カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

和食のカッパ

2015-11-11 17:13:54 | 旅アルバム
洋食でも中華でもありません、ここは「和食」。

京都市のように山に囲まれた地域でせせこましく暮らしていると
海を見るのが嬉しいです。
特に水平線、太平洋となると対岸は遥か向こう・・・
京都だと琵琶湖かせいぜい瀬戸内海。風情はありますが、
大自然のインパクトは違い過ぎます。(^_^ゞ

ところで、ホテルで知った土佐くろしお鉄道のごめん-はなり線、
20の駅につけられたやなせたかしのキャラクター、その中に・・・



「和食駅・カッパ君」、ちょっと気になって。
ホテルの最寄り駅「西分駅」からは一駅、予定外の寄り道を
してみることにしました。



ホテルを出て少し走ると、あるある、カッパ君。
「かっぱ市」なるものも・・・



芸西村地場産品直売所、河童の干物とかは売ってませんが・・・



琴ヶ浜をまわって「和食駅」を探してみます。
そうそう、和食・・・「わしょく」じゃなく「わじき」ね。(^_^ゞ



琴ヶ浜には「お龍・君枝 姉妹像」が立っていました。
坂本龍馬の妻お龍と、海援隊士 菅野覚兵衞の妻君枝の姉妹の像です。
菅野覚兵衞は芸西村和食の庄屋の出で、君枝はお龍の実妹。
龍馬とお龍が仲をとりもち結婚、しばらくこの地に住んでいたことも。
龍馬を失った後、お龍も妹の嫁ぎ先である家に
身を寄せていたこともあったそうです。

像の前は黒潮の太平洋、背後には緑濃い松並木が続く名勝琴ヶ浜から、
お龍さん、はるか桂浜龍頭岬に立つ龍馬像に向かって手を振っている。
お龍27歳、君枝16歳の頃を想定しての作という。




琴ヶ浜で地元の方に和食駅への行き方を尋ねて辿り着きました。
訊かないと分からないような道筋で・・・

地元の方と会話するとよく言われるのが「京都から来られたのか?」
ナンバーを見て話しかけられたりもします。
娘が京都の大学行ってたとか、観光地の話になりますが、
京都に生まれ育った私より多くの観光地をまわれていることが
ほとんど。(^_^ゞ ありがたいことです。
特に四国の方は京都がお好きなようだと感じることが多いです。






海が近くなのは羨ましいですが、津波が気になる土地柄なんでしょうね。






やはり1時間に1本か2本、時間があれば乗ってみたかったな。



まったりした駅、河童が棲むには最適かもです。
和食のキャラクターがカッパなのは『こんな理由』だそうで。



2015.9/23、和食 琴ヶ浜にて。

土佐でまったり2泊目、だとさ。

2015-11-07 23:04:52 | 旅アルバム
まだ引っ張ってます、9月の四国旅行。(^_^ゞ
2泊目は高知の『土佐ロイヤルホテル』でした。
前泊のアパホテルに比べるとゆったり、部屋も広くてのびのび♪



シルバーウィーク、残り1部屋をじゃらんで予約。
この日しか空いてなかったので、旅のスケジュールはここを中心に
なってしまいました。

ごくフツーの中堅観光ホテルってとこかな、温泉露天風呂もあるので
快適でしたが、繁華街からは外れているので、夕食つきのプランで。









いかにも出てきそうなよくあるメニューですが、一応旅先ならでは?
非日常なメニューなんで記録しておきます。(^_^ゞ

売店などもうろうろ・・・


爆買いグループでも来るのかな?



故やなせたかしさんは高知の育ちでしたね。(2013年、94歳で永眠)
アンパンマンは50歳になってからの作品。
その登場キャラクター数(1768体)はギネス世界記録に認定されました。



このキャッチフレーズいいな!
「わざわざ行こう!志国高知へ リョーマの休日」ってか!(^_-)v


高知・安芸と言えば、我が阪神タイガースのキャンプ地。



9月の始めはまだ首位だったのに・・・旅行中の3日間、成績は
前日から数えて4連敗!一気に3位へと急降下・・・(T_T)



今は秋季キャンプが新監督の元で行なわれていることでしょう。
来シーズンは面白いゲームを期待したいです。


てなことで、アサーーーーーッ!
そう言えば、谷岡ヤスジさんは愛媛県出身だったな(1999年、56歳没)



朝食は最上階で太平洋を眺めながら。






カメラはSX50HSしか持ってなかったので、料理の写真などは×ですが
望遠は利きます。2000mm相当で漁師さんの姿まで♪



土佐くろしお鉄道の「ごめん・はなり線」が見えます。





海岸線、松林。高架から見る景色は気持ち良さそう・・・
何とか乗れないかなと、ホテルで時刻表など訊ねてみましたが
1時間に1、2本?ちょっとスケジュール的に無理みたい。



できればこの車両に乗りたかったところですが。
ちょうど通るのを見られました♪



部屋も海側で、オーシャンビュー。太平洋の景色が楽しめました。




そうそう、ごめん・はなり線。終点は「後免駅」なんですよね。
おもしろ駅名としても知られていて、20の駅にやなせたかし作の
キャラクター
が付いています。
その中で気になったキャラクターを発見・・・寄り道してみようかな?



2015.9/23、土佐ロイヤルホテルにて。

海洋堂の全てがわかる?ホビー館

2015-11-04 00:29:25 | 旅アルバム
かっぱ館はちょっとレアだったけれど、こちらは誰もが知ってる?
フィギュア造形の世界。海洋堂のミュージアム『海洋堂ホビー館四万十』



「かっぱ館」からはクルマで数分の距離に「ホビー館」があります。



かっぱ館で隣りに停まっていたクルマ、ホビー館でも・・・(^_^ゞ
ちょいとお得な共通券もありますもん。






いきなりデカい恐竜さんが迎えてくれます。



館内写真撮影可、そう言ってもらえるのはありがたいですが、
館内暗し・・・ピンボケ写真も多々、見難いでしょうがお許しを。



最新作ギャラリーやショップもあります。カプセルQコーナーもね♪






ずらりと並んだ作品群、見応え充分です。




大きいものから小さいものまで、館内はフィギュアでぎっしり。






懐かしいものもこういうカタチで残すと楽しいかもね。




リボルテックタケヤの仏像シリーズ。揃えてみたくなります。




鉄人28号に装甲騎兵ボトムズ、ピンポイントに世代が分かってしまう。



入館者の調査アンケート?大人男女、子供男女でシールの色が違います。
京都のところに赤と青のシールを貼っておきました♪




ガメラにエイリアン、大魔神も・・・やっぱり世代が出てしまう。(^_^ゞ




船のカタチをした2階には、食玩コーナーがありました。




ん~、ちょっと世代が違う・・・トライガンにダンボー?




