カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

期間限定

2014-05-15 17:50:25 | 京都徘徊記
年に一度の一般公開の期間にしか見られない、この建物。このアングル♪
来た甲斐がありました。



中世ヨーロッパの古城を想わすような双塔を配した赤煉瓦の建物。
明治45年(1912)に出来た蹴上浄水場 第一高区配水池、流入弁室の建物なんです。
これって現役?煉瓦の壁に囲まれた配水池は今でも使われているようです。
明治の遺構として保存しているだけでなく、現役というのも京都らしい?(^_^ゞ




大きな建物じゃないけれど、細部に渡って西洋風。明治に生きた先人たちの
気概を感じます。

琵琶湖疏水事業は日本の近代史においてとても重大な出来事。当時、我が国の
重要な工事はまだ、すべて外国人技師の設計監督に委ねていた時代。疎水事業は
すべて日本人の手によって行った我が国最初の大土木事業だったのです。
当時、京都市が年間予算の十数倍という膨大な費用を投入した大事業・・・
その背景には、明治維新によって東京に首都を移され寂れた京都を盛り返す
ための京都市民の意地があったのでしょうね、地方都市とは呼ばれたくないと。
何せそれまで、今でもですが日本史上、最も長く続いている都ですからね。

この蹴上界隈は電気、水道、電車・・・日本の近代化を真っ先に推進した
京都の先進性をいちばん感じることができるエリアかも知れません。







設計者は、田邊朔郎(たなべさくろう)・日比忠彦とも言われています。
田辺朔郎は当時の京都府知事・北垣国道(きたがきくにみち)に採用された
琵琶湖疏水の主任技師。選ばれた時は工部大学校(現東大)を卒業したばかりの
21歳、青年技師でした。後に京都帝国大学(現京大)教授にもなっています。
ここでの日本初の水力発電の実用化も彼によるものですし、関門トンネルの
提言や北海道官設鉄道の計画・建設、大阪市営地下鉄に関与するなど
隧道のオーソリティ? 日比忠彦は、こちらも東京帝国大学卒で京都帝国大学の
教授に就任。日本最初期の鉄筋コンクリート建築の権威でした。
ちなみにこの建物が竣工した年は田辺朔郎は51歳、日比忠彦39歳の時です。





さすがに100年以上経つ煉瓦造りの塀や建物も汚れ、老朽化が目につきます。
そこで今年度より改良工事に入るそうです。3年間の予定。
煉瓦の壁は残したまま、内部に新しい配水池を造り、この建物は曳家工法で
一時的に別の場所に移動させるようです。ついでに補修もされるでしょうね。
とりあえず、これからも歴史的建造物として保存されるようで良かったです。



この周辺には京都の近代化を偲ばせる疎水関連の遺構が点在しています。
南禅寺の水路閣、ねじりまんぽ(三条通から南禅寺に抜ける隧道)、その上には
インクライン。旧蹴上第二発電所や片山東熊設計の九条山浄水場ポンプ室など。
またいずれゆっくり見て回りたいところです。
中でもこの蹴上浄水場 第一高区配水池の建物は期間限定ですから貴重です。


「期間限定」と言えば・・・この日、ランチにと、先日行ったお気に入りの
上海家庭料理のお店。GW特別メニューでした。







家内はエビチリソースセット、私はこの前と同じ黒酢の酢豚セット。
店内たいへん混雑していて2階の座敷に通されましたが、中国訛りの店員さん
たちも大わらわ・・・客の方が「それはあちらの方が先」なんて順番を指示。
それはイイんですが・・・料理の量が少ない!小鉢もひとつ省かれています。
しかも値段も上がっています。これも期間限定ならイイのですが・・・
昔はよくありました。今もあるかもしれませんが、祇園祭の期間に喫茶店に
入ると、値段は倍!1時間の時間制限、過ぎると追い出されるってことが。

実はこのお店は京男さんもおすすめだったのですが、ちょうどこの期間に
京男さんも行かれたようで・・・この状況をブログに書かれていました。
おことわりして、その比較写真を拝借。

左>以前。右>先日。酢豚の命、豚肉が小さくてカラッカラ。全然ジューシー
じゃないと不満を・・・タマネギばっかりやん!

もし、期間限定・ゴールデンウィーク期間中のみだとしても、このメニューには
呆れてしまう。こういうことを平気でするお店の経営方針って、どうなんだろ。





2014.5/4、蹴上浄水場にて。

水の道は、花の道?

2014-05-10 19:33:00 | 京都徘徊記
毎年GWの時期に行われる蹴上浄水場の一般公開。
今年は3日から6日の4日間。場内敷地を埋め尽くすようなツツジの花、
4,600本のツツジが楽しめます。
子供の頃から何年ここのツツジを見てきたことか・・・(^_^ゞ
でも今まで外から眺めるだけで、入るのは初めて。



いつも一般公開=ツツジ満開。じゃないんですよね、それがちょっと残念。
今年も5~7分咲きってとこだったかな。

自宅からは自転車でも20分かからない距離。会場ではママチャリで来られた
ご近所さんと出逢いました。でも九条山を越えなければならないんですよね・・・
で、私は久しぶりにXLで♪ これなら駐車場の心配も無し(一般駐車場無し)
係の方に自転車置き場に案内されました。



入場も無料です。入口でこんなんもらったり・・・



蹴上浄水場は、約100年前の明治45年に日本最初の急速ろ過方式の浄水場として
給水を開始。現在は市内の約24%の給水を担っているそうです。
自宅の水道もここから来るお水です。元はびわ湖の水なんですよね。
一般公開は年間を通じてこの時期だけ。小学生の時、社会見学で来た憶えが
ありますが、その時以来です。
春には鳥羽水環境保全センターも一般公開、こちらは藤棚でお馴染です。
「鳥羽の藤」「蹴上のつつじ」で親しまれています。
鳥羽の方は今年は4月26~29日、両方見学するとプレゼントがもらえたりします。



4日はお天気も良くて、絶好のお花見日和。



ろうにゃくなんにょ、多くの方で賑わっていました。







蹴上は南禅寺のちょうど南、地下鉄東西線の駅があります。
地下鉄になる以前は京阪電車京津線が路面を走っており、春は車窓から
インクラインの桜並木、ここのツツジを楽しむことができました。
特にこのツツジの山に沿って走っていましたから、季節感をたっぷり味わえました。
地下に潜って、利用者が一番悲しんだのはこの風景が見られなくなった事かな。









散策している間中、ツツジの香りに包まれて、とても幸せ気分ヽ(´∀`*)ノ



ツツジって意外と長生き、樹齢1,000年越えもあるそうです。此処じゃないけど。





まさにカメラ小僧?ケータイだけど。 モデル撮影?でも無さそう・・・(^_^ゞ









敷地は山の斜面なので、結構登り坂もあり、休憩所があちこちに。
広場ではお弁当を広げられている姿も・・・次ぎ来る時には弁当持ちにしよっと!




つつじのトンネル?・・・面白そう♪ ごそごそ入って行きます。



アッと言う間に出口・・・w なんやったんやろって感じ。(^_^ゞ



与謝野晶子の歌碑
「御目ざめの鐘は知恩院聖護院 いでて見たまへ紫の水」
今は浄水場の敷地になっていますが、それ以前は旅館「辻野」があって
明治34年、鉄幹とその宿で二泊三日を過ごしたとか、その時の作だそうです。






フォトショのHDRでちょっと遊んでみました。

2014.5/4、蹴上浄水場にて。

シーズンオフ?の平安神宮。

2014-04-26 23:04:52 | 京都徘徊記
平安神宮の神苑に入るのは初めて。ここは紅枝垂れの桜が有名で、
ライトアップもされます。今年は2014年4月10日(木)~4月13日(日)
4日間のみですが、その間、恒例「紅しだれコンサート」が催されました。

それが済むと、観光客もぐんと減り人出は少なくなっているだろうと・・・



案の定、少ないです。ま、ひっそりとまではしませんが。(^_^ゞ



ただ、神苑の紅枝垂れは見頃を過ぎ、左近の桜はもう完全に散ってしまってw

そんな中、華やかに満開なのが・・・





期間限定の「桜(はな)みくじ」。その結び木でした。
・・・吉もない、凶もない、花の季節だけの運だめし・・・
薄紅の桜色をした紙に、吉凶の代わりに「つぼみ、つぼみふくらむ、咲き初む、
三分咲き、五分咲き、八分咲き、満開」というように運勢が書かれています。
願い事を書いてこの結び木に結び、満開成就を願うそうです。
ここだけは枯れ木に花が咲いたように満開でした。




