笑顔 御縁 絆」の文字が書いてあります。


さて、高藤と列子の身分の差を越えた恋の物語はというと・・・
藤原冬嗣の孫で良門の子である藤原高藤がある日、京から山科へ鷹狩に
出掛けたところ、にわか雨と雷鳴に見舞われます。帰るに帰れず一夜の宿を
借りたのが、宮道弥益の邸宅でした。そこで出逢ったのが弥益の娘、列子。
その愛らしく美しい少女に一目惚れ?一夜を共にするのでした。
ちなみに高藤15、6。列子、13、4歳とか。おませさんですね♪
朝になり高藤は将来を約束し、その証しに太刀を置いて帰ります。

高藤ぼっちゃん、身分もわきまえぬその行為がバレてか、遠出を禁じられて
しまいます。しかし思いは募るばかり、妻もめとらず6年程が過ぎ・・・
再び高藤が宮道弥益邸を訪ねてみると、成長した列子と列子のそばに
5~6歳ほどの可愛らしい女の子が!それは一夜の契りで授かった
高藤と列子の娘でした。枕元には高藤が決してお互い他の者と結婚しない
よう約束した誓いの太刀が置かれてあったということです。
高藤から見れば、列子ははるか下流階級の者の娘ですが、列子との縁を思い
高藤は京に宮道列子と娘の胤子を迎えます。

胤子は宇多天皇の女御となり、のちの醍醐天皇を産み、天皇の祖父になった
高藤は大納言から内大臣に出世。
ちなみに醍醐天皇はこの祖父母の出逢いの地に思いを寄せたのか、
この地(宮道弥益邸)を寺に改め勧修寺を創建。
自らの陵(墓)もこの近くにあります。伏見区になりますが、
醍醐という地名が残されています。醍醐寺なども有名ですね。
山科区と伏見区だけで何と約20もの天皇陵があるのは、あまり知られて
いないかもしれませんが・・・

なお、源氏物語における光源氏と明石の君のエピソードが、この高藤と列子
のロマンスをモデルに描かれたのではないかと言われています。



〈ハイビャクシン(這柏槇)〉
「ヒノキ科の植物で樹齢は750年と言われ、一面1本の樹で
京都市の巨樹名木のひとつです」
漢字表現の方が納得できます。巨樹にもいろいろあるものですね。

〈宸殿(明正殿)〉明正天皇(めいしょう)の御殿を下賜(かし)されたもの。
江戸時代初期の御所の建物です。明正天皇は女性天皇でしたね。


〈さざれ石〉
千代に八千代に・・・苔も巧い具合に♪


一見、朽ち木か流木が放置されているような・・・


〈臥竜(がりゅう)の老梅〉



江戸時代に京都御所から移植された梅の木で、樹齢数百年といわれる親木と、
そこから育った子と孫の木が三代で支え合う姿が感慨深いとかで有名。
白梅ですが咲くのは孫の木だけだと思います。

「京都の観梅スポット」などにもよく紹介されていますが、他所のように
梅宮大社/約550本、北野天満宮/約1500本、青谷梅林/約1万本・・・
何て中に、勧修寺/約4本とあります。(^_^ゞ


這柏槇に被われて見難いのですが・・・


〈勧修寺灯篭〉
水戸光圀の寄進による灯篭と伝えられています。背の低い起り笠の
ユーモラスな灯篭で、水戸灯篭とも呼ばれています。
「灯篭(とうろう)は水戸黄門様のデザインで、京都へ来られたら必ず
見て『通ろう(とうろう)』と言われています」と、書いてありましたw


〈本堂〉
1662(寛文2)年に霊元天皇の仮内侍所を下賜され移築したもの。
もとは近衛家の建物であったと言われています。




久しぶりに訪れましたが、以前より随分整備されていました。




〈観音堂〉
昭和初期の建立、観音様が鎮座されていますが、ちょっと可愛いですね。




ありました!この看板は健在でした。(^_^ゞ もちろん入りますよ♪





〈弁天堂〉



ちょっと不気味ではありますが、以前と比べると拍子抜けするほど
整備されていて、看板はもう名物?だから置かれているって気がします。
以前はホントに危なそうだったけど・・・




