カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

第十二番札所 岩間山正法寺

2012-04-26 23:56:49 | 西国三十三所巡礼
西国三十三所観音霊場巡り、第十二番札所は滋賀県大津市の
『岩間山 正法寺(いわまさんしょうほうじ)』、通称「岩間寺」です。
琵琶湖の南、京都と滋賀の境にある岩間山。その山頂付近にあります。
それほど大きなお寺ではありませんが、何やらいろいろ謂れがあるようです。

縁起は古く、奈良時代。722年(養老6年)泰澄(たいちょう)大師が
元正天皇の病を治した褒美として建立された勅願寺院です。
泰澄が霊地を求め岩間山を訪れた折、桂の大樹より千手陀羅尼を感得し、
その桂の木で等身の千手観音像を刻み本尊としたと伝えられていますが
現存していません。
ご本尊は、毎夜日没とともに厨子を抜け出て苦しむ人々を救済すべく
百三十六地獄を駆け巡り、日の出頃、岩間山へ戻られた時には汗びっしょりに
なられているので、そのお姿から「汗かき観音」さんと呼ばれています。


10台ほど停められる駐車場から矢印に従って、東海自然歩道にもなっている
坂道を徒歩3分。鉄筋コンクリートの信徒会館が現れます。
そこで入山料を払って・・・おぉ~っと!



またしても納経帖を忘れました。しかもトランクの上に置きっ放し・・・
取りに戻ります。どこまでボケていることやら。(^_^ゞ




信徒会館のすぐ横にあるのが鐘楼、そしてその前には・・・



このお寺、ぼけ封じで有名。ぼけ封じ十楽観音ってのがありまして。
その前に仏足石が置かれています。その下にはぼけ封じ観音10ヶ寺の砂が
埋めてあり、その上に立つと霊験あらたかだとか。



効くとは思えませんが、一応・・・

ちなみに5月と10月の17日にはぼけ封じ祈願会があり、
柴燈護摩供、火渡り火生三昧、ほうろく灸などが行われます。
ほうろくとは素焼きのお皿で、それを頭に乗せその上でお灸を焚くというもの。
こちらのローカルニュースでよくその様子を伝えられています。



「白姫龍神」
高札は読みましたが、内容は忘れた・・・やっぱり効いてない?



このお寺には山門はありませんでした。
阿吽の仁王像が立っていましたが、最近立てられたのもののようです。



手水舎と会所。会所では俳句の会などされるのかな。



「大師堂」


「稲妻龍王舎」と後ろの大木は「火伏の銀杏」
泰澄大師が雷神を封じ込め、弟子にしたって逸話が残っており、
「雷除け観音」とも呼ばれ、毎年4月17日には雷除け法要が行われる。
残念ながら銀杏の木は葉を全部落としたままだったが、
黄葉の時季などに見れば、かなり見事だと思われます。


「不動堂」



「本堂」



現在の本尊は元正天皇の念持物といわれる15cmほどの金銅製の
千手観音像ですが、秘仏となっており見ることはできません。



ここの賓頭盧尊者さん。


観音堂は本堂から渡り廊下で繋がっています。






前に池があり、その池が・・・



松尾芭蕉が詠んだ有名な句「古池や蛙飛び込む水の音」の古池だそうな。
これに類した話しはよくあるのでにわかに信じることはできないが
芭蕉がこのお寺を訪ねたのは確かだろうし、あながち作り話でも無さそうだ。



「護法龍王拝殿」

境内を奥へと進むと、ご霊木の夫婦桂の木(三代目だそうです)があったり


「黒龍龍王杉 別名:天狗杉」今は根元だけの切り株状態なんですけどね。
かつては遥か鈴鹿峠から見えた巨木だったそうですが、風害で倒木w


この先に行くと「桂の大樹群」「日本随一 長寿桂」って案内板が
立てられています。桂の大樹群としては日本随一だそうで・・・





これがその長寿桂かな、千年有余の時を越え今なお樹勢は旺盛だとか
落葉していても分かる気がしますね。



写真ではイマイチ大きさが伝わらないと思いますが・・・



「八代龍王堂」と、この池が「雷神爪堀湧泉」かな?
この池は、少し下った所にありましたが、泰澄大師により封じ込められた
雷神さん、自らの爪で井戸を掘ったそうで千年涸れることの無い泉が湧いたとか。





帰りは休憩所(信徒会館)でちょっとお茶を




まだ、ストーブが焚かれていました。
アップダウン歩き回ったので汗が出るほどだったのに・・・(^_^ゞ




2012.4/8、岩間寺にて。




○宗派:真言宗 ○開基:泰澄大師
○御本尊:千手観世音菩薩 ○創建:養老6(722)年

御詠歌「みなかみは いづくなるらん 岩間寺 岸うつ波は 松風の音」

第十一番札所 醍醐寺

2012-03-31 23:12:04 | 西国三十三所巡礼
西国三十三所観音霊場巡り、第十一番札所は京都市伏見区にある
『深雪山 上醍醐 准胝堂(みゆきやま かみだいご じゅんていどう)』



世界遺産、醍醐寺は上醍醐と下醍醐に分かれた200万坪以上の広大な境内をもつ。
札所のある上醍醐は険しい山の中、准胝堂は山頂近くにあり三十三所の中でも
一番の難所と言われています。(でも今は・・・)

醍醐寺は全国的に知られた桜の名所なので、その時期に行ったら大変なことに。
巡礼目的なので桜を避けましたが、写真的にはちと寂しいかな。



「霊宝館」
ここの枝垂れ桜は大木で、その見事さは言葉に言い表せないくらいだとか
(私、見たこと無いんです)〔別途入館料要〕



左「三宝院」   右「桜の馬場」正面に仁王門が見えます。
桜の馬場には道の中央にむしろが敷かれていました。お馬ちゃんが走るのかな? 



「三宝院門跡」
ここの庭園も桜の名所、国の特別史跡・特別名勝に指定されています。
建造物の大半が重文で、表書院は国宝です。
ここもまた別途入園料が必要です。今回は巡礼目的なのでパス。(^_^ゞ
でもまだ入ったことが無いのでぜひ観たいところです。

さてこのお寺、創建は874年ですが応仁の乱(1467-1477年)の戦禍により
下醍醐は五重塔を残し三宝院もほとんどの伽藍が全焼し、長く荒廃。
それを復興、再建したのが時の太閤、豊臣秀吉でして・・・
三宝院庭園も「醍醐の花見」を催すため、自ら基本設計したとか。
ま、10年に及ぶ応仁の乱で焼き尽くされた京都の街や社寺を再興したのは
この権威、肩書き好きの天下人。
このおっさんが居なきゃ京都の歴史は途絶えてたかも・・・



「三宝院 唐門」〔国宝〕
平成22年7月に修復を完了、ピカピカになっています。



「西大門(仁王門)」〔重文〕


「金剛力士像」〔重文〕
平安後期の作、あまり恐くないお顔の仁王さんやった。



「金堂」〔国宝〕
手前向って右側に神楽舞台が見えますが、
二月後半の五大力尊仁王会(ごだいりきそんにんのうえ)の際のメインイベント
「餅上げ力奉納」がここで行われます。
この行事は「五大力さん」と呼ばれ親しまれており、力比べは一般参加で、
男性は150kg、女性は90kgの鏡餅を抱え何秒間耐えられるかを競うもの。
京都の早春の風物詩のひとつとして、その様子は毎年、
こちらのTV、新聞で紹介されています。


右側奥のプレハブも気になりますね・・・


実は三十三所最大の難所、上醍醐准胝堂は平成20年8月24日に
ご本尊もろとも落雷によって全焼。半年ほどは上醍醐への
入山も禁止でした。今は行けるようになりましたが、ご朱印、納経は
このプレハブで・・・こんなこともあるのですね。
残念なような、ヨカッタような。(^_^ゞ

私、20歳代の頃、上醍醐に登ったことがあります。山の東側、笠取の方から
途中まで林道をジムニーで行き、ハイキング道(登山道に近い)を、
えっちらおっちら山岳地図じゃないと出ていない道を登り
辿り着いたのですが、当時は門も柵も無く・・・不法侵入だったのかな?