神苑の特設受付ももう終了? しめしめです。人出は思った通り少なそう♪
常設の入口から入って行きます。







盛りは過ぎているとはいえ、まだ楽しめました。

平安神宮 神苑、総面積は33,000平方m(約10,000坪)の池泉回遊式庭園。
国の名勝に指定されています。
作庭は7代目小川治兵衛(明治から昭和にかけて「植治(ウエジ)」と
呼ばれ東山界隈に円山公園、無隣庵を始め幾多の名園を残す。)
神宮境内の三方をぐるっと囲むように、南神苑・西神苑・中神苑・東神苑が
あります。虫垂炎や中耳炎は無かったな・・・(^_^ゞ



南神苑の南の端っこに展示されている日本最古の電車、チンチン電車です。
もともと平安神宮は明治二十八年(1895年)、平安遷都1100年を記念して
行われた京都博覧会のメインパビリオンとして建設されたもの。
電車は、それに合わせて日本で初めて営業運行を開始したものです。
電源確保のため琵琶湖疏水を造り、これまた日本初の水力発電を開始するなど
京都の近代化、観光都市化を象徴するようなものですね。
それにしては、保管状態はイマイチ・・・





桜散り、ツツジが咲き出す季節の移ろいを感じます。
順路を進むとちらちら社殿が見えるのも楽しいですね。



神苑には白虎池、蒼龍池、栖鳳池と三つの池が配され、それぞれの池を
結ぶように小川も流れています。
作庭の際、びわ湖から水を引いて閉じ込めてしまったおかげで、
今はびわ湖で絶滅危惧種となった淡水魚がここでは見られるそうです。



平安神宮でれんげ草が見られるとは思ってませんでした。ま、京都御苑には
いっぱい咲いていますけどね。(^_-)




桜が終われば藤の花、ここは藤も・・・と思って来たのですが、
咲いていたのはここだけw 少し早かったようです。
紫の花の藤棚は東神苑、栖鳳池(せいほういけ)の泰平閣の近くにあります。



白の藤棚があるのは中神苑、蒼龍池のほとりです。
蒼龍池には臥龍橋と呼ばれる飛び石があり、珊琥島につづいています。
この飛び石、豊臣秀吉による京都大復興の際、造営された三条大橋と
五条大橋の橋脚に使われていたものだそうです。



初夏ともなると、池には睡蓮や河骨(こうほね)が咲き、杜若(かきつばた)
花菖蒲も咲き競い、八つ橋が架けられるので趣のある風景が観られます。









シーズンオフでしたが、それなりに楽しめました♪




2014.4/20、平安神宮 神苑にて。

とんでる?飛行神社。

2014-04-20 21:39:23 | 京都徘徊記
一見、ナニコレ的な神社。京都・八幡市にある『飛行神社』です。

日本で初めて飛行器を考案、ゴム動力による「模型飛行器」を製作、飛行に
成功した人物。二宮忠八氏が自邸内に私財を投じて1915(大正4)年に創建。
これって航空マニアならずとも、非常に興味がわきますよね。



忠八の死(1936(昭和11)年)により廃絶していたものを息子、二宮顕次郎に
よって1955(昭和30)年、復興されました。今は宗教法人となり、
三代目宮司に二宮裕二が就任されているとのこと。
設備も近代的?建物の下が駐車場になっています。





祭神は大阪府交野市の磐船神社より勧請した饒速日命(ニギハヤノミコト)。
饒速日命は神話において天磐船(アメノイワフネ)に乗って地上に降臨した
とされることから、空の神・飛行機の神として結び付けられ、飛行神社の
祭神に選ばれたようです。

向かって右の社殿には、航空殉難者諸神が。左には薬祖神が祀られています。



それにしてもギリシャ神殿風の拝殿は、独創的。
拝殿の前後にはステンドグラスが嵌められています。柄はそれぞれトンボと
トビウオのようでした。どこまでも飛行にこだわっていますね。





鳥居はジュラルミン製、その両脇にはプロペラの狛犬?(^_^ゞ
ひとつは綺麗なプロペラが石灯籠の台座、アルミ合金の支柱に付いています。
もうひとつは、無残な姿のプロペラ。破損したエンジン部分も残っています。
実は大阪湾の漁場で漁師が底引き網に引っかかったものを引き揚げたとか。
零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の機首部だそうです。(昭和58年)
戦争で悲惨な運命を辿った航空機の部品、一方の綺麗な方のプロペラは
平和を願って建てられているようにも見えました。

さてここらで、二宮忠八という人物と、この飛行神社を設立された経緯なども。
1866(慶応2)年、まだ幕末、池田屋事件、第二次長州征伐が勃発した年。
アメリカでは、やっと南北戦争が終結した年です。そんな年に生まれた忠八。
今の愛媛県八幡浜市の商家の四男坊ですが、12歳で父親が亡くなり生計を
助けるため働きつつも、物理学や化学の書物を夜遅くまで読み耽けっていた。
その頃から学資を得るために自ら考案した凧を作って売り、この凧は
「忠八凧」と呼ばれて人気を博したといいます。

1889(明治22)年、陸軍従軍中に「飛行器」を考案。この飛行器という言葉も
忠八が考えたもののようです。もちろん日本で初めて飛行原理を確立したと
いえます。この時は「烏型飛行器」で、1891年に模型での飛行に成功しました。
翼幅は45cm、全長は35cmで翼の後ろに推進式の四枚羽プロペラを配し、動力は
ゴム紐(聴診器のゴム管を流用)。3mの自力滑走の後、離陸して10mを飛行。

・・・そんなん、僕でも飛ばしたことあるわ!模型のゴム飛行機ってあったもん。
喝ッ!当時はそんなもんありまへん。世界でもまだまだ珍しい偉業でした。
ましてやプロペラを推進方法にするなど画期的。

この後も、有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の模型(翼幅2m)を
作成。その実用化への開発を軍に申請するが、受け入れられず実機の完成を
実現することは出来なかった。
見る目のある人が軍に居たなら、世界初の有人飛行は日本人の手で成されたかも。
ちなみに、この時の上官は後に忠八に宛てて詫び状をしたためたとか・・・

また、忠八の死から18年後の1954年、英国王立航空協会は自国の展示場へ
忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示し、彼のことを「ライト兄弟よりも先に
飛行機の原理を発見した人物」と紹介している。



結局、飛行機製作の資金を作ってから独力で研究することにした忠八は退役し
大日本製薬株式会社に入社、支社長にまで昇進するものの資金をまかなえず、
ほかにスポンサーも現れなかったため飛行器の開発は停滞した。
この間、1903(明治36)年12月17日、ついにライト兄弟が有人飛行に成功する。
しかしこのニュースはすぐには日本には伝わらず、なおも忠八は飛行器への
情熱を持ち続けていた。ちなみに忠八の設計した玉虫型飛行器の動力には
ライト兄弟のフライヤー1号と同じく12馬力のエンジンが予定されていた。



ライト兄弟の偉業を知った忠八は、動力源以外完成していた飛行器の開発を
取りやめ、製薬の仕事に打ち込むことになる。
忠八はその後、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために私財を投げ打って
飛行神社を設立、自ら神主になっている。
自らも飛行機開発に携わった者として責任を感じたのでしょう。
ここ八幡市に私邸を構えたのは、故郷愛媛県八幡浜市への思いからとも。

日本で唯一といわれる航空関係の神社(世界でもここだけかも?)、
ここには世界中の全ての航空事故の犠牲者の御霊が合祀されています。
日本国内の航空事故犠牲者についてはひとりひとり表名で、国外の犠牲者に
ついては無表名で合祀されているようです。

宮司さんの話では、拝殿も「ギリシャ風というわけではなく、全世界の
航空事故で亡くなった方を祀っているので、外国の方も参拝しやすいように、
西洋風にしているんです」とのことです。
絵馬も世界各国の言葉で書かれたものがあるようです。もちろんCA志望、
航空業界就職祈願とか旅行の安全祈願や合格祈願もね。