鬱蒼としているようですが、この先は街道が走り、明るい住宅街です。

〈??〉

〈山桃の老木〉「主幹は昔、落雷によって二分されたと伝えられ、
樹齢350年と云われる古木です」

庭園は「勧修寺氷池園(ひょうちえん)」と呼ばれる池泉船遊式庭園で、
京都市指定名勝になっています。
写真は氷室池(ひむろいけ)越しに見える書院。





〈千年杉〉京都庭園中最高の巨木だそうです・・・


春はサクラ、秋は紅葉も楽しめますが、何と言っても
初夏、梅雨の季節に訪れるのが楽しみな庭です・・・つづく。



2014.6/7、勧修寺にて。

摩訶不思議?伏見稲荷大社。

2014-05-31 20:12:10 | しゃじ
神社といえば赤い鳥居に白い狐って、連想ワードが出てきそう。これって
おいなりさんのことなんですけどね。しめ縄、狛犬は神社、寺院に共通かな。
だいたいお寺に行っても、必ずといってよいほど小さい祠に稲荷社が祀られて
いたりしますね。真言宗の根本道場である教王護国寺(東寺)の鎮守社も
伏見稲荷だったりします。

日本の宗教界は簡単じゃないですね、そもそも自然崇拝の土着のものから
神道、仏教。それらが渾然と絡み合いますから。
この伏見稲荷も時代の流れに翻弄された様子が窺い知れます。

伏見稲荷神社は渡来系氏族、秦氏一族の伊呂具によって711年に創建されたと
言われていますが、もともと稲荷山はお山信仰(山岳崇拝)の場だったようで
4世紀後半のものらしい宗教行事に使われたものが出土したりしています。
かつては神仏習合の流れで、境内に寺院を構えた時代もあったようですが、
明治維新の神仏分離令の後、廃仏毀釈により寺院や仏像が取り壊されました。
同時に新政府の宗教政策により「稲荷大明神」以外の神名を排除するように
お達しが出ます。

しかし、ここでは既に古来よりお塚信仰による多くの私的な神蹟(お塚)があり
それぞれ思い思いの神名(○○大神とか)が彫られています。神社側はこれを
禁止するも、信者達はおふれをもろともぜず人目をさけつつ造り続けたようで、
昭和37年、遂にお塚の建立を許可する、という方針が伏見稲荷大社によって
定められ、稲荷大神に対する信仰の証の一つとして公式に許可されました。
その結果が今の姿、なんと現在1万基を越えるお塚が存在するようです。
コンピュータでお塚を検索するサービスをする店も登場してとか。(^_^ゞ


さて今回、私は熊鷹社、田中社でお塚群を見ただけですが、それでもここの
特異な信仰形態を垣間見た気がします。
そして帰り道、裏参道?で本殿へ戻る際の光景は・・・




〈毎日稲荷〉毎日新聞の大神さん?



それらしい神さんも乱立しています。





ここはまたちょうど歩き疲れた頃に・・・


か、かみさん?


空を見よ!キツネが飛んでる・・・




ここは「口入稲荷神社」、荒木神社の境内にある縁結びの神社。
良縁、求人、就職など、色々な人と人の縁を結ぶご利益あり。



「口入人形」は夫婦と伴の三体一組の伏見人形。「口入人形」は一組二千円で
授与していただき、神前で祈願のあと持ち帰ります。願い事が成就するまで
自宅にお祀り、成就するとここにお返しするとのこと。
いっぱい並んでました。たくさんの方がご利益を得られたってことかな。(^_-)



私はこちらのキツネみくじが欲しかったけれど、もう社務所、閉まってました。

おいなりさんと関係なさそうな神社?も幾つか集まっています。



竹の鳥居、ちょっと珍しい。この辺りはすーさんも紹介されていましたね。







カエルだらけの「末広大神」、蛙の賽銭箱、狛犬も珍しい?