金堂では何やら法要が行われていたようで・・・



ひよこの行列じゃないですよ、厳かなものです。(^_^ゞ






「鐘楼」
同じ世界遺産でも奈良東大寺を観たばかりなので、伽藍の壮大さは
比べるべくも無く・・・






「五重塔」〔国宝〕
これは立派で美しい。醍醐天皇の菩提を弔うため、朱雀天皇が936年(承平6年)に着工、
村上天皇の951年(天暦5年)に完成したもので、
現存する京都府最古の木造建築物です。

小学生の頃だったかな、写生会でこの五重塔を描いた憶えが・・・
何か賞をもらったような、サクラクレパス賞だったかな♪



「清瀧宮拝殿」



「清瀧宮本殿」〔重文〕
醍醐寺の総鎮守清瀧権現(せいりゅうごんげん)を祀る鎮守社。
この周りにも大きな枝垂れ桜が何本かありました。





「不動堂・護摩道場」
不動明王を中心に五体の明王が安置されています。
毎年2月23日(五大力さんの日)この日に限って授与される災難・盗難除けの
お札「御影(みえい)」は、京都の町屋や老舗はもちろん、各家庭の出入り口に
貼られています。我が家でも少し前までは貼るようにしていたのですが・・・



「真如三昧耶堂」



「祖師堂」



「役小角(えんのおづの)=役行者(えんのぎょうじゃ)像」
新しく置かれたのかな、いやにリアル。松崎しげる似?





大伝法院へ行くまでの門。
「洛餓鬼門」とでも呼ぼうか・・・良い門なのに落書や千社札でわやや。



左「大講堂」    右「鐘楼」
この大講堂を中心に広がる、林泉及び弁天堂、地蔵堂、鐘楼、伝法学院等を
総称して大伝法院と呼びます。



「弁天堂」
ここは紅葉スポットだそうです。豊臣秀吉はこの醍醐寺で春に桜の花見、
秋には紅葉狩りの宴を催すつもりで造り上げ、楽しみにしていたようだが・・・
太閤「醍醐の紅葉狩り」は、果たせなかった。この年の夏に伏見城で死去する。





2012.3/11、醍醐寺にて。




○宗派:真言宗醍醐派(総本山) ○開基:聖宝理源大師
○御本尊:准胝観世音菩薩 ○創建:貞観16(874)年

御詠歌「逆縁も もらさで救う 願なれば 准胝堂は たのもしきかな」

第十番札所 三室戸寺

2012-03-21 23:59:03 | 西国三十三所巡礼
西国三十三所観音霊場巡り、第十番札所は京都府宇治市の
『明星山 三室戸寺(みむろとじ)』です。
本山修験宗の別格本山、創建は宝亀元年(770年)と言われているから1242年前。
「花の寺」と言われ、5千坪の大庭園はツツジ、アジサイで有名です。


奈良大安寺から行表法師を迎えて住職とし、御室戸寺と名づけたが、このあと
お寺は光仁、花山、白河の三帝の離宮となったので、御の字を三に改め
三室戸寺と呼ぶようになったとのこと。






この程度の石段はもう驚かなくなりました。




石段を登りきった左側に手水舎。「不動水」とよばれる霊泉だそうです。
蓮型鉢から水が落ち(この日は枯れて?いた)下には不動明王が置かれています。







「本堂」文化11年(1814年)に再建されたもの。
重層入母屋造の重厚な建物で、秘仏の千手観音立像が安置されている。
※再建のきっかけは織田信長vs足利義昭の宇治槇島の戦いの際、足利側に
味方したため、のちに寺領を全て没収された時期(66年間)もあり、
堂宇が廃退し、三十有余年の歳月を費して再建、落成されたのが文化11年でした。




このお寺、伽藍はそれほど多くありません。がら~んとしているわけでも無いけど。


「宝蔵庫」重文の仏像が何体か収められている。「十八神社」(重文)



「阿弥陀堂」
寺伝によると、日野有範(親鸞の父親)の墓だと伝えられています。
親鸞の娘、覚信尼が祖父の有範の墓上に阿弥陀堂を建てて菩提を忌ったというものです。



「三重塔」
もとは兵庫県佐用郡三日月村(現・佐用町)の高蔵寺にあったものを、
明治43年(1910年)に当寺が買い取って移設したものだそうです。



「鐘楼」
簡素な造りですが、参拝者が撞くこともできます。(要・志納)


このお寺、伽藍より目を引くものがあちこちに!
ナンジャコリャ!って・・・言っちゃいけないかな?(^_^ゞ


「狛蛇」(宇賀神)
このお寺には何度か行ってますが、これは今回初めて見るニューフェース♪
来年の巳年には人気が出るかも・・・?
「財運・金運の蛇神で、頭は老翁、体は蛇で蓮に乗る姿をとっています。
宇賀神を撫でると、財運(金運)・良運がつく」・・・ご利益満載。
確か、髭を撫でると健康長寿、そして尻尾を撫でると金運がつくとか。
ちょうど、うら若き女性が熱心に尻尾を擦ってました、ちょっとドキドキ。(^_^ゞ






「狛兎」
本堂前、向って左側に置かれています。この地域は遠い昔「菟道(うじ)」と
呼ばれていたこともあり、ウサギとは縁が深いのですが・・・



ウサギが抱えているボウリングのボールのような玉の中に卵型の石があり、
両手を中に入れ、卵を・・・それが立てば願いが通じると云われています。
もう少し難しいと達成感があるのですが、簡単に立てられます。(^_^ゞ
それにしてもどうして兎に卵なのか?確かに兎は1羽2羽って数えますが。



「狛牛」(宝勝牛)
三体の中では一番古くからあります。本堂前、向って右側。
これの謂れは「バカボンのパパが説明」してくれてます。



口の中には玉が入っていて・・・これが牛王(ごおう)でしょうか、
これを撫でると勝運がつくといわれています。
かつてうら若き女性の集団が「玉、タマッ!きゃはは♪」って騒いでました。



お腹に覗き窓があり、覗くと牛の木像が収められて・・・よく見えないけど。
本物の(?)牛王はこの木像の体内だそうです。




すぐ側には若乃花、貴乃花の手形と絵馬が・・・これのご利益で優勝したとかで。

丑、卯、己・・・次に行った時は何が増えていることやら。



「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」
撫で仏として親しまれています。病んでいる部位を撫でると除病の功徳があるとか。
顔ばかり相当撫でられたのかな?部位を表すお札もありましたが・・・





2012.3/11、三室戸寺にて。




○宗派:本山修験宗 ○開基:行表和尚
○御本尊:千手観世音菩薩 ○創建:宝亀元(770)年

御詠歌「夜もすがら 月を三室戸 わけゆけば 宇治の川瀬に 立つは白波」

第九番札所 南円堂

2012-02-26 23:59:48 | 西国三十三所巡礼
西国三十三所観音霊場巡り、順番通り巡ってますが10寺目(番外1含む)。
第九番札所『興福寺 南円堂』(こうふくじ なんえんどう)
奈良県はここでお終い、番外寺を含めて5寺は思ったより少なかった。
ちなみに京都府は番外を含めると12寺ある。

札所の南円堂は興福寺の堂宇のひとつで、八角円堂としては日本最大級といわれている。
興福寺はよく知られたお寺ですが、訪れるのは初めて。
行ってみると、東大寺や奈良公園、春日大社と隣接しているので何処がどこやら。
この辺り一帯は「古都奈良の文化財」と呼ばれる世界遺産になっている。

駐車場はアチコチにあるが、興福寺国宝館の前に1台分だけ空いたので停めることにした。



国宝館の外観は撮らなかったけれど、中にはあの有名な三面六臂(顔が3つに腕が6本)の
「阿修羅像」など、国宝・重要文化財が数多く置かれている。



「東金堂」〔国宝〕
ここも素晴らしい仏像の宝庫です。ご本尊「薬師三尊像」は重要文化財ですが、
文殊菩薩坐像・維摩居士坐像・十二神将立像・四天王立像など、18体もの国宝が
立ち並ならぶ濃密な空間になっています。



さすが奈良、鹿が・・・シカもナラんでますね。(^_^ゞ





興福寺「五重塔」〔国宝〕
高さは50.8mで、木造としては京都・東寺の五重塔に次ぐ、日本で2番目の高さです。
奈良に無くてはナラないランドマークですね。



「中金堂」只今工事ちう。発掘調査も終え、2018年の落慶を目指しています。


はい、いよいよ南円堂です。





「南円堂」〔重文〕
中には仏師・康慶(運慶の父)作のご本尊「不空羂索観音坐像(国宝)」や
「四天王立像(国宝)」などが安置されてますが、開扉されるのは年に一度だけ。(10/17)
弘仁4年(813年)藤原北家の藤原冬嗣が父・内麻呂追善のため創建した八角堂。
その後、焼失・再建を繰り返し、現在の建物は寛政元年(1789年)四代目の建物である。
なお、平成4年から3年半にわたり解体修理を受けているので、古い建物が多い中、
新しく綺麗である。








ところで「興福寺」の歴史を辿ると、天智天皇8年(669)に藤原鎌足が造立した
釈迦三尊像を安置するため夫人の鏡王女が京都山科に建てた山階寺(やましなでら)が
始まりとされ、その後飛鳥、さらに平城京への遷都にともないこの地に移り、
興福寺と呼ぶようになったそうで、別名「山階寺」ともいうそうだ。