海洋堂のモデラー(造形師)、それぞれのコーナーもあります。
海洋堂の造形作品の全てには原型制作者の名前が入っているのだとか。
模型、フィギュアとかジオラマとか、作れない者にとっては“神”に
思える・・・だってこんなもん、本物より本物らしい。









これらは松村しのぶ氏の作品かな、ニューヨーク自然史博物館の依頼で
恐竜モデルを製作したり、「チョコエッグ日本の動物シリーズ」の造型、
監修まで全て手がけ、食玩ブームを起こした方ですね。




木下隆志さんのウルトラマンも凄いです。中に人間が入っているのを
感じさせてくれる・・・(^_^ゞ

このガメラは原型師・酒井ゆうじ作。



この辺りはどうも私の守備範囲では無いのですが、ついつい写真は
たくさん撮ってしまいます。「ボーメ」コレクション、BOMEさんの作品。







これもまた世代が違うのですが・・・



ポケモンにもやしもん。


こんなのを見ると、ほっとする世代です。






マジンガーZにゲッター1、装甲騎兵ボトムズでいいのかな?





企画展示室の方へ行ってみると



『土佐弁キャラクター』が勢揃い。
お化け屋敷もあったので当然入ってみましたが・・・




コチラの部屋には懐かしい漫画誌や雑誌がずらり。
頁を捲ると少年に戻る?♪




この日は一日、よう遊んだ。



石手寺から四万十川、かっぱ館にホビー館・・・



暗くなるまで遊び呆けた少年時代のように。




相撃ち記念写真を♪



結婚40周年記念旅行なのに、私の趣味ばっかりに付き合わせて・・・
いつものことながらスマンことです。(^_^ゞ


これは入館記念品、入館するとおまけでもらえます。



チョコエッグの時代が懐かしい♪



組み立てるのも楽しいのよね。(^_-)v



相変わらず、リアルです。


さて、2日目のスケジュールはこれで終了。ホテルに向かいます。


2015.9/22、海洋堂 ホビー館 四万十にて。

河童まみれの「海洋堂かっぱ館」

2015-10-31 16:07:29 | 旅アルバム
超私的な趣味の・・・(^_^ゞ
高知に行けば外せない場所でした『海洋堂かっぱ館』

今年のGWに、いつものホンダの営業さんが行かれて、お土産まで頂いた。
機会があればぜひ行ってみようと思っていたのが意外と早く実現しました。

愛媛を出て南下、四万十川沿いのR381を下り、打井川からr55に入り
山道を少し走ると、ありましたよ♪カッパのパラダイス。



臨時駐車場からカッパ館までは少し歩かなければ行けませんが・・・
それほど人出も無いだろうと思っていたのですが、意外や
人気があるようで大盛況。賑わっていました。



沿道もカッパだらけ、こんなお店もあります。



周りはのどかな田園があったりしますが・・・



川沿いに、見えてきました♪ 河童の村?









入って行くと、もうそこは河童だらけで、カッパまみれ・・・



興味の無い方(ほどんどだと思いますが)には、退屈でしょうが
しばし、館内の展示を。これでもほんの極一部・・・



























なかなか見応えあるでしょ♪ もううんざりかな・・・(^_^ゞ













笑えるものもありました。いっぱいあったのですが・・・



カッパヌードル? カッパフェ。(^_^ゞ


館内はカッパだらけ、疲れるほど河童にまみれて
ちょっとひと息、外に出てみると・・・









ひと息つくどころか、どこを見てもカッパ、かっぱ、河童。




食べてみたかったな。










それにしても、よくここまで・・・
そもそも2011年、海洋堂ホビー館四万十が高知県四万十町にオープン。
その翌年、海洋堂かっぱ館が。2014年にはかっぱ館2号館オープン・・・
まだまだ増殖しそうな勢いですな。(^_^ゞ

その張本人は・・・このおっさん?



宮脇修館長
海洋堂の創業者ですね、今は社長を息子の宮脇修一氏に譲り
生まれ故郷である高知でこんなもん造って。

1964年、大阪府守口市に一坪半の模型店「海洋堂」を開業すると、
ガレージキットブームなどを日本に引き起こし、模型メーカーとなる。
1999年、海洋堂の企画・製作による「日本の動物コレクション」を
おまけとして入れたフルタ製菓の「チョコエッグ」が爆発的にヒット。
その後、背信行為を繰り返すフルタ製菓とは決別。
大手玩具企業・タカラトミーからチョコエッグの続きとしてチョコQを
継続発売し、その他数多くの企業から食玩を出しヒットさせている。
食玩ブームの火付け役でもあり、同時にフィギュアなどを作る原型師の
存在が、広く知れ渡ることになったのはこの方の功績ですね。

2005年には宮脇修一が代表取締役に就任。現在の本社は大阪府門真市、
この年に初のフィギュアミュージアム、海洋堂フィギュアミュージアム
黒壁が滋賀県長浜市にオープンしています。


トイレの蛇口の取っ手までこの調子・・・(^_^ゞ





お土産はこんなコをゲット。
うまのすけっぴ(わるさモード)の貯金箱と首振り河童くん。



私のカッパコレクションも増殖しています。(^_-)v



2015.9/22、海洋堂かっぱ館にて。




ALWAYS 三丁目のクルマたち

2014-11-29 00:30:45 | 旅アルバム
世界大戦の傷跡から驚異の復興、豊かになりつつある暮らしとともに
マイカー時代の幕開けが始まった昭和30年代。まずは軽四輪車が台頭。
この「軽自動車」という規格は昭和24(1979)年、戦後の経済成長の一助と
なる事を目指して作られたもので、同じく敗戦国のドイツやイタリアをはじめ
欧州各国でも同等の規格が作られたものの、過渡期を過ぎると廃れました。
日本だけは今に引き継がれ、全自動車に対する軽自動車の保有シェアは
38%という繁栄ぶり♪


奥〈スバル360 K111・1964年〉、手前〈マツダR360クーペ・1962年〉

産業用の軽三輪が普及しだしたと言うものの、まだ四輪自動車は高嶺の花。
それをぐっと庶民の手が届くところに引き寄せたのが「スバル360」。
当時、40万円を切る低価格で登場。(1958年初期型登場)
低価格とは言え、今の価値で言えば400万~500万円相当でしょうか。
憧れのマイカーを夢見て、父ちゃん母ちゃんたちは猛烈に働いたのでしょうな。

スバル360の大成功をきっかけに、それまで軽三輪を主力に造っていた
マツダ・ダイハツ・三菱などのメーカーも軽四輪を開発、販売。

〈三菱ミニカ360・1966年〉

〈マツダキャロル360DX・1968年〉なんと水冷4サイクル4気筒。しかも4ドア。



ところでこの「R360クーペ」、軽量・コンパクト・低価格を実現するため、
スバルの4人乗りに対し大人2人+子供2人のキャビンになりましたが破格の
30万円を実現したクルマです。発売を開始した1960年はスバルを軽く凌駕し、
生産台数23,417台。軽乗用車のシェア64.8%に達する大ヒットを記録。
当時の軽自動車の3分の2はこのR360クーペだったのですね。
エンジンはスバルの空冷2サイクル2気筒に対し、空冷4サイクル2気筒。
2万円アップでオートマ車も選べました。もちろん国産の量産車としては初。
手動スロットル+ブレーキを装備した日本初の軽の身障者用車両も出ました。

私的には気になるデザイン。とてもキュートでチャーミングだと思いませんか。
スバル360は模範としたワーゲン・タイプ1のビートル(かぶと虫)に対し
「てんとう虫」と呼ばれこれも可愛く魅力的です。R360クーペはフランス車
シトロエン似かも・・・ともあれ、このデザインは日本のインダストリアル
デザインの草分け「小杉二郎」さんの作品です。嘱託デザイナーとして戦後の
マツダ車のオート三輪やK360、キャロルなどを手掛けてこられました。
後にコスモスポーツなどをデザインされた社内デザイナー第一号の小林平治さんも
このR360クーペの一部を担当されています。