もうひとつの社殿には、薬業の祖神とする武田長兵衛と金毘羅神と
地主神である白龍神を祀っています。



大阪湾で引き揚げられたというゼロ戦の機首部分です。

ここにはまた「二宮忠八資料館」(有料:一般300円)があります。
私はこの日、ゆっくり観る時間が無かったのでパスしましたが、
航空マニア(そうでなくとも?)ぜひともご覧アレの施設のようです。
二宮忠八氏関連のものはもとより、さまざまな飛行機の模型や実際の機器が
置かれ、人工衛星やロケットの模型も多数あるとのこと。
また別室には全国の有志による飛行機プラモの展示室と航空機に関する図書室に
なっており自由に閲覧できるそうです。プラモはどれもこれも飛行機ファンなら
垂涎の品ばかりで、日本一の飛行機模型コレクションではないかとまで。




これまたレアな!道路側に展示されているこの巨大なブツは・・・
F104戦闘機のジェットエンジンです。
ジェット戦闘機と言えば、このF104が強烈な印象があります。僕らの世代は?
『ロッキード F-104 スターファイター』
航空自衛隊では、三菱重工がライセンス生産したF104Jが「栄光」と
呼ばれていました。またの名を「三菱鉛筆」(^_^ゞ







2014,3/16、飛行神社にて。

もうちょっと、うろうろ男山。

2014-04-17 22:42:07 | 京都徘徊記
『絲杉山 神應寺(しすぎさん じんのうじ)』何故かまた行きたくなりました。
以前は石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の展望台近くから徒歩で
険しい山道を谷に降りて、また山を登って・・・今回はクルマでぐるっと
回り込んでみました。五輪塔(航海記念塔)があったところから狭い道を
もう少し先に行けば参道口の山門があります。直ぐに160段余りの急な石段が
待っています。で、そこもパス。その先の駐車場へ向かいました。(^_^ゞ


無料駐車場、貸し切り状態でした。



山門からの参道の石段は回避したものの、こちらからも結構な登り坂。



最後は結局、急な石段が待ち構えています。横になにやらレールが・・・



電動リフト?バリアフリーの装置かと思ったのですが、どうやら荷物用?




率直に言って「城南第一の古刹」と言われているようには見えません。(^_^ゞ
創建は平安時代初期の860年、石清水八幡宮を創建した行教律師によって、
応神天皇の御牌所として創建されたといわれる。当初「応神寺」として、
四宗兼学(天台、真言、法相、律)の道場でした。寺号も天皇の号まんまなので
「神応寺」と改め(逆さにしただけ?)現在は、曹洞宗の寺院となっています。



寺紋は、豊臣家(太閤桐)及び徳川家(三葉葵)両家の家紋使用が認められて
いるのだそうです。これは珍しいですね。
秀吉の死後、秀頼によって安置された秀吉公の木像があり、徳川家代々の
位牌も安置されているのだとか。

「神応寺てらこや」と言うのがどういうものなのかは、判りませんでした。



元禄五年(1692年)に作られたとされる鐘楼で、この釣鐘の中でお願い事を
大声で叫べば望みが叶うのだとか・・・



この釣鐘、江戸時代の豪商、5代目淀屋辰五郎の寄進って事じゃなかったかな?
そんな記述は無いので、きっと思い違いかな。(^_^ゞ
ただこのお寺には淀屋辰五郎のお墓があるようです。
大阪の淀屋橋はこの淀屋が架けた橋だったり。「一刻の商いが80万両に及ぶ」
という米市を初め、幕府や西国33ヵ国に総額15億両という大名貸しを行い、
その力は百万石の大大名も凌ぐ前代未聞の大豪商だったそうです。
ちなみに、淀屋の栄華も5代目辰五郎の時に、ぜいたくが過ぎ?町人の身分を
わきまえぬと、徳川幕府から米商の免許を取り消された上、
家財等を没収されて潰れてしまいましたとさ。



以前、このお寺に来た時は、椿がもっと咲いていて等身大の竹人形があったり
結構楽しめたのですが・・・w
秋は紅葉の名所であり、本尊薬師如来、日光・月光菩薩像、
重要文化財である木造行教律師座像などが特別拝観ができるようです。
書院は伏見城の遺構と伝えられ、襖戸杉戸には狩野山雪の筆による「竹に虎」
「御所車(重要文化財)」が描かれている。これも見られるのは特別公開時。
なお、近代の航空機研究者・二宮忠八のお墓もあるそうです。


ここまで来たら奥の院、杉山谷不動尊にも行ってみないとね。



途中、この下を通ります。男山ケーブルの橋脚で、高さ50mはケーブルの
橋脚としては日本一だとか。



15分に1回、ちょうどここで登りと下りがすれ違います。
スピード遅いので写真に撮るのは簡単ですが、木立が邪魔で・・・
前回のように散策路・こもれびルートからだと上から撮ることもできます。


さらに谷の方へと降りて行くと谷不動への道。
途中の分かれ道を、朱の鳥居の方へ行くと霊泉瀧(ひきめの瀧)、ちょっと
気味が悪いので行きませんでしたが。(^_^ゞ



神応寺もそうですが、ここはなおさら人の姿を見ません。静けさの中に
ただただ幟がはためいているだけ・・・



雰囲気あります、お堂も他では見ないようなカタチだし・・・









由来を読むと、平安時代の初期、悪鬼が出没し、人々を悩ませていた。
たまたま、諸国を行脚中の弘法大師(空海)がこの話を聞き、法力によって
悪鬼を封じた。そして、一刀三礼により不動明王を刻んで安置し、諸人を
護ったという。本堂には、悪魔降伏のために憤怒の形相をした不動明王が座し、
両脇には善悪を掌る矜羯羅(コンガラ)、制咤迦(せいたか)の2童子が
控えている。これらは秘仏で見られないようですが、十一面観世音菩薩像が
安置されているのは見られます。

こんな秘境のような霊場ですが、駅から徒歩10分ほどなんです。
夏場はひんやりして良さそう・・・












2014.3/16、神應寺にて。

男山散策

2014-04-15 13:39:11 | 京都徘徊記
在庫ネタ、石清水八幡宮のつづきです。もう1ヶ月前の話・・・
神社としても歴史・由緒のある八幡宮ですが、他の顔もあるのでご紹介。



?何故か、目立つところにこんな像が・・・ボーイスカウトと所以が?
どうやらスカウト育成会の拠点になっているようです。
この像、どうも広場のシンボルタワー涌峯塔(ゆうほうとう)に向かって
スカウト特有の三本指の敬礼をしているように見えるのですが・・・
この場違いな?シンボルタワー自体、どういう所以があるものなのか?不明です。
ちなみに私の長男がカブスカウトに入っていましたが、ボーイスカウト・ガール
スカウトの三指礼とは違い、二本指のV字で敬礼だったかな。ビーバーになると
同じ二本指でもくっつけての敬礼になります。余談でした・・・(^_^ゞ


突然ですが、あの発明王エジソンの立派な記念碑が・・・



バックの竹林を見てピンときますね。エジソンが発明した発熱電球、
フィラメントに日本の竹を使ったって事を思い出します。

もう少し詳しく説明すると、1879(明治12)年の発明当初は木綿糸を
フィラメントに使ったもので40時間の寿命でした。それに満足できなかった
エジソンは、紙や糸、植物の繊維など数々の材料を試してみます。
その数は植物の種類だけでも6,000種類以上とか、実験ノートは何冊?(^_^ゞ
ある日エジソンは日本からのお土産として研究所にあった扇子を見つけ、
その骨を使って電球を試作してみたところ、コレだ!ってことに。
この扇子の骨こそ竹だったわけで、すぐに究極の竹を探すべく研究員を
世界中に派遣。その内の一人が様々な地域・種類・成長度の竹を集める中、
京都を訪れた際、当時の槇村正直京都府知事から竹の名産地であった八幡の
「八幡竹」を紹介され、他所の竹と共にエジソンのもとへと送りました。
各地の竹を受け取ったエジソンはそれらを使いさらに実験を繰り返し、
そしてついに、最も長持ちのする、最高の竹を発見します。
それこそが京都・男山周辺の真竹だったのです。この竹を使用した電球は
何と平均1,000時間以上も輝き続けたといいます。
(この文章、HPよりコピペ、流用・改ざん?しました。ごめんなさい)


お腹が減ったので、茶店で休憩。特別?なメニューが揃っていました。




う~ん・・・w

そう言えばお総菜の「八幡巻き」、ごぼうを芯に、うなぎ・あなご・牛肉・
はもの皮などを巻いて、煮たりつけ焼きにしたりした料理。
石清水八幡宮の門前町が発祥の地?八幡ごぼうと言われるごぼうの産地
であることから、この名がついたようです。