私、五十余年、山科に住んでいるがそんなこと聞いてなかった、知らなかった。(^_^ゞ
調べてみると、なんと数年前「山階寺跡」の石碑を立てたそうだ。

自宅からもほど近く、いつもの散歩コース天智天皇陵の東にあった。


閑話休題



南円堂を南から見たところ。



北から見たところ。


南円堂のちょうど南には「猿沢の池」があり、そちらから上がることもできる。




このルートだと、興福寺の境内を通らず南円堂に直接来れることになる。


階段を上りきった左手に「鐘楼」があった。
ちょうど正午の鐘をつかれてました。




興福寺がこの地に移設されたのは平城遷都と同時、和銅3年(710年)。
藤原氏の氏寺としてだが、同じく藤原氏の氏神「春日大社」や東大寺より前である。
摂関家藤原北家の隆盛とともに、大和国一国の荘園のほとんどを領し
その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。
最盛期には四町四方に170坊あまりの堂舎が立ち並ぶ大寺院となり、
鎌倉・室町時代の武士の時代になっても僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、
幕府は守護を置くことができず大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。
後に織田・豊臣の力に屈し、知行を春日社興福寺合体で2万1千石とされ、
その石高は江戸時代も守られたのですが、明治になり神仏分離令、廃仏毀釈の
波に呑み込まれ、子院はすべて廃止、寺領は没収され・・・
その危機を乗り越えて今に至るのだが、廃仏毀釈の行き過ぎぶりを語るときに
興福寺の事例がよく引用されている。



「三重塔」〔国宝〕
五重塔に比べると小さく(当然?)目立たないところにあるので
観光客の姿も少ないのだが、バランスの取れたとても美しい建造物だと思う。






「北円堂」〔国宝〕
こちらもまた美しい建物で、三重塔とともに興福寺では最古の伽藍である。
この二つの伽藍は、一目見て国宝ッ!って気にさせるオーラを漂わせている。

興福寺は度重なる火災によって焼失しているが、特に治承4年(1180)
源平合戦による平重衡(しげひら)の南都焼討ちで、東大寺と共に
ほとんどの伽藍が焼失。三重塔、北円堂もその時に焼失し後に再建されたものである。
平重衡は、今、NHK大河ドラマで描かれている平清盛の子。この焼討ちで
東大寺大仏も焼け落ちたのだが、清盛はこの1年後死去することになる。





○宗派:法相宗大本山 ○開基:藤原冬嗣
○御本尊:不空羂索観世音菩薩 ○創建:弘仁4(813)年

御詠歌「春の日は 南円堂に かがやきて 三笠の山に 晴るるうす雲」

番外 法起院と・・・

2012-02-15 16:55:04 | 西国三十三所巡礼
西国三十三ヶ所巡礼には33寺以外に番外として3寺あり、合計すれば36ヶ所に。
そのひとつ『豊山 法起院(ぶさん ほうきいん)』があります。
長谷寺の塔頭(たっちゅう)寺院で開山堂を本堂としています。




長谷寺からは徒歩数分、門前町を抜けたところにあります。



境内も本堂も小さいですが、番外札所はオマケって訳じゃありません。
長谷寺の開山に尽力された「徳道上人」を祀っている法起院。
徳道上人は、西国三十三所観音霊場巡りの実質的な創始者なので、
この小さなお堂も「番外札所」とされているようです。



ここの縁起によると
「突然の病のために仮死状態にあった上人は、夢の中で閻魔大王にお会いになり、
悩める人々を救う為に三十三ヶ所の観音菩薩の霊場を広めるように委嘱され、
そして三十三ヶ所の宝印を与えられて仮死状態から解放されました。
上人は三十三ヶ所の霊場を設けましたが、人々は上人を信用しなかったので、
やむなく宝印を摂津中山寺にお埋めになったと伝えられています。
二百七十年後の永延二年(西暦九八八年)に、花山法皇がこの宝印を
お掘り出しになり、今日の三十三ヶ所を復興なさいました。」
とあります。



これは徳道上人ではありません、布袋さまです。(^_^ゞ
徳道上人像は御本尊として本堂に安置されてます。



「仏足石」。肝心の「上人沓脱ぎ石」を撮るのを忘れました。



「庚申(こうしん)堂」
奈良市のならまちにあるのが有名。青面(しょうめん)金剛像を祭祀する祠です。
青面金剛の使いの猿を型どったお守りは、飛騨の「さるぼぼ」に似てますね。
奈良では「願い猿」って言うのかな、庚申信仰発祥の地は京都の八坂庚申堂。
京都では「くくり猿」って呼びます。〔京男さんのブログ参照〕



「十三重石塔」徳道上人御霊廟
周囲に西国霊場各寺院の御砂が納められている。


ここで御砂踏みをすれば、三十三ヶ所巡りと同じご利益が・・・



○宗派:真言宗豊山派 ○開基:徳道上人
○御本尊:徳道上人像 ○創建:天平7年(726年)

御詠歌「極楽はよそにはあらじ わが心 同じ蓮(はちす)のへだてやはある」



もうひとつ、長谷寺に戻りますが登廊を上って本堂とは反対の方向に
長谷寺塔頭『能満院』があります。



ここには「日限(ひぎり)地蔵」と呼ばれるお地蔵さんが祀られています。
日を限ってお祈りすれば願いごとを叶えてくれるといわれるお地蔵さんで、
多くの人々の信仰を集めています。日本各地にありますね。
京都でも清水寺の近くの「日限地蔵安祥院」を訪ねたことがあります。













仏足石がアチコチにあって

手をのせ、南無仏と唱えて足腰ほか辛いところをお摺り下さい。ってことです。
肩、腰、膝が辛い御方に特別サービス!画像をクリックして
モニターの画像で実行してみてください。(^_^ゞ




私は最近よく転ぶので、こんなお守りを・・・







2012.1/15、長谷寺塔頭『能満院』にて。

第八番札所 長谷寺

2012-02-09 23:58:08 | 西国三十三所巡礼
奈良県桜井市初瀬にある『豊山 長谷寺(ぶさん はせでら)』
「隠国(こもりく)の泊瀬山」と万葉集にうたわれており、この地を昔は
豊初瀬(とよはつせ)、泊瀬(はつせ)などと美しい名でよばれていたので、
初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも言われていたようです。

縁起には、朱鳥( あかみどり )元年(686)道明(どうみょう)上人は、
天武天皇のおんために銅板法華説相図( 千仏多宝仏塔 )を西の岡に安置、
のち神亀四年( 727 )徳道(とくどう)上人は、聖武天皇の勅を奉じて、
衆生のために東の岡に十一面観世音菩薩をおまつりになられました。
上人は観音信仰にあつく、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖となられた
大徳であり、当山を三十三所の根本霊場と呼ぶいわれであります。(HPより)

創建以来9度を超える罹災で、焼失と復興を繰り返してきたのですが
西国三十三霊場の中でも大規模なお寺のひとつです。
現在は、真言宗豊山派の総本山として、全国に末寺3000を越えるおおもとです。
牡丹は特に有名ですが、四季を通じ花のお寺として訪れる方も多いです。



境内につながる参道、山に向ってます。階段多そう・・・
横にはバリアフリーのスロープになった別ルートの道があります。




「仁王門」(重文)建築の形式は三門一戸の楼門です。
最初に建造されたのは平安時代、一条天皇の代とされているが、
幾度か災害にあい、現存のものは明治十八年(1885)の再建。


両脇に仁王像、楼上に十六羅漢を安置されています。

仁王門をくぐると直ぐに現れるのが






長谷寺名物?「登廊(のぼりろう)」(重文)
この登廊は煩悩の数になぞらえて、108間(約200m)399段あり、
二度折れ曲がり、上中下の三廊に分かれています。
二間おきに長谷型と言われる風雅な灯籠が吊るされています。







中登廊と上登廊のつなぎのところには



「蔵王堂」↑と「紀貫之の故郷の梅」↓があります。


小倉百人一首でお馴染の「人はいざ 心も知らず故里(ふるさと)は
花ぞ昔の香に匂ひける」(古今和歌集)
紀貫之が初瀬詣で久方ぶりで訪れた宿の主人に厭味を云われ、
その心変わりを皮肉って詠ったものだそうです。恋の歌じゃないのね(^_^ゞ

この長谷寺、あちこちに歌碑があります。
古くから貴族や文化人も多く訪れる超人気スポットだったようで、万葉集、
古今集、源氏物語、枕草子、蜻蛉日記、更級日記・・・
芭蕉、蕪村、虚子の俳句にも詠まれ、文学に登場してます。〔参照〕