さて、スバル360がもたらした軽四輪マイカーブームの前夜はというと・・・
ダイハツ ミゼットに代表される軽三輪が大活躍していました。

ネーミングは手塚治虫のジャングル大帝レオからとられた
〈三菱 三輪ペットレオ・1959年〉

〈ダイハツ ミゼットDSA・1961年〉 〈ダイハツ ミゼットMP4・1963年〉
軽三輪トラックの代名詞ともなったダイハツのミゼット、1957年に発表され
低価格と積極的なテレビCMなどで爆発的に売れたクルマです。
それまでは群雄割拠、様々な中小メーカーが造っていたものを駆逐してしまった。
東洋工業(現マツダ)、三菱のみが追従しました。


〈マツダ K360・1962年〉愛称は「けさぶろう」

ミゼットは当初、オート三輪の流れでハンドルはV字型のバーハンドル。
1人乗りでドアも無く屋根は布張りだったのに対し、マツダは2人乗り
円形ハンドル、屋根もドアも付き、エンジンはミッドシップで運転席も
広々?で対抗。1959年にデビューし1969年に製造を終える10年間で何と
28万台も世に送り出しました。デザインも前述の小杉二郎さんが担当され
キュートで完成度の高いものでした。が、僕らは軽三輪トラックを見たら
何でもミゼットと呼んでいたような・・・(^_^ゞ

よく売れた軽三輪でしたが、意外とそのブームは短命で、すぐに
軽四輪トラックへと移行してしまいます。少し遅れて四輪業界へ進出した
ホンダが最初に造ったクルマも軽四輪トラックでした。
〈ホンダ T360・1966年〉

クルマの下にわざわざ鏡が置かれています。「名作エンジン」迷作?
水冷4サイクル4気筒DOHC4連キャブのエンジンをミッドに搭載し、
マフラーは4イン1。同年の軽自動車スバル360が18馬力だった時代に
30馬力の出力を誇り「レーシング・トラック」と呼ばれました。
※展示車は神経質な4連キャブを廃止した後のツインキャブ仕様。

オート三輪をもう1台、この博物館の看板展示車だそうです。
〈マツダ バタンコ三輪タクシー・昭和25(1950)年式復元〉

時代背景は原爆投下で焦土と化した広島、自動車も壊滅。マッカーサーによる
四輪自動車生産禁止令で三輪しか造れなかった国産メーカー。そんな中、
広島タクシーの社長が地元メーカー、マツダに20台の三輪タクシーを発注。
向こう75年間草木も生えないと言われた広島に、少しでも緑をと車体を
グリーンに塗って・・・。料金は当時市内一律50円だったそうです。
昭和30年頃まで約5年間利用された幻のクルマを、マツダLB三輪トラックを
ベースにたった1枚の写真から再現されたものだとか。
「バタンコ」とは、こちら関西で言う「バタバタ」のことかな・・・
音が五月蝿く、昔は自動車のことを「バタバタ」と呼んだりしてました。
よく転倒もしたので「バタンコ」なのかな?(^_^ゞ


さて、屋内展示はここまで。もちろん紹介したのは一部ですが・・・
福山自動車時計博物館の見どころはある意味屋外展示かも知れません。



屋内には並べられない大型の車両がずらりと博物館から道路を隔てた駐車場。
レトロなトラックたちが無造作に・・・でも屑鉄ではありません。(^_^ゞ



まだレストア中のようですが、どうしてこんなに消防車を集めたのかな?
・・・分るような気がします。
子供の頃、読んだ「はたらくくるま」とか「しょうぼうしゃ」とか・・・
特に消防車は人を助けるヒーローのような存在に思えました。



ここにも「てんとう虫」が・・・


ライトバンタイプのは何虫になるのかな?(^_^ゞ





〈ロールスロイス・詳細不明〉
ほんと無造作なんですが、ナンバーが付いているから走れるのでしょうね。
ここのクルマたちは数多くの映画やドラマに出演しているとか。
「ALWAYS 三丁目の夕日」「ゼロの焦点」「NHKドラマ・とんび」などなど






「チチヤス」広島では有名なのかな?ヨーグルトを日本で初めて発売した
会社らしい。そう言えばホテルの朝食にも付いていたな。



ここの特色がもうひとつ。それはボンネットバス。



懐かしい、郷愁すら感じますな。

HPには「昭和20年代には、自動車と言えばバスかトラックか消防車の時代
であった。そのバスは鼻の出っぱったボンネット式バスである。
ガソリンや軽油も貴重品であり、今では考えられないが、バスの通った後に
残った排ガスをかいで気分よく思った自動車好きの人が多くいた。
反対に、バスに酔う人が今以上にいた。腕木式の方向指示器がピョンと飛び
出て、ハンドルは大きく、運転手さんはダブルクラッチを踏んでいた。」
って文章があります。「排ガスをかいで」・・・私も心当たりが。(^_^ゞ

これらのバスは、朽ちて土に帰る寸前に救い出されたもの。
こちらで『レストア前の姿』も見られます。
こういうことを海洋サルベージ(沈没、座礁した船舶の引き揚げ)に喩えて
『サルベージ』と言うそうです。

それにしても凄いレストア技術。まだまだレストア待ちのクルマたちも・・・


マツダのB1500、T600、R360クーペ

えっ?


よく見るとこの「けさぶろう」と同型のT600、バキュームカー仕様!



今の日本があるのは、こういうクルマたちのお蔭なのかも知れません。





この力強さが今一度必要かも。

最後の一枚は、いやに侘びしい感じになりましたが・・・(-。-;)



2014.9/7、福山自動車時計博物館にて。

昭和の缶詰め。

2014-11-25 00:59:45 | 旅アルバム
ブログでお付合い願ってるのは、ほとんど昭和生れでしょうね。
ただ昭和といってもこれが長い!64年。元年と64年は元号使用期間が共に
7日間であるため実質、62年と14日となります。
歴代元号の中でも最長ですが、世界の元号を含めても最も長いです。

私は36年間、昭和の時代を生きたことになりますが、その間の機械化など
生活ぶりは劇的に変化したのじゃないでしょうか・・・

この異彩を放つ博物館では、そんな昭和の暮らしが垣間見れました。


洗濯板にブリキの行李(こうり)、おくどさん(=へっついさん・かまど)も
懐かしい。40代だともう知らないでしょうか・・・


洗濯機にはハンドルを回す絞り器が付いていました。
タライで洗濯板の生活から電気が家事をやってくれる暮らしに。冷蔵庫も
氷を入れるものから電化されて・・・
トイレは汲み取り、どういう訳か金隠しの前に小窓がついていたような。(^_^ゞ
風呂は五右衛門風呂、お手伝いで風呂焚きは私の仕事でした。


