カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

西国三十三所巡礼 第二十四番札所 紫雲山 中山寺(その1)

2012-12-02 22:16:08 | 西国三十三所巡礼
兵庫県宝塚市にある『紫雲山 中山寺(しうんざん なかやまでら)』、
今まで知らなかったのですが大寺院であると共に、歴史もかなり古い。
創建の年は確定していないようだが600年前後、推古天皇の飛鳥時代に
聖徳太子が創建された我が国最初の観音霊場だそうです。

創建のきっかけは、排仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏との争いの中、
太子に滅ぼされた物部守屋の霊を鎮めるためと、仲哀天皇の妃、大仲津姫の
二人の皇子を供養するため建立されたとも。

当初は現在地より北の山腹にあったようですが、源平の争乱で焼失。後に
源頼朝が再建し、現在の寺観は豊臣秀頼が伽藍を整えた以降のものだそうです。




お寺は拝観無料ですが駐車場が無いので、周辺の有料駐車場を探すことになります。
電車だと便利、特に阪急電車「中山駅」からだと徒歩1分?、JRだと
少し離れますが「中山寺駅」があります。

駐車場はどこも満車状態のことが多いようですが、ラッキーにも比較的近場で
1台分空いたところに入れることができました。あとはテクテク・・・
歩いてお寺を目指すと、トップ画のように立派な山門が現れました。









この山門、「望海楼」とも呼ばれ、徳川家光の寄進により再建されたもの。
正面には仁王像、裏には狛犬が置かれています。最近、調査復元されたとのことで
弁柄漆の塗りも真新しいものでした。

それにしても大勢の参拝者で賑わっています。
京都のお寺のように修学旅行生の姿は見られません、その代わり
赤ちゃん、子連れが多い。参拝者の平均年齢はとても低い・・・(^_^ゞ

山門を抜けると参道の両脇に、塔頭(たっちゅう)五ヶ院が並んでいます。
参道には屋台も出ているので、まるでお祭り日のような賑わいです。

塔頭、今でこそ5つですが往時には100を越える塔頭があったそうです。








塔頭の塀沿いには山茶花や芙蓉の花が咲いていました。(10/21日撮影)
蜂を見つけると撮りたくなる悪い癖、それにしても怖そうな蜂やなぁ・・・



「総持院」
福禄寿 文殊菩薩(卯年)、不動明王(酉年)



中山寺は安産祈願本邦随一の霊場として信仰を集めていますが
塔頭の方は水子供養が目立ちました。他にも合格祈願等多種多様、
大型ショッピングセンター内の専門店街みたいな・・・(^_^ゞ


「宝蔵院」
弁財天 大日如来(未年、申年)





「華蔵院」
毘沙門天 阿弥陀如来(戌年、亥年)





「観音院」
大黒天 普賢菩薩(辰年、巳年)





「成就院」
布袋尊 虚空蔵菩薩(丑年、寅年)


さて、いよいよ中山寺に・・・なんと!
ここはエレベーター、エスカレーターがあります。





おそらく妊婦さん、赤ちゃん連れ、ベビーカーなどを考慮してのことでしょう。
実は阪神大震災でかなりの被害を受けたようで、復旧の際にこのような
設備も整えられたようです。





私らも行きはエレベーター、帰りはエスカレーターを利用しました。
ええ、楽したわけではありません。あくまで話のタネにね!(ムニャムニャ)



案内板も近代的。


納経所は
「紫雲閣」というこれまた近代的で大きな建物の中にあります。
さすが宝塚、歌劇団のパンフなどが置かれていたりします。



このあと、見どころも多く結構大変・・・では「その2」につづくってことで。



2012.10/21、宝塚市 中山寺にて。

だるまだらけ

2012-11-12 23:53:03 | 西国三十三所巡礼
西国三十三観音霊場の第二十三番札所でもある「勝尾寺」は、
「勝運祈願」の寺として有名だそうな。
人生全てに「勝つ」として勝ち運を願い「勝ちダルマ」に託すのかな。

そして、境内のあちこちに小さなダルマさん(ダルマみくじの人形)が置かれている。

ひとぉつ・・・


ふたぁつ・・・


みぃっつ・・・



ずらぁっとな!



その光景が何とも印象的。










ダルマさんと言えばこのカタチの人形。日本の郷土玩具の代表のひとつでもあり、
各地にいろんなダルマ人形があるが、まずひと目で分りますね。

元々は禅宗に縁がある達磨大師って僧侶。
サンスクリット語ではボーディダーマ(Bodhi-dharma)「菩提達磨」のことで
インドで生まれ5世紀後半から6世紀前半の人で、中国(斉)で活躍し、
中国禅の開祖とされています。
少林寺で壁に向って九年間、座禅を行ったことで手足が腐って無くなった
という伝説が一般的によく知られていますね。
その伝説に基づき手足を無くした座禅姿で眼光鋭く髭ぼうぼうの達磨大師。
その姿が置物や玩具として広まり、
宗教を超えた、押しも押されもせぬ日本人のソウル・キャラクターに。(^_^ゞ











だるまさん、だるまさん・・・にらめっこや、だるまさんがころんだ。
だるま落しなど…子供の頃から親しみのあるキャラクター(今の子は…?)

雪だるまにダルマストーブ、だるま(サントリーオールドの愛称)をちびり。
あまり飲み過ぎると火だるま?・・・とは言わないか。

そうそう高校野球で徳島の池田高校の蔦監督は攻めダルマって言われていたな。
スポーツや選挙の必勝祈願によく登場する勝ちダルマの張り子。
願いを込めてまず片目を墨で塗り、達成したらもう一方の目を塗る風習。
あれって一般的には左目を塗って祈願し、成就したら右目を塗るのだそうです。
ただし、選挙の場合は逆なんだそうで・・・何故だかは知りませんが!



お寺の奉納棚には、勝運祈願を達成成就されたのでしょう
両目を入れた勝ちダルマがひしめいています。
ここのお寺では「勝ちダルマ」を授かり、
己に勝って勝ち運をつかむ・・・すべては自分に勝つために。とあります。

受験・病気・選挙・スポーツ・芸事・商売等、ただ願い、祈るだけでは
何も成し得ません。「己の弱さに勝つ!」の精神こそ運を引き寄せることに
なるのかな。『天は自ら助くる者を助く』にも通じますね。














「七転び八起き」ここの達磨さんたちは、風雨に曝されながらも
キリッと前を向いているように見えました・・・





最後に達磨大師が説いた「二入四行論」。長くなるのでリンクだけ。(^_^ゞ




2012.9/16、勝尾寺にて。

西国三十三所巡礼 第二十三番札所 應頂山 勝尾寺

2012-11-11 00:43:02 | 西国三十三所巡礼
23番札所『應頂山 勝尾寺(かつおうじ)』は、大阪府箕面市にあります。
約8万坪の広大な敷地は自然豊かで、春には3000本の桜が咲き競い、
秋は名高い紅葉スポットとして知られています。
この土日から11月中の土日祝にはライトアップ、夜間拝観があるようです。

創建は古く、奈良時代727年に藤原善仲・善算という双子の兄弟が草庵を
築いたことに始まります。後に、光仁天皇の皇子「開成」が2人に師事して
仏門に入り、「弥勒寺(みろくじ)」としました。
その六代座主・行巡上人の時に清和天皇の病を法力によって治したことで
王に勝ったと言うことで、清和帝より「勝王寺」と改名いただいたのですが
それでは畏れ多いと寺側は「王」の寺を「尾」と変えて名乗ったのだそうです。




歴史は古いお寺のはずなんですが・・・施設や境内は新しい公園のようです。



境内に入るには、まずショッピングセンターみたいな売店を通る仕組みです。





当然の事ながらお土産やこんなもんやあんなもんが並べられています。
ここは「勝ちダルマのお寺」として有名なので、やたらとダルマだらけ・・・



「山門」
トップ写真のように道路からも見えてましたが、道路に面した勅使門は
閉じられています・・・売店を通すため?
この山門は1603年、豊臣秀頼が再建。平成8年に修復完了されたもの。


「仁王像」
修復されてそれほど経っていないので、まだキレイ。境内側には
カラフルな唐風の狛犬があったようですが、見逃しましたw



山門の額は表が山号の「應頂山」、境内側は寺名「勝王寺」。
「王」って字、使ってるやん・・・!