上登廊を登っていくと、本堂の舞台が見えてきます。




登りきったところに・・・



「鐘楼」(重文)があります。



上に登る階段がありましたが「関係者以外は入るべからず」って
言われなくても落ちそうなので遠慮しますw

下から「尾上(おのえ)の鐘」が見えます。
新古今和歌集の藤原定家の歌に、
『年を経ぬ 祈る契は初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮れ』という歌がある。
ちょっと切ない失恋の歌のようですが・・・




鐘楼に隣接して建てられているのが「本堂」(国宝)
木造建築物としては東大寺の大仏殿に次ぐ大きさといわれています。
「礼堂(らいどう)」と合体した双堂(ならびどう)形式で
清水寺と同じような舞台も備えている、かなり複雑な建物です。





ここも清水寺同様、国宝を土足で踏んづけることになりますな。
ま、できるだけお足柔らかに・・・(^_^ゞ


舞台から見た鐘楼。


礼堂を通して奥に本堂がちらりと見える。(本堂は撮影禁止w)


礼堂の端にちょっと恐そうな、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)さま。


舞台から見た五重の塔。落葉した桜の樹かな、春にはイイ絵になりそう。


本堂にあるご本尊「十一面観世音菩薩立像」(重文)は、
像高三丈三尺六寸(1018.0cm)。我が国で最も大きな木造の仏像である。


そう言えば、七番札所「岡寺」のご本尊「如意輪観音座像」は
日本最大の塑像(土でできた仏像)。
銅像の東大寺 毘盧遮那仏(奈良の大仏)も言わずと知れた日本最大。
こんな近くに造り別の日本最大が三体もあることになる。

長谷寺のご本尊は、通常の十一面観音像と異なり、右手に地蔵菩薩の持つような
錫杖を持ち、左手に水瓶を持って方形の大盤石という台座に立つ、
これを長谷寺式十一面観世音菩薩と言うそうです。
度重なる火災により再造を繰り返し、現在のものは室町時代のものです。
平常は腰から上が観られるようになっていますが、撮影は禁止。
(画像検索すると何故かいっぱい出てきますが・・・)
なお、特別拝観時は1階下に降りて行き、足元から見上げられるようです。


さて、本堂の前は少し広場のようになっていて自動販売機などもあります。

不思議な招き猫。・・・単に飾り?(^_^ゞ
7駆さんをもってしても、謎は解けてないのでしょうか?

この広場から一段上がると


「愛染堂」


「三社権現社」(滝蔵三社)


ここにも舞台があり、境内が一望できます。
土足厳禁なので上りませんでしたが(国宝の舞台は土足OKやのに)




順路はつづくぅよ、どぉこまでもぉ~♪





「大黒堂」



「弘法大師 御影堂(みえどう)」






「一切経堂」調査中につき立入り禁止ってことでした。



「本長谷寺(もとはせでら)」
長谷寺の草創期のお寺のようです。

中を覗いて見ると・・・





「五重の塔」
もともとは三重の塔が建っていたようですが、これまた幾度となく再築を
繰り返し、この五重の塔は昭和29年、戦後日本に初めて建てられたもので
戦争殉難者壇信徒慰霊と世界平和を祈願するため建てられました。



「陀羅尼堂」「興教大師堂」

順路もぼちぼち終わり、仁王門の方へ降りて行きます。


途中こんな鬼がわらを・・・まるでプレデター?(^_^ゞ



五重の塔の方から見た本堂、登廊など。


2012.1/15、長谷寺にて。




○宗派:真言宗豊山派(総本山) ○開基:道明上人
○御本尊:十一面観世音菩薩 ○創建:朱鳥元(686)年

御詠歌「いくたびも 参る心は はつせ寺 山もちかいも 深き谷川」

第七番札所 岡寺

2012-01-14 23:05:12 | 西国三十三所巡礼
『東光山 龍蓋寺(とうこうざん りゅうがいじ)』と呼ぶのが正式なのかな。
奈良県明日香村の東、岡山の中腹にあり日本最初のやくよけ霊場として知られています。

歴史はかなり古そうです。寺伝によるとおよそ1300年前、
天智天皇の勅願によって義淵僧正が建立されたとなっています。

※天智天皇=飛鳥時代(在位668~671)の天皇。中大兄皇子のことですね。
蘇我入鹿を殺して大化の改新(645:虫五匹)を行った天皇です。
ちなみに天智天皇のお墓(御陵)は我が町にあります。いつもの散歩道。

※義淵僧正(ぎえんそうじょう)=伝説にみちた名僧といわれ、生年不詳、728年没。
この地に子供に恵まれない夫婦がおり、彼等は日々観音様に子が授かるよう祈りを捧げていたところ、白い布に包まれた赤子が置かれていた。その後、観音様の申し子として天智天皇に引き取られ、岡宮で育てられました。
後にこの岡宮を与えられ、龍蓋寺を建立したというもの。国法相宗の祖であり、その門下には東大寺の基を開いた良弁、菩薩と仰がれた行基、その他にもおよそ奈良時代の高僧といわれる人は皆、義淵僧正の教えを受けたといわれています。







「仁王門」国指定重要文化財。
どうやら仁王様はお出かけでした・・・


屋根の庇に注目すると、四隅に阿獅子・吽獅子・龍・虎があり大変珍しい。



「楼門」奈良県指定文化財。この奥に国指定重要文化財の書院があります。

埋蔵文化財の宝庫といわれる明日香村において建造物で唯一、重要文化財に指定されているのは、岡寺のこの仁王門と書院だけなんだそうです。





開山堂とその奥が本堂、右の写真が「鐘楼堂」


「開山堂」本堂の隣りに軒を接して建つ妻入り三間堂。阿弥陀三尊を安置。

多武峰妙楽寺(現、談山神社)より移築されたお堂で元は護摩堂であったと伝わる。





「本堂」奈良県指定文化財

現在の本堂は棟札などから文化2年(1805)の上棟で、すべての完成迄に
30年以上かかった事が判明。4.6mを超えるご本尊さまが安置されている。





こちらのお寺の賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)さま。



「御本尊」奈良時代末の作、巨大な如意輪観音座像です。

如意輪観音の最古の遺例としても重要視されており、塑像(土でできた仏像)としては日本最大の仏様で、日本三大仏にもあげられており、重要文化財に指定されています。
弘法大師が日本・中国・インド三国の土を以って造られたとされています。
※日本三大仏=銅像の東大寺 毘盧遮那仏(奈良の大仏)、木像の長谷寺 十一面観世音菩薩、そして塑像の岡寺御本尊。





今年は辰年、それにちなんだ訳じゃないですが、この岡寺
「龍の眠る寺 龍蓋寺」と言われる伝説が残されています。
この地を荒らし農民を苦しめていた龍を義淵僧正がその法力をもって
封じ込めたと言うもので・・・


本堂の前方に「龍蓋池」があり、その中には縄で結界をはられた石が置かれています。

この石が、まさに龍を閉じこめている「蓋」な訳で・・・
大人の力なら一人でも倒せそうな石なんやけど。(^_^ゞ
ゆめゆめ蓋を取ってはいけません、龍が飛び出すかも・・・

この先にも登り坂の小径がつながっているので、奥へと進んでみます。



何やら井戸がありました。綺麗な水が汲めますが・・・



その先には





稲荷社と奥之院石窟が・・・


奥之院石窟の内部です。




何やろ、ちょっと肝試し的な光景が続きます。


とはいえこのお寺、花の寺としても有名なようで
特に石楠花(シャクナゲ)は3,000株だとか。
以前、三室戸寺のシャクナゲ園に行きましたが、ここの方がはるかに多いです。
ゴールデンウィークあたりが見頃でしょうか。


赤いのはネリネの花でしょうか、芙蓉の花はもう終わっていました。

ちょうど行った時季が花は終わり、紅葉はまだって時だったので・・・





「三重宝塔」

シャクナゲの回廊ともいえる斜面を登りきったあたりに、この塔が建っています。



明日香の村が見えているのかな、なかなか良い眺めでした。

この斜面からは伽藍の全体が俯瞰で見られます。





「大師堂」

こんなところに石庭が・・・






2011.11/3、岡寺(龍蓋寺)にて。



○宗派:真言宗豊山派 ○開基:義淵僧正
○御本尊:如意輪観世音菩薩 ○創建:天智天皇2(663)年

御詠歌「けさ見れば つゆ岡寺の 庭の苔 さながら瑠璃の 光なりけり」

第六番札所 壷坂寺

2011-12-02 17:05:54 | 西国三十三所巡礼
西国霊場第六番は眼病封じのお寺で有名な
『壷阪山 南法華寺』(つぼさかさん みなみほっけじ)
通称「壷坂寺」です。
大阪が2つ続いた後、ここからは奈良になります。


ここの仁王さんは何か迫力が無いな…金網が無いのはそのせいか?