料理といえば「松花堂弁当」もここと深い関わりがあります。
ここで出家、阿闍梨にまでなられた松花堂昭乗は、書家、画家、茶人としても
著名で当時の超一流文化人です。その昭乗が愛用した道具箱(絵具箱)を
ヒントに「吉兆」の創始者がこの器で茶懐石の弁当をつくったのが始まりとか。
なお、境内には草庵 松花堂跡が残されており、近くには
「松花堂庭園・美術館」という施設があります。寄りたかったのですが
時間が足りずにパス。

男山でうろうろしすぎたかな・・・(^_^ゞ









やはり周りは竹林が多いです。この鳥居と灯籠も不明、謎です・・・





展望台のところには谷崎潤一郎の文学碑がある。私は文学にも疎くて
谷崎潤一郎の作品は読んだ事が無いと思うが、代表作のほとんどが映画化
されていますね。『刺青』『痴人の愛』『卍』『春琴抄』『細雪』『鍵』・・・
関東大震災を機に京都に移住、ここの碑は「蘆刈抄」の一節を谷崎自筆の
原稿から刻んだものです。






展望台には桜の樹がたくさんあるのですが、行った時はまだ蕾が堅かった。
以前、春に来た時もまだ咲く前だったな・・・



今回はケーブルに乗らず、クルマで山を降りて次のスポットへ。
そこへ行く前にこんなものを発見・・・






五輪塔(航海記念塔)
高さ6m、下部の方形の一辺2.4mの石塔で国の重要文化財指定。
刻銘がないため、誰がどのような意図で制作したのか謎のままだそうですが、
宋と貿易をしていた尼崎の商人が、石清水八幡宮に祈り海難を逃れたため、
その御礼のために建立したとの伝承から「航海記念塔」とも呼ばれています。
五輪塔は密教思想に基づき、地・水・火・風・空という「宇宙の五大要素」を
形象化し、下から一段目が地輪(四角)、二段目が水輪(丸)、三段目が
火輪(三角)、四段目が風輪(半月)、五段目が空輪(宝珠)とされ、
「五輪」をあわせて全ての徳を具備するという意味を持つとされています。
(またコピペです。(^_^ゞ)




2014.3/16、石清水八幡宮にて。

万福寺でお茶かい

2014-04-11 22:29:17 | 京都徘徊記
仕事でバタバタ、体調不良でぐだぐだ、昨日から花粉症が酷くてヒイヒイですw
在庫ネタもはけないまま・・・時期遅れのネタばっかり?(^_^ゞ



先週の日曜、黄檗山萬福寺で家内のお友達(煎茶道の先生をされている)が
お茶会を催されるとのことで、ご招待を受けて・・・
恥ずかしながらこの歳まで本格的なお茶会、しかも煎茶道なんて初めて。
遅咲きのお茶会デビューです♪









日本における煎茶道の開祖は、江戸時代初期に禅宗の一つである黄檗宗を
開いた隠元隆。全日本煎茶道連盟の事務局もこの黄檗山萬福寺内に置かれ、
同連盟の会長は萬福寺の管長が兼務することが慣わしとなっているとかで
まさに煎茶道の本拠地?ちょっと緊張しつつ不作法承知での参加です。


やっぱ、私のスニーカーは場違い?(^_^ゞ

気軽なお茶席だから、煎茶道はお作法も難しくないから、楽しんで・・・
ってことでしたから来たものの、席が空く間にまずはお抹茶を一服って
それこそ茶道の作法なんて知りませんから!(汗)
ま、これも略式で結構。椅子席なのでってことでよばれてみました。
さて、本番のお茶席は・・・正座ができないことは伝えていたのですが
私だけ腰かけを用意してもらって、しかも男は私のみ・・・浮いてるやん!
それでも面白く、楽しみましたけど。(^_^ゞ

雨が降ったり止んだりの空模様でしたが、折角なので散り始めた桜の花を
少しだけ楽しむことにしました。



黄檗山萬福寺は宇治市にあって、黄檗宗の大本山。
中国、明の高僧であった隠元隆(いんげん りゅうき)和尚が、日本からの
度重なる招請に応じ、63歳の時に3年間の約束で来日。本国から帰国要請が
あったにもかかわらず、日本に留たいと考えた信奉者が幕府に働きかけ
この地に寺院を建立。結局、隠元和尚はここに骨を埋めることに。



お寺を開くにあたり、隠元和尚は故郷福建省で住職をされていた寺名と同じ
「黄檗山 萬福寺(おうばくさん まんぷくじ)」と名付けました。
建築、仏像などは明時代末期頃の様式でつくられ、日本の多くの寺院とは
異なった空間を形成しています。本国では臨済宗の代表的な僧であった
隠元和尚ですが、日本では黄檗宗を開宗されます。
ちなみに、日本でいう「禅宗」は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類
されています。

この隠元和尚、さまざまな文化を日本にもたらしたとされています。
インゲン豆は有名ですが、孟宗竹(タケノコ)、スイカ、レンコンなども。
中国風精進料理である「普茶料理」も有名ですね。
私は、まだ食したことは無いのですが・・・















境内は広くて見どころ満載なのですが、この日はゆっくりできなかったので
総門から三門までのエリア(拝観料要りません)だけ
また近いうちに境内、伽藍、仏像などゆっくり観に来たいものです。


三門前の放生池(ほうじょうち)

夏になると一面、蓮に被われるそうです。蓮根を日本に伝えた隠元和尚の
お寺だけあって、境内参道にも蓮の鉢が数多く見られました。


         三門



春雨じゃ、傘もささずに写真撮ってました。風邪ひいてしまった。(-。-;)

放生池周辺に小川を配した庭園が設えてあり、6月にはそこに蛍を放す
蛍放生会が催されるはずなんですが、情報がありません。やめられたのかな?






桜の名所ではないので観光客も少なく、まったりと楽しめる穴場です。
ちなみにここのすぐ近くには、醍醐の花見で有名な醍醐寺があります。



売店に入ってみると、年代物の箪笥や伏見人形が展示されてました(非売品)
こういうところでは撮影を断られることが多いので、お店の方に許可をもらうと
「なんぼでもどうぞ。」って♪並べ替えても構わないから気の済むように
撮って下さいと・・・どうやら相当お暇な様子、ひやかしでもイイから
話し相手が欲しいようでした。(^_^ゞ
ちなみにその方の話では平等院はえげつない人混みだったとか・・・
ここはこの通りのんびりですわ。って(笑)








2014.4/6、黄檗山 萬福寺にて。

三づくし?石清水八幡宮。

2014-04-04 15:01:21 | 京都徘徊記
創建は平安時代前期、860年に八幡宮総本社の宇佐神宮(大分県)から
勧請されたもので、八幡市(やわたし)男山(鳩ヶ峰、標高143m)山上に
鎮座する。都の裏鬼門(南西)を守護する神社として、表鬼門(北東)の
延暦寺とともに重要視されてきました。
国家鎮護の神として歴代天皇が参詣するなど、伊勢神宮に次ぐ「天下第二の
宗廟」として信仰を集め、武家からは守護神として崇敬。源氏はもとより、
平氏、足利、織田、豊臣、徳川と天下人たちの手厚い保護を受けてきました。


一ノ鳥居(写真左)表参道の入口です。額には「八幡宮」の文字。
八の字をよく見ると八幡大神の神使である鳩が一対向かい合った絵文字に。

私はここから入ったことが無い。いつも山上の駐車場までクルマで登ります。
だから二ノ鳥居も見ずに、三ノ鳥居(写真右)を見ることに。
一度まともに表参道から参拝しないとね。表参道は結構急勾配のようですが・・・
もう1つのルートとして、ケーブルが京阪電車八幡市駅の近くから男山山上駅
まで通っています。これは経験済み。(^_^ゞ


石灯籠の参道の先に南総門が見えます。


表参道の坂(写真左)
三ノ鳥居をくぐったところに「一ツ石」というのが参道の真ん中に。
走馬・競馬のスタート位置だったことから「勝負石」とも呼ばれています。

駐車場のところには桜が1本だけ咲き始めていました。3/16日時点・・・

「手水舎」 歩いて来られたのでしょうね、山歩きの格好ですやん。


「南総門」 手前には樹齢700年以上のカヤの巨木が。


「本殿」 珍しい八幡造りという社殿建築様式です。

現在の社殿は1634年徳川三代将軍家光の造営によるもの。
檜皮葺(ひわだぶき)の本殿は前後二棟からなり、その軒に接する所に
織田信長寄進の「黄金の樋」が架けられている。
本殿から弊殿、舞殿、楼門と続き、その周囲を約180mに及ぶ廻廊がある。
本殿をはじめ建物全てを丹漆塗で施し、随所に当時の名匠の彫刻が
刻まれており壮麗な社殿である。
左甚五郎の作と伝わる「目貫きの猿」もあるのですが、普段は見られない?
平成の大修造も一段落、本殿はピカピカ鮮やかになっていました。



