カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

近江風土記の丘に明治が・・・

2013-09-15 16:08:10 | 洛外うろうろ
1966年から文化庁が実施している広域的史跡保存整備事業。
遺跡及び歴史資料の保存及び活用を目的として設置された史跡等の遺跡を中心とする
野外博物館・公園であるとともに、収蔵・展示するための資料館の設置等を行い、
史跡整備と資料館の二本立てで遺跡と遺物をともに公開しようとするものである。
・・・なんだそうで、全国に16ヶ所(2007年現在)あるとか。

今回行った「文芸の郷」は、歴史公園「近江風土記の丘」の中心的な施設という
位置づけのようです。
「安土城考古博物館」を中心に、2000年前の農耕集落跡「大中の湖南遺跡」
「安土瓢箪山古墳」「観音寺城跡」「安土城跡」の史跡で構成されている。

ま、そんなことはどうでもいいので、気になったところをチラッと散策・・・


『旧柳原学校舎(きゅうりゅうげんがっこうこうしゃ)』

この建物は、明治9(1876)年に高島郡新儀村(現高島市新旭町)の
初等科小学校として建てられ、この地方では他にさきがけ洋風を取り入れた
学校建築物であるとされ、現存する県下の学校建築としては最も古いものです。
明治9年といえば、日本最後の内戦、西南戦争が起きる1年前ですもんね。

30年間、学校として使われた後、地区の区長事務所として使用されていました。
昭和34(1959)年に擬洋風建築としての価値が認めら県文化財の指定を受け、
昭和45(1970)年に近江風土記の丘の建設に伴い現在地に移築されたものです。
文化財に指定されなければ残らなかったといわれるほど修理前は老朽破損が
酷いものだったようです。



1階が教室、2階は事務室に使われ、特徴的な3階部分の塔は「太鼓楼」。
チャイム代わりに太鼓を打ち鳴らしていたようです。(^_^ゞ
内部も公開されているのですが、16時まで。私が行った時にはもう閉まっていました。
2階は外観から想像できないような畳敷きの和室、1階は机に椅子で、当時の
子供たちにとってはモダンでハイカラな環境だったようです。

もともと太田神社境内に建てられた小学校で、神社の社務所と合体したような
部分もあり、とても奇異で希少な建築物です。
建てたのは地元の大工の棟梁、清水吉平だということで、京都などに出向き
洋風建築を見聞き、勉強されたのでしょうね。
瓦屋根に漆喰の外壁ですが、入口はアーチ型に、西洋の時計台に見立てた太鼓楼。
鎧戸のような窓やベランダ回廊、淡いブルーの配色も当時の棟梁が精いっぱい
表現した“文明開化”だったのかも知れませんね。





これは明治以前のものですが・・・


道標には「柳緑花紅 法名未徹」「みきハ京ミち」「ひたりハふしミみち」と
3面に文字が刻まれており、もとは東海道と伏見街道の分岐点(大津市追分町)に
あったものだそうです。
「柳緑花紅」とは春の景色の良いさまを形容している漢詩だとか。

大津米屋中が建てた「逢坂常夜燈」、東国から東海道で上洛する際、
最後の関所があるのが逢坂山。山城・近江国境でもあります。

 これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関(蝉丸)
・・・多くの人の出逢いと別れの分岐点になっていたようですね。

 夜をこめて 鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ(清少納言)
・・・逢坂の関所がかなり厳しかったことを喩えにしているようです。

百人一首にはこの二首の他、三条右大臣が詠んだ
 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな
と言うのもあります。このように百人一首に三首も出てくるほど昔の人にとっては
京都の出入り口として、避けては通れない要所だったのでしょうね。

〈Google Mapより〉

国道1号線にある関所跡、今は石碑だけですが
以前はここに大津署の逢坂山検問所があり、よく検問をしてましたよ。(^_^ゞ




この常夜燈は「外宮長虹籠」。参宮常夜燈としてはかなり古いものだそうです。
右の写真は、東海道に設置されていた「車石」です。これは京都周辺の街道などに
敷設されたもので、荷車がスムーズに通れるように二条の凹みに車輪を嵌める
ようになっています。特にぬかるんだ峠道などでは効果絶大だったと思われます。


さてもう1軒、明治の遺構に戻ります。


なんともお洒落で瀟洒な洋館建て♪ これ、派出所なんです。
「旧安土巡査駐在所」
明治18(1885)年に、常楽寺交番所として安土駅に近い十字路の角地に建って
いたのを移設したものだそうです。昭和40(1965)年まで使われていたとか。
これも旧柳原学校舎と同じく、地元の大工が造ったものだとか、平成10年には
「国土の歴史的景観に寄与されているもの」として登録有形文化財になりました。
よい仕事をしたものですね・・・(^_^ゞ



建物は木造で五角形平面の総2階建て部分と下屋部分からなり、外観は柱を塗り込む
大壁造の白漆喰塗で、屋根は桟瓦葺。交互に化粧積みされた隅の切石が印象的です。
玄関は洋風の扉にアーチ型の庇を設け、上部はペディメント風の三角形の切妻。
中央に官憲の紋章?1階、2階上下に揃えて配置された両開きのガラス窓など
随所に当時流行した洋風建築の意匠が見られます。
ここも16時までなら内部も公開されています。旧柳原学校舎もそうですが、
畳敷きの部屋、床の間まであるようです。外観は西洋文化を取り入れつつも
まだ生活習慣までは変えられなかったのでしょうね。




それと、旧柳原学校舎と旧安土巡査駐在所、共通しているのが住民の寄付によって
建てられたということ。この時代の住民、国民の気概を感じます。

2軒とも小さいながら洋風を模した公共建築で、内部までほぼ完全に当時の姿が
復元保存されている遺構は非常に少なく、近代化の歴史を伝える建造物としても、
人々の歩み、時代を検証するに貴重な資料だと思われます。

また機会があれば内部までゆっくり見てみたいものですが、何せこの日は
暑さと観音正寺の石段で体力消耗、ふらふらのヘトヘト・・・
散策を打ち切って『安土城考古博物館』へ戻ります。



この施設「安土城・・・」と名前にありますが、
安土城の展示はあまり期待出来ないようです。ほとんどが弥生時代や古墳時代の
古代遺跡研究の展示だとか・・・
私らが行った時はもう閉館していましたが、館内の食事コーナーは営業中だったので。



ここのメニューにも「尾張英傑カレー」だとか「信長珈琲セット・抹茶セット」
なんてのがありました。
信長公は下戸で甘党だったとかで、珈琲や抹茶のセットには、白玉団子にあずき、
黒豆餅に黒蜜ときな粉、金平糖が付いているようです。

とにかく暑かったので、私らはこれを・・・





パイプオルガンを備えたバロック調の音楽ホールである「文芸セミナリヨ」(上)
総合体育館、多目的ホールとしてスポーツや文化交流の場「あづちマリエート」(下)
「セミナリヨ」と言うのは、イエズス会によって日本に設置された初等教育機関
のことで、信長の保護のもと安土に作られ、ラテン語や文化を伝えたとされます。
ちなみに同じ時期、長崎にも作られています。
ここのセミナリヨは本能寺の変後、安土城炎上の際、共に焼失したようです。



やっとこの施設群の意義が少しは分ったような気がしますが・・・




2013.8/15、西の湖の夕景。