下駄も置かれてるし、自由に歩き回ってるとか・・・


賓頭盧(びんづる)尊者さん、山門にあるのは珍しい。


眼病に霊験あらたかなお寺として知られ、人形浄瑠璃「壺坂霊験記」の舞台となったことで良く知られてます。


大講堂(2000年)


仁王門をくぐって右手には










天竺渡来 大釈迦如来石像(2007年)


左の方には

多宝塔(2002年)



灌頂堂(かんじょうどう)(2005年)

山の上に何やら巨大な観音像も見える。このお寺、巨大石像が多い。
しかも建物も新しいので、どこか謎のパラダイス系?珍スポットかと思いきや、創建は703年。弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んで祀ったのが始まりといわれる。
703年といえば藤原京の時代。708年の平城京、794年の平安京よりかなり以前。しかも藤原京の中心道路である朱雀大路を伸ばした線上「藤原京の聖なるライン」その延長上にある。その間には数々の古墳などの遺跡が発掘されている。なにやらミステリアス。
このライン、真っすぐ北に進むと平城京があり、平安京、清水寺へと続いているようにも見える。
ちなみに京都の清水寺は北法華寺(778年)と呼ばれる。


まぁそんなことより、この日も小雨模様。
すぐ近くにあった道の駅「吉野路大淀iセンター」で仕入れたお弁当を
灌頂堂の軒を借りて・・・


ん?よう上れたな。(^_^ゞ


仏足石、これも新しいです。
これを踏み台にした訳ではありません、念のため。


古代米やら何やら・・・ごちそうさんでした♪






これも大きかったですが、まだ開眼が済んでないかも・・


そろそろ秋の気配を感じる、11/3日でした。


手水舎



ここから一段高台へ上って行きます。
階段には電動リフトが付いていました。入山受付から本尊御宝前まで、段差なしでお参りできるとのことです。


三重塔 国指定重要文化財(1497年に再建)


禮堂(らいどう) 国指定重要文化財(室町時代の状態に再建)

創建当初から建てられていたとされてますが、1096年に焼失、1103年に再建。その後鎌倉時代初期に焼失し、直ちに再建されるが、室町時代初期にも焼失。その後再建されるが、江戸時代には、模様替えなど大改築がなされ、規模も縮小された。
現在の建物は、昭和解体修理時に行われた地下発掘調査並びに残存していた部材から、室町時代の禮堂の姿が判明し、御堂の大きさ等を室町のそれに戻して、建てられているそうである。


八角円堂(裏からの写真になってしまったw)
現在の八角円堂は江戸時代の再建と言われる。壷阪寺の本堂は日本で初めて建立された八角堂ではないかという学説も出ている。

この八角円堂がここの本堂で、中はぐるりと回れるようになっている。


本尊十一面千手観音菩薩像
室町時代の寄せ木造り、それ以前の本尊に代わって造られたものだろう。
さすが眼病封じとあってか、パッチリ開いた眼が印象的な観音様です。


多聞天立像(平安期)
一木造りで、他にも増長天立像がありました。


まだまだ見どころいっぱいのお寺ですが、お守り関係も


おやじギャグ?         玄関トイレって・・・


愛嬌のある魔除けやな      オチか?・・・(^_^ゞ






天竺渡来佛伝図レリーフ「釈迦一代記」(1987年)高さ3m 全長50m

このレリーフは、南インド、カルナタカ州カルカラにおいて、延べ5万7,000人の石彫師の手によって、インドの石に彫刻され製作されたものなんだそうです。



合掌して眼鏡の中をくぐります、別にご利益ってことじゃなく
眼鏡に感謝するのだそうで・・・


めがね供養観音





まよけばし。売られていた魔除けが奉納されてますが・・・オモウツボ?



慈眼堂(2005年)

おっと、ここにも寄ってみなきゃ・・・

クリック
お里澤市像
壺阪霊験記は盲目の夫『沢市』の開眼を祈る妻『お里』の純愛が沢市の目を開けさせるという夫婦愛の物語。この先が「投身の谷」かな?


さて、天竺門をくぐって先へ進みます。


天竺門


鐘楼


途中に何体もありました、あの手、この手、奥の手・・・(▼_▼メ)






手前に写っているのは、天竺渡来 大石堂(納骨永代供養堂)

緩いスロープを登って、高台へ。



もうひと息、石段を登ると・・・





天竺渡来大観音石像(1983)全長20m 全重量1200t

これも南インドカルカラの三億年前の古石を、延べ7万人のインドの石工が参加してすべて手造りで製作された。 20mの巨岩は動かすことも、運ぶことも不可能なので66個に分割して彫刻し、日本に運ばれ組み立てられた。胎内には数万巻の写経と胎内石が納められているそうです。

何故か手だけもありました。


石像の手と同じ石材でつくられたもので、これでもひと回り小さいそうです。手に触れられるようにとのことですが・・・



天竺渡来大涅槃石像(1999年)全長8m



涅槃像はすべての教えを説き終えて入滅せんとする釈迦の姿を顕している。
釈迦の最後の説法は「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」自らを灯明とし、自らをよりどころとし、法を灯明し、法をよりどころとすることを説かれた。
釈迦がいる、いないにもかかわらず自分を頼りとし、正しい教えを頼りとすることを意味している。


一気にアップしてしまうと、こんなボリュームになってしまいました。
これでもまだ見られてない所や、割愛した部分もあり・・・

創建はかなり古いお寺なのですが、それが感じられないのは
火災や天災、戦禍にみまわれ幾度となく再建を繰り返してきたのに加え
平成10年から10年間にわたり伽藍整備工事が行われ、復旧、再建されたことによるものでしょうね。




2011.11/3、壷坂寺にて。



○宗派:真言宗 ○開基:弁基上人
○御本尊:十一面千手観世音菩薩 ○創建:大宝3(703)年

御詠歌「岩をたて 水をたたえて 壺阪の 庭にいさごも 浄土なるらん」

第五番札所 葛井寺

2011-11-13 22:42:08 | 西国三十三所巡礼
第四番札所 施福寺に続いてこちらも大阪府。河内地方の古刹です。
地名、藤井寺市と市の名前にもなっているので、ちと紛わしいですが
お寺の方は『紫雲山 葛井寺(しうんざん ふじいでら)』と、漢字が違います。

河内文化は、飛鳥時代・奈良時代にかけて発展し、葛井寺も百済王族「辰孫王」の子孫王仁氏一族の白猪氏(後に葛井氏と改名)が当時の天皇の仏教興隆政策に協力し、創建された氏寺が始まりのようです。

永正七年(1510)の勧進帳によると、聖武天皇の勅願による二Km四方の七堂伽藍の建立で(当寺所蔵の伽藍絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられる。)古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、その落慶法要には、天皇自ら行幸されたという。
その聖武天皇が春日仏師(稽文会(けいもんえ)・稽首勲(けいしゅくん)親子)に命じて十一面千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(725)、三月十八日入仏開眼供養のため藤原朝臣房前卿を勅使に、行基菩薩を御導師として勤められた。と伝えられてます。

ただし、たびたびの戦火に見舞われ、更に永正七年(1510)の大地震で寺の諸堂がすべて倒壊したようである。そのあと修復は主に江戸時代に再建され、現在の規模になったといわれています。

はっきり言って、今はそれほど大きなお寺ではありません。境内もこじんまり、住宅街に埋もれてる感じ。周りの道も細くて、迷い込んでしまうと大変・・・きっちり迷い込みましたが。(^_^ゞ
少し(いや、かなり?)離れたところに専用駐車場って有料の駐車場があります。






駐車場からてくてく歩くこと数分、南大門に到着。
朱に塗られた仁王門ですが、かなり色あせてます・・・




表には仁王さんが、

そして裏には・・・


のぞき込んで見てみると


片方には千手観音ともう一方には地獄絵?


烏枢沙摩閣(うすさまかく)=お手洗いのことだそうで。
うすさま明王は悪や汚れを清める神です。汚れを清める所=お手洗い。なのかな?






南大門を入って真っ正面が本堂、真っすぐに石畳がひかれてますが、その真ん中に青銅製の灯籠?どう見ても灯籠なのに『青銅鳥居』と呼ばれているそうです。
その先の石灯籠は『紫雲石灯籠』聖武天皇御寄附となってます。
大阪府指定美術品だそうですが、傷みが激しく本物は裏庭で保存、これは明治に作られたレプリカです。



紫雲石灯籠の右手には立派な松の木が。
南北朝の動乱期、楠正成が本尊に戦勝祈願をしたとき、菊水の旗を掛けた木ということで『旗掛けの松』と呼ばれてます。




謂れが書かれているようですが・・・読めへん。(^_^ゞ
この松、「三鈷の松」とも呼ばれ、楠正成が三人の息子にこの松(三葉の松)にちなみ力を合わせるよう誓わせたそうです。


ここにも役行者さん。

そして、「弘法大師修行像」





「大師堂」も建てられてます。



「観音堂」


「鐘楼」なかなかいい感じの鐘楼ですね。


「専心龍乗観世音菩薩」比較的新しい銅像のようですが、凝ったものです。



ありゃ、なんか顔に見える・・・(^_^ゞ


「出世地蔵大菩薩」


どんな出世を望んでいるのでしょう・・・?