これまた立派な獅子の狛犬さん? 何神社か不明・・・




ここは超日本的な教団名ですが・・・どうみても中華風。(^_^ゞ


ぼつりぼつり写真を撮りながら歩いてきた、おいなりさんツアー。
3時間半、かかってしまったけれど・・・



最後のたのしみは、門前の商店街。



・・・って、もう閉まってるしw(;´д`;)




あれだけ賑やかだった駐輪場も・・・


白いんやし、どうせならキツネ顔にしてみゃはったら、どない?



店仕舞いしかけてたお店でやっと、きつねせんべいゲット♪




2014.5/11、伏見稲荷大社にて。

   
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ちょいとチリリン。

2012-10-18 23:30:19 | しゃじ
たま~には自転車にも乗らないと…と、思い。でも乗ったのは3ヵ月前。(^_^ゞ
ポータブルナビ(NAV-U37)の自転車モードも体験してみたかったしね。
このナビ、もう生産終了。つーか、ソニー自体がカーナビ撤退。
何か世知辛い気も・・・価格下落やスマートフォンとの競合が理由らしいが
スマートフォンで代わりが出来るのかな?
持っていないから分らないけれど、圏外でもGPSナビはOK?
だいたい毎月通信料も要る訳だし・・・
そう考えるとこのナビ、よく買っておいたものだ。
もう品切れのところが多いようですが、Amazonにはまだあるようです。



自転車モードに切換えると→アイコンも自転車に→目的地を設定してスタート。

胸ポケットに入れて音声案内を聞きながら・・・
「次の角を右に」とか案内するのがクルマの時と違い、角からの距離が短い。
その辺もちゃんと自転車用になっているようだ。
ただ、超地元なので本来案内なんて要らないルート。私の方が道に詳しいので
裏道ばっかり通るため、ナビの方はルート変更に忙しかった・・・(^_^ゞ


さて、着きましたよ。消費カロリー44kcal・・・少なッ!(笑)




「本願寺山科別院」





















「徒歩モード」も見てみたら・・・



境内の伽藍の位置や通路もそれなりに確認できます。
詳細で正確、とは言えませんが・・・
ちなみに横断歩道やエレベータの位置なども表示するみたいです。
ただし、建物内や地下ではGPSが受信出来ないので意味ないかも。

その内、二輪モードも確かめてみます。専用ステーも買ったことだし♪





2012.7/29、山科別院長福寺にて。

道草、寄り道、帰り道。

2012-06-21 23:28:11 | しゃじ
やっと清水寺を出ます。(^_^ゞ
と言っても表参道からではなく裏門?、南門・・・?
知る人ぞ知る出入口です。京男さんから聞いていた門だと思われます。
子安の塔、泰産寺の奥、境内南東の角になります。



清水寺は本堂(舞台)は拝観料が要るのですが、境内は無料。
だからこの裏門も午前6時から午後5時半までは開いているようです。
清水寺の南東に位置する我が家へ徒歩で帰るには便利な出口でした♪
ただしここへ来るには徒歩か自転車かな。
自宅へ戻るには自転車ならほとんど漕がなくても帰れそうな下り坂が続きます。







門を抜けると静かな林道、東山風景林。この道は「歌の中山」と呼ばれています。
桜と楓の林で風光明媚、かつては多くの歌人が歌を詠んだと言うことらしいですが
昔の話のようです・・・










『清閑寺』に寄ってみることに。・・・えらい登りやん!
今は侘びた小さな古寺ですが、全盛期は清水寺に並ぶ大寺院だったとか。
山号は「歌中山」、延暦21年(802)に天台宗の寺として紹継法師によって創建。
今は真言宗智積院の末寺となっていますが、和歌や古典文学に名高い由緒あるお寺です。
拝観料は志納、「観光寺院では無いので参拝以外の方は入山お断り」とも・・・




宝篋印塔(ほうきょういんとう)が二つ並んでいますが、小さい方が
平家物語に登場する小督局(こごおのつぼね)の宝筺院塔です。
視聴率が上がらない大河ドラマ「平清盛」をご覧の方にはちょうどタイムリーかも。
それでは平家物語とどうゆかりがあるのかを分りやすく解説(できるかな?)