さて、タイトルにした「三づくし」を、いってみよぉ~!('∇^d)

「伊勢神宮」「賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)または春日大社」とともに
日本三社のひとつです。

「宇佐神宮(大分)」「筥崎宮(福岡)または鶴岡八幡宮(鎌倉)」とともに
日本三大八幡宮のひとつ。

「門戸厄神東光寺(兵庫)」「天野明神(和歌山)」とともに
日本三大厄除の一社でもあります。

御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)・比大神(ひめおおかみ)・
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)、この三神を総称して
「八幡三所大神(八幡大神)」と言います。

9月15日に行われる「石清水祭」は、上賀茂神社・下鴨神社の「葵祭」、
春日大社の「春日祭」とともにとともに日本三大勅祭のひとつに数えられます。
勅祭とは、天皇の使者(勅使)が執り行う祭祀のことです。

そして、この男山は、木津川・宇治川・桂川の三川が合流する地でもあります。

別に石清水八幡宮さんが「三」に拘っている訳じゃないでしょうが、
これだけ「三」が出てくるとやりたくなるよね「三づくし」。(^_^ゞ


本殿は築地塀に囲まれ、ぐるっと裏まで回れます。


「信長塀」 本殿の周囲に巡らせている塀は、織田信長寄進によるもの。


「西総門」と「北総門」。「東総門」は、撮るのを忘れたw
門や塀もそうですが、ここの建造物はほとんどのものが国指定重要文化財。


「水若宮社」(写真上)、「住吉社」と校倉(下)
他にも末社が並んでいました。10以上あったと思います。
校倉には所蔵量全国一を誇る石清水八幡宮の古文書類が収まっているのかな?


お宮参りの何かかな・・・

八幡御神矢(破魔矢)は厄除け?お正月には巨大破魔矢が南総門に飾られる。

末社・竈神殿(そうじんでん)、台所守護神。

かつて石清水八幡宮では源義家が元服し、平清盛が舞を舞い、織田信長・
豊臣秀吉が所領を寄進し、徳川家康・家光が社殿の修復をしたという・・・
そして、この八幡の地は古戦場としても名高い。
南北朝時代の八幡の戦い(後村上天皇・南朝 vs 足利義詮・北朝)
山崎の戦い(明智光秀 vs 羽柴秀吉)の決戦場、天王山は三川合流の地。
川を挟んで男山があります。
幕末、鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍がここの境内に陣をしき、新政府軍を
迎え撃ちました。男山中腹で両軍が激突、戦いは熾烈を極めたといいます。
この戦渦により頓宮など多くの寺や摂社を焼失しています。

トップ写真をおみくじにしましたが、ここのおみくじはちょっと珍しい
「平」というのがあります。(他の神社でも出るところがあるようですが)
吉でも凶でも無いってこと?「未分(いまだわかれず)」というのも
あるようだし。勝手に平和、平穏の「平」ってことにしましょ♪(^_^ゞ
源平の時代から室町、戦国、そして幕末と、戦乱を見てきたからこそ
何事もない「平」な時が一番幸せだと言えるのかも知れませんしね。

ちなみにここの高札「謡曲弓八幡と石清水八幡宮」には
謡曲「弓八幡」は、男山八幡宮の神徳をたたえ、威武の聖代を祝う曲である。
八幡大菩薩は源氏の氏神、弓矢の守護神であるから弓と矢と幡の三つの兵具に
訳して弓矢幡と名づけたとある。
この祝言は弓矢を以て戦勝を祝うのではなく、弓を袋に入れて武をおさめる
のである。作者世阿弥は平和論者である・・・
と言うようなことが書かれていました。




2014.3/16、石清水八幡宮にて。

京都御苑、九條池のほとり。

2014-03-21 21:24:28 | 京都徘徊記
今では国民公園として終日開放されている京都御苑ですが、江戸時代までは
御所の周囲に200もの公家屋敷が建ち並ぶ公家町を形成していました。
その名残が今でもいくつか残されていますが、そのひとつ九條邸跡です。



現存する建物は「拾翠亭(しゅうすいてい)」のみで、その前には
勾玉(まがたま)をかたちどった勾玉池(九條池)があります。


ゆるキャラ着ぐるみではありません。花粉症完全防備の河童家内♪(^_^ゞ


「九條池」


九條池にかかる「高倉橋」 (上)拾翠亭、(下)厳島神社が見えます。
この高倉橋の橋脚は、旧三条・五条大橋のものを再利用したものだそうです。




「拾翠亭」、高級料亭にでも入る気分ですね。いつでも入れる訳ではないです。
一般参観日は毎週金・土曜日 (12月28日~2月末日は参観休止)、
葵祭・時代祭・京都御所一般公開日。参観時間は9:30~15:30。
参観料100円は良心的?最後まで粘ってたので追い出されましたが。(^_^ゞ




五摂家のひとつであった九條家の別邸として、主に茶会や歌会などに
使われていたようです。






江戸後期に建てられたものだそうですが、なかなか趣があります。
「拾翠」の名はその昔、貴族たちが春の野辺に出て草花を摘んで(拾って)
楽しんだ慣わしに因んで。「翠」はこの池によく飛来する翡翠(カワセミ)
からつけられたとか。今でも時々カワセミの姿を見ることがあるようです。




二階への階段は、やはり狭くて急。昔は手すりなんて無かっただろうし、
それに着物ですよね。現代人より運動神経があったのかな・・・



二階は二間半四方のゆったりとした座敷、北・東・南の三方には縁高欄が
めぐらされており、見晴らしがよいです。

この写真では分りませんが、障子の貼り方にも趣向が凝らされており、
継ぎ目を故意にずらした「石垣貼り」というものでした。
飾り桟には、トップ写真のように丁子文様の透かし彫りが施されています。
一見、家紋かと思いましたが、九條家は藤原鎌足を遠祖とする藤原北家の流れ
家紋は九條藤といわれるものです。鬼瓦にその家紋が見られます。
この透かし彫り、パンフレットには「丁子七宝」とだけ書かれていますが、
丁子(ちょうじ)と言えば香辛料のクローブのこと。当時、高貴薬で香料で
あることから、茶道では七宝のひとつになっており、貴族の間では好まれた
文様のようです。藤原氏流や諸氏の家紋にも使われています。





一階広間の東側には九條池に向かって開放されている広い縁があります。



北側に四阿(あずまや)が見えるので、行ってみましょう。





苔むした庭を抜けて行くと





四阿の前は藤棚になっています。藤が咲く時期には風情があるでしょうね。





さて、九條池の畔にはもうひとつ、厳島神社があります。
厳島神社といえば、広島安芸の宮島にある厳島神社が有名ですが、
京都御苑の九條邸跡の中にもあったのですね。





平清盛が、崇敬する安芸の厳島大神を摂津国築島(現在の兵庫県神戸市)に
一社を設け勧請。後に、清盛の母といわれる祇園女御(ぎおんのにょご)を
合祀したもので、それが後世この地に移転され九條家の鎮守社となりました。
九條家が東下された後もこの地にあり、お池の弁天さんと呼ばれています。



平清盛建立とされている唐破風鳥居は重要美術品で、京都三珍鳥居のひとつ。
あとのふたつは、北野天満宮の境内末社である伴氏社(ともうじしゃ)の鳥居、
蚕ノ社(かいこのやしろ)、木嶋神社(このしまじんじゃ)の三柱鳥居です。

御所も飽きないですね、いろいろ見どころがあって・・・(^_-)v




2014.3/8、拾翠亭にて。

桜の住み家

2014-03-19 23:30:11 | 京都徘徊記
御所の東側、寺町通の駐車場にクルマを停めると向い側に・・・
あれ?こんなとこにあったんや!新島襄・八重が住んでいた邸宅です。
よく通る道なのに、今まで気がついてませんでしたw(^_^ゞ





しかも一般公開してます。こりゃ入ってみないとね♪



原則、ネットで見学予約申込をするようですが、空きがあれば当日でも
見学できるとのこと。早速、受付に行って訊ねてみたらOKでした♪
そうそう、この特別公開は3月いっぱいで終わります。4月から9月まで
メンテナンスのため休館となります。(期間中も火曜日は休館)
その後は、従来の一般公開(3月~7月、9月~11月の水、土、日と春と秋の
京都御所一般公開日に合わせて一般公開)に戻ると思います。