きょろきょろしてる内に、本堂へ。









本堂には、国宝『十一面千手千眼観世音菩薩坐像』が置かれています。
毎月十八日の観音会の日だけご開帳され、多くの参拝者で賑わうようです。

この観音像、天平仏像脱活乾漆造。大の手2本、中の手40本、小の手1001本、計1043本の手を持つ。十一面の顔に真数の1043臂千眼の観音菩薩であり、日本最古の千手観音なんだそうです。
よくある千手観音像って後ろから出ている手は40本ほど(1本で25の世界を救うって考え方から)なんですが、ここのは本当に千本(それ以上)あって全ての手の平には目が刻まれているそうです。
唐招提寺の千手観音像などと同様に、千本の手を持つ珍しい観音像なのです。


この中に・・・
もちろん厨子は閉められているので姿は見られませんが、
ご開帳の時も撮影はもとより、双眼鏡などで覗くのも禁止だそうです。
知らずに写真撮ってましたがどうせ、反射で中は写らず。(^_^ゞ


お馴染、賓頭盧さん。

このお寺、ふじい寺の名にちなんでか藤棚がいっぱいありました。

花が咲く季節には見事でしょうね。


「護摩堂」と「手水舎」弘法大師手掘り井戸と書かれてました。

さて、西の門は・・・



『四脚門』慶長6年(1601)に豊臣秀頼により建立された旧南大門を天明5年(1785)にここに移築したものといわれており、葛井寺で現存する最古の建物であり、国の重要文化財に指定されている。

この門のすぐ横は葛井寺商店街?アーケード通りになってます。






第五番札所『紫雲山 葛井寺』(2011.10/16)


○宗派:真言宗御室派 ○開基:行基
○御本尊:十一面千手千眼観世音菩薩 ○創建:神亀2(725)年

御詠歌「参るより 頼みをかくる 葛井寺 花のうてなに 紫の雲」

施福寺、征服。

2011-10-31 21:44:42 | 西国三十三所巡礼
西国三十三所巡礼、一番の難所と言われる『槇尾山 施福寺』、
ただでさえ難所をいきなり転倒、両膝打撲。余計に苦難を負ってしまいました。
原因は買ったばかりの一脚を伸ばすのに、足下を見なかったせいで段差を踏み外し・・・w。しかし、一脚を杖代わりに登ることもできた訳で。
何が災いやら幸いやら・・・

わずか1km弱の石段ですが、普段運動不足の貧脚にはツライ道程、登りきった所で肝心のモノ(納経帳)をクルマに置いたままだったのを思い出した時には・・・ガックシ!取りに戻るなんてとても選択肢には無く、お寺で尋ねてみたところ、救済処置がアリとのこと。
他にも居るんやな、忘れんぼが・・・(^_^ゞ


手水舎(ちょうずや)。境内に入る前にここで穢れを洗い流します。



横に槇尾明神への石段が、これまた急。なので見なかったことにしよ。
七駆さんがタヌキと対面されたのはここかな?


なぜか馬。何やら謂れがありそうだが・・・


灯籠


本堂



賓頭盧さん。


額がいっぱい。




そうそう、納経帳を忘れた者の救済処置、一頁分だけ用意してあります。
日付だけ書いてもらって、納経帳に貼付ければOK♪



観音堂


一順観てたらもう2時半、運動もしたことだしお腹ぺこぺこ。
で、ここへ来る前に買っておいたお弁当を取り出し・・・


お弁当、こんなところで売ってました。何か大阪っぽいのでついつい・・・




そこそこ安くて(500円)、ボリュームも手作り感もあり。お茶はサービス♪

ハイキングがてらの家族連れや山歩きグループも見かけます。
子供たちは境内を走り回って・・・元気やなぁ。

ふと、見ると

茶店もあり・・・


デザートは、ひやしあめ♪


茶店の方の少し先には展望所があり、そのまた先には・・・




何やろこれ?荷物専用のようですが、乗れたら楽やろな。(^_^ゞ


この後、本堂の裏にも回ってみる。
本堂と背中合わせに後堂があり、馬頭観音が祀ってあるようです。





大師堂と不動明王護摩堂


鐘楼


この頃から降り出した雨が本降りに・・・どこまでツイてないねんw






雨が止むのを少し待って、小雨になったところで来た道を帰路に・・・
が、下りが大変!痛めた膝にもろに衝撃が。急な石段も濡れて滑りやすく、一段、一段、ぼちぼち降りて行きます。何人もに抜かれながら、ああ惨め。

そんなこんなで、第四番札所をクリア。


駐車場へ戻った頃には雨も止み・・・ここへも寄ってみる。


満願寺不動尊





このお寺の縁起(HPより)
当山は第29代欽明天皇の勅願寺。 仏教公伝538年頃の創建で日本有数の古い寺です。役の小角、行基菩薩等の山岳修行の道場であり弘法大師 空海が勤操大徳について出家得度した寺と有名です。
西国第4番札所。本尊は十一面千手千眼観世音菩薩で 御詠歌は、花山法皇のよまれた 「深山路(みやまじ)や檜原(ひばら)の松原分(まつばらわ)けゆけば巻(まき)の尾(を)寺に駒(こま)ぞいさめる」 で巻の尾とは役の行者が法華経を峯々に納経て、最後に当山に納経したので山号となっております。 古来より経塚がきずかれ故事にのっとって全国各札所巡礼が終れば最後に当山にお写経を納めて下さい。 槙尾寺は納経の寺です。

・・・ええっ!納経にまた来んならんの!!!






第四番札所『槙尾山 施福寺』(2011.9/25)

○宗派:天台宗 ○開基:行満上人
○御本尊:十一面千手千眼観世音菩薩 ○創建:欽明天皇時代(539~571)

御詠歌「深山路や 檜原松原 わけゆけば 巻の尾寺に 駒ぞいさめる」

第四番札所 施福寺

2011-10-30 23:58:10 | 西国三十三所巡礼
久しぶりに西国三十三ヵ所巡礼です。
実は9月25日に参ってるので、季節感が・・・

『槙尾山 施福寺(まきのおさん せふくじ)』
三番までは和歌山県でしたが、ここから大阪府に入ります。
西国三十三ヵ所巡礼の中では二番目の難所と言われていたそうですが
今は一番の難所、上醍醐寺がクルマでかなり上まで行けるようになったそうで
実質ここが最大の難所とされてます。
那智山も紀三井寺も結構、石段の坂だらけ・・・そんなもんじゃないってレベル?とにかく夏場は避けて、9月の末まで待ったのですが・・・さて。

ここの石段のキツさは七駆さんのブログで知らされてたので、満を持しての挑戦です。ちなみに、七駆さんの時に出てきたタヌキ君は逢えませんでした。やはり私じゃ仲間と思ってもらえないみたい・・・(^_^ゞ



クルマは参道の入口の駐車場まで。それからは徒歩になります。
南海バスがこの駐車場の横まで運行されているようです。
何というか「観光センター」の看板が上ったお土産屋さんが1軒だけ・・・

このあたりの参道はまだ、舗装もされていて勾配もゆるやか
余裕やん!って思った訳では無いのですが、足慣らしも兼ねてちょっと寄り道、「満願滝弁財天」に行ってみました。












と、まあ、ここまでは良かったのですが・・・
何か悪いことしたかなぁ?



弁財天の参道、緩い坂です。段差が2ヵ所、それもちゃんと注意喚起のため色が塗ってある・・・あろうことか
よそ見をしていて、その段差に歩を取られ・・・大転倒!!!
しばらく立てず、ジーンズの中を見れば両膝出血www

それでも、引っ返すのも悔しい。ま、苦行は覚悟して
痛む足で施福寺まで登って行くことを決断。征服寺になるか?
この先、さらなるアクシデントがあるとは、この時点では知るよしも無く・・・



ゆるやかだったのは最初だけ。舗装路も次第に勾配が急になり
本堂までは約1kmあるとか、八丁って約880m?


磨崖仏が上のほうに・・・よぉく拝んどく。


笑わさんといてぇな、足がじんじん痛いのに・・・


六丁、何故か七丁は見つからず。




迎えの観音さん。やっとここから?




トップ画像の山門です。お願いわらじがいっぱい。
この先から本格的な・・・



仁王門を過ぎると、こんな道が延々と!!!


五丁、ピンボケ・・・


四丁、怪我してなくても大変。


弘法大師 姿見の井戸。空海さんもさすがに喉が渇いたか、
それとも余裕の身繕い?