こんな洒落た便器じゃなかったな。
トイレットペーパーは落とし紙って言ってた、しわの入った灰色の紙でした。


これまた懐かしい、手洗いの吊り手水。色んなカタチがありましたが
方式は同じ。知らないと使い方は分らんでしょうな。

昭和の暮らし形見、どれをとっても見覚えがあり懐かしい。


卓袱台(ちゃぶだい)に、食器棚じゃなく茶箪笥(ちゃだんす)。
踏み台もありました。

クルマが展示されている後ろの壁にも昭和の形見が、いっぱい。





何気にこんなものまで展示されています。
昭和13(1938)年「臨時通貨法」により、金・銀・銅以外の新しい素材の
金属によって補助貨幣が発行できるようになりましたが、その頃のものかな。
ちなみにこの展示とは関係ないですが、昭和20(1945)年には陶器の貨幣の
発行が計画され、見本銭が作成されたとか。10銭-京都(清水焼)、
5銭-瀬戸、1銭-有田の3種。使われることは無かったようですが。


テレビやオーディオ、この頃はまだ贅沢品だったと・・・

クルマの展示もまだ続きます。


スーパーカーのハシリ?70年代のマセラティ・カムシン。
その奥に馬車・・・もう何でも有りのカオス状態。(^_^ゞ


インデアンやんか~♪これだけでも何十枚も写真撮りたい気分ですが
1台、1台そんなことしてたら、1日がかりでも・・・ムリ!


ま、適当に楽しみましょか・・・

〈メルセデスベンツ170S-D・1945年〉

〈ジープスター・1949年〉ウイリス社製のものですが、リア2輪駆動。
幌も着けられ全天候型のお洒落な民間用乗用車になっています。



〈ダットサン ダブルピックアップ 6000-U・1954年〉
ボディカラーがお洒落やないの、860ccの小型ピックアップトラックです。
ちなみに私、もう生まれてます・・・

こんな昭和な空間に、ヤングなきゃぴきゃぴグループが
「きゃぁ~かわゆい♪」「これほしぃ~♪きゃっきゃ」・・・www


こちらも負けずに・・・♪♪♪

〈日野自動車 ルノー4CV・1961年〉
当時販売価格62万5千円、大卒初任給が1万5、6千円の時代です。


〈ダイハツ オート三輪 トラックSSR型・1954年〉
働くかぁちゃん、こっちの方が似合ってるような・・・





〈シルバーピジョンC-35・1953年/C-57・1954年〉
スクーターには、ハトとウサギがありました。ラビットは富士重工製、
このシルバーピジョンは新三菱重工製。云わずと知れた戦時中は零戦などを
造った会社。平和になって鳩(ピジョン)と命名したのかな?
ただ、今はまた戦闘機やイージス艦、戦車などを造ってるけど、
平和を願ってのことなら良いのですが・・・

ともあれ、僕らの時代のヒーロー、月光仮面・まぼろし探偵・少年ジェット
み~んな二輪車に乗って現れた♪ 白いマフラーも共通かな・・・
男の子が憧れないわけが無いですね。仮面ライダーは平成まで生き延びてるし。

さすがに私もコレは・・・



手前〈ダイハツ号HS6型・1935年〉、奥〈マツダ 三輪トラックGA型・1938年〉

これまたレアな!三輪消防車。これも初見です。

〈日本消防機製造・1937年〉フォードV8エンジン搭載!

古い自転車が置かれているなと、スルーッと見落とすところでした・・・

これぞ、原動機付き自転車。「元祖」でございます。
左から〈BSモーター・1954年〉中島飛行機荻窪工業(のちのプリンス自動車)
が製造し、ブリヂストンが販売したもの。
真ん中は〈ホンダカブF型・1952年〉50cc、1馬力。
右は〈アイサンモーター スピット号・1953年〉トヨタ系列になるのかな。


さて、ここのコレクションは留まるところを知らない?
展示が雑なので、「我楽多」のようにも見えますが・・・(^_^ゞ











・・・昭和の形見に溢れています。




2014.9/7、福山自動車時計博物館にて。

タイムカプセル?

2014-11-17 18:46:09 | 旅アルバム
広島県福山市にある『福山自動車時計博物館』
9月に行った小旅行、兎と毒ガスの島・大久野島、景観と幕末の街・鞆の浦。
そしてここが最後の目的地でもありました。







外観は博物館というには何やら怪しげな・・・(^_^ゞ

エントランスではいきなり現役の米大統領が“笑顔”でお出迎え。


中に入ると往年のスターたちも・・・ワカルカナ? ジェームズ・ディーンに
エルビス・プレスリー。クルマは〈クロスリー レーシングカー・1943年〉

こんなろう人形に驚いている場合じゃありません。展示館はそりゃもう
驚きの・・・WOW!なんじゃこりゃの連続。



とにかく一歩足を踏み入れると、ここには現代のもがまず見当たりません。



何なのか、意味わかりません。ペリー提督?こっちのサムライは・・・
老中筆頭 阿部正弘公、マニアックですねぃ。日本開国の幕開けってこと?






古時計も何台あることか・・・1700年代の懐中時計とか、柱時計もあちこちの
壁に無数に・・・時計塔の文字盤や針などもあって、じっくり見ていたら
間違いなく日が暮れます。マニアなら時計を止めてと叫びたくなるかも。

出たッ!マッカーサ元帥と吉田茂首相。







トップ画にもしたジープは、昭和19年製のフォード社製のGPW。
ブルーのサイドカーは、陸王のサイドカー。オリーブドラブ色のサイドカーは、
九七式側車付自動二輪車。世界初の二輪駆動サイドカーだとか。日本内燃機
製造だから「くろがね」ですよね。昭和12年のもの、よく残っていたな。

希少で貴重なものが、おもちゃ箱をひっくりかえしたように展示されています。
この博物館のコンセプトは「のれ!みれ!さわれ!写真撮れ!」嬉しい限り♪
世界でも類をみない博物館だとか・・・そりゃそうやろ。(^_^ゞ

展示品もごった煮状態。何と屋内に飛行機まで、しかも乗り込めます。
〈パイパー社 チェロキー140D〉




こりゃ楽しい、調子に乗って・・・乗るわ、触るわ、撮りまくるわ・・・

〈ダットサン ロードスター・1936年(昭和11年)〉

奥の赤いクルマは〈ダットサン フェートン・1935年〉


家内が乗っているのが〈T型フォード スピードスター・1908年〉

私は〈フォード GPW(ゼネラル・パーポス・ウイリス)・1944年〉

〈トライアンフ TR-4・1963年〉




通称、トラよん。英国車なのに左ハンドル、輸出仕様ですね。
乗って帰りたい1台でした。(^_^ゞ



〈ブガッティT57・1937年〉?これはワーゲンのエンジンを積んだレプリカです。




〈ベンツSSK・1929年〉これもレプリカです。
本物は7L、スーパーチャージャーで225ps、最高速192km/h。
ルパン三世も乗ってたよね♪


マニアにとっては堪らない?お宝探しができるかも。(非売だと思いますが)



エンブレム類はもちろん、メーターやキャブレターなどもコレクション。



演出も?(笑)。奥の赤いクルマは〈ダットサン フェアレディ SPL213〉
左ハンドル、4シーター。ダットサンフェアレディーZのルーツです。

脱兎号(DAT)が完成したのは大正3年のことである。Dは田健次郎、Aは青山禄郎、
Tは竹内明太郎のイニシアルを取ってつけたものであり、その小型乗用車は
ダットの息子であるからSONであるが、ソンとも読め「損」に通じるので、
SUNとすれは旭日昇天のごとく栄えるということで、
昭和7年DATSUNを正式車名とした。(HPより引用)