新島旧邸は同志社新島会館の敷地内にあります。こちらで受付を済ませて
ルートに従って見学することになります。見学は無料ですが、
1口300円の東日本大震災復興協力金(募金)をお願いされます。

資料パネルなど一部撮影禁止ですが、邸内は撮影可なので・・・


「外観」南側。全景が撮れなかったw



竣工は1878(明治11)年。江戸幕府終焉から10年ほど。三方にバルコニーを
備えた、当時としてはかなりモダンな洋風の建物だったでしょうね。
家具や調度品とともに京都市指定文化財になっています。

同志社教員で医師・宣教師でもあった W.テーラーの助言をもとに、
新島自身が設計したといわれていますが、施工したのは京都の大工職人。
スタイルは洋風ですが和風在来工法である真壁造、寄せ棟の木造2階建です。





「キッチン」
当時の台所は土間が普通だったろうに、フローリングにシステムキッチン!
井戸も部屋の中にあります。この台所は画期的だったでしょうね。



応接間に置かれた八重愛用のオルガン。


「ダイニング」から「応接間」を見る。間仕切りは襖、和洋折衷ですね。

         「書斎」
新島襄が使った机も当時のまま、壁一面の書棚の中には洋書が並んでます。
よく見るとダミーの写真プリントでした。実物は資料センターに保管。


「暖炉」
セントラルヒーティングになっていて、1階の他の部屋や2階にも
温風を送るようになっています。



「応接間」
18畳ほどの洋間で、椅子、テーブルも当時のまま置かれています。

「茶室 寂中庵」

         「2階への階段」
襄の没後、八重は1階洋間を和室に改造し「寂中庵」と称した茶室を造ります。
新島襄は46歳で亡くなりますが、八重は86歳の生涯をこの家で全うします。


「2階へは立入り禁止」でした。
2階は居間と寝室になっています。八重のベッドも置かれているはず。ただ
板張りの洋間を畳敷きに変え、ベッドも脚を取ったものを使ったようです。
階段は狭くて急勾配、町家そのもの。収納が付いた箱階段になっています。
こういうところも洋館建てのようで洋館ではない、和洋折衷の建築ですね。


「トイレ」と「バスルーム」
厠(かわや)じゃなく、トイレと呼ぶべきでしょうね。板張りの洋式トイレは
日本初と言われています。バスタブはさすがに風呂桶?(^_^ゞ



庭から見た「書斎」
この部屋には同志社の学生も自由に出入りすることができ、図書室のように
使用していたといわれています。



「附属屋」
二階建ての洋館、本宅の隣りには和風平屋の附属屋が建てられています。
新島襄が呼び寄せた両親が住んでいたということです。
二世帯住宅のはしりかな・・・


東日本大震災の復興支援を念頭に置いた大河ドラマ『八重の桜』を観て、
初めて知った東北・福島に根づく不屈のプライド、近代日本をきり拓いた
人物達。今になって良いドラマだったなと感じています。

新島襄は言うに及ばず、その襄がハンサムウーマンと称した八重さん
その兄、山本覚馬は同志社創設の大きな協力者であり、「同志社」と命名
したのも彼だとされています。

建物も貴重ですが、これらの人物の半生を知ることも大切ですね。
ちなみに、二人の暮らしは明治23(1890)年、新島襄の永眠により終わりを
告げますが、28歳にして京都に根を下ろした八重のその後は、篤志看護婦として
日清・日露の両戦争の負傷者の看護にあたるなど、ボランティア活動と
チャリティ活動に生涯をささげ、この家で86歳の生涯を終えました。
左京区鹿ケ谷若王子山町の同志社墓地には新島襄・八重の墓が。
その側には山本覚馬の墓もあります。




2014.3/8、新島旧邸にて。

あれこれ・・・

2014-03-12 17:31:48 | 京都徘徊記
いつだったけな、そうそう七福家に中華ランチを食べに行った日(3/2)です。
駐車場に戻るまでに平安神宮の前を通るので、ふらっと寄ってみました。

観光地として、今も修学旅行のルートなのかな『平安神宮HP』
ここを訪れる人のほとんどは、立派だね、綺麗だねと。お賽銭を投げて、手を
パンパンと・・・せいぜい、おみくじ、絵馬程度じゃ無いでしょうか。
HPにも>"観光"の「観」とは見物ではなくて「物事の本質をつかむ」ことです。
「光」はまさに神様や仏様のご神威です。つまり神社やお寺に参詣して
神の光り輝くご神徳をいただくことが"観光"なのです。>と書かれているように
宗教心はともかく、京都を、日本人のことを考え、学習するにはよい神社かも。

平安神宮は平安遷都1100年を記念して、明治28年に創建された新しい神社。
だからこそ分かりやすいってこともあります。『バーチャル参拝』




京の都は「四神相応」と讃えられています。平安宮を模して建てられた
平安神宮にも四神(しじん)信仰の形が見られます。



一般に四神相応の地とされるのは、東に清き流れがあるのを「蒼(青)龍」、
南が広く開けた湿地帯であるのを「朱雀」、西に大きな道が続くのを「白虎」、
北に高くそびえる山があるのを「玄武」とされていて、それぞれこの京都では
「蒼龍」が賀茂川、「朱雀」は干拓されて今は無き巨掠(おぐら)池、
「白虎」は山陽道(もしくは山陰道)、「玄武」は舟岡山とされています。




平安神宮でも平安京往時さながらに、大極殿の東には「蒼龍楼」
西には「白虎楼」が建てられ、四神信仰にそっています。




古来の中国天文学では、天球を天の赤道帯に沿って東方・北方・西方・南方の
四大区画に分け、それぞれに四神を対応付けた。
これらを東方蒼龍(そうりゅう)・北方玄武(げんぶ)・
西方白虎(びゃっこ)・南方朱雀(すざく)と呼びます。



方位だけに留まらず、季節や年功にもあてがわれていますね。
春=蒼龍(緑・青)、夏=朱雀(赤・朱)、秋=白虎(白)、冬=玄武(黒)
若年期を「青春」、壮年期を「朱夏(しゅか)」、熟年期を
「白秋(はくしゅう)」、老年期を「玄冬(げんとう)」と表現したりも。
会津藩では年齢別に50歳以上の玄武隊、36歳から49歳までの青龍隊、
18歳から35歳までの朱雀隊、17歳以下の白虎隊と軍構成していました。

会津藩が出てきたついでに、平安神宮創建にもかかわったであろう元合津藩士
山本覚馬(新島八重の実兄)が思い浮かびます。大河ドラマ「八重の桜」を
観られていた方ならよくご存知でしょうが。
維新後、荒廃しきった京都に留まり盲目、下半身不随ながら京都の復興に
尽力された、この人なくては今の京都は語れないほどです。
当時の京都は人口35万人が20万人に激減。それには天皇の東京行幸(未だに
帰ってこられない)が大きく関わっています。優秀な人材、会社などが
東京へ流出。急速に寂れました。残った者で勧業による復興をはかった。
そのリーダーが山本覚馬であり槙村正直(当時府知事)だったりします。
日本初の博覧会を今の京都御苑で開催したり、内国勧業博覧会(第4回)を
出来たばっかりの平安神宮、岡崎界隈で開催。英文の京都観光ガイドブック
なども作り(八重も手伝う)、国内外から100万人の入場者を呼びました。
それに合わせて、日本初の市街電車も開業。当時のチンチン電車は平安神宮
神苑に展示保管されています。

ボツネタだと言いながら、ちょっと語り過ぎかな。ここらにしときまひょ。


ガラリと話が変わって、ウチの花壇ですが・・・



折角植えたプリムラジュリアン、寒波や積雪でひどいことに。(・_・、)

でもね、よ~く見ると・・・



復興の兆しが♪ 新しい花芽が湧いてきています。ヽ(´∀`*)ノ

昨日は3.11、未曾有の大地震、津波によって多くの犠牲者が・・・
復興は遅く、風化は速いという声も聞かれましたが、希望を持って下さい。
京都も荒廃と復興を何度も繰り返した歴史があり、東京も大震災や大空襲の
焼け野原から復興し今の姿に。広島も長崎も・・・もちろんまだ記憶に新しい
阪神淡路大震災も復興を成し遂げてきました。ガンバレ東北!です。



動く日本列島、他人事じゃ無いですけどねw


もうひとつ、今日は寒波も去って、うららかな春の日和。
でも一昨日の京都は・・・



朝から雪が舞う・・・3月10日どっせ!