高倉天皇の奥さんである徳子(建礼門院)さんに仕えていた女官に小督ちゃん
って美女が居りまして、高倉くん手を出してしまったんですな、それを聞いて
怒ったのが徳子のお父ちゃん平清盛、小督ちゃんを宮中から追放!
それでも忘れられなかったのか高倉くん、小督ちゃんを見つけ出し、ついに
女の子まで産ませてしまいます。当然またまた激高した清盛、遂に小督ちゃんを
尼さんにしてしまい、この清閑寺に入れてしまった。って話です。
高倉くん、死ぬ時には小督ちゃんのいる清閑寺に葬って欲しいと遺言。
小督ちゃんは生涯、高倉くんのお墓を守ったとさ・・・

かんたんな話やん、それで高倉天皇陵がすぐ隣りにあるのですね。







先代の六条天皇も同じ御陵に葬られています。

ちなみに六条天皇(79代)は生後7ヶ月と11日(数え年で2歳)で即位、
在位2年8ヶ月で叔父である高倉天皇に譲位、満年齢11歳8ヶ月で崩御されています。
高倉天皇(80代)はと言えば、父は後白河天皇、母は平滋子(たいらのしげこ)
清盛の妻、時子の妹です。うむ?奥さんの徳子は清盛と時子の子ですよね・・・
7歳で即位、在位は12年間。20歳で崩御されてます。

ちょっとややこしくなってきました・・・

高倉天皇の中宮(妻)である徳子=建礼門院の間に安徳天皇(81代)を
もうけられますが、19歳の時の子ってことになります。徳子は25歳でした。
安徳天皇は壇の浦の戦いで徳子と入水、5歳で没します。
徳子は生き残り京へ送還されて出家、建礼門院となり大原寂光院で
安徳天皇と一門の菩提を弔ったといわれています。

高倉天皇の寵姫小督局はと言うと、清盛と手を組み、政の実権を握った
信西の孫だったということです。


平家物語はこの辺にしておいて・・・






鐘楼の奥に茶室「郭公亭(かっこうてい)」跡というのがありました。
ここでも西郷隆盛と清水寺成就院住職の月照上人が勤皇の謀議を重ねていたようです。
それにしても石碑に「大」って何?「大西 郷月」って誰や思いましたよ(笑)







境内もこぢんまり、伽藍といっても鐘楼とこの本堂くらいしかありません。
がら~んとしてますな。(^_^ゞ 
本堂には菅原道真が梅の木で彫ったという十一面観音菩薩を本尊としています。

あと、本堂より大きな社務所?おそらく住職の住居かな?
そこには焼き物が展示販売されていました。清閑寺焼発祥の地となっています。
清閑寺窯から発展して、清水焼、粟田焼、御室焼、仁和寺焼などの焼き物が
生まれ、これらを総称して「京焼」といいます。京焼の元祖ですね。




要石(かなめいし)ってのがあるらしい・・・



これがその要石。この石の位置から市内を見ると扇を広げた様に見え、
ちょうど扇の要にあたるのでこのように呼ばれています。




ほとんど観光客の来ない穴場スポット、大きな楓の樹があったので
紅葉の季節には超穴場かも知れません。





2012.5/20、清閑寺にて。

辛口ジンジャー?

2011-11-18 23:58:08 | しゃじ
葛井寺の専用駐車場にて、ひと月前だからまだ稲穂が・・・(^_^ゞ




葛井寺、門前のお土産屋さん。じっちゃんがなんとも・・・


駐車場とは逆だが葛井寺の南大門を出て、西に歩いていくと



『辛国(からくに)神社』ってのがあったので、行ってみることに。



荒んではいるけれど立派な鳥居、柱の前後に稚児柱を持つ明神鳥居系。
気比神社や厳島神社の鳥居に代表される両部鳥居。同じく笠木の上に屋根までついている。

鬱蒼と茂った鎮守の杜に囲まれた参道を行くと、何か縁日なのか露店が並んでいました。



定番の金魚すくいやね



ん?



かにすくい~ッ!



季節柄、かにすきの方がエエな!