山門を抜けると、参道は大きな放生池(ほうじょうち)に架けられた
石橋を渡ることになります。



水煙(ミスト?)の演出が何とも現代的。幻想的な光景で、この演出イイかも…



「弁天堂」



池の中の島に建てられています、これまたニクイ演出。








自然豊かなのは良いですが、またまた階段連発でしんどそう・・・




途中、こんなアトラクション(?)、歩く「知恵の環」。
7駆さんが目を回しながら知恵を得たところ・・・(^_^ゞ




「観音像」


「一願不動尊」            「三宝はらい荒神堂」

先ほどの石段を登りきると観音池があり、水子供養の観音像が立っています。
左手には一心に願うと一つだけ叶えてくれる一願不動尊などもありました。

此処からまた石段を登っていくと、本堂や堂宇が建ち並ぶ広場に出ます。


「本堂」


「鐘楼」              「不動堂」


「本堂」
ここも豊臣秀頼が再建したものを平成11年に修復。
安置されるご本尊は十一面千手観世音菩薩です。



「納経所」
ここにもダルマさんが・・・おみくじになっているようです。

このお寺、清和帝が「勝王寺」と号して以来、源氏・足利氏等各時代の覇者達が
当山に勝ち運を祈る信仰の歴史をたどっている。
七転び八起き、不屈の精神をもって「己の弱さに勝つ!」ダルマ信仰と相まって、
勝ちダルマの寺となりました。


「勝ちダルマ奉納棚」
願いが叶った勝ちダルマを奉納する場所、夥しい数のダルマさんが・・・


「鎮守堂」             「開山堂」
お寺のあちらこちら、置けるところを見つけてはダルマが置かれています。


「大師堂」             「賓頭盧尊者」


「四国八十八ヶ所 お砂踏み」 





しっかり四国八十八ヶ所も済ませました・・・


この後、坂道を登って・・・おお~ッと!脚が攣ってしまいましたw
情けない・・・脚を引摺りながらと言うか、また攣らないように気をつけながら


「二階堂」
一番高いところにある伽藍、法然上人が祀られています。此処で暫く休憩。


「多宝塔」
少し下ったところにあります。眺めはなかなかグー♪






ぐるっと山道を回って降りてくると、また観音池のところに出ます。
観音池と多宝塔の位置関係も絶妙、見せてくれます。

脚の調子も・・・なので、薬師堂・奥の院へは行かず帰ることに。
この日は総持寺に続いて2軒目、ここがこんなにキツイとは思ってもみなかった。
ちなみに薬師堂は鎌倉初期に建立された現存する勝尾寺最古の木造建築物。
奥の院はかつて「弥勒寺」として本堂が建っていた場所で、
今はその場所に弥勒菩薩像が置かれている。周辺には「文殊堂」、
「納骨堂」、「六角堂」などがあるようです。




2012.9/16、勝尾寺にて。



○宗派:真言宗 ○開基:開成皇子
○御本尊:十一面千手観世音菩薩 ○創建:神亀4(727)年

御詠歌「重くとも 罪には法の 勝尾寺 ほとけを頼む 身こそやすけれ」

西国三十三所巡礼 第二十二番札所 補陀洛山 総持寺

2012-10-28 23:38:13 | 西国三十三所巡礼
『補陀洛山 総持寺(ふだらくさん そうじじ)』は、
大阪府茨木市の住宅地の中に、どど~んとあります。
駐車場は無人ゲートのチケット式。納経所で機械に通してもらえば無料になります。






「手水鉢」
センサー式で、前に立つと水が出てくるエコな機構。




仁王門は結構立派、左右に賽銭箱も装備されていますw



仁王像はここでは珍しく古そうなものですが、何時頃の誰の作か等は判りません。

お寺の創建は古く、890年。しかし織田信長に焼かれ、豊臣秀頼により
本堂などは再建されています。よく聞くパターンです。


仁王門の内側には
ガチャポン式のおみくじ販売機!・・・何ともねぃ。



「開山堂」
懸造りの新しい伽藍です。包丁式はここで行われるのかな?



「納経所」
近代的な建物です。グッズ販売もあり、納経帖など他所より安いのだとか。
駐車料はここで精算、無料になります。この前を抜けると直ぐ下が駐車場です。



「庫裏」
芝生に敷石、石庭ですかね・・・よく見ると、コンクリートでした!



「鐘楼」              「地蔵尊」
南無抜苦与楽地蔵菩薩の幟が立てられていました。何となく意味は判りますね。




正面が本堂、結構いろんな伽藍が所狭しと配置されています。


「大師堂」             「賓頭盧尊者様」





「本堂」
1603年に豊臣秀頼の命により再建されました。この年は徳川家康が
征夷大将軍になり江戸幕府が開かれた年ですね。

総持寺のご本尊は、亀に乗った「千手千眼観世音菩薩」で有名です。

これには開祖、藤原中納言山蔭(やまかげ)。にまつわる話しがあります。
山蔭が子供の頃、父の高房(たかふさ)が太宰府への任地へ赴く途中、
淀川で大亀が漁師に捕まっているのを見て、その亀を買い取り逃がしてやった。
その夜、まだ幼い山蔭は継母の策略で川の中へ落とされてしまいます。
高房が知り、その無事を観音様に祈ったところ、山蔭を背中に乗せた大亀が
現れたのだそうです。昨日助けた大亀に命を救われた。
そのことに感謝した高房は観音像造立を決意するが、叶わぬまま逝去。
父の遺志を継いだ山蔭は観音のお告げにより、
長谷寺の(観音の化身である)童子に千手千眼観世音菩薩を彫っていただき、
本尊として開基したという「亀の恩返し」のエピソードは、今昔物語集にも
書かれている有名なお話しなんだそうです。

だから?ここの池には亀さんがいっぱい。乗れるほど大きな亀はいないけど・・・



なお、ご本尊の秘仏ですが毎年4月15~21日に開扉されます。
信長に焼討ちされた際、下半身だけは焼け焦げたが上半身は金色に輝いていた
とかで、「火除け観音」としても信仰されているそうです。



「閻魔堂」             「五社稲荷大明神」


??



「東門」              「竜宮門」?
東側にある山門と竜宮門風の通路、総持寺にはパンフレットが無かったかな。
公式HPにも境内の配置図や伽藍、寺宝などの説明が見当たりません。



「鎮守社」             「包丁塚」

包丁塚に関しては、先ほどの亀の恩返しの話しの続きがあるのです。

観音様のお告げで童子姿の仏師に仏像の作成を依頼すると、「観音像を刻む
千日間は決して仏舎に入らぬこと、そして中納言藤原政朝(山蔭)自身が
千日間、自分の為に料理を作ること」と告げられます。
そして千日目の朝、山蔭が仏舎に入り確認すると童子は空に飛び立って行き
亀の背に乗っている素晴らしい出来の千手観音像が残されており、
その前には千日間山蔭が作った食事がお供えしてあったそうです。

この「中納言の千日料理」のエピソードから、藤原山蔭は「包丁道の祖」と
崇められるようになり、総持寺では毎年4月18日に「山蔭流包丁式」が行われ、
料理技術の上達を願う料理人や一般の参拝客で賑わうのだそうです。



「金堂」              「井戸」
薬師如来像が安置されているようだが、それほど規模は大きくない金堂。
何やらお供え物が綺麗に置かれてある井戸?詳細は判りませんでした。



「普悲観音堂」


ここは「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」の第六番札所ですが、この観音像、
同じものを既に2度見ています。西国三十三ヵ所巡礼をすると3ヵ所で
重複するようです。


「普悲観音像」の周り、堂の壁面には西国三十三ヶ所と四国八十八ヶ所の
各札所の本尊を刻んだ石仏が並べられており、お砂踏み場となっています。



「ペット納骨供養塚」


「不動明王堂」           「荒神社」「経蔵」

伽藍はひしめいていますが、境内はそれほど広くなく、何たって平坦♪
楽ちんなお寺でした。(^_^ゞ




2012.9/16、総持寺にて。百日紅(さるすべり)の花




○宗派:真言宗高野山派 ○開基:中納言藤原山陰
○御本尊:千手観世音菩薩 ○創建:寛平2(890)年

御詠歌「おしなべて 老いも若きも 総持寺の ほとけの誓い 頼まぬはなし」

第二十一番札所 菩提山 穴太寺

2012-10-16 18:15:21 | 西国三十三所巡礼
亀岡市は京都市の西に隣接した古い歴史を持つ地域でもあります。
このお寺も飛鳥時代、705年に文武天皇の勅願により、大伴古麻呂が
薬師如来を本尊として開創したというのが始まりとされています。



門前の道は生活道路、T字路に突然、仁王門が現れるって感じです。
写真の手前を少し歩いた所に民間の専用駐車場(有料)がありました。


「仁王像」
あまり良い出来には見えなかった、傷みも激しいような・・・




門をくぐると直ぐに何段か階段を下ります。半地下に来た感じ、道路が上に見えます。
門からだと境内を見下ろすことになります。



真っすぐな参道を少し行けば直ぐに本堂です。こぢんまりしたお寺です。
ちなみに訪ねたのは7月1日、季節はまだ梅雨。この日も小雨が降っていました。



「東門」(外から)         (内側から)
仁王門の他に、北門と東門からも入れるようになっていました。




建物はほとんどが江戸中期のものですが、年数以上に古びた感じがします。



「鎮守堂」            「鐘楼」



「多宝塔」
ここのシンボル的な建物かと思われます。



本坊書院「円応院」
円山応挙誕生地が近くでもあり、この名がついたのかな?
それほど広くは無いですが、丹波の山々を借景に多宝塔も入れた池泉式庭園が
見られるそうです。広縁に座ってゆっくり時を過ごすのも良いかも。
ちなみに本堂の拝観料(300円)とセット500円で入れます。
本堂とは渡り廊下で繋がっているようです。拝観しなかったもので。(^_^ゞ



