カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

天下分け目の地へ!

2009-08-21 22:05:44 | ドライブ
日本史を語る上で避けて通ることのできない、天下を二分しての戦いが
慶長5年9月15日(グレゴリオ暦1600年10月21日)に、
美濃国不破郡関ヶ原を主戦場として行われた関ヶ原の合戦。
今も岐阜県不破郡関ケ原町あたりは、古戦場跡が彼方此方に残されている。
そこらを探索してみようと、先の日曜日に出かけたのだが・・・
あまりの暑さに、実戦場を歩いて回るのは断念(アッサリと)
そこで以前、時間的にもう閉館していて入れなかった
『関ヶ原ウォーランド』に行ってみることに。


まずは、櫓門になっている武具甲冑資料館へ









数多くの武具、鎧兜が並べられてます。実際に関ヶ原の合戦で使われたものなのかな。
徳川家康の手形や戦場のジオラマなども置かれています。

ひとつづつじっくり見たい所だが、かなり時間がかかりそう・・・
なので早々に、別棟になっている関ヶ原合戦資料館へ移る。





団体さんが来られたら解説でもあるのかな、椅子が沢山並べられていた。

正面には、合戦の立体図が


壁面には合戦絵巻屏風や数々の資料が






なかなか興味深い。この戦国史上最大の戦をこの程度の資料では
語りきれないだろうけど、あら筋は把握できます。
ただ、合戦に関しても様々な文献、資料があるので正確なところは
当然分からないのですがね。





ここの資料によると、徳川家康を総大将とする東軍総兵力75,000名、
毛利輝元を総大将(実質は石田三成が総指揮)とした西軍総兵力8,500名。
戦死者は、西軍32,600余名、東軍4,000余名とあるが、
数字は文献により様々。どっち側から見るかによって違うのでしょう。

今、大河ドラマ「天地人」では、秀次事件、五大老制、秀吉死去・・・
まさに関ヶ原前夜まで進んでいる。合戦は秀吉没後2年で起こっている。
豊臣政権下、家臣達による内紛とされるため豊臣家は直接参加していない。
表向きは豊臣政権をどうして維持していくかの意見のくい違いってことでしょうが、
一般的には天下を狙う家康 vs 忠義の官僚、三成の勢力争いと言われてます。
勝利者、徳川家康はこの3年後に幕府を開き天下統一を成し遂げました。
豊臣家が滅亡するのはその12年後になります。





天下分目、まさに全国の大名を二分しての戦いだったようで
赤い地域が東軍、白は西軍。こう見ると上杉がちょっと特異かな。
両軍とも味方を得るためプロパガンダ工作、甘い報酬を餌に寝返りを誘ったり
今の政界に通じるものがあるような・・・
この地図を見て気付いたのだが、徳川政権も260余年後、崩壊へと導いたのは
関ヶ原では、西軍側だったようです。


合戦の様子は、また後ほど。
そろそろ当ブログらしいところを・・・
このウォーランドの向かいにはお土産物センターがあって





ゆるキャラ、よもぎちゃんが歓迎してくれます。

ここのレストランで昼食をとりましたが

メニューは、これひとつっきり(厳密に言えば、蕎麦か饂飩かを選べますw)
にぎり寿司は、近江牛、飛騨牛、松阪牛の3種盛り。
違いを味わう・・・ですが、この量じゃね。分からんかった(^_^ゞ