上の写真は〈ダイハツ電気自動車DBC-1型・1974年〉大阪万博で活躍。
下の奥は〈プジョー203A・1954年〉、手前は〈トヨペットクラウンRS・1958年〉

まぁ、とにかく楽しい博物館です。ここまで、まだ入口を入ってすぐの所、
それも紹介しきれてません。1台1台、じっくり写真を撮りたかったのですが
そんなことしてたら・・・

そうそうまだ紹介していない有名人。エジソンさんですね。



ジョージ・ワシントンにエイブラハム・リンカーン、何故かビル・クリントン。




ここのレポ、しばらく続きます。まだ写真の整理できてませんが・・・




2014.9/7、福山自動車時計博物館にて。

形勝も印象もOKしょ♪

2014-10-29 00:32:50 | 旅アルバム
「崖の上のポニョ」宗介の家のモデルになった一軒家を探してみようかとも
思いましたが難しそうなので、崖の上のお寺に行く事にしました。



それなりに登って行かなければなりませんが、風情のある小路が続きます。



登りきったところに「海岸山 千手院 福禅寺」があります。
真言宗大覚寺派の寺院で、創建は平安時代、開基は空也と伝えられています。






現在の本堂と、隣接する客殿(対潮楼)は元禄年間(1690年頃)に
建立されたもので、「対潮楼」は江戸時代を通じて朝鮮通信使のための
迎賓館として使用されていて文化交流の場だったようです。


早速その「対潮楼」へ・・・



客殿、座敷からの海の眺めは素晴らしく、まるで額縁にはまった
一服の絵のようです。
正徳元年(1711)、朝鮮通信使の上官8名が福禅寺の客殿に憩い、対馬から
江戸までの風景でどこがいいか論じ合った結果、全員一致でここからの
景色が一番素晴らしいということになったとかで、
「日東第一形勝」(日の昇る東の国で一番の景色)と称賛し、
この書を残したのだとか。

正面手前に見える小島が弁天島で、右手の島は皇后島。
奥には仙酔島が見えます。仙酔島は「仙人も酔ってしまうほど美しい島」
という意味だそうです。外周5kmほどの無人島ですが宿泊施設もあり、
時間があれば「平成いろは丸」に乗って渡ってみたかったな。



東に大きく開けた窓の左端の柱には「夏至」右角の柱に「冬至」と書かれた
木札が・・・夏至には北端から冬至は南端から朝日が昇る設計だそうです。



いろいろ展示品も見られます。



こんなお遊びもできます・・・



有名人も来られたようですね♪



お掃除はロボット任せですか?(^_^ゞ


さて、ぶらぶらとまた街に戻ります。こんなところに立ち寄りながらね。



「鞆の津の商家」江戸末期築の主屋と明治時代の土蔵が一体となった建物は
市の重要文化財に指定。通り土間を介してその横に店の間、中の間、奥の間
と続く、典型的な鞆の商家の形を見ることができる。土・日曜、祝日に公開。
と言うことで、鞆の浦歴史民俗資料館の向いに建っています。



中に入ると、往時の商家の商い、暮らしぶりなどが伺い知れます。









ここでもこんなことで、はしゃぐ人が・・・妙に自然ですが、かつらです(笑)




歩き疲れた頃に目についたのは・・・うねうねのソフトクリーム立体看板♪



「お茶処 仙酔庵」何やら大層な建物の一部に、たい焼きののれんも。
この建物、鞆の浦の豪商・大坂屋が建てた楼閣で、
江戸時代の思想家頼山陽(らい さんよう)が招かれてここに滞在したおり、
この建物を「対仙酔楼」と名付けたものだそうです。



さすが「感謝グループ」、メニューもユニークです。

注文したのは「塩雪姫」と「めで鯛ソフト」♪



ここでちょっとしたハプニング、わたくし、たい焼きにあたったのか
激しい胸焼け。ま、たい焼きのせいではなく持病の逆流性食道炎、その薬を
旅行の際、持って出るのを忘れたもので・・・案の定w
お店の娘さんに近くにドラッグストアがあるか訊ねたら、応急の薬なら
もらって来ます。グループのホテルがすぐ側にあるからと言って、
お店を放ぽって、胃薬をとりに行ってくれました。私らが店番?(^_^ゞ
たまたま誰も客が来なかったから良かったものの・・・
で、私は薬を飲んでケロッと。まさに“感謝”でした♪

ところで、ここの駐車場で目を引いたのは・・・黄色いのんとちゃいまっせ!



ユーノス・ロードスター、初代のロードスターですな。
そう言えば、東京・台場で10月 11~13日に開催された自動車イベント
「東京モーターフェス 2014」のプレイベントで、自動車メーカーなど
13社のトップが自分の好きなクルマに乗ってステージに登場した際、
各社、最新の“目玉商品”で登場するなか、マツダの小飼社長が選んだのは
ユーノス・ロードスター Vスペ。会場にはざわめきが起こったとか。
マツダファンとしては拍手喝采ものですね。(^_^ゞ

広島にはユニークな企業が育つのかな?気になって調べてみましたら
自動車業界 売上高&シェアランキング TOP10(平成24-25年)で、マツダは
5位。ただし、純利益・経常利益では10位、当然利益率ランキングも10位。
でも従業員数は4位なんですよね・・・


これで鞆の浦をあとにします。次の目的地の記事は、いつになることやらw

白壁土蔵に光ファイバーケーブル、時代の流れを感じますね・・・


2014.9/7、鞆の浦にて。

寄りましたとも、鞆の浦。

2014-10-21 09:37:48 | 旅アルバム
瀬戸内海のほぼ真ん中に位置する鞆の浦(とものうら)、
1925年に名勝・鞆公園の指定を受け、さらに1931年に制定された国立公園法
において我が国最初の国立公園として指定された地区のひとつです。



万葉集にも詠まれた風光明媚な景観と歴史が息づく港町。
一度行ってみたかった街。本当はもっとじっくり巡りたかったのですが、
ささっとね・・・



いにしえより「潮待ちの港」として栄えた鞆の浦。
船が風と潮の流れを利用していた時代、瀬戸内海の潮の分かれ目となる
鞆の浦には、潮の満ち引きを待つ船が集っていました。
そのことがこの地を繁栄させ、時折り歴史の舞台として顔を出します。




鞆の浦のシンボルでもある「常夜燈」通称「とうろどう」と呼ばれています。
現存する日本一の高さを誇る常夜燈(1869:安政6年築)だそうです。



2階建ての土蔵は国登録有形文化財、今は「いろは丸展示館」として
「いろは丸」と坂本龍馬に関する展示施設となっています。




海は何でも知っている?
今は観光船が行き交い、わずかばかりの漁船が停泊するだけの港ですが
かつては歴史を揺るがす事件の舞台にも。
この地に幻の「鞆幕府」が置かれたことを知る人は少ないかも。もともと
室町幕府を開いた足利尊氏はここで天皇から院宣を賜ったのが始まり。
二百年以上続いた幕府は15代将軍足利義昭が織田信長によって京を追われ、
ここに「鞆幕府」を開きましたが、結局滅んでしまったというもの。
そのため「足利は鞆に興り、鞆に滅ぶ」といわれています。


船着き場に置かれた鞆の港のゆえん、最後に「立ち小便をしないよう
港を美しく守りましょう」と締めくくられていました。(^_^ゞ


幕末には、あの坂本龍馬が「いろは丸事件」を引き起こします。



「いろは丸事件」とは、坂本龍馬率いる海援隊の蒸気船「いろは丸」と、
紀州藩の蒸気船「明光丸」が衝突し、「いろは丸」が沈没した事件。
龍馬は紀州藩に対し賠償を要求、紀州藩は徳川幕府の沙汰に従うとしたが、
龍馬側は万国公法を持ち出し紀州藩側の過失を追及、
日本で最初の海難審判事故とされています。
ちなみに賠償額は8万3526両198文(現在に換算すると40億円以上)。結果、
2006年、7万両に減額されたものの、11月7日に長崎で支払われましたが、
その8日後の11月15日、龍馬は京都の近江屋で暗殺されました。

「いろは丸展示館」には、鞆沖に沈んだいろは丸から引き上げられた遺物の
数々が展示してあるそうです。










さて、船着き場から離れて街並みを散策します。
バス停の時刻表をみると、1日4本?日祝も平日も同じだしw
「トモテツ」って何かお笑いコンビに居たような・・・(^_^ゞ

こんにちわって、にこやかに写真に収まってくれるのは・・・
地元の人には「龍馬さん」って呼ばれていましたが、観光協会の人?(謎)









交易都市として栄え、巨万の富を手にした豪商たちが育んだ街並み、
鞆街並み保存研修会の調べでは、江戸期の建物が80棟、明治期が91棟、
大正・昭和期が301棟あり、このうち保存すべきは450棟とか。

岡本家長屋門(福山城長屋門)

友光軒 1917(大正6)年ごろに散髪屋兼銭湯として建てられたもの。


走っているクルマまで景観を守っているような。
何気ない街角に鞆城三の丸石垣が残っていたりして・・・


景観を守ると言えば、これ福山西警察署鞆交番。警官、守れてる?(^_^ゞ



いろは丸の復元船?「平成いろは丸」幕末いろは丸の約1/5のミニチュア版。
仙酔島(せんすいじま)への渡船として使われています。乗船時間約5分♪

渡船場にはこんなポスターも・・・

「ウルヴァリン SAMURAI」のロケ地にもなっていたらしい。

映画と言えばやっぱり、「崖の上のポニョ」の構想がここ鞆の浦でうまれた
と言うことはよく知られていますね。



宮崎駿監督やスタッフもこの街に幾度も訪れ、いたる所にその足跡を
残しています。



いろは丸事件で坂本龍馬が談判した歴史の舞台にも登場する由緒ある町家を
再生するにあたり、宮崎氏がプライベートで起こされたスケッチをもとに
誕生した、宿&カフェ。「御舟宿 いろは」
入ってみたかったのですが、残念無念の「準備中」でした。




2014.9/7、鞆の浦にて。

小旅行、省宿泊費。

2014-10-02 17:13:40 | 旅アルバム
安宿を探すのが好きな家内が、これまた、とって置きのホテルを見つけました。
1泊5,500円、ビジネスの素泊まりかと思ったら、何と2食付き♪

どんなところかと、一抹の不安を抱えながら向かいます・・・



大久野島を出て竹原市から福山市のこのホテルに着いたのは7時頃。
名前は一流?(^_^ゞ 思ったより広いし、ちゃんとしてそう・・・



早速、夕飯を。



ま、値段を考えれば、これでも充分。(^_-)v

さすが中國新聞、新型ロードスター発表の記事が1面に!

ビンゴゲームの景品ではありません。備後!カタカナだとややこしい?




部屋も想像以上に広かった。
「このプランを見つけたあなたは超ラッキー!?夕朝食付きで¥5,500~」
期間限定ウィークエンドプランと言うものでした。

さて朝食は、和食か洋食を選びます。





贅沢は敵だ!(笑)、「欲しがりません勝つまでは」「月月火水木金金」??
「胸に愛国 手にハンマー」「権利は捨てても義務は捨てるな」「我が家から
敵が討てるぞ経済戦」「聖戦へ 民一億の体当たり 己殺して国生かせ」
・・・もうエエか?(^_^ゞ







窓からの眺めは、決して旅情をさそうものでは無いけれど
結構、まとも?充分でした。もう一度言いますが、1泊2食付き¥5,500♪

で、2日目はココへ行きましたよ↓



2014.9/7、広島県福山市。

要塞の島?砲台、見放題。

2014-09-26 00:55:49 | 旅アルバム
この大久野島、毒ガス施設と混同してしまいそうですが、それより以前の
明治期に造られた砲台が廃虚として残っています。

日清戦争終結後の明治30年代、すでに日本の軍事軍需の重要拠点であった
広島(日清戦争時には大本営が置かれた)・呉などを防御するべく芸予要塞が
設けられ、その一部としてこの島に砲台が数多く築かれました。
北部・中部・南部の砲台には合計22門のカノン砲が据えられたとのこと。
関連施設として火薬庫や兵舎、探照灯(サーチライト)が置かれた照明所跡
なども残っていて、当時建造されたものとしては国内でも最も完全な姿を
残していると言うことです。




「中部砲台跡」、ここに着たいがため徒歩山道で展望台を目指したのですが
結果的には北から舗装道で自転車で来れましたw(-。-;)
展望台は島のほぼど真ん中、山頂部分です。砲台跡はそのすぐ近く、
島のどこからでも見える高圧電線?の大鉄塔が建っているところです。



中部砲台には主力の28センチ砲が6門据えられたようですが、
日露戦争が始まると前線に近い鎮海湾や対馬などへ移設することに・・・
大砲を据え付けたものの、すぐに大砲は無くなり砲台だけ?その砲台が
現在、一番保存状態が良いと言うのも皮肉なものですな。
芸予要塞自体、豊予要塞の建設が決定したことから存在意義を失い、
1924(大正13)年に廃止されています。つまり実戦には使われていません。

この後、北部砲台に向かいますが、すでに熱中症ぎみ・・・水も無し。
ちょこちょこ顔を見せてくれるウサギさんにキュウリをやってみますが
お気に召さない様子・・・カッパじゃないものね。(^_^ゞ
それじゃ水分補給にと私が噛りますが、美味しくは無かったw



北部砲台には24cm砲4門と12cm砲4門が置かれていたようです。
ここも保存状態が良いはずなんですが、さすがに草ぼうぼう・・・
それにこの島、ウルシが多いんですよねぃ。迂闊に草むらを分け入れません。



東部と西部に分かれていて、その間はトンネルで繋がっていました。






煉瓦造りの建造物は地下兵舎だと思われます。しっかりした造りで
見方によってはお洒落?



加農(カノン)砲台の説明パネル。Battery of 24 cm cannon と書いてある。
砲台のこともバッテリーって言うんですね。蓄電池のバッテリー、野球での
投手・捕手もバッテリー。共通点が・・・英語って難しいな。

Cannonはカメラメーカーより「n」がひとつ多い?
カメラの「Canon」の名前の由来は、観音様のカンノンなんだそうです。
観音菩薩の慈悲にあやかりたいという気持ちから、1934年に完成した
国産初の精密小型カメラの試作機を「KWANON」(カンノン)、そのレンズを
「KASYAPA」(カシャパ)と命名した。KASYAPAは、釈迦の弟子のひとりである
大迦葉(マーハ・カサーパ)に由来している・・・と言うことです。



通用トンネル内にも地下壕がありました。水が溜まってしまっていて
水没する神殿のような風情も・・・ナイカ?(^_^ゞ



結局、中央部の山道を縦断、東岸から戻ったので体力的に南部、西岸には
行けず。南部砲台や火薬庫、それに毒ガス製造時代の発電所も見ていません。

肝心の砲台跡は急な階段を登ったり、草をかき分けたりのようだったので
行く気になれず写真は煉瓦造りの地下兵舎ばかりになりました。

DP2 Merrillで撮ったものをgooのフォトチャンネルでアップしました。

右下のアイコンクリックでフルスクリーンで見れます。6枚だけですが・・・


さて、いよいよ島を離れます。


ちょうど入れ違いにフェリーが・・・おぉ、お仲間に逢えるとは♪



家内が名残惜しそうにウサギと・・・持ってきたキャベツの始末かな?


きっと、芯まで食べてくれるでしょう。

島を出る時になって、にわかに天候が・・・

戻りの船も宿に向かうクルマでもゲリラ豪雨? 
日中、汗だくになるほどのお天気の良さがウソのようです。
兎も角、良いお天気で楽しめたのは、ひとえに日頃の善行のおかげです♪キッパリ




2014.9/6、大久野島にて。

楽園?もうひとつの顔。

2014-09-22 23:35:38 | 旅アルバム
第二次世界大戦以前から終戦まで、この島では毒ガスが
製造されていました。世界的に使用を禁止されていた兵器なので、極秘裏に。
そのため地図からも消され、海岸線を走る列車もこの島が見えないよう
窓を被っていたとか・・・

1927(昭和2)年、陸軍が毒ガス製造を目的に全島を管理下に置き(それまで
数戸の農家があっただけ)。1929(昭和4)年、ジュネーブ議定書(1925年)で
すでに戦争での使用を禁じた化学兵器の製造を始めた。(※開発保有は合法、
日本は議定書に署名はしたものの批准はしなかった)

戦時下は地元の農民や漁民、勤労動員学生など6500人ほどが従事、終戦の
年まで続けられ、大量に製造されたとか。ただし従事していたほとんどが、
何を造っているかは知らされず、まるで強制労働のようだったそうです。
※国家総動員法の徴用令状(青紙と呼ばれていた)により、ほとんどが
16-17歳という未成年でありながら、強制的に大久野島行かされたとか。




この事実が報道により日本国民に知らされたのは、なんと戦後40年近くも経った
1984(昭和59)年でした。それまで日本人“だけ”が知らなかったってことですね。

この風化させてはいけない事実を今に伝えるため1988(昭和63)年、ここに
『大久野島毒ガス資料館』が建てられました。ぜひ立ち寄って下さい。

工員手帳、男子・女子用作業服、液体毒ガス製造装置などが展示されている他
多くの写真パネル展示、映像による「証言でつづる大久野島」などが
放映されています。

〈陶磁器製毒ガス製造器具展示場〉




〈研究所跡〉


〈毒ガス貯蔵庫跡〉と思われる。

製造作業においても、戦後の処理作業でも被毒し、亡くなったり、後遺症に
悩まされた方も多くいたそうです。



今は平和そのもののウサギちゃんの姿を見られますが・・・
このウサギ、当時は実験動物だったのでは?の疑惑も。
確かに実験用にウサギも使われていたようですが、戦後の処理作業で
全て処分され、その時の子孫は残っていないとのことです。



島内探索のため展望台への徒歩道を選びました。途中にも何やら・・・



うさちゃんが道案内?してくれますが、これがまた結構な山道でして。(^_^ゞ



なかなか展望台へ辿り着けず、何度、ひと休みをしたことか・・・
その都度、うさちゃんが現れて癒してくれましたが♪



風景も上々、しかし道は途中からブッシュに!まだか展望台、もうヘトヘト。
特に家内はヒールのついたミュールってやつで、辛そう・・・



ここが展望台?いや、まだ先のようです。もうひと登り!
途中何組かの若者に出会い言葉を交わしましたが、若者でもヒイヒイw

やっと辿り着いた展望台。もう汗だくだく・・・









ここまで来た甲斐はあったかなぁ・・・脱水症になりかけ。(-。-;)
こんなにキツイとは思わなかったので、飲み物用意せずw






ここでもウサギちゃん、発見♪ちゃんと餌も水ももらっているようです。
ちなみにこの近くまで舗装した自転車道あり。レンタサイクルは電動アシスト!
・・・それにすればよかった。(^_^ゞ






やっとの思いで下まで降りてきました。
ちょうど島の西側を縦断したことになるのかな・・・
毒ガス関係で残されている建物としては一番大きいと思われる発電所跡は、
南東部にあるので(来る時に船窓から見えていました)行けませんでした。
短時間で島内を回るのは、電動アシストサイクルのレンタルをお勧めします!



〈長浦毒ガス貯蔵庫跡〉島の北西部にあります。



ええっ~!!まだ毒ガスが残ってたの?

・・・ご心配なく。花の下で、すやすやお昼寝ちう♪平和やのぉ~ヽ(´∀`*)ノ

ただ、この毒ガス。沖縄戦後、敗戦濃厚となるや本土決戦を想定して
全国にばらまかれました。
遺棄されたままのこの化学兵器のため全国各地で事故が発生しています。

島では戦後、GHQや政府により施設解体や残された化学兵器の処分が、周辺
海域への海洋投棄、火炎放射器による焼却、島内での地中処分といった方法で
行われ、除毒措置も施された。しかし処分は充分ではなく、現在でも島内地下
4~5mの土壌で高濃度のヒ素が検出されるなど、負の遺産を受け継いでいる。

中国戦線での使用を考えて製造された毒ガス、当然のことながら中国では
旧日本軍が遺棄した化学兵器によって多くの犠牲者が出たとか・・・
ちなみに1993(平成5)年、「化学兵器禁止条約」は10年以内に国内並びに
他国に遺棄した化学兵器を処分しなければならないと規定しています。
1995(平成7)年、日本政府は中国に遺棄されている毒ガス弾が日本陸軍のもの
であったことを公表し、調査により日本政府は過去の戦争で日本陸軍が
中国において化学兵器を使用したことを認めました。

僕らの知らない過去の戦争、では済まされない「戦後」はまだ終わってない
のだなと痛感させられます。
同時に、多くの犠牲者を出すに至ったこと,この痛ましい事実を今に伝える
この島の存在は大きいと思います。
理想論であることは重々承知ながら、この地上から悲惨な化学兵器を無くし
二度と使用しない、世界の恒久平和を希求して止まないのは日本人としての
使命では無いでしょうか。

カッパにしては重いテーマでした。大久野島探索はまだつづきます。(^_^ゞ



2014.9/6、大久野島にて。

ラビッ島、つづき。

2014-09-20 22:08:19 | 旅アルバム
休暇村前の広場でうささんと戯れながら、まずはビジターセンターに向かいました。


センターの前には、門番バニー?



島の案内所、いろいろ島に関する情報がありますが、肝心の島内のマップが無い
・・・で、訊ねたところ奥から出してくれました。親切なのか?



尾道の猫石ならぬ、兎石?(^_^ゞ




この日は暑かったので、うささんもグロッキー気味?
ビジターセンターの横から海岸へ出てみます。






何やらモニュメント? 兎の耳が並んでいます。





・・・こう言うものでした。確かによく聞こえるのよね、補聴器代わりに
使ったらどうでしょう、ちと重そうだけど。。。

少し散策した後、小腹が空いたので休暇村に戻りましょう。



レストランもありましたが、窓際でまったり『うさんちゅうカフェ』で。


たこ天カレーと、たこ天ぶっかけうどん。さすが、瀬戸内海♪

で、で、島内散策後、帰りがけにいただこうと目論んで・・・



「うさぎのはなくソフト」♪ 名前が名前ですから、
注文しにくい方は「コレ」とお伝え下さい。との注意書きが!(^_^ゞ

ひょうきんな顔のうささんに「お土産は?」って言われた気がして・・・



買いましたよ!荷物になるので一番最後、お蔭でバスに乗り遅れそうに。



ソフトにものっていた「うさぎの鼻くそ」と、「うさぎのふん」(^_-)v







まだまだひっぱります、大久野島。



2014.9/6、大久野島にて。

バニー・アイランド、大久野島。

2014-09-19 15:25:40 | 旅アルバム
大久野島(おおくのしま)は、広島市から東に50キロほど離れた海に浮かぶ
小さな島。しまなみ海道が近くに走っていますが、ここへは繋がらず・・・
フェリーか観光船で渡ります。



フェリーだと忠海(ただのうみ)港から乗船、往きは大久野島に立ち寄りますが、帰りは
大三島(おおみしま)の盛(さかり)港まで行きます。大三島からは
しまなみ海道に入るか直行で忠海に戻るかになります。
なので忠海にクルマを置いて小さな観光船に乗ることにしました。

うさぎさんからのお願いを読みながら・・・

船窓から島の怪しげな建物も見えてきます。


約12分間の船旅。
休暇村大久野島の無料送迎バスが船舶の時刻に合わせて運行しています。
フェリーで来ても島内は通行禁止。船着き場の駐車場に停めて置くことに。




うさぎを踏まないようにノロノロ運行のバスに乗って、着いたぞ、休暇村大久野島
もちろん徒歩でもよかったのですが・・・何しろ、周囲4.3kmの小島ですからw



島で唯一の宿泊施設。レストランやカフェもありますぞ・・・(^_^ゞ

瀬戸内に浮ぶ、ラビット・アイランド。うさぎだらけの島、ウサギの楽園・・・
ネットやTVで話題になっていたので、一度来てみたいと思っていました。
バニーちゃんに囲まれてみたいと♪



話題になっても、大したことないやん!ってな所も多い中、ここは期待を
裏切りません。あちこちに野生化したウサギだらけ。ヽ(´∀`*)ノ






ここの兎は、野うさぎってわけでは無いです。
「島外の小学校で飼育されていた8羽のウサギが1971年に島に放されて
野生化し、繁殖して2013年に再度調査したところ700羽にまで増えていた」
というもののようです。だから色もいろいろで可愛い♪



ほとんどが人懐っこく、人の姿を見ると寄ってきます。
・・・餌がお目当てですけど。(^_^ゞ






家内が用意してきたキャベツ1玉。小学生の頃を思い出しますね、餌やり♪



観光客も多いので、うさぎの取り合いになるのではとの懸念もありましたが、
心配ご無用。どのお客様にも愛嬌たっぷりバニーちゃんのお・も・て・な・し。

今さら言うまでもなく、うさぎは昔話、童話・童謡、キャラクターとしても
いっぱい登場してくる好感度の高い動物。これは海外でも同じようですね。
ピーターラビット、バックスバニー、ミッフィー・・・
日本では虎を食い物にするジャビット(巨人軍のキャラクター)なんてのが
おりますが、好感度は高くないかな?関西では。(^_^ゞ













うさぎさんと戯れて、癒されて。とても楽しい島でした♪

まだまだつづく・・・



2014.9/6、大久野島にて。

その手は桑名の・・・

2013-10-06 22:38:00 | 旅アルバム
満願、最後の仕上げにと、寄ったのは





谷汲温泉、その名も「満願の湯」ね。
温泉施設自体は、いわゆる日帰り温泉。天然温泉で露天風呂もあり、
参拝でかいた汗を落とすには最適、気持ち良かった♪

それより目的は、ここの「満願釜めし」!これで仕上げも完璧と考えたのですが



釜めしは出来るまで40分ほどかかるとのこと・・・そりゃそうやわな、迂闊やったw
温泉入る前に予約するべしでした。(-。-;)
時間的に待てないので、仕方なく・・・


天丼(新メニューだそうな?)、スジ煮込み定食。

これにありついたのがもう4時半。お昼は例の「ういろ」でお腹が膨れたしね。
こんな時間に食べて、夜はどうするか・・・何だかイヤな予感。
賞味期限本日限りの「ういろ」まだ残ってるしね。(^_^ゞ


9/22、23日は連休ということもあり、前の週、台風のためキャンセルした
『桑名シティホテル』にもう1度予約を入れ直していたので
とりあえず桑名へ向かいます。



途中の道標、右が桑名か。左は神戸ね・・・ん?「こうべ?!」何でやねん!
よく見たら「Godo」だって。

そして、久しぶりにゾロ目が写真に撮れました♪


「66666」、トリップまでは合わせられずw


チェックインは予定より1時間以上遅れて、7時過ぎ。もう暗くなってしまって





桑名見物は夜景となってしまいました。見物ったって、駅前だけですが。(^_^ゞ







「桑名駅」って、JR東海の関西本線、近鉄の名古屋線、養老鉄道の養老線の
3路線が乗り入れているそうです。
さすが東海道五十三次の宿場町。今も交通の要所なのかな?
三岐鉄道北勢線の西桑名駅も同じターミナルにありましたが、三岐鉄道って
三重と岐阜を結んでいるのかな?今まで知らなかった鉄道です。




ロビーにパソコンがあったので、ちょっとチェック。
私、携帯はガラケー。しかもパケ放題未加入なんで・・・(^_^ゞ


このホテル、宿泊費は格安? 朝食付きで4,150円。二人で8,300円のプラン。
じゃらんのポイントを使ったので、7,000円、一人3,500円で済みました。



朝食はビュッフェ方式ですが・・・やっぱイマイチかなw
肉っけが無い!全く無いって、ボヤいていたら



ベーコンいかがですかって、配って回ってた。一切れづつ?
その手で来たか・・・(-。-;)




朝食後の散歩に出ましたが、これといった収穫はなし。
旧東海道にでも行けば、桑名宿らしい風情でも見られたのかな?
広重の版画に描かれている「七里の渡し」とか・・・

寄り道している暇は無いかも、さっさとこの日の目的地へ向かいます。
伊勢大橋、途中に交差点がありクルマが入ってきたのにはビックリ。
向こうに見えるのは、長良川河口堰。



2013.9/23、伊勢大橋にて。