夕方には、うっすらと・・・どないなってるんやろ。(-。-;)



オマケ、旧1号線、今は府道に突如現れたスーパーカー軍団。なんで?



ところでスーパーカーと言えば、これスゴ過ぎ『アゲーラOne:1』
車名の「One:1」は、最高出力1メガワット(1000kw=1340PS)であることや、
パワーウェイトレシオが1kg/psであることに由来する。だって!
最高速440km/h(推測)やて、絶対気ぃ失うヮ・・・(゜ε゜;)

西の御所?妙心寺。

2014-03-06 00:16:12 | 京都徘徊記
臨済宗妙心寺派大本山『正法山 妙心寺(しょうぼうざん みょうしんじ)』
境内は10万坪(13万坪とも)の広大な敷地です。三門、仏殿、法堂(はっとう)
などの中心伽藍の周囲には、多数の塔頭(たっちゅう)が建ち並んでいます。
塔頭の多さでは日本一。まるでお寺の団地? 妙心寺の塔頭は48ヵ院に及び、
うち山内塔頭38ヵ院、境外塔頭10ヵ院の中には石庭で有名な龍安寺も。

日本にある臨済宗寺院約6,000ヵ寺のうち、半数以上約6割近くが妙心寺派
だそうです。その大本山だから、デカいのは納得。
西の御所と呼ばれているそうです(私は初めて聞きましたが)
また、京童の囃子言葉では「大徳寺の茶面、建仁寺の学問面、東福寺の伽藍面、
妙心寺の算盤面(そろばんづら)」と言われています。
利休に代表されるお茶の大徳寺、京都五山の筆頭として学界をリードすべく
奮闘した時代もあった建仁寺、伽藍造りに東奔西走した東福寺、
妙心寺はというと寺院経営に執心して巨大教団を形成したことから
何時も算盤をはじいていた・・・ということかな?(^_^ゞ


「北総門」この日は北門から入りました。クルマで入って行けます。
親切な警備員さんが、ちゃんと案内してくれますよ。駐車場は入って左へ。

「南総門」こちらが正門。こちらにも3ヵ所駐車場があり、Pの心配はご無用。
駐車場は無料だし、境内に入るのも無料。結構太っ腹♪ ま、御所と同じで
普通に通り抜けの生活路にもなっています。それだけ広いってことで。


絵図で見ても広大さが分ります、お寺の集合体。詳しくは『妙心寺山内図』



じっくり見て回ると半日はかかるでしょうね。『半日コース』

この日は、ふらっと立ち寄っただけなので、通り抜け感覚で・・・


「鐘楼」の1つ。
日本最古の紀年銘鐘である国宝の梵鐘、黄鐘調(おうじきちょう)の鐘。
数年前まで撞かれていましたが、今は法堂の内部に保存されています。
昭和48年までは毎年「行く年来る年」の冒頭を飾っていたそうです。


案内が無いと迷子になりそう・・・



「仏殿(ぶつでん)」と「法堂(はっとう)」どちらも重要文化財。

仏殿は非公開、その前には竹垣に囲まれた四本の松「四派(しは)の松」が
植えられています。
法堂、拝観可:500円。鏡天井には、8年の年月を費やして描かれた狩野探幽の
筆による雲龍図(重文)が観られます。どこから見ても睨んでいるように
見えるので「八方睨みの龍」と呼ばれています。

天井に龍の図が描かれるのは、龍が仏法護持の神将の一つとして重んじられて
きたことによります。龍が雲を呼び雨を降らすといわれることから、
法堂に法の雨(法雨)を降らせるために描かれたり、同じ理由で火災より
守ってくれるために描かれるのだという説もあります。
他にも京都で著名な龍の天井画として、
南禅寺(法堂天井)今尾景年筆、東福寺(本堂天井)堂本印象筆、
天龍寺(法堂天井)加山又造筆、相国寺(法堂天井)狩野光信筆、
大徳寺(法堂天井)狩野探幽筆などがあります。
京のドラゴンクエストを楽しんでみるのも面白いかも・・・



「三門」(重文)内部未公開。
境内で唯一、朱塗りの建物です。東福寺三門、大徳寺三門に次いで古いもの。

「仏殿と法堂とつなぐ廊下」

「浴室」(重文)「明智風呂」と呼ばれるように、明智光秀を供養するために
建てられたものです。ちなみに、妙心寺には織田信長の墓もあります。
塔頭には石田三成の菩提所だったり、豊臣家ゆかりのものも・・・
とってもディープな戦国史探訪もできそうです。



三門越しの仏殿、法堂。



塔頭「退蔵院」(国の名勝および史跡)拝観可:500円
絵図を見ての通り、ここだけでも立派なお寺です。
枯山水の名園「元信の庭」は、画家であった狩野元信による作庭。
国宝、瓢鮎図(ひょうねんず)も観られるようですが、ここにあるのは
レプリカ、本物は京都国立博物館に寄託されているはずです。

瓢鮎図は将軍足利義持が山水画の始祖と言われる如拙に描かせたもので、
ナマズを瓢箪(ひょうたん)で捕まえるという禅問答が描かれています。
後に宮本武蔵がこの絵を前に自問自答したとか。武蔵の刀のツバには
ひょうたんとナマズの意匠が施されたものが残っています。
余談ですが、瓢鮎図、瓢=ひょうたんは、分りますが「鮎」って疑問が・・・
実は「鮎(あゆ)」って漢字は、本来中国では「ナマズ」って漢字。
中国でアユは「香魚」と書きます。「鯰(なまず)」は、和製漢字です。



三門、仏殿、法堂は南北一直線に並んでいます。
その先に見えるのは大方丈(おおほうじょう)、庫裡(くり)などありましたが、
何やら工事中でして写真は撮ってません。いずれも重文です。


「東海庵」(原則非公開)史跡名勝の枯山水の庭や絵画など重文多数。

「天球院」京狩野派の祖、狩野山楽・山雪の2人が描いた重文障壁画が多数
収められています。原則非公開ですが、特別公開もあるようです。

塔頭は山内だけでも38寺もありますが、そのほとんどが非公開です。
通年公開しているのは、退蔵院、大心院、桂春院くらいで、他に幾つかは
特別公開、限定公開もあるようです。
境外塔頭である龍安寺(りょうあんじ)は、もちろん通年公開しています。




気軽に行けるので、散策にはもってこい♪ 歴史好き、美術好きだと
ディープな探索もできます。重要文化財の宝庫みたいなエリアですから。


迷路好きも楽しめるかも。(^_^ゞ


「大心院」拝観可:300円。枯山水の名園「阿吽庭」で有名。宿坊もあり。


2014.2/11、妙心寺にて。

初参り、山科毘沙門堂。

2014-01-04 20:22:53 | 京都徘徊記
毘沙門堂は天台宗五箇室門跡のひとつで、創建は大宝三年(703)文武天皇の
勅願で僧行基によって開かれた高い寺格と鄙びた山寺の風情を伝える古刹です。
当初は出雲路(上京区・御所の北方)にあったことから護法山出雲寺といった。
たび重なる戦乱から苦難の道をたどり寛文五年(1665)、山科安朱の地に再建。



去年、昭和初期以来の本格的な修復を終え、再建当初の鮮やかな極彩色の
彫刻や朱色の外観を取り戻しました。





春は枝垂れ桜など観桜が楽しめ、秋は紅葉の名所として地元では有名な場所で、
観光地化されていない隠れスポットだったのですが、
2011年JRの「そうだ京都、行こう。」で取り上げられてから、
一気に訪れる人が増え、去年から元旦参りは避けて
今年は昨日、3日に行ってきました。







お蔭で随分ゆったりと初詣でが出来ました。
ふるまいの甘酒も鐘楼の鐘つきも行列なしで・・・(^_^ゞ





家庭を持ってから恒例にしてきましたから、かれこれ40年近く。
その間の色んな初詣での思い出が、ここに来ると思い出されます。
雪の日もあった、子供たちが境内を駆け回っていたことも、
孫を連れて来たことも・・・あったなぁ。



小百合さんもお元気そうで。このワンコ、まだ子犬の時から知ってます。
お寺で飼われるようになって、毎年様子を見に犬小屋まで♪
2匹いたはずなのに、今年は1匹しか見ませんでしたが・・・?





そうそうここへも必ず。「護法山双林院」聖天さん、毘沙門堂の塔頭寺院です。







毘沙門堂から此処への山道も随分整備されて、歩きやすくなりました。
昔はこの坂を子供たちと一気登り、競争をしたことも。
息子が孫と同じことをやってるのを見ていたり・・・




最近は、そんな思い出にひたる初詣でになってしまったかな。(^_^ゞ




2014.1/3、山科毘沙門堂にて。

立誠小学校にみる京都。

2013-11-11 23:50:08 | 京都徘徊記
立誠小学校は土佐藩邸跡に建てられたもので、学区内には池田屋跡、海援隊屯所跡、
阪本竜馬が暗殺された近江屋跡など数多くの史跡があり、幕末維新の舞台でした。





ここの校舎が出来たのは昭和初期、当時の京都市 営繕課では興味深い学舎建築を
多数手掛けています。それも画一的なものでは無く、それぞれ個性あふれる当時流行の
洋風デザインを取り入れたものが多く、今となってはレトロ感を味わえるものです。

これには京都の特異性が関係してます。京都では明治維新直後、政府の学制に先駆けて
学区制度を実施。それまであった町組は「上京(下京)第○○番組」という通し番号の
ついた地域的なまとまりを持つ組織に再編され「番組」と呼ばれるようになりました。
64あった番組のひとつひとつに小学校を設置、府からの援助金の他に、町衆が寄付をして
競い合って立派な学舎を建てたようです。

その内、幾つかは今でも覧られます。京都のレトロな小学校巡りはいかがでしょう。
旧開智小学校 正門=1901(明治34)年 現[京都市学校歴史博物館]
旧立誠小学校 1928(昭和3)年 [元・立誠小学校HP]
旧龍池小学校 1929(昭和4)年 現[京都国際マンガミュージアム]
旧明倫小学校 1931(昭和6)年 現[京都芸術センター]
これらはカタチを変えて保存運営されているので、気軽に入れます。(一部有料)
その他にも現役の学舎では、京都市立淳風小学校 1931(昭和6)年、京都市立銅駝美術
工芸高校 旧・銅駝小学校 1938(昭和13)年など探せばまだありそうですが・・・
※年号は現存する建物の年代です。開校はいずれも1869(明治2)年。
京都市立清水小学校 1933(昭和8)年 は、2年前に閉校、来年春までは現状保存が
決まっているようですが、その後はどうなるのかな・・・



幕末の動乱(禁門の変、鳥羽伏見の戦いなど)により、京の街は灰燼に帰し、挙げ句
明治政府は天皇を東京行幸と称し、京都から連れ出し拉致監禁?東京を首都と決めます。
これに関して一部の京都人は未だに「天皇さんは東京に長期滞在されておいやすだけ、
遷都の詔(みことのり)も出されておへんので、平安京はまだ続いておすのどす」って!
事実、京都御所ではいつお帰りになってもよいように準備が整えられているようですし
明治元年に『江戸ヲ称シテ東京(とうけい)ト爲(な)スノ詔書』が発布され、江戸改め
東京が京都(平安京)と相並ぶ帝都に昇格はしたものの、『東京遷都の詔』は未だに
発布されてはいません。・・・話しが外れました。(^_^ゞ
閑話休題
維新後の京都市民、町衆はこの頃、失望のどん底状態。そこで考えたのが、近代化に
よって日本の都たる地位を守ろうと。だからこの頃、日本初という事業がやたら多い。
教育関係だけでも、日本初の近代小学校は1869年開学の上京第二十七番組小学校
(現・京都市立柳池中学校)および下京第十四番組小学校(後の修徳小学校)。
近代中学校・高等学校も、京都府中学校(現・洛北高校)。日本初の私立大学は、
新島襄による「同志社大学」。大河ドラマ「八重の桜」をご覧の方は詳しくご存知でしょう。
ちなみに、日本で初めて制服としてセーラー服を採用したのも京都の
平安高等女学校(現・平安女学院)なんですね♪





話しを立誠小学校に戻します。この校名は当時の京都府知事槇村正直氏によって、
論語の「立誠而居敬」から命名されたようです。
槇村正直と言えば元長州藩、府会議長を努める山本覚馬(元会津藩)と対立する場面が
「八重の桜」でも描かれていましたが、どちらの人物も京都の近代化には欠かせなかった
リーダーだったと思います。特に山本覚馬は、槇村の下で、小中学校・女学校・病院・
医学校などの設立に力を尽くすなど教育にも熱心で、同志社大学の創立者新島襄の
協力者としても有名(新島襄の妻は覚馬の妹、八重)。
日本で最初の博覧会、「内国勧業博覧会」を京都で開催。その際、英文観光案内書を
刊行。それは外国人向けの英文で綴られた京都の観光ガイドブックだったわけで、
国際観光都市京都の礎を築いたともされます。
視力を無くし、脊椎損傷のため身体の自由までも失いながらの業績。京都の近代化に
大いに貢献した山本覚馬。この人物の力なくして今の京都は無かったかも。



またまた話しが脱線しました。立誠小学校の前を流れる川は高瀬川、春には桜並木が
美しく、恒例の「高瀬川桜まつり」も行われます。今年はウチの次男坊のバンドが
ここでライブをしたそうです。
この高瀬川は江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と
伏見を結ぶために物流用に開削された運河で、300年間にわたり水運に使われました。
その後は森鴎外、吉川英治をはじめ、小説の題材にもしばしば登場する名所として
観光客や市民を癒しています。



ただ、この周辺は京都の歓楽街でもあり、かなり風紀が悪い時期もありました。僕らの若い時も夜には近寄り難いエリアでしたが、今は随分改善されているようです。
元立誠小学校も祇園木屋町特別警察隊の拠点として活用されています。



立誠小学校敷地は土佐藩邸跡ということもあって、路地を隔てて北には
今でもこんな神社が残されています。



「岬神社」海の無い京都には似つかわしくない名前なので不思議だったのですが
坂本龍馬の銅像や写真が置かれている小さなお宮ですが、龍馬の誕生日で命日でもある
11月15日には、多くの龍馬ファンがお参りに来られるようです。
 ちなみに龍馬の生没月日、正確には天保6年11月15日(1836年1月3日)生まれ、
慶応3年11月15日(1867年12月10日)没なんですよね、ややこしい。







2013.10/27、立誠小学校北側にて。

85年前のまなびや。

2013-11-09 23:20:45 | 京都徘徊記
昭和初期(S3:1928年)に小学校校舎として建てられ、今は閉校(H4:1993年)
になった校舎を自治会行事やイベントの拠点として活用されている元・立誠小学校
河原町の東、鴨川の西、木屋町通りの四条を少し上ったところ、花街として
名高い先斗町(ぽんとちょう)もあり、繁華街の中心と言えるところに
存在しています。

この日(10/27)通りがかると、何やらイベントが・・・





トラベルフェスタ『旅days』と言うものらしいが、屋台も出ていたり
若者で賑わっていました。
民族楽器の音楽ライブもあって、踊りまくっている方も・・・(^_^ゞ

ちょっくら中に入ってみます。




中まで入るのは初めてだったのですが、そこには取り残されたような
懐かしさを感じるところでした。










よく使う表現ですが、タイムカプセルのような空間。



時が止まったような佇まいは、幼い頃へタイムスリップしたような・・・











懐かしい焼却炉、掃除道具は今も使われているのかな。




ここは「日本映画原点の地」といわれています。
その理由は、1895年にフランスのリュミエール兄弟により発明された映画の元祖
シネマトグラフが、発明された2年後の1897年にパリから日本へ輸入されます。
この最初の映画であるとされるシネマトグラフが日本で初めて投影されたのが、
ここ元・立誠小学校。当時の京都には京都電燈(現・関西電力)があり、
この場所で日本初の「映画」の試写実験が成功したことから、
日本映画原点の地とされています。

その後も京都・太秦(うずまさ)には、大映、東映、松竹など多くの撮影所が
できて、日本の映画文化を発展させていき、今日に至っています。
京都・太秦は日本のハリウッドとも言われますね。
ちなみに太秦で生まれた私は、ハリウッド生まれってことに?(^_^ゞ

今年になり『立誠・シネマ・プロジェクト』が立ち上がり、校舎3階に
特設スクリーンを設け、シアターをオープン。
イベント性の強い映画や弁士を迎えた無声映画なども上映されているようです。




そう言えば、階段の踊り場って生徒たちの社交の場だったような・・・









まだそんな温もりが残っているような、元・立誠小学校でした。





2013.10/27、元・立誠小学校にて。