「本堂」






懸け仏や扁額も多いですが、千社札がやたらと・・・


本堂内陣の厨子には本尊の薬師如来(絶対秘仏で開帳されたことがない)と
秘仏で33年に一度開帳される札所本尊の聖観世音菩薩立像が安置されている。

『撫で仏』と『身代わり観音』
本堂の右脇壇には、涅槃姿で等身大の仏様の像が置かれている。
この仏像、真新しいおふとんが被せられていて、お参りの方はおふとんを
めくって、仏像を直接触ったり撫でたり・・・
「釈迦如来大涅槃像」は鎌倉時代作といわれ、1896年当時孫娘の病気平癒の為に
参詣されていた信者の方の夢枕に現れ、そのお告げのとおり探すと本堂の屋根裏
から発見。本堂にお祀りし、治したいと願う身体の部分と同じ箇所を撫でると
病気が治ったとのことで、以来「なで仏」として信仰されているようです。

このお寺には胸に矢傷の残る聖観世音菩があり、それにはこんな説話が
『今昔物語集』に記されており、「身代わり観音」と呼ばれています。
今は昔・・・この地の郡司「宇治宮成」という者が、都の仏師「感世」を
呼び寄せ自宅に祀るため聖観音像を彫らせました。やがて完成し、その褒美に
宮成お気に入りの愛馬を与えるのですが、宮成は馬が惜しくなる。家来に命じ
京に帰る途中の仏師を矢で射殺し、馬を取り戻してしまいます。
ところが聖観音像を見ると胸に矢が刺さり血が流れ出ています。馬の姿も無く、
都へ使いを走らせ確かめると、感世と馬は無事に京に辿り着き、生きていた。
宮成は観世音菩薩が、身代わりとなり仏師の命を救うと共に、宮成が罪人となる
ことも避けようとしてくれたことに、自分の行いを深く悔い、改心したと言います。
その後、観世音菩薩が宮成の夢枕に立ち、胸の傷が痛むとして穴太寺の薬師如来に
平癒を願うため、当寺に聖観世音像を安置したのだそうです。

この聖観世音像は1968年(昭和43年)に盗難に遭い、未だに行方不明だそうです。
今は矢傷をつけた模刻のものが秘仏として本尊と共に33年に一度開帳されます。



「宇治宮成の墓」          「地蔵池」



「念仏堂」



「三十三観音堂」          「地蔵堂」




三十三観音堂の中を覗いて見ると、西国三十三ヶ所観音霊場のご本尊が
並べられているようです。砂も納められているようですから、ここをお参り
することで全ての西国観音霊場を巡礼したのと同じ功徳があるってやつですな。



「北門」             「納経所」



「納札所」            「賓頭盧尊者」




2012.7/1、穴太寺にて。



○宗派:天台宗 ○開基:大伴古麿
○御本尊:聖観世音菩薩 ○創建:慶雲2(705)年

御詠歌「かかる世に 生まれあふ身の あな憂やと 思はで頼め 十声一声」

第二十番札所 西山 善峯寺(完結編)

2012-09-14 18:42:52 | 西国三十三所巡礼
経堂、多宝塔の前に“日本一の松”と言われる天然記念物「遊龍の松」があります。
樹齢600年の五葉松。以前は54mあったそうですが、松食い虫の被害に遭い
15m切断したそうです。それでも充分、ビックリしますが・・・



全体像がどうしても写せませんでした。(^_^ゞ






このお寺で有名な桂昌院お手植えの枝垂れ桜ともみじもここにあります。
遊龍の松の端には開山堂があり、源算上人117歳の姿の像が祀られています。
長寿のご利益があるらしいですが、何故か見逃しました・・・






「幸福地蔵」(しあわせじぞう)
季節によって枝垂れ桜、あじさい、もみじの園が一望に見渡せる崖に
小さな懸造りの地蔵堂があります。中には約300年前のお地蔵様が立っておられる。
自分以外の人の幸せをお願いしましょう・・・ってことでした。



「釈迦堂」
ここに祀られている釈迦像は石仏で、合掌されている珍しいお姿だそうです。


九目結紋(ここのつめゆいもん)
このお寺ではアチコチでこの家紋を見ることになります。
これ桂昌院さんのご紋なんですねぇ~~(渡邊あゆみアナウンサー風に)
 私、録画して欠かさず観てます・・・NHK歴史秘話ヒストリア。(^_^ゞ
「大奥 シンデレラ・ストーリー」として桂昌院さんも取り上げられていました。
江戸時代、京都の八百屋の娘として生まれたお玉。とても家紋の持てる
身分ではありませんでした。それが・・・詳しくは後ほど。

さらに上へと登って行きます。



洛中、東山三十六峰が一望できます。


「出世稲荷」
坂の途中にお稲荷さんが。
ここからの眺望も素晴らしく、記念撮影ポイントになっていました。



京都タワーも見えますね。
でもまだまだ登りの途中です・・・はぁ、 はぁ・・







かなり登ってきました。もうひと息、奥の院の手前に休憩所を兼ねた東屋のような
「けいしょう殿」があります。景勝の地で桂昌院を祀る・・・って、
案内パンフにも駄洒落(?)で紹介されているとおり、ここからの眺望も見事です。
お堂の中央には傍らに子犬が寄り添う桂昌院の像が置かれています。



「玉の輿」の語源となった桂昌院のシンデレラ・ストーリーをちょいと・・・

京都・堀川の八百屋の娘として生まれた名前を「お玉」という女の子、
まだ幼いときに父親を亡くします。支えを失ったお玉とその母は寄る辺を求め
この善峯寺に奉公に出ます。そんなお玉に、父親がかつて野菜を納めていた
縁で、下級武士ではありますが本庄家の養女になることが決まります。
(桂昌院の紋、九目結紋はこの本庄家の家紋なんですね)

そして、本庄家の紹介で公家出身の尼僧の待女となったお玉。13歳の時に、
尼僧が徳川三代将軍家光に謁見することになり、そのお供で江戸城に登ります。
そこでなんと家光は、尼僧に一目ぼれ、尼僧はお万の方と名を改め
家光の側室になります…そしてお玉も京都に一度も帰ることなく、
お万の方の侍女として江戸城大奥で暮らすことになります。

なんとなんと家光さん、19歳になっていたお玉をも見初め側室に!
ついに八百屋の娘、お玉は「お玉の方」と呼ばれる身分に。
信心深いお玉の願いが叶い、20歳で見事、男子を授かります。しかしその子は
家光の三番目の男子。世継になる可能性は薄かったのですが・・・
運命の女神はここでもお玉に微笑みかけます。家光の後を継いでいた
四代将軍家綱が突然病死。家綱には世継となる男子がおりませんでした。
次の候補である家光の二男・綱重はすでに亡くなっており、遂にお玉の子
綱吉が徳川五代将軍に!
時に、お玉(桂昌院)54歳。念願かなって将軍の母に。



↑本堂にある「お守り納めどころ」
子犬が玉の輿を担いでいる姿だそうです。玉の部分に前年のお守りを納める。
これも桂昌院に因んだものですね。

綱吉と言えば「生類憐みの令」。犬公方と揶揄され治世の評価は低いですが
将軍になるまでかなりの年月がかかっている。その間も夢を諦めなかった母、
桂昌院は綱吉に学問や文化を身に着けさせたかなりの教育ママだったようです。
そんなインテリ将軍の時代は元禄。世は決して平穏じゃなかったようですね。
富士山が噴火したのもこの頃かな・・・大火や飢饉にも見舞われました。
政治的には水戸光圀(黄門さま)は生類憐みの令に反発して、
綱吉に犬の毛皮を送ったって逸話もあります。対立していたのですね。

母である桂昌院の悩みは次の将軍、後継ぎです。綱吉には将軍になる直前に
生まれた長男がいましたが、5歳で病死(七五三の祝いは、この綱吉の子の
健康を願ったのが始まりとされています)
その後、子を授かることがなく躍起になった(?)桂昌院は「子が授からないのは
仏教の功徳が足らないから」と考え、常識を越えた規模の功徳を積みます。
かつて幼少のころ身を寄せた善峯寺の大規模な復興はもとより、東大寺、
法隆寺、唐招提寺、室生寺などの有名なお寺や全国各地、数百に及ぶお寺の
復興に尽力されたようで、九目結紋を見つけたらここも綱吉・桂昌院が
助けたお寺なんだなと感じて下さい。ただ、そのせいで幕府の財政は困窮。
結局、願い叶わず世継もできず・・・1704年、59歳になった綱吉は、
自らの子を諦め養子を迎え入れます。その翌年、我が子の血筋を残すという
シンデレラの最後の願いは叶わないままその幕を閉じます。
桂昌院 死去(享年79歳)




さて、奥の院に繋がる階段は・・・ふぅ~ッ!
興味の無い日本史話を読まされるのとどっちが楽やろ。(^_^ゞ


奥の院「薬師堂」



奥の院からの眺望はさすがに一番高台、素晴らしいです。



「蓮華寿院庭」の池、「青蓮の滝」にもモリアオガエルの巣がいっぱい。


??
奥の院よりまだ先(上)にありました。何だったのかな?


???
これまた、何コレ!


「阿弥陀堂」
もう中腹?まで下ってきました。


緩やかな石畳の参道、ほっとします。    「本坊」の門。




「遊龍の松」越しに「経堂」「多宝塔」がちらり・・・ここまで降りれば
もうすぐです。本堂、山門、そして駐車場まで。



2000年にオープンした「寺宝館文殊堂」。 駐車場も近代的?

来た時はほぼ満車状態、アジサイ満開見頃だったしね。
帰りは、ここでもまた閉門時間まで居ましたから・・・


おまっとぉ~はん。(=お待ちどうさん。たまには京ことばを♪)





2012.6/24、善峯寺にて。



○宗派:天台宗単立 ○開基:源算上人
○御本尊:千手観世音菩薩 ○創建:長元2(1029)年

御詠歌「野をもすぎ 山路にむかふ 雨の空 善峯よりも 晴るる夕立」

第二十番札所 西山 善峯寺

2012-09-11 23:58:04 | 西国三十三所巡礼
京都市西京区にある『西山 善峯寺(よしみねでら)』、第二十番札所です。
京都盆地は単純に言って東山、北山、西山に囲まれています。それぞれ
ひとつの山の名前ではなく連峰ですが、このお寺はその西山に創られた
広大な寺院です。春は桜、初夏は紫陽花、秋は紅葉の名所として、
関西随一の景勝地である山寺と言われています。
紫陽花の様子は前に紹介アップ済み。

とにかく広いですが山の中腹ですから平地はほとんどない。
境内での移動は坂道、石段の連続です。
土地には余裕があるので駐車場も広く、かなりの台数が停められるよう
整備されています(有料)。

バス停から徒歩だと、これまた長い階段を登ってくることになるようです。
そして駐車場の端っこのここ↓に到着です。


駐車場からてくてく坂道を登っていくと、重厚で立派な山門が現れます。






このお寺、1029年(長元2年)源算が創建。(西国三十三所の中では最も新しい)
1034年(長元7年)には後一条天皇により鎮護国家の勅願所と定められ
「良峯寺」の寺号を賜り、以来歴朝の御崇敬篤く、鎌倉時代には慈円大僧正や
浄土宗西山派の祖、証空上人が、また、青蓮院の宮様が代々当寺の住職を
されたので「西山宮門跡」と呼ばれました。
鎌倉時代初期には源頼朝との親交も深くなり、1192年(いいくに創ろう鎌倉幕府)には、
鳥羽上皇より慈円のために「良峯寺」を「善峯寺」と改め、自筆の寺額も賜ります。
このように朝廷・幕府の庇護により僧坊52の多きに及んだ善峯寺も、
応仁の乱の兵火にかかり、焦土と化してしまうのですが・・・
江戸時代に桂昌院(徳川家光の側室で、5代将軍綱吉の生母)の寄進によって
再興され、山林42万5千坪を寺領とし明治に至ります。(現在の境内は3万坪)
今もあちこちに「桂昌院寄進」が目立つお寺です。



山門には源頼朝が寄進したと伝えられている運慶作の文殊菩薩像が楼上に、
両脇には仁王像が安置されています。



山門をくぐると緩やかな傾斜の参道がありますが、
すぐに急な石段を登ることになります。



伽藍の建つ場所はさすがに平地ですが、狭いです。それらを結ぶ通路は
坂道、階段ばかり・・・
このお寺を創建するにあたり、こんな言い伝えが残っています。
 山が険しく建立は困難を極め、困り果てていた源算上人。
 ある夜、上人の夢枕に一人の老翁があらわれ、「カを貸してあげよう」
 とのお告げ、 次の夜、野猪の大群が、一夜にして牙で大岩をうがち、
 地ならしをしてくれたそうです。
そのおかげで、この山中に伽藍を建立することができたと伝えられています。
何か「もののけ姫」のワンシーンを思い出しますが・・・





「観音堂」本堂です。
ご本尊は仁弘法師作の十一面千手観世音菩薩。脇立に源算上人作の
十一面千手観世音菩薩。開基である源算上人の作が脇とは、逆な気が
するのですが何か事情があるのでしょうね。「脇の本尊」と呼ぶ人も
いるようですが、このダブル千手観音像は秘仏とされています。





「御香水井戸」
本堂の横にあります。この御香水をいただけば長寿のご利益があるとのこと。
お寺の開基、源算上人は117歳の長寿を全うされたとか、ご利益ありそうです。
生水は身体に悪そうなので飲みませんでしたが・・・(^_^ゞ



本堂に向かい合うように休憩所がありました。中には賓頭盧尊者さんや
三十三所の御本尊レプリカが並べてあります。



休憩所にはこんな貼り紙が・・・阪神大震災の際に、高架が落ちた阪神高速の
ギリギリで停止して、墜落を免れたバスの運転手さん(ミラクル・フクちゃん)が、
善峯寺のお守りを肌身離さず持っていたそうです。
そこから「落ちない」お守りとして、受験生などに話題になったのだとか。


「大師堂」             「手水舎」


「弘法大師像」


「つりがね堂」           「護摩堂」
桂昌院が徳川五代将軍綱吉公の厄除けのため寄贈されたことから
「厄除けの鐘」と呼ばれています。


「多宝塔」             「経堂」(絵馬堂)


経堂の屋根には何やらキャラクターっぽい・・・



経堂には桂昌院が鐵眼の一切経を納めらてます。
その周りには祈願成就の絵馬がたくさん並んでます。どんな願い事が
書いてあるか読むのも面白いもので・・・(^_^ゞ




これ誰やったかな・・・思い出せません。

追記>傅大士像でした。
傅大士=中国、南北朝時代の在俗仏教者。斉の東陽の人。本名、傅翕(ふきゅう)。
善慧大士と号し、双林寺を建て、大蔵経を閲覧する便をはかって、転輪蔵を創始した。
後世、経蔵などにその像が置かれ、俗に「笑い仏」といわれる。


2012.6/24、善峯寺にて。

第十九番札所 霊ゆう山 行願寺(革堂)

2012-07-31 23:50:54 | 西国三十三所巡礼
『霊ゆう山 行願寺(ぎょうがんじ)』、通称「革堂(こうどう)」です。
霊ゆう山の「ゆう」の字は変換できないようです。鹿の下に「匕」が付きます。
かなり特殊な字のようで、この漢字のことを調べようとしても
このお寺のことしか出てきませんでした・・・



京都市中京区寺町通竹屋町上ル、ここも街中にあります。
17番 六波羅蜜寺、18番 頂法寺(六角堂)と同じ日、バイクで移動三連チャン。










このお寺の開基、行円上人は、もともと猟師だった。ある時に山中で雌鹿を
射止めたのですが、お腹には仔鹿がいて、死に際に仔鹿が生まれてくるのを
見た上人は、殺生の罪深さを知って仏門に入ったと伝えられています。
その牝鹿の皮で法衣をつくり、常に身につけていたことから革聖(かわひじり、
革上人と呼ばれ庶民に命の尊さを説いて回られたとか・・・

創建の地は京都御所の西、現在の京都市上京区小川通一条辺り。
その名残か、山門前の石碑には「一条かうだう」と刻まれています。これは
かつて一条にあったことなのか、一条天皇の勅願寺なのでか諸説あります。
逆に創建の地付近には革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残っています。








寺は1590年、豊臣秀吉によって寺町通荒神口に移され、さらに1708年の
宝永の大火後、現在地に移り、新たな逸話を生むことになります。

時は江戸後期。寺近くの質屋に、江州からお文という娘が子守の奉公に来ていた。
熱心な法華信者であった質屋の主人は、お文が寺に日参し、自然とお堂から聞こえてくる
御詠歌「花を見て 今は望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん」をそらんじ、
子にうたい聞かせるのが気に入らず、せっかんして死なせてしまった。
主人は彼女の両親には男と失踪したと知らぬ顔を決め込んだ。
その話に納得できない両親は、革堂の千手観音像に娘の無事を祈ります。
すると、お文の亡霊が現れ、
「主人に殺され庭に埋められています、鏡を一緒に埋めてください」と告げました。
鏡は奉公に行く際に母親からもらった大切な手鏡のことです。事実を知った両親は
娘を不憫に思い、お文の子守りをしている姿を絵馬に描き、手鏡と一緒に奉納しました。
この手鏡は絵馬の裏側にあり、まるで悲話を語り継いでいるかのようです。

これがこの寺に残されている「幽霊絵馬」の伝説。ちなみに悪行を犯した主人は
処刑されたとのこと。現存する「幽霊絵馬」は縦1m、横30cmの板に手鏡がはまり、
子守をするお文の姿が描かれているそうです。
8月22日~24日の3日間に行われる幽霊絵馬供養の際には絵馬を拝観することができます。



「延命地蔵菩薩堂」と「手水舎」



「本堂」
大きなお堂ではありませんが、なかなか重厚です。


鬼瓦さんも立派。


ここの賓頭盧尊者さん、
前掛け?に隠れてほとんど姿が見えません・・・

ちなみにこのお寺、現在は西国三十三ヶ所の中で唯一の尼寺となっています。


「行円上人真影」石碑
皮聖(かわのひじり)と呼ばれた行円上人の姿が描かれています。
そう言えば六波羅蜜寺の空也上人も鹿の皮ころもを身につけていたと・・・
30年ほどの年代差はあるようですが、この頃の流行ファッション?(^_^ゞ
鹿皮の衣というのは当時かなり奇抜で、世に存在を知らしめることに。
空也上人は好きだった鹿が猟師に殺されたものを。行円上人は猟師であった時、
自分が殺生した鹿の皮を、両者とも生涯身に着けたと言いますから、
似ているようで異なる?でも共通点を感じてしまいます。


「灯籠」

行願寺は西国札所だけではなく、『京都七福神巡り』の一つでもあります。







行願寺には寿老人が祀られています。鹿つながりでしょうか?
※寿老人…人の寿命を支配する星の化身で三千年の長寿を保つ玄鹿を従え、
人々の難を払う団扇を持っていることから、福財・子宝・諸病平癒・長寿の
功徳ありといわれています。


「愛染堂」と「寿老人神堂」


「寿老人神堂」の中を覗くと寿老人が・・・♪



「鐘楼」と「鎮宅霊符神堂」が並んでいます。



こうして見ると、こぢんまりですが凝縮されているような。
ここもまた街中のオアシスのようなお寺でした。

さて、境内のさらに奥には


「宝篋印塔」と「百体地蔵尊」





「加茂大明神五輪塔」
五輪塔の水輪がくり抜かれており、その穴の中に「加茂大明神」が祀られている。




2012.5/27、革堂(行願寺)にて。



○宗派:天台宗 ○開基:行円上人
○御本尊:千手観世音菩薩 ○創建:寛弘元(1004)年

御詠歌「花を見て いまは望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん」

第十八番札所 紫雲山 頂法寺(六角堂)

2012-07-15 23:58:18 | 西国三十三所巡礼
『六角堂』西国三十三所観音霊場の中でも最も市街地にあるんじゃないかな。
「紫雲山 頂法寺(しうんざん ちょうほうじ)」って、正式な寺号があるのですが、
京都の人間でもピンとこない、それほど「六角堂」が通称になっています。
愛称で呼ばれるお寺の集まった「通称寺の会」に六角堂も属しているそうな。










烏丸通りから六角通りを東へ曲がってすぐのところに、立派な山門があり、
ここが六角堂への入り口です。正面に六角堂がどんと腰を据えています。
周りはビジネス街、ビルに囲まれた小さなお寺ですが、山門をくぐると
別世界な落ち着いた空間があるのが京都らしいかも。

本堂(六角堂)へ向う右側に大きな柳の木があります。六角柳と呼ばれている
この木は、植物辞典にも学名「ロッカクドウ」という名で記されているとか。
平安時代初め、婚活中の嵯峨天皇の夢枕に「六角堂の柳の下を見よ」との
お告げがあり、行ってみるとそこには絶世の美女が。その後、この柳は
「縁結びの柳」として良縁を求める人たちのおみくじで鈴なりです。













587年、聖徳太子を開基として創建されたと伝えられています。
本尊は太子の護持仏といわれる御丈1寸8分(約5.5cm)の如意輪観世音菩薩で、
秘仏とされているので見ることはできませんが・・・
ここも創建以来、数度の火災にあい、現在の建物は明治10年(1877)のものです。

柱を背にしている金ぴかの釈迦像は「ふれあい仏」と呼ばれ、
金箔札を、願いを念じながら貼るようです。



「お地藏さん」
境内の西側には、たくさんのお地蔵さんが安置されています。
北にあるのは「北向地蔵」。京都御所を守るため、北を向いているのだそうです。
その横には「わらべ地蔵」や、寝た姿、立っていたり座ったりといろいろな
ポーズをされていますが、それぞれに行を修しておられる姿なのだとか。


不動明王舎の脇には
和製モアイくん? 正体不明でした・・・(^_^ゞ





「へそ石」
もとは門前の六角通りにあったものを、明治初期にこの場所に移したのですが、
かつて、ここが京都の中心地だったので「へそ石」と呼ばれています。



「十六羅漢と邪鬼」
『羅漢』とは仏の教えを護り伝えることの出来る優れたお坊様に与えられた名前です。
『十六』は方位の四方八方を倍にした十六を表し、あらゆる場所に羅漢様が
おられることを意味しています。この羅漢様は、「和顔(わげん)愛語(あいご)」
を実践し、いつも「にこにこ」されています。「和顔愛語」の教えとは、
いつも優しい顔つきで、穏やかに話をするように心がけてさえいれば、
必ず良い報いがあると説かれたものです。
皆さんも、この羅漢様のように一日にこにこを心がけましょう。

この羅漢様の周りには邪鬼がいます。仏教をなかなか理解せず、ひねくれて
仏教信者とならない。そんな衆生を邪鬼といいます。
中には改心した邪鬼もいます。境内にもところどころに・・・(HPより)






「合掌地蔵」
このお地蔵さまは、お参りに来られた方の願いが叶えられるようにと、
一緒にお祈りしてくださっているのだとか・・・



「一言願い地蔵」
欲張らずに一つだけ願い事をすると、それが叶えられるといわれています。
首を傾けているのは、願いを叶えてあげようか、どうしようかと
考えておられるだとか・・・それって意地悪?
ちゃいますよ、信仰心を見極められているのです。



「親鸞堂」と「太子堂」どちらもやっぱり六角。


「親鸞上人像」
親鸞上人は29歳の時、毎夜比叡山を下り、この六角堂に百日参籠したそうです。
そして「法然の許へ行け」とのお告げを受け、法然上人から浄土宗を学びます。
引き続きまた百日参籠して六角堂から法然の許へと通っていると、
再び六角堂の本尊は親鸞にお告げを与え、日本に新しい救いの教え・浄土真宗を
生み出したと云うことです。



「聖徳太子沐浴の池跡」と「池坊会館」
この六角堂は「いけばな発祥の地」としても有名。
今はプールのようになっていますが、太子が沐浴されたと伝えられる池跡があります。
この池のほとりに小野妹子を始祖と伝える僧侶の住坊があったので「池坊」と
呼ばれるようになりました。池坊の祖先は、朝夕宝前に花を供えてきましたが、
ついには代々いけばなの名手として知られるようになり、いけばながひろがった
というもので、現在は、華道家元池坊総務所があります。


さて、下で見ていると六角堂の特徴がはっきりとは分らないので・・・



隣りのビルのエレベーターのひとつがガラス張りで、展望することができます。






この六角にも教えがあります。
「六の角」とは六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって生ずる六欲のことを
言います。人間の欲望、つまり煩悩を脱して角を無くし、円満になること。
つまり「六根清浄を願う」という祈りが込められているとのことです。



このビルの1階にあるスタバ(烏丸通からも入れます)は、まさに六角堂の
展望室?境内を眺めながらコーヒーブレイクが愉しめます。


この邪気くんは、改心しようかどうかまだ考えちうなのかな・・・(^_^ゞ


2012.5/27、六角堂にて。



○宗派:天台系単立 ○開基:聖徳太子
○御本尊:如意輪観世音菩薩 ○創建:用明天皇2(587)年

御詠歌「わが思う 心のうちは 六の角 ただ円かれと 祈るなりけり」

第十七番札所 補陀洛山 六波羅蜜寺

2012-06-30 01:53:51 | 西国三十三所巡礼
西国三十三所観音霊場、京都市内のお寺が続きます。
番外元慶寺から7連続。特に17・六波羅蜜寺、18・六角堂、19・革堂は
市街地のお寺です。で、1日3寺、一気にお参りしました。
まずは『補陀洛山 六波羅蜜寺』(ふだらくさん ろくはらみつじ)



市内をうろうろするにはコレに限ります。XLとスクーター♪




本堂正面の門、近世っぽい門ですがここからは入れません。

お寺の位置は五条大橋から少し北東にあります。住所は、
東山区松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町・・・
町名、怪しいです。(^_^ゞ 「ろくろちょう」って読むのですが。
このあたりは、かつて人間の骨が無数に出てきたことから髑髏(どくろ)町と
呼ばれていたのを、江戸時代に町名を変更させたそうです。




境内は広くありません、つーか最小クラス?
ここも御多分に洩れず幾度もの戦禍にまみれ焼失、復興を繰り返したようです。
創建は、951年(天暦5年)醍醐天皇第二皇子でもある空也上人により開創
されたもので、現本堂は1363年(貞治2年)の修営、1969年(昭和44年)に
解体修理が行われたものです。



なぜか、なで牛?



宝物館(有料)では、教科書でもお馴染の「空也上人像」や「平清盛像」
安置されており、本物を観ることができます。

空也上人は教義の奥義を極めたのち、森羅万象に生命を感じ、
ただ南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を
唱える「踊り念仏」で、仏教を民衆へ広げるため常に市民の中にあって
伝道に励んだので、「市の聖」と呼ばれました。天皇の子だったのにね。
当時、都で流行った悪疫の際は自ら彫った「十一面観世音菩薩像(本尊)」を
車に乗せて市中を曳き回り、病人には小梅干と結昆布を入れた茶を与え
病魔を鎮められたという。(今も皇服茶として正月三日間ここで頂けます)

印象的な「空也上人像」ですが、首から鉦(かね)を提げ、手に撞木と
鹿の角を付けた杖を持ち、草鞋を履いた清貧な僧侶の姿の像です。
口から6体の小さな「阿弥陀如来像」が吐き出されているのが何とも・・・これは「南無阿弥陀仏」の6文字を象徴しているんだそうです。

鹿の角が付いた杖についの逸話も面白いです。
空也上人が鞍馬山に閑居している時に毎日、側にやって来る鹿がいたそうです。
上人はこの鹿の鳴き声を愛し、鹿が来るのを楽しみにしていた。ところが
ある日から鹿はやって来なくなり、山へ様子を見に行くと、定盛という
猟師が鹿を射殺していたそうです。
大変悲しんだ上人はその皮と角を請い受け、皮をかわごろもとし、角を
杖頭につけて生涯我が身から離さなかったといいます。
また定盛も自らの殺生を悔いて上人の弟子となり、衆生の能化につとめました。
その子孫も有髪の姿に黒衣をまとって踊り、念仏しながら瓢をたたいて
市中を徘徊。これが今に伝わる六斎念仏踊りなんだそうです。




平安後期、広大な境域内には六波羅殿と呼ばれ、平清盛ら平家一門の屋敷が
栄え、その数5200余りに及んだという。その縁からかここには
「平清盛公の塚」が存在します。その隣りにあるのは「阿古屋塚」です。
阿古屋は、平景清の愛人。京都五条坂の遊女で、「壇浦兜軍記」などに
登場します。ちなみに今年六月の南座「坂東玉三郎特別公演」では
玉三郎さんがこの阿古屋を演じらました。(観に行ってへんけど)





「弁財天堂」



阿弥陀如来石仏(鎌倉時代作) 左奥に見えているのは「阿古屋地蔵尊」


たくさんのお地藏さんのピラミッド?

六波羅蜜寺に向かう角に「六道之辻」という石塔が立っている。
六道とは、生前の善悪の行いによって 導かれる冥界で、
天上、人間、修羅、 鬼畜(畜生)、餓鬼、地獄のこと。

地蔵さまは六道にいる人間の苦を救う仏で、この世からあの世へ、
またあの世からこの世へ、さ迷える魂の送迎をする。
地獄に落ちた亡者を救えるのは唯一、地蔵菩薩しかいないのである。

もともとこの地域は鳥辺野(とりべの)と呼ばれる葬送地。
泉涌寺辺りの鳥戸野(とりべの)とは異なり、こちらは一般庶民の
死骸の捨て場的なところ。埋葬もされず野晒しの骸がごろごろ・・・
だったのかも知れない。それで地蔵信仰が特に篤いのかと。



「本堂」







最後に六波羅蜜についてさわりだけ・・・
波羅蜜、波羅蜜多はサンスクリット語でパーラミター。仏教における
菩薩の基本的な実践徳目である。
『般若経』では般若波羅蜜(般若波羅蜜多)ほか全6種(六波羅蜜)を、
数える。
詳しくは『HP』『ウィキペディア』で。(^_^ゞ

六波羅の地名の由来には異説も・・・それは「六原」と書くもの。
六の「ろく」は霊の古語で、墓所(むしょ)がなまって六所となったごとく、
霊が多く集まる原野ということから六原の名が付いたと言うものです。

ちなみに六所神社(ろくしょじんじゃ)というのは全国にありますが
京都・山科にもあります。例の東山トンネルのところに・・・





2012.5/27、六波羅蜜寺にて。



○宗派:真言宗智山派 ○開基:空也上人
○御本尊:十一面観世音菩薩 ○創建:天暦5(951)年

御詠歌「重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば」

第十六番札所 音羽山 清水寺

2012-06-12 23:04:32 | 西国三十三所巡礼
西国三十三ヶ所観音霊場、第十六番札所は第十五番札所「今熊野観音寺」と同じく
京都市東山区にある『音羽山 清水寺(おとわやま きよみずでら)』です。
京都を代表する観光地のひとつでもあり、世界遺産に指定されている
超有名なお寺。なので詳しい説明は無しにして・・・写真をたっぷり。

トップの写真は清水寺の正門でもある「仁王門」。中に安置されている
仁王像は京都でも最大級といわれています。



「仁王門前の狛犬」
左右両方の狛犬の口がどちらも「阿形(あぎょう)」=開口した形になっています。
東大寺南大門にある狛犬をモデルにして造られたもので、同じように宇治市の
宇治神社にも「阿-阿」の狛犬があります。



「西門」と「三重塔」
西門(さいもん)は門というより拝殿風に前に向拝が突き出ています。
三重塔も桃山時代の様式美を今に伝えるもので、三重塔としては
日本最大級の高さ(31m)だそうです。






「鐘楼」
この鐘楼は柱が6本ある珍しいものです。ちなみに本堂手前の手水舎の柱は
2本しかありません。(^_^ゞ






「千体石仏群」
成就院参道の右手には、数多くの様々な石仏が置かれています。
明治の廃仏毀釈の際に捨てるに忍びないと、地蔵信仰の篤い京都市民から
ここに運び込まれたものだそうです。



「成就院(じょうじゅいん)」
清水寺本坊塔頭ですが、幕末には西郷隆盛をはじめとする勤皇の志士たちが
密談を交わした場所だったそうです。
大西良慶和上はここに約70年間住まわれていました。
“月の庭”と呼ばれる素晴らしい庭園があり国指定の名勝に指定されています。






「田村堂」(開山堂)


手前から「田村堂」「経堂」「三重塔」「西門」と
朱塗りの美しい伽藍が並んでいます。



「?」
「梟の手水鉢(ふくろうのちょうずばち)」の横に建っている手水舎?
門のようでありお堂のようでもあり、2本柱で建っています。


「轟橋(とどろきばし)」と「轟門(とどろきもん)」
轟橋は梟の手水鉢の横にある石橋ですが、下に水は流れていません。
この轟橋を渡れば轟門。三間一戸の八脚門で、ここを通って本堂へと向かいます。
切妻造り、本瓦葺で、妻や天井の構造は東大寺転害門を縮小して写しています。


轟門をくぐって回廊を抜けると本堂です。



内陣は厳かな感じ、ご本尊は内々陣の厨子の内に祀られている
清水型といわれる十一面四十二臂千手観音で秘仏とされています。



「出世大黒天像」
人気者のテカテカの大黒さんですが、室町時代の姿を再現したものだそうです。



「大日如来坐像」
陸前高田の流出松を使用して京都伝統工芸大学の学生さん達が作ったもので
今年5月1日に奉納されたものです。詳しくはコラム「清水寺よだん堂」に。


さて、何と言っても清水寺といえば、本堂から張り出した懸造りの「舞台」。
最長約12メートルの巨大な欅の柱を並べ釘を一本も使わずに組み上げた
木造建築です。現存の本堂は徳川家光の寄進により、寛永10年(1633年)に
再建されたものといわれており、舞台組みの状況は再建時のままだそうです。



























よく見る清水の舞台の写真は、奥の院の参道や子安の塔の方から撮ったもの。
でも今は朝倉堂が工事中でイマイチ、奥の院も子安の塔も修復工事中でした。


「子安の塔」









「音羽の瀧(おとわのたき)」
清水寺の開創の起源であり、寺名の由来となったのがこの瀧です。
瀧といっても水道の蛇口から出るような水が3筋流れ落ちています。
3筋の水にはそれぞれご利益があり、「学業成就」「恋愛成就」「延命長寿」
といわれています。長~いひしゃくに受けて飲むことができますが、
その際注意しておくことがあります。
○3筋すべての水を飲むと受けたご利益が全てなくなってしまいます。
○ひしゃくで受けた水を、2口、3口で飲むとご利益が2分の1、3分の1に
 なるといわれています。1口だけいただきましょう。
いずれも「よくばってはいけない」という戒めなのだそうです。



2012.5/20、清水寺にて。


納経所は地主神社の近くにありました。巡礼では各札所を参拝した証として、
納経帳などに、ご宝印(ご朱印)を押して戴き、墨で本尊を表す文字を
書き込んで戴きます。それと同時にお寺の絵が描かれた紙の札を頂きます。
これ参拝記念の「散華(さんげ)」といいます。寺院で法要をする際、
諸仏を供養するために花が撒かれます。元々は蓮弁をはじめとする生花が
使われましたが、いつのころか蓮の形をかたどった色紙が代用されるように
なったとのこと。だからこんな形をしているのですね。



ここでは、西国三十三所の散華が集められて展示されていました。
実は私の場合、今まで行ったところ全てが揃ってません。施福寺と三室戸寺の
分が欠落してます。諸事情により・・・
ここでもらえないか尋ねたところ、そりゃ駄目って・・・(^_^ゞ



○宗派:北法相宗(大本山) ○開基:延鎮上人
○御本尊:十一面千手千眼観世音菩薩 ○創建:宝亀9年(778)

御詠歌「松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は 涼しかるらん」

第十五番札所 今熊野観音寺

2012-06-01 22:59:23 | 西国三十三所巡礼
西国三十三ヶ所観音霊場、第十五番札所は京都市東山区にある
『新那智山 観音寺(しんなちさん かんのんじ)』
今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)と呼ばれている泉涌寺(せんにゅうじ)の
塔頭(たっちゅう)のひとつです。

東大路通り(東山通り)の東側(東山側)には七条に智積院があり、九条の南には
東福寺がありますが、その間の地域、地名は今熊野(いまくまの)と呼ばれています。
東山七条の東の峰を阿弥陀が峰といい、その峰の南西一帯を鳥戸野(とりべの)
と呼び、北西の一帯を鳥辺野(とりべの)と字を書きかえております。
また両方を合わせて鳥部野(とりべの)という字であらわします。今熊野と
呼ばれる一帯、阿弥陀が峰の南西側鳥戸野の地は、古くから高貴な方々の
葬地であり、いっぽうの鳥辺野は庶民の葬地でした。
その鳥戸野の葬地を掌っていたのが観音寺であります。
・・・分かります?HPからの抜粋ですが、ちょっとディープな説明ですね。




東大路通から泉涌寺道を東に入って行くと、泉涌寺の総門があり、これを越えて
進んで行くと、泉涌寺の手前に今熊野観音寺へ通じる道があります。




車高の低いロードスターだと結構な勾配の下り坂に見えます。




深緑の参道に朱塗りの「鳥居橋」。
(写真は帰りに撮ったもので向きが逆です。一応キープレフト。意味無いけど)

このお寺には山門のようなものはありません。この橋を渡って
参道を行けば境内です。ちょっとした普通の門がありそこを入って行くと
クルマを停めておけるスペースがあります。




本堂へ向う石段を登ると、手水がある広場に出ます。



その広場の中央には「子護弘法大師」像が。
小さな子供が弘法大師の足元にまとわりついてます。

この観音寺の開基は弘法大師空海とされており、上人が唐より帰国後まだ
東寺に居られた時に、東山の山中に光明がさしているのを見られ、そこへ
行ってみると白髪の老翁が現れ、天照大神作の一寸八分の観世音像と宝印を
大師に与え、自らを熊野の権現で、永くこの地の守護神となると告げられたとか。
その熊野権現のお告げのままに一堂を建立され、大師自ら彫られた一尺八寸の
十一面観世音菩薩像の胎内仏として授かった一寸八分の像納め、奉安された
というのがこのお寺の縁起です。



なお、この大師像の周りには四国八十八ヶ所のお砂がまかれており、
「南無大師遍照金剛」と唱えながら廻り祈願するようです。

ここよりまた石段を上って行くと本堂のある広場に出ます。


「五智の井」
この地で、空海が錫杖をもって岩根をうがたれると霊泉が湧き出しました。
・・・弘法大師空海さんの場合、この手の伝説が各地に沢山ある気がします。
大師はこの清水を観音御利生の水として崇められ「五智水」と名付けられました。
今もなお、こんこんと湧き出ている・・・蛇口をひねれば?(^_^ゞ



「大師堂」



この大師堂の前には・・・



このお寺には後白河法皇頭痛封じ霊験記が伝えれており、それによりますと
激しい頭痛持ちだった法皇、今熊野観音に頭痛平癒のご祈願をされたところ
ある日の夜に就寝中の法皇の枕元に観音様が現れ、病める頭に向けて
光明をお差しかけになりました。(今で言うレーザー治療みたいなもん?)
すると永年苦しんでこられた頭痛が、不思議にもたちまちに癒えてしまったとか。
・・・保険外治療かなぁ?よう効くんや!って訳で、「頭の観音さん」と
評判になり、頭痛封じ・智慧授かりなどから今ではぼけ封じ観音として有名。
「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」の第一番札所となっています。
先に参った岩間山正法寺もこの札所のひとつでした。



こちらでは観音様の足元にまとわりつく爺さん、婆さん・・・



お身代わりの石仏が観音像の横にたくさん置かれています。
爺さんバージョン、婆さんバージョンがあるようです。(^_^ゞ




さて、本堂ですが小さいながらも二重屋根の堂々とした造りです。
かつては泉涌寺を凌ぐほどの大寺だったようですが、再三の戦乱、南北朝時代の
兵火では足利氏により復興を成し、応仁・文明の大乱でも伽藍は焼失。
その後復興されたものの、この頃より泉涌寺の塔頭となったようです。



現在の本堂は、江戸時代の1712年に宗恕祖元律師によって建立されたものです。



本堂の向って左側に地蔵堂、その間にご利益グッズ 授与品(お札とかお守り)を
販売されているところがあるのですが、ベストセラーは何と言っても「枕宝布」
枕カバーなんですが、霊験記にあるように観音様が夢枕に立たれ、頭痛を
治されたってことに因んでいるようです。
山中に見える多宝塔は「医聖堂」、頭痛を治されるってことで医学関係?





「三重石塔」
平安時代の創建時のものだそうですが文化財的価値は無いのかな。
「稲荷社」と「熊野権現社」が並んでいます。


「鐘楼」
梵鐘は古いもので太平洋戦争の際、供出されましたが元の姿で戻ったそうです。







医聖堂に向う参道、山道は「今熊野西国霊場」と言われ、西国三十三ヶ所霊場
の各御本尊を石仏としておさめた祠が並んでいます。
三十三あったのでしょうね。数えるのを忘れましたが・・・




竹林と森の先に医聖堂(多宝塔)が見えてきました。






日本の医学の発展に貢献した人々を祀っているということらしいです。


「医心方の記念碑」
医心方とは日本最古の医学書だそうで。石碑は医聖堂の傍らにあります。



側には医家の氏名が彫られた石碑も置かれています。当初は奈良、平安時代
から江戸時代までの122人の医家の氏名が刻まれた碑一個のだったようですが、
現在は明治以降の医家の名前が刻まれた碑が追加されています。
緒方洪庵、貝原益軒、前野良沢、杉田玄白、華岡青州などの名前がありました。





2012.5/13、今熊野観音寺にて。



○宗派:真言宗泉涌寺派 ○開基:弘法大師
○御本尊:十一面観世音菩薩 ○創建:天長年間(824~834)

御詠歌「昔より 立つとも知らぬ 今熊野 ほとけの誓い あらたなりけり」

番外 元慶寺

2012-05-22 23:52:29 | 西国三十三所巡礼
西国三十三所観音霊場巡り、二つ目の番外寺です。
京都市山科区にある『華頂山 元慶寺(かちょうざん がんけいじ)』

番外札所とは西国巡礼の創始やその後の発展に関係のある特別な寺院で、
・奈良県桜井市。「法起院」西国三十三所観音巡礼を最初に始めた徳道上人が
 晩年を過ごし、上人の廟がある。
・京都市。「元慶寺」西国三十三所観音巡礼を中興した花山法皇が落飾した寺。
・兵庫県三田市。花山院菩提寺 花山法皇が隠棲し余生を送り、入寂した寺。
この三寺です。

元慶寺の創建は平安時代。桓武天皇の孫に当たる遍昭僧正が貞観11年(869)に
華山寺を創建し、その後元慶元年(877)に清和天皇の勅願寺となって名が変わり
元慶寺となりました。天台宗の寺で、年号を寺名とした年号寺でもあります。
当時はかなりの規模と権勢を誇っていたようですが、今は小さなお寺です。


「山門」は竜宮門になってまいます。

竜宮門は珍しく、京都では伏見の長建寺、深草の石峰寺、大原古知谷の
阿弥陀寺、東山の法住寺、宇治の興聖寺などで見られます。

実はこのお寺、自宅の二階から見えるくらいの距離にあります。(^_^ゞ
したがって、徒歩での参拝です。



こんな細道をちょろちょろと・・・


クルマならバス通り(と言っても狭いですが)からここ↓に入ります。
写真では広く見えてますが、とぉ~ても狭いです。左折では入れないかも。
よりによってプラドで来られた強者も居られたようですが。(^_^ゞ





左手に2台ほど停められる無料駐車場があります。
プラドだとさぞ汗かきものだったのでは?
霊場巡りバスツアーの団体さんも数多く来られる寺ですが、観光バスなんて
とても入れません。おそらく国道1号線沿いの駐車場に停めてそこから
歩いて来られるようです。いつもお遍路姿の団体さんをよく見かけますもん。




山門の中には梵天、帝釈天像が置かれていたようですが、今は
京都国立博物館に出張中。つーか、委託中。










境内には石碑が色々見られます。上のは僧正遍昭の歌碑。
開基の僧正遍昭は六歌仙の一人として知られており、百人一首のなかでも
特に有名な『天つ風 雲のかよひぢ 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ』の
作者でもあります。子供の頃、父親の影響で正月などによく小倉百人一首の
カルタで遊びました。田村将軍堂謹製だったかな、任天堂も今はゲーム会社
として有名ですが、もともとはカルタの会社で今でも作っているはずです。

「あまつかぜ~」と上の句を詠まれたら「おとめ!おとめ~!」って
概ね真っ先に覚える句のひとつじゃないかな?
気休めに坊主めくりをすると、この札には僧正遍昭の絵が描かれているので
「なんや、乙女やのに坊主かいな・・・」ってことになります。(^_^ゞ

話が逸れましたが、真ん中の石碑は元慶寺の沿革と再興の経緯を記したもの。
下のは・・・ん~、よく解りませんでした。
他にも「人皇六拾五代花山院法皇御落飾道塲」と彫られた石碑や
「遍昭僧正御墓」の石碑も。少し離れたところには宮内庁治定僧正遍照墓が
あるそうですが、見たことは無いです。



花山院法皇御落飾道塲とは、花山天皇がこの寺で出家し花山法皇となった
とされているしるしです。
花山天皇はこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、
皇位復帰の道を絶たれてしまう悲運の天皇。法皇となってから廃れかけていた
西国霊場を復活させた人で、西国霊場中興の祖として知られています。

山科でもこの辺りは「花山(かさん)」の地名が残っているし、東山将軍塚
近くにある京都大学花山天文台は有名。そして、花山中学校は我が母校です。







広くはないですが、お庭もキレイにされています。










2012.5/3、元慶寺にて。



○宗派:天台宗 ○開基:僧正遍昭
○御本尊: 薬師如来 ○創建:元慶元年(877年)