この坂道を余裕のおっちゃんが居た・・・

これで3往復目や!ガハハッ・・・って何もん?七駆さんの時も歩いてたとか。確か帰りにも逢った、いったい何往復されてるのか。
ワンコのほうが疲れてへとへとな感じ、えらい飼い主持ったもんやな。






あと二丁♪ 三丁はまた見逃した。



あと220m、なのに道はコレッ! 足は熱を持ち出すし・・・きっと腫れてるw




やったね、もう一丁!


ちょっと休憩・・・



秋海棠(シュウカイドウ)の花に癒される。


何やら伽藍が見えてきた♪

愛染堂、弘法大師がここで剃髪されたと伝えられてる。


髪堂、ここにその時の髪が置かれてるのかな?


ここまで来たらもうお寺が見えてます。
ここから歩いて第五番札所「葛井寺」ってか・・・カンニンしてな!

泣きそうなことがもうひとつ、ここまで来て納経帳(スタンプ帖みたいなもんね)を忘れたことに気がつく・・・
「取りに戻って来たらぁ、私待ってるし」って、その言葉、笑えへんし!返せへんし・・・!

お寺の様子は、また今度。To be continued・・・

第三番札所 粉河寺(つづき)

2011-09-27 22:04:08 | 西国三十三所巡礼
西国第三番札所 『風猛山 粉河寺』の続きです。

本堂の奥、東側にはこんなところも・・・

左へ行けば「粉河いなり」、右は「十禅律院」です。

ここはもうスルーして、本堂の西側奥にある「粉河産土(うぶすな)神社」に行ってみます。



ここでもまた石段登らないといけないハメに・・・


石段の途中、何だか怪しげ?



それなりにちゃんとした神社でした。
お寺の中に神社?ちと奇妙な気もしますが、歴史は粉河寺に負けず劣らず古くて、粉河寺の鎮守としてまた旧粉河村の総鎮守として創建されたようです。


何故か孔雀が・・・??

そして、あ~ぁ! 人形やぬいぐるみが・・・




ま、ジョーダンはさて置き、カッパちゃんは置き去りにせず戻ります。


粉河寺には一風変わったと言うか、相当変わった庭園があります。




国指定名勝になってます。石材店ではありません!
桃山時代の枯山水の庭園で本堂前の左右崖地に築庭され、日本の庭園の中でも他例のない様式である。
巨石を十分にかつ自由に使いこなし、豪快な造形を呈しており、用いた紀州石は雑賀崎の青石(緑泥片岩)、琴浦の紫石(紅簾片岩)、竜門山の竜門石(蛇紋岩)の名石だそうです。

さて、中門(重文)です。帰り道なので、本堂側から・・・


三間二戸の桜門で、軒まわりまで良質の欅材で繊細な建物に仕上げている。
門には前後左右に四天王が配置されています。背面左には増長天、右に持国天。



こちらが正面。左には多聞天、右は広目天が置かれてます。
なかなか立派な山門ですね。「風猛山」の扁額は、紀州徳川十代藩主、治宝候の直筆だそうです。

中門正面に向って右側(南側)には川が流れており何もありませんが、
北側にはいろいろと・・・


手水舎と身代わり地蔵尊。


これまた手水舎も立派ですな、水盤は蓮の形の鋳物製。粉河鋳物だそうで、市指定の文化財に指定されてました。



太子堂。



念仏堂。その向こうに見えるのは露座佛。





出現池。何か出てきそうな・・・
童男大士がこの池より出現したとか・・・正面にはその石像が。
普段は開いてるのかな?時間が遅くて入れませんでした。



仏足石です。そこそこ古そうな・・・



子育て地蔵。鋳造でできたお地藏さんでしょうか?粉河鋳物のようです。
野荒しの虎、本堂内陣にあったようですね。見逃しました。
日光東照宮「眠り猫」で有名な彫刻師 左甚五郎の作だとか。



童男堂(県指定文化財)。千手千眼観世音が姿を変えたといわれる童男大士が本尊として祀られている。
この童男大士が主役?の紙本著色絵巻「粉河寺縁起」は国宝に指定されているが、原本は京都国立博物館に寄託されおり、本堂には複製品が展示されているとのこと。
ちなみに童男堂、どうなんどうって読むようです。



第三番札所『風猛山 粉河寺』(2011.6/26)

○宗派:粉河観音宗(総本山) ○開基:大伴孔子古
○御本尊:千手千眼観世音菩薩 ○創建:宝亀元(770)年

御詠歌「父母の 恵みも深き 粉河寺 ほとけの誓ひ たのもしの身や」

第三番札所 粉河寺

2011-09-26 23:18:36 | 西国三十三所巡礼
しばらく放置してましたが、西国三十三ヵ所巡礼の旅。第三番札所です。
実は紀三井寺の後にここへもまわっていたのですが、アップするのが遅くなりました。

『風猛山 粉河寺(ふうもうざん こかわでら)』

粉河寺は、和歌山県北部を流れる紀の川に沿い、約35000坪の広大な境内地、200mに及ぶ石畳の参道、大小20有余の堂塔伽藍、名勝指定の粉河寺庭園等があり、なかなか見応えのあるお寺です。
縁起はリンク先を見てもらうとして、創建は奈良時代末770年とされ、鎌倉時代には七堂伽藍が整い隆盛をきわめたが、1585年、紀州攻めを敢行した豊臣秀吉により根来寺を中心に一帯は火の海と化し、粉河寺も全山焼失した。
したがって現在の諸堂は江戸時代に再建されたもので、江戸中期の代表的な寺院建築物の様式が観られる。




左の写真は「大門」(重要文化財)を振返って撮ったもの。だから後ろです。
大門は三間楼門で、その規模は和歌山県では高野山、根来寺に次ぐ大きさといわれている。
右の写真は寺内、石畳の参道。
実はここに到着したのは16時50分、拝観は17時までなので、駆け足で本堂へ行き納経帳に印をもらいました。写真は帰りがけに撮ったものです。(^_^ゞ

さて、その本堂(重文)です。なかなか立派な建築は他に類例を見ない特異な形態で、屋根を複雑に組み合わせた八棟造りといわれている様式だそうです。














ここの賓頭盧さんです。











ちょっと覗きたくなりますね。



本堂の屋根・・・これじゃ様式が解りませんね。





本堂の西側にある千手堂(重文)。
宝形造りの三間堂、細部様式では本堂と一脈相通ずる面を持っている。



東側には鐘楼が配されています。



本堂の前、東南側に六角堂が建っている。これもまた変わった六角堂だな。

その側にはこんな桜の樹が・・・



本堂前、石段下の広場東側には丈六堂が建っています。中には一丈六尺の大きさの阿弥陀如来像が安置されているそうだ。




これまた迫力のある巨木が・・・





本堂の東側に自然保存木に指定されている踞木地(きょぼくち)のクスノキ。
幹周/7.7m、樹高/20m、かなりの樹齢であると推定できると・・・


見どころ多くて長々となりそうなので、2回に分けようと思う。
では、つづきはまた明日・・・(^_^ゞ




2011.6/26、粉河寺にて。

坂、さかさま?

2011-07-28 00:42:01 | 西国三十三所巡礼
紀三井寺といえば・・・

楼門から境内まで続く231段の急な石段が有名なんだそうです。
この石段は『厄除け坂』とも言われ、女厄33段、男厄42段、還暦60段と踊り場ごとに区切られていて、石段を登ると厄除けのご利益があると言われています。

前述したように、私らは裏門のスロープから境内に入ったもので・・・
楼門からの石段は最後に降りただけ。(^_^ゞ
ご利益は???