スマートボールも懐かしいけれど、アラレちゃんも・・・懐かしぃ♪

きょろきょろしながら、本殿へ。



まずは狛犬さん探索。頭は平ら、猫背で鼻も口も大きく左右に拡がってる
目はぎょろ目で、団扇型の大きな尻尾が背に貼り付いている





弘化3年(1846)生まれの浪速型狛犬でした。

この神社の御由緒は千五百年程前、雄略天皇の御代に創設された神社で、
日本書記には「雄略十三年春三月、餌香長野邑を物部目大連に賜う」とありますが、餌香長野邑は、旧藤井寺町のあたりと思われます。この地方を治めることになった物部氏は、その祖神を祀って神社をつくり、その後、辛國氏が祭祀をつとめ辛國神社と称するようになりました。と言うものです。

辛国=唐国、韓国ってからくりは無いようですが、1500年前となればいずれにしろ大陸、半島の影響はあったでしょうし・・・

御祭神は、主神 饒速日命(にぎはやひのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、素盞鳴命(すさのおのみこと)
相殿 品陀別命(ほんだわけのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)となっている。

神社へ行くとややこしい名前が出てくるので、もちっと解説を・・・

饒速日命(にぎはやひのみこと)
瓊々杵尊(ににぎのみこと)の御兄であり、物部氏の祖神でもあります。

天児屋根命(あめのこやねのみこと)
藤原氏の祖神で、天照大御神が天岩屋戸に隠れ、世の中が真っ暗になったという天岩戸隠れ事件の際、岩戸の前で美声をあげて祝詞(のりと)を唱えた神です。
ちなみに岩戸の前で胸もあらわに、裳の紐を陰部までおし下げて踊ったのは天宇受賣命(あまのうずめ)ちゃん。これをきっかけに事件は解決。

素盞鳴命(すさのおのみこと)
いざなみ、いざなぎの間に生まれた末っ子、天照大神の弟神です。
やんちゃだったようで、お姉さん(天照大神)を怒らせて岩戸事件を引き起こすことに。結果、高天原から地上に追放されてしまいます。
名誉挽回、八岐の大蛇を退治してみせます。この時、尾を裂いてみると大刀が出てきた。それを天照御大神に献上したのが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)のちの草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。
そして、生け贄にされるところだった櫛名田比売(くしなだひめ)と恋におち、妻にします。

品陀別命(ほんだわけのみこと)
第十五代・応神天皇第のことです。

市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
素盞鳴命(すさのおのみこと)の娘。厳島神社の祭神でもあります。
いちきしま=いつくしま?


てなとこで、秋の夜長。日本神話でも親しんでみるのはいかがでしょう?




2011.10/16、辛国神社にて。

暑気払い、城南宮神苑。

2010-07-21 10:08:29 | しゃじ
7月4日、茅の輪くぐりに城南宮に行った際、神苑にも入ってみました。
以前から気になっていましたが、庭を見るのは初めてです。



社殿を取り囲むように広がってる神苑は『楽水苑』と言い、白河上皇が
四季の庭を備えた源氏物語に出てくる大邸宅「六条院」の庭園をモデルに、造営を行なったと言われています。
「春の山」「平安の庭」「室町の庭」「桃山の庭」「城南離宮の庭」の、趣の異なる5つの庭から構成されており、それぞれの庭には源氏物語にちなんだおよそ100種の草木が植栽され、四季を通じて楽しむことができます。









特に早春の枝垂れ梅、紅白150本が咲く様は見事だそうです。
7月の始めは花が少ないのか、これといった花は咲いていませんでしたが






しっとりした雰囲気は味わえました。



ここでは春と秋に「曲水の宴」が催されます。
一度行ってみたいけれど、エライ人出のようで・・・



あはっ、これまた大勢の・・・「もののけ姫」に出てくる木霊たちのよう。




これはネジバナ(捩花)、捩摺(もじずり)とも言い古今集にも出てきますが
日本原産の花では無さそう、源氏物語にこだわる庭ですがこの花は
源氏物語には出てこないようです。勝手に生えて繁殖してるのだとか・・・



こちらは逆に今や希少なんだそうで、三稜(ミクリ)。
実がクリの実に似てるので三栗と呼ぶことも。源氏物語の「玉蔓(たまかずら)」の章に登場します。
昔はこれで簾(すだれ)を作っていたそうです。



コノテガシワ(児の手柏)。これも源氏物語に出てくるようですが、
この木は園芸種のセンジュ(千手)のようですね。本来の児手柏は
もっと桧のような木で、あまり見かけることは無いです。




上を見上げればツブラジイ(円椎)。円らな爺様じゃありません、巨木。
こんな木陰が嬉しい季節になりましたね。
ちなみに椎木の仲間にはツブラジイ(コジイ)とスダジイ(イタジイ)が
ありますが、見分けるのは難しいかも。ただスダジイは寿命が長く老巨木となり
地域の天然記念物などに指定されることが多いです。



2010.7/4、城南宮神苑「楽水苑」にて。

夏越しの祓いカー

2010-07-05 23:58:19 | しゃじ
最近は京都のほとんどの神社で行われてるような、大祓(おおはらえ)神事。
1年を半分に分け、新暦の6月30日と12月31日に茅の輪(ちのわ)をくぐって
犯した罪や穢れを除き去るための祓えをする除災行事です。
6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓を年越の祓(としこしのはらえ)と言います。

もちろん各地の神社(特に出雲系?)で行われる神事ですが、京都では最近盛んなようです。

『夏越祓、茅の輪神事』それぞれの神社によって茅の輪のカタチや
くぐり方にも流儀があるのかな・・・普通は人がくぐるものなんですが
名神高速京都南インター近くにある「城南宮」ではジャンボ茅の輪が設けられ
クルマやバイクがくぐってお祓いを受けられます。



無料ってのも嬉しいです。という訳で、昨日くぐってきました♪ 






お祓いもしてもらって、お札もいただけます。



実は2度くぐりったもんで、お札も2枚いただきました。
写真を撮るのとくぐるので家内と交替したもんですから・・・



もちろん普通に交通安全の祈祷も受けられます。祈祷料1台、5000円です。
あっ、僕は受けてません。つーか、今まで受けたことないしお守りを貼ったりもしたことない。



皆さん信心深いようですが、ある意味両極な車種が並んでました。
新車なんでしょうがプリウスが祈祷待ちの中にまだ2、3台居りました。
ちなみに、この時は一番大人しそうで安全運転しそうなドライバーが
青いのんを乗って来られてた。見かけによらんだけかな・・・





2010.7/4、城南宮にて夏越しの祓い、茅の輪くぐり。

ここええねん、好古園。

2010-04-17 23:12:59 | しゃじ
先月、桜が咲き出そうかという頃に行った姫路城。今ごろ・・・ですが(^_^ゞ
姫路城は大層な人出で入らなかったのですが、その変わりに
西隣りにある『好古園』に入ってみました。



姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」は、世界文化遺産国宝姫路城を借景に、
姫路市制百周年を記念して造営され、平成4年に開園した
池泉回遊式の日本庭園です。
昭和60年以来の発掘調査で確認された西御屋敷跡・武家屋敷跡等の
地割をいかした9つの趣の異なった庭園群で構成され、
その面積は約1万坪(3.5ヘクタール)あります。



御屋敷の庭、茶の庭、流れの平庭、竹の庭、築山池泉の庭、
花の庭、松の庭、夏木の庭などがあり
新しく造園されたところですが日本庭園好きには、面白いところです。






手入れも良く、それなりに趣もあり、植物好きには楽しめます。
春は特に花が沢山見られるようです。(3/28日時点)


枝垂れ桜



四手辛夷(シデコブシ)



三椏(ミツマタ)



木瓜(ボケ)



馬酔木(アセビ)



石楠花(シャクナゲ)、彼岸桜(ヒガンザクラ)



日向水木(ヒュウガミズキ)



???、  久垣?(ヒサカキ)



三葉躑躅(ミツバツツジ)



馬酔木(アセビ)、木瓜(ボケ)



花韮(ハナニラ)




あはっ、植物図鑑みたいなってきた・・・



庭を廻ってると小雨が降ってきました。
初めて ロープロ カメラバック スリングショット100AW
オールウェザー機能が役立ちました。


椿(ツバキ)



侘助(ワビスケ)、雪起し(ユキオコシ)=クリスマスローズ。



辛夷(コブシ)



2010.3/28、姫路「好古園」にて。

春の木、はりきって伏見。

2010-03-17 23:06:26 | しゃじ
以前にも行ったことがある 伏見の『御香宮(ごこうのみや)神社』
通称、ごこうぐうさん。
国道24号線沿いでもあり、近くには近鉄京都線 桃山御陵前駅。
京阪本線 伏見桃山駅。大手筋アーケード商店街などがある
賑やかな場所にあります。




↑画像をクリックするとGooglemapにリンクしてます。


今回のお目当ては、椿の花です。伏見界隈は椿の名所が多いと聞いたので
一気に回ってみようかと・・・



まずはここの駐車場をベース基地にして伏見観光♪


1日終日停めておいて900円。穴場かも。

今回は神社は、さらっと。詳しく知りたい方はWikipediaででも。









境内のあちこちで椿の花が見られます。










椿(ツバキ)の学名は Camellia japonica カメリア・ジャポニカ。
山茶花(サザンカ)、茶も椿科(カメリア科)です。
ちなみに山茶花の学名は Camellia sasanqua カメリア・サザンカ、
椿と共に日本原産の植物。古事記、日本書紀にも表れてます。
木へんに春と書く“椿”の字は万葉集で初めて登場します。
この字は日本製で、中国では違う植物の意味になります。ややこしいことに
漢名では椿のことを“山茶花”と表します。見た目も似てるだけに・・・
椿と山茶花の花の違いは、赤と白?これも原種に近いものの話で、
どちらも赤から白にかけて様々な色がありますし、まだらなのも。
良く言われる花の落ちかた、椿は花ごとポトリと落ち、山茶花は花びらが散る。
それも“散り椿”と言われる花びらを散らして落ちる椿もあります。



ここには『おそらく椿』と呼ばれる有名な五色の散り椿があるはずなんですが
見つけることができませんでした・・・w



まだ梅もきれいに咲いていたのですが





花吸い鳥たちは、椿の花の方がお好きなようで・・・









山茶花は秋から冬にかけて咲き、椿は春から夏の花です。

わが門(かど)の片山椿まこと汝(なれ) わが手触れなな土に落ちもかも
  万葉集 詠み人:物部廣足(もののべのひろたり)
〔我が家の門に咲く椿ちゃん、あなたは僕の手が触れることもなくポロッと落ちてしまうのね〕河童解釈






2010.3/14、京都伏見 御香宮神社にて。

街の小さな地蔵尊

2010-03-12 23:55:43 | しゃじ
五条坂を歩いていると小さな山門を発見、入ってみる。
日限地蔵安祥院(ひぎりじぞうあんしょういん)、通称「ひぎりさん」
日限地蔵尊は、全国各地にある庶民信仰の場。地蔵菩薩を祀り、
日時を切って願いをかけると叶うというもの。
いついつまでに願いを叶えてねと言うと、聞いてもらえるってわけです。

日を限った願い事を叶えてくださる「日限地蔵尊像」です。





木食正禅養阿上人が日ノ岡峠道の工事に使ったと伝えられる「車石」

ここのご本尊は阿弥陀如来で、六阿弥陀めぐりの第四番目の札所になってます。
※六阿弥陀めぐり:真如堂(真正極楽寺)・ 永観堂(禅林寺)・清水寺阿弥陀堂・ 日限地蔵(安祥院)・ 倒蓮華寺(安養寺)・誓願寺の阿弥陀如来を巡拝するものです。
メジャーなお寺もありますが、僕はどうもこんな小さなお寺が好きですね。
すぐ近くには巨大寺院、清水寺があるのですが行ったこと無い。(^_^ゞ












箱庭のような苔山が綺麗でした。




2010.2/27、日限地蔵尊にて。