御詠歌「待てといわば いともかしこし花山(はなやま)に しばしと啼(な)かん 鳥の音もがな」

第十四番札所 三井寺

2012-05-14 22:15:26 | 西国三十三所巡礼
西国三十三所観音霊場巡り、第十四番札所は滋賀県大津市にある
『三井寺(みいでら)』
正式には「長等山 園城寺(ながらさん おんじょうじ)」といい、
天台寺門宗の総本山です。

西国三十三所の第二番札所に和歌山の紀三井寺がありましたが、
あちらは救世観音宗の総本山で、寺名の由来は清浄水、吉祥水、楊柳水と
呼ばれる三つの湧水があったことからきています。
三井寺の方は、天智・天武・持統の三帝の産湯に用いられた霊泉
「御井(みい)」に由来するというものでした。


かなり広いお寺で、境内を回るのもハイキングなみ・・・ほぼ順路通り回りました。
駐車場から>仁王門>釈迦堂>鐘楼(三井の晩鐘)>金堂>閼伽井屋>
霊鐘堂(弁慶の引摺り鐘)>一切経蔵>唐院(三重塔・潅頂堂・長日護摩堂・大師堂)
>村雲橋>勧学院・・・ここまでは前記しましたが、
西国十四番札所、納経所にまだ辿り着きません。



どうやら観音堂まで行かないと御朱印はもらえないようです。

観音堂まで行く拝観順路には・・・


「微妙寺」(左)、「天台智者大師」像(右)

微妙寺(びみょうじ)は園城寺五別所のひとつで、湖国十一面観音霊場の
第一番札所。ご本尊は平安初期の十一面観音(重文)が安置されています。
ちなみに写真に写っているお二人は微妙な関係では無いと思われます。アシカラズ

天台智者大師とは、天台寺門宗の宗祖であり園城寺の初代長吏(管長・別当)
である円珍和尚のことです。落語家みたいな名前ですが、偉い人です。(^_^ゞ

弘法大師空海の姪の子として生れ、14歳で比叡山延暦寺に入山。
19歳から12年間籠山修行されます。唐にも渡り、入唐八家(最澄・空海・
常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人に数えられています。
第五世天台座主(てんだいざす)も務め、没後智証大師の諡号が与えらえました。
園城寺の秘仏・金色不動明王(黄不動尊)画像〔国宝〕は、籠山修行中
感得した金色不動明王の姿を描いたものとされています。



「衆宝観音」
この観音を信仰すれば財宝が貯まり、福徳を授けられ出世が叶うと書かれて
います。そんなありがた~い観音様なのに素通りする方がほとんど。


「南無童地蔵菩薩」、「童観音菩薩」像
こちらは結構、みんな見て行くのにね・・・


「毘沙門堂」(左)、「十八明神」(右)
十八明神は「ねずみの宮」と呼ばれています。その所以は→〔伝説〕


やっと観音堂への入口です・・・


石段は、珍しく急勾配ではありませんが、それまで随分歩いているので・・・


「鐘楼」
石段を登りつめた右手に鐘楼があり、童子鐘と呼ばれています。
かつては、「童子因縁之鐘」と呼ばれる鐘が釣られていました。→〔伝説〕


「百体堂」(左)、「観月舞台」(右)。
百体堂には、西国三十三所、秩父三十四ヶ所、坂東三十三ヶ所、合わせて
百体の観音さんがお祀りしてあります。




観月舞台、古来より観月の名所として知られてきた三井寺にふさわしい
優美な建物ですが・・・立入り禁止でしたw


やっとこさ、札所になっている「観音堂」です。



ご本尊は如意輪観世音菩薩。平安時代の作とされ、三十三年毎に開扉される
秘仏です。前回のご開帳は花山法皇一千年御忌を記念して2年前倒しの
平成22年、と言うことは今度は平成55年・・・平成じゃないだろうな。
2043年ってことに・・・私、生きて居ればちょうど90歳。



ここの「賓頭盧尊者」様。




なんじゃ?このタコ・・・(^_^ゞ




「手水舎」(左)、「絵馬堂」(右)。
手水舎の奥、観音堂の左には「世継地蔵堂」がありました。
絵馬堂は、参拝者の休憩所になっています。横には茶店も。




観音堂周辺だけでもざっとこんな感じ、百体堂・鐘楼・観月舞台、
絵馬堂、世継地蔵堂、手水舎が配置されています。


ここから一段登った所に展望台があるので行ってみます。



日本美術を広く世界に紹介したアメリカ人のフェロノサは琵琶湖の景観を
こよなく愛したとか、この三井寺で仏教に帰依、受戒されました。
のちにロンドンで亡くなりましたが遺言で遺骨は三井寺の境内に葬られ、
いまも静かに琵琶湖を眺めながら眠っているそうです。



展望台の特等席は、おばちゃんグループの井戸端会議の場に・・・w
突然現れた外人さんは、フェロノサのご親戚?ソンナワケナイネ (^_^ゞ



景色は良いのですが、琵琶湖競艇が真下に・・・うるさかったことッ!


「毘沙門堂」
こちらにも毘沙門堂がありました。ここらで順路を外れてしまい
別の出入口から出てしまいました。だから「水観寺」は見れてません。





2012.4/28、三井寺観音堂にて。




○宗派:天台寺門宗(総本山) ○開基:大友与多王
○御本尊:如意輪観世音菩薩 ○創建:朱鳥元(686)年

御詠歌「いで入るや 波間の月を 三井寺の 鐘のひびきに あくる湖」

第十三番札所 石山寺

2012-05-01 11:04:07 | 西国三十三所巡礼
西国三十三所観音霊場巡り、第十三番札所は
『石光山 石山寺(せっこうざん いしやまでら)』
天下の名勝といわれ、滋賀県は大津の南端、清流瀬田川の畔、伽藍山の麓に
位置しています。奈良時代からの最古の歴史と伝統を持つ霊山です。

実は去年のゴールデンウィークの只中、5月4日に訪れました。その時点では
西国巡礼などするつもりは無かったので、こんなに早く再訪するとは
思ってなかった。今回はさっさと・・・とは言え、見どころいっぱいのお寺。
そうそう短時間では済みません。
〔去年のブログ〕〔去年の花便り〕










まいど、また逢いましたね「おおつ光くん」。住民票も持っている大津市民です。


東大門(仁王門)をくぐって、両脇に塔頭(たっちゅう)が並ぶ参道を行くと



入り口ですが、閉門が午後4時45分とな・・・もう4時になろうとしてました。
ゆっくりしじみ釜飯なんて食べてるから。(^_^ゞ
それにしても朝から入っても、1時間も居られなくても同じ入山料・・・ソンヤナァ






全国でも類を見ない巨大な硅灰石(けいかいせき)。〔国の天然記念物〕



まだ花は咲いていませんでしたが、良弁杖桜っていう桜の樹。
石山寺を開山した良弁僧正の杖が根付いたものだとか・・・さし木?
千年以上の桜には見えません、だいたい桜ってそんなに樹齢が長くないし!



毘沙門堂を上から


(左)観音堂の中、(右)手前が毘沙門堂、奥が観音堂。



「本堂」滋賀県最古の木造建築物とされており、国宝です。
内陣は平安時代中期の建築。懸崖造りの外陣(礼堂)は
慶長7(1602)年、淀殿の寄進により増築されたといわれています。


本堂の外陣礼堂への入口北側に花頭窓のある小さな部屋、
「紫式部源氏の間」があります。


江戸時代からこうしてお人形さんを置いて観光客に見せているとか。
あ、モニタとキャラクターは最近になってからでしょうが・・・

平安時代には、石山詣が盛んで観音堂に参籠することが流行ったそうで、
特に清少納言や和泉式部などが石山寺のことをその作品に描いており、
女流文学の開花の舞台となりました。中でも源氏物語の作者として有名な
紫式部は、この石山寺に参籠し、十五夜の名月を眺めたとき源氏物語の
構想を起こしたとされています。






「多宝塔」建久5年(1194年)に源頼朝が寄進したもので、
わが国最古の多宝塔です。昔の4円切手の図柄としても有名。〔国宝〕


「鐘楼」重層袴腰、檜皮葺の入母屋造の様式などから鎌倉時代後期の
造営と考えられています。〔重文〕



「月見亭」、近江八景「石山の秋月」のシンボルとなっている月見亭は、
瀬田川を見下ろす高台に設けられ、後白河上皇の行幸に際して建てられたといい、
その後、歴代天皇の玉座とされました。
前は桜の森のようになっているので、花見の席にも良いでしょうね。


さて、フォトアルバム〔さくら便り〕で前にも紹介したように
梅林や桜の開花状況を写真に撮っていたもので、あっと言う間に時間が過ぎ・・・
閉門の時間を知らせる軽トラからの拡声器の声に、追い立てられて山を降ります。


紫さんはまだ執筆中、門閉まりまっせぇ~!




4時45分ジャスト、東大門、閉められました・・・(^_^ゞ


横のくぐり戸から出してもらいます。


そう言えばこの日は4月8日、灌仏会(かんぶつえ)。
釈迦の誕生を祝う花祭りの日でした。
帰り道、こんな車に遭遇、移動イベント便?






2012.4/8、石山寺にて。





○宗派:東寺真言宗 ○開基:良弁僧正
○御本尊:如意輪観世音菩薩 ○創建:天平19(747)年

御詠歌「後の世を 願うこころは かろくとも ほとけの誓い おもき石山」