はっきり言って、降りるのは楽ちん。
登って行く人を見上げながら写真を撮ってるだけ。
とは言え、裏門からでも行き着くところは同じ標高なので、緩やかな部分があるけれど2回登った運動不足の私にとっては、息切れものでした。
ちなみに裏門からはバリアフリーも考えてか境内まで車で登れる車道になってます。ただそれだと時間がかかるので、バイパスの階段もあって徒歩の場合そちらを使いますから、何段あったかは知らないけれど同じことだと・・・但し、やっぱりずっと楽だそうですが。


楼門からの石段の途中には、いくつかの塔頭(たっちゅう)が建っています。





お土産物を売ってたりとかで、塔頭と呼べるのかどうか・・・








坂様、道順さかさまなので、楼門に降りて来ました。








この坂、「結縁坂(けちえんざか)」とも呼ばれています。
江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけになったと言う謂れがあります。



ちなみに、楼門は国指定重要文化財。室町時代(1509)建立。
三間一戸・入母屋造・本瓦葺き
建立以来たびたびの修理を受け、桃山時代の様式を残す。(高欄付きの縁をめぐらせた通路や和様三手先腰組)欄間には、牡丹と菊の彫刻があざやか。金剛力士像を安置。






まったりと、門前のお店を見て回るのも楽しいです。
子供の頃ならねだってただろうなってものも・・・(^_^ゞ



そうそう、紀三井寺といえば・・・

その名の由来は、紀州の三つの井がある寺。三ヵ所の湧水があります。
総称で「三井水」と呼ばれ、北より吉祥水・清浄水・楊柳水。
名水百選に選ばれてます。


一番目立つところにあるのが、「清浄水」。石段の途中にあります。







ここから石段の参道を少し外れたところに「楊柳水」がありました。






訪れる人も少ないようで、寂れた感じ。湧水もほんのちょっぴり・・・


もうひとつの「吉祥水」が、何処なのやら見当たりません。
パンフレットを見ると、どうやら境内には無く、離れたところのようです。方向は裏門の方なので、ちょうど駐車場の方。
そこで駐車場のおばちゃんに訊ねればと思ってたら、顔を見るなり
「吉祥水探されてる?この道を・・・」またしても見透かされた。





ここもまた長い階段、住宅地を抜けて登って行くと・・・





水は、とっても冷たくて気持ち良かった。
「飲料にする場合、煮沸」は、どこの名水でもお決まりですね。

それにしてもここも訪れる人は少ないのかな?
分かる気もするけど↓




余談ですが、滋賀県に「三井寺」ってお寺があります。
正式には「長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)」ですが
紀三井寺の本家みたいな名前ですが、宗派も違うし関係なさそう。
じゃぁ三井寺も三つの湧水が・・・と思ったら、こちらは一つだけ。
天智・天武・持統の三帝が産湯に用いたという霊泉があり、そのことから三井寺と呼ぶようになったようです。
気になっていた謎が解決・・・♪




2011.6/26、紀三井寺にて。

第二番札所 紀三井寺

2011-07-24 17:04:44 | 西国三十三所巡礼
西国三十三ヵ所巡礼、二番目の札所へ参りましょ。と言っても
ひと月ほど前の話になりますが・・・(^_^ゞ

さて、和歌山まで行くにあたって、新しいルートで行ってみました。
まだナビもGoogleMapでもフォローしていない、開通したての「阪神高速8号京都線」。その起点(終点?)が、近くにあるもので。
その入口を入れば、紀三井寺最寄りの和歌山ICまで、一度も降りずに高速道路で行ってしまえるようになりました♪


「山科入口」です。ピィさんの最近の記事と被ります(笑)


入口を入れば直ぐにトンネル、トンネルを抜けると「鴨川東」です。
ここまでは以前から出来ていたのですが「鴨川東」から「上鳥羽」間が、なかなか開通せず、やっと今年の春に開通したってことで・・・できることなら高速1000円の時に走りたかったな。実は割引終了した翌週なんです。


ほどなく京セラビルを横に見て、阪神高速8号京都線は巨椋池料金所で終わり、「第二京阪」と名称が変わります。


「久御山JCT」京滋バイパス、第二京阪に分かれます。
「門真JCT」までが第二京阪になります。


「門真JCT」から近畿自動車道に入り、「松原JCT」からは阪和自動車道に・・・岸和田、貝塚を抜けて「和歌山IC」で降ります。
高速道全行程115kmくらいかな?料金2400円だったと思います。


車椅子マークが付いているけど・・・?


途中、紀の川SAに。





11時、この分じゃお昼ご飯は遅くなりそうなので、ちょっとムシ抑え。




子ツバメちゃん達はお腹が減ってないのか落ち着いてる。
それにしてもエライ顔やな(笑)


和歌山ICを出た後は、県道を走って紀三井寺に到着。
ナビ通り走っていたら紀三井寺駐車場へ案内してくれたので、そこへ停めるが、何か変。狭いし整備されてない感じ。どうやら裏門やったらしい。





ここで駐車料金と入山料(セットで350円だったかな?)を払って
急な坂道を登っていく。息切れw。それでもまだこちらからの方がマシだそうです。もっと体力の無い方用にか、もう少し上にも10台ほどの駐車場が設けられてます。但し、料金は増額・・・

境内に辿り着いたら、おお、海が見えるやん♪






和歌の浦の絶景

京都のお寺も美しい景色を借景にしているところがよくあるが、
海、水平線が借景のところは無い・・・あたり前だが。(^_^ゞ

ここで、ふと気がついた。スタンプ帳 納経帖をトランクに入れたまま・・・再び急な坂を降りて、駐車場のおばちゃんに「ちょっと忘れ物を取りに」って断ったら「ひょっとして納経帖?そりゃ大変や」って、見透かされたw
また登って・・・すでにヘタリかけ。

境内の木漏れ日で頭がくらくら(笑)



紀三井寺は今から約1240年前の西暦770年(宝亀元年)唐から渡って来られた僧、為光(いこう)上人によって開基された霊刹です。
上人は行脚の途中、たまたまこの地に泊まり、夜半に名草山山頂付近から発する霊光を観じられ、翌日登山、そこで金色に輝く千手観音像を感得されたという。為光上人は「この地こそは観音慈悲の霊場である」とし、自ら十一面観世音菩薩を一刀三礼で刻み、これを祀る堂宇を建立したという。これが紀三井寺の創始と伝えられている。



ご神木、樹齢約400年の樟。幹周6m 高さ21m。(市指定天然記念物)


茶店、いいところにあるんですよね。でも今回はスルー。





プールみたいな四角い池に「ごくらく橋」。何だかなぁ・・・



本堂(県指定重要文化財)江戸時代・宝歴9年(1759)建立
入母屋造・正面唐破風と千鳥破風・本瓦葺き・九間四面・総欅造り


西田敏行さん?



第弐番 紀三井寺、ご詠歌が書いてある。


これを忘れないようにね。


猫も杓子も・・・
「だれもかれも、なんでもかんでも」って意味で使いますが
『一休咄』に出てくるフレーズなんです。釈迦も達磨も猫も杓子も・・・ってね。この場合の猫は禰子(ねこ)=神主の意味で、杓子は釈子・釈氏(しゃくし)=僧侶を意味していたようです。もちろん多説ありますが、ここの祈願杓子とは関係ないですね。(^_^ゞ

それより、仏像ばかり目につく中、マネキンはビックリするやろ!

もちろん私らはこんな格好で巡礼してるわけではありません。
この姿でオープンカー乗ってたら、やっぱりビックリやろねぃ(笑)

本堂の端っこにはこんなものも・・・





観光地の定番?昔は人気があって、並んで順番待ちなんてこともありました。





ここの賓頭盧さんは、えらいコワイお顔で・・・
「お身代わりなで仏」として多くの寺に置かれてますが、表情はいろいろですね。


こちらは、通称、役行者(えんのぎょうじゃ)。役小角(えんのおづの)さんですね。修験道の開祖といわれています。一本歯の高下駄を履いたお姿が特徴。

このお寺、紀三井寺と言うのは通称で『紀三井山 護国院 金剛宝寺』が正式名だそうです。本堂以外の建物などを紹介すると・・・


新仏殿、鉄筋コンクリート造3階建。2002年に竣工され、内部には木造で日本最大、高さ12m総漆金箔の大千手十一面観世音菩薩像が安置されています。
興味が湧かないので観に入ってません。しかも入館料が別途必要だし。


六角堂、江戸時代(1750頃)建立


鐘楼(国指定重要文化財)、安土桃山時代(1588)建立。
入母屋造・本瓦葺き・袴腰。(腰板張りの下層)
全体に軽快な感じで、鐘楼建造物中の白眉とされている
・・・ただ、塗り直されたのかな?やたらと綺麗すぎて、重文に見えない。


大師堂?、ここにも弘法大師の足跡があり、像やお堂が建てられてます。
弘法大師が剃髪したゆかりの寺としても知られているようです。







お寺には大概こういうお決まりのものがありますね・・・


開山堂、本堂右手(東側)の石段を上るとちょっとした広場があり、いくつか建物が建ってます。これは一番北側にあります。


多宝塔(国指定重要文化財)、室町時代(1449)建立。
本瓦葺三間多宝塔。下層は四本柱の方形、上層は十二本の柱を立て高欄をめぐらせた円形。
ここもまた塗り直されたようで、ちとケバイ。


三社権現、祠が三つ並んでました。多宝塔の隣りですがここは寂れた感じ。



レポ、一気に済ませたくて長々となってしまった。写真も50点以上?
ここらで止めときます。でも続きが・・・(^_^ゞ



2011.6/26、紀三井寺 多宝塔。

第二番札所『紀三井山 金剛宝寺』(2011.6/26)

○宗派:救世観音宗(総本山) ○開基:為光上人
○御本尊:十一面観世音菩薩  ○創建;宝亀元(770)年

御詠歌「ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん」