名前は清凉寺ですが、特別涼しいわけではありません。
シュワッ!ともしないし・・・(^_^ゞ
ちなみに、清凉寺の「凉」の字は「にすい」なのです。ご注意を。
意味的には涼と同じく「すずしい」で良いのかな。
そう言えば「冷」(ひえる・さめる)も「にすい」ですね。
『五台山 清凉寺(ごだいさん せいりょうじ)』
創建は987(寛和3)年、「嵯峨釈迦堂」の名前で知られています。
嵐山 渡月橋の道を真っすぐ北へ20分ほど歩くと、この山門に
突き当たります。(有料駐車場もあります)
「五臺山(五台山)」と書かれた額が掲げられているこの山門は
1776(安永6)年に再建されたもので、楼上には十六羅漢が祀られて
いるそうです。室町後期のものといわれる赤い阿形吽形一対の
金剛力士像を置いた仁王門になっています。
〈山門(仁王門)・京都府指定重要文化財〉
結構広い境内ですね、訪ねたのは7月20日、暑かったです。
・・・清凉寺やのに。(^_^ゞ
〈本堂〉
〈振り返って仁王門〉
〈多宝塔〉
1700(元禄13)年、江戸護国寺で行われた釈迦如来の出開帳の際の
寄進により、江戸で造られたものだそうで、部材を廻船で運び、
1703年に清凉寺の境内に建立されました。
※多宝塔とは、釈迦・多宝如来の二仏を祀る塔。
二重の構造をもつ宝塔で、下は方形、上下の連続部分は饅頭形(亀腹)
となっている。二重の軸部は円筒形、屋根は方形。
〈弥勒多宝石仏〉
空也の作とも言われており、表に弥勒菩薩、裏に宝塔が彫られていて
宝塔は扉が開き釈迦・多宝如来が彫られています。
〈一切経蔵〉
善慧大士座像、普浄、普賢像、四隅に四天王像が祀られ、
中央に輪蔵、経蔵があるようですが閉まっていたので入らず。
法輪一回転100円で回せるという記述があったのですが・・・
〈愛宕権現社〉
〈聖徳太子殿〉
八角殿堂、奈良法隆寺の夢殿を模しているそうです。
〈法然上人像〉
正式には「法然房源空二十四歳 求道青年像」?
法然は、当寺を訪ねられたようです。
〈然(ちょうねん)上人墓所 〉
〈嵯峨天皇(右)と壇林皇后(左)の宝筐印塔〉
幕末期までは御陵とされていました。現在、嵯峨天皇の陵墓は、
大覚寺の西北、嵯峨野の北にある御廟山の山頂にあります。
嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)。
〈鐘楼〉 〈狂言堂〉
狂言堂では、国の重要無形民俗文化財に指定されている
「嵯峨大念仏狂言」が演じられます。無料で観られますよ♪
壬生寺、千本閻魔(ゑんま)堂とともに京の三大念仏狂言の一つです。
4月第1日曜日と第2土・日曜日、秋は清凉寺大念仏会の創始者円覚上人の
命日である10月26日に近い日曜日に開催されます。
その他、釈迦如来入滅の陰暦2月15日にちなんで毎年3月15日に行われる
清凉寺の涅槃会とお松明式にあわせて開催されます。狂言の上演が
終わってしばらくすると、お松明のおねりと点火が始まります。
清凉寺のお松明式は京に春の訪れを告げる行事として親しまれ、
これと「五山送り火」「鞍馬の火祭り」が、京都の三大火祭りです。
〈鐘楼〉
嵯峨十景の一つ「五台の晨鐘」がこの鐘楼の梵鐘です。
〈本堂・釈迦堂〉
945(天慶8)年に重明親王妃が棲霞寺(せいかじ)の寺域に新堂を
建てたのが始まりで、度重なる焼失に遭うが、その都度再建され、
現在の本堂は1701(元禄14)年に徳川五代将軍綱吉の母・桂昌院、
大阪の豪商泉屋(後の住友)らの発起により再建されたものです。
本堂内には、国宝・本尊釈迦如来立像が安置されていますが、
この釈迦像は大変貴重なもの。
日本三如来※の一つとされる「三国伝来の釈迦如来像」です。
※三如来:天竺伝来の3体の如来。長野善光寺の阿弥陀如来、
京都嵯峨清涼寺の釈迦如来、京都因幡堂の薬師如来。
釈迦の在世中インド(天竺)で作られた釈迦像が中国に伝わり、
奈良東大寺の僧、然(ちょうねん)上人がそれを中国で模刻して
持ち帰ったというもので、インド→中国→日本と三国を伝来。
元の像は中国で焼けてしまってないそうですから、
清凉寺の釈迦如来像は世界で唯一の生身の釈迦像です。
釈迦が37歳のときの生き姿を刻んだものだそうで、162センチの等身大。
体内に内臓を形どった納入物があり、生身如来といわれています。
これは1954(昭和29)年に発見されたもので、模刻の際、中国尼僧が
絹で作った五臓六腑を収めたものだとか、中国において千年の昔に
人間の体構造を知っていた事を示す、解剖学的にも貴重な資料です。
この五臓六腑模型も国宝に指定されています。
美術的にも「清凉寺式釈迦像」として、かつて日本各地で流行した
仏像の一様式であり、その模刻は奈良の西大寺をはじめ
全国に100体ほどあるのだそうです。
なお、清凉寺は「京都十三佛霊場」の第二番札所になっています。
〈本堂の扁額〉「栴檀瑞像」黄檗宗開祖・隠元 筆
釈迦如来立像は栴檀(せんだん)の木で造られていることに因みます。
〈香炉〉寺紋:加賀梅鉢紋
菅原道真を祀る天満宮と関係があるのかと思いましたが、どうも
江戸時代、このお寺を再構した桂昌院がお玉と呼ばれていた頃にいた
野菜屋の紋というのが通説に?「玉の輿」の話ですね。
菅原道真公の末裔、加賀藩主前田氏の家紋が由来とも。菅家党の
漆間(うるま)氏からは法然上人が出ており、法然上人と所縁の深い
清涼寺は寺紋に梅鉢を使っているという説が正しいのかな?
この香炉は蓮花の形で、ツボミや実までついている凝ったモノですね。
〈阿弥陀堂〉
嵯峨天皇の皇子で、源氏物語の主人公 光源氏のモデルともされる
左大臣 源融(みなもとのとおる)の別荘・栖霞観(せいかかん)が
あった場所に融の死後、遺族が阿弥陀三尊像を造立し、阿弥陀堂に
安置したことに始まる。
現在の建物は、1863(文久3)年に再建されたものです。
木造阿弥陀三尊坐像は国宝で、この建物の奥にある霊宝館で、
同じく国宝の釈迦如来五臓模型を拝観することができます。
ちなみに『霊宝館』は、毎年春季(4月~5月)、秋季(10月~11月)に
特別公開されているようです。要確認。
2015.7/20、清凉寺(嵯峨釈迦堂)にて。
シュワッ!ともしないし・・・(^_^ゞ
ちなみに、清凉寺の「凉」の字は「にすい」なのです。ご注意を。
意味的には涼と同じく「すずしい」で良いのかな。
そう言えば「冷」(ひえる・さめる)も「にすい」ですね。
『五台山 清凉寺(ごだいさん せいりょうじ)』
創建は987(寛和3)年、「嵯峨釈迦堂」の名前で知られています。
嵐山 渡月橋の道を真っすぐ北へ20分ほど歩くと、この山門に
突き当たります。(有料駐車場もあります)
「五臺山(五台山)」と書かれた額が掲げられているこの山門は
1776(安永6)年に再建されたもので、楼上には十六羅漢が祀られて
いるそうです。室町後期のものといわれる赤い阿形吽形一対の
金剛力士像を置いた仁王門になっています。
〈山門(仁王門)・京都府指定重要文化財〉
結構広い境内ですね、訪ねたのは7月20日、暑かったです。
・・・清凉寺やのに。(^_^ゞ
〈本堂〉
〈振り返って仁王門〉
〈多宝塔〉
1700(元禄13)年、江戸護国寺で行われた釈迦如来の出開帳の際の
寄進により、江戸で造られたものだそうで、部材を廻船で運び、
1703年に清凉寺の境内に建立されました。
※多宝塔とは、釈迦・多宝如来の二仏を祀る塔。
二重の構造をもつ宝塔で、下は方形、上下の連続部分は饅頭形(亀腹)
となっている。二重の軸部は円筒形、屋根は方形。
〈弥勒多宝石仏〉
空也の作とも言われており、表に弥勒菩薩、裏に宝塔が彫られていて
宝塔は扉が開き釈迦・多宝如来が彫られています。
〈一切経蔵〉
善慧大士座像、普浄、普賢像、四隅に四天王像が祀られ、
中央に輪蔵、経蔵があるようですが閉まっていたので入らず。
法輪一回転100円で回せるという記述があったのですが・・・
〈愛宕権現社〉
〈聖徳太子殿〉
八角殿堂、奈良法隆寺の夢殿を模しているそうです。
〈法然上人像〉
正式には「法然房源空二十四歳 求道青年像」?
法然は、当寺を訪ねられたようです。
〈然(ちょうねん)上人墓所 〉
〈嵯峨天皇(右)と壇林皇后(左)の宝筐印塔〉
幕末期までは御陵とされていました。現在、嵯峨天皇の陵墓は、
大覚寺の西北、嵯峨野の北にある御廟山の山頂にあります。
嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)。
〈鐘楼〉 〈狂言堂〉
狂言堂では、国の重要無形民俗文化財に指定されている
「嵯峨大念仏狂言」が演じられます。無料で観られますよ♪
壬生寺、千本閻魔(ゑんま)堂とともに京の三大念仏狂言の一つです。
4月第1日曜日と第2土・日曜日、秋は清凉寺大念仏会の創始者円覚上人の
命日である10月26日に近い日曜日に開催されます。
その他、釈迦如来入滅の陰暦2月15日にちなんで毎年3月15日に行われる
清凉寺の涅槃会とお松明式にあわせて開催されます。狂言の上演が
終わってしばらくすると、お松明のおねりと点火が始まります。
清凉寺のお松明式は京に春の訪れを告げる行事として親しまれ、
これと「五山送り火」「鞍馬の火祭り」が、京都の三大火祭りです。
〈鐘楼〉
嵯峨十景の一つ「五台の晨鐘」がこの鐘楼の梵鐘です。
〈本堂・釈迦堂〉
945(天慶8)年に重明親王妃が棲霞寺(せいかじ)の寺域に新堂を
建てたのが始まりで、度重なる焼失に遭うが、その都度再建され、
現在の本堂は1701(元禄14)年に徳川五代将軍綱吉の母・桂昌院、
大阪の豪商泉屋(後の住友)らの発起により再建されたものです。
本堂内には、国宝・本尊釈迦如来立像が安置されていますが、
この釈迦像は大変貴重なもの。
日本三如来※の一つとされる「三国伝来の釈迦如来像」です。
※三如来:天竺伝来の3体の如来。長野善光寺の阿弥陀如来、
京都嵯峨清涼寺の釈迦如来、京都因幡堂の薬師如来。
釈迦の在世中インド(天竺)で作られた釈迦像が中国に伝わり、
奈良東大寺の僧、然(ちょうねん)上人がそれを中国で模刻して
持ち帰ったというもので、インド→中国→日本と三国を伝来。
元の像は中国で焼けてしまってないそうですから、
清凉寺の釈迦如来像は世界で唯一の生身の釈迦像です。
釈迦が37歳のときの生き姿を刻んだものだそうで、162センチの等身大。
体内に内臓を形どった納入物があり、生身如来といわれています。
これは1954(昭和29)年に発見されたもので、模刻の際、中国尼僧が
絹で作った五臓六腑を収めたものだとか、中国において千年の昔に
人間の体構造を知っていた事を示す、解剖学的にも貴重な資料です。
この五臓六腑模型も国宝に指定されています。
美術的にも「清凉寺式釈迦像」として、かつて日本各地で流行した
仏像の一様式であり、その模刻は奈良の西大寺をはじめ
全国に100体ほどあるのだそうです。
なお、清凉寺は「京都十三佛霊場」の第二番札所になっています。
〈本堂の扁額〉「栴檀瑞像」黄檗宗開祖・隠元 筆
釈迦如来立像は栴檀(せんだん)の木で造られていることに因みます。
〈香炉〉寺紋:加賀梅鉢紋
菅原道真を祀る天満宮と関係があるのかと思いましたが、どうも
江戸時代、このお寺を再構した桂昌院がお玉と呼ばれていた頃にいた
野菜屋の紋というのが通説に?「玉の輿」の話ですね。
菅原道真公の末裔、加賀藩主前田氏の家紋が由来とも。菅家党の
漆間(うるま)氏からは法然上人が出ており、法然上人と所縁の深い
清涼寺は寺紋に梅鉢を使っているという説が正しいのかな?
この香炉は蓮花の形で、ツボミや実までついている凝ったモノですね。
〈阿弥陀堂〉
嵯峨天皇の皇子で、源氏物語の主人公 光源氏のモデルともされる
左大臣 源融(みなもとのとおる)の別荘・栖霞観(せいかかん)が
あった場所に融の死後、遺族が阿弥陀三尊像を造立し、阿弥陀堂に
安置したことに始まる。
現在の建物は、1863(文久3)年に再建されたものです。
木造阿弥陀三尊坐像は国宝で、この建物の奥にある霊宝館で、
同じく国宝の釈迦如来五臓模型を拝観することができます。
ちなみに『霊宝館』は、毎年春季(4月~5月)、秋季(10月~11月)に
特別公開されているようです。要確認。
2015.7/20、清凉寺(嵯峨釈迦堂)にて。
ここは、未経験のお寺です。
名前ぐらいしか知りませんでした。
新しいことがしれました。
元の像が中国で焼けてしまった・・・
返せって言われへんやろねー
釈迦如来像
熱中症で1000人以上が毎年亡くなるのだから気を付けないとね。
仏教用語は難しい漢字が多いですね。
嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)
ふり仮名がないと読めないですね。
助かります。
たまにしか行かないですが
電柱の埋設化で、山門の前などすっきりしたのです
昨日今日と、千灯供養に合わせて、嵯峨美大の提灯が飾られてます。
何年か前には、山門に車が突っ込んだことも
山門前の車止めはその時に・・・
見どころの多い興味深いお寺でした。
もっとメジャーになっても不思議じゃないのに・・・
何言ってくるか分からんもんね、けどこのころは
中国の模倣ばっかり?コピー天国やったんやね、日本。
嵐山と嵯峨野の中間なので、あまり人も来ないのかな?
固有名詞や仏教用語は難しいですね、私も読めないので
できるだけ調べてふり仮名をつけるようにしてますよ。
行きたいと思っていたのですが・・・
山門に車が、そうそうそんな事がありましたね。
ところで近々、ぽ集の呼びかけをしようと思っています。
10月4日、場所はまだ決めかねてますが・・・ご参加くださいね。
よろしくお願いします
今日は、化野念仏寺の千塔供養があったのです
何年か前から、嵯峨美大(芸術大)の生徒が、釈迦堂の山門から道沿いに
自作の提灯を並べるようになってます。(3日ほど)
嵐山花灯路の時にも、中ノ島辺りに並べられます。
京都の三大祭りならぬ火祭りというのもありましたか。
しかし清凉寺とは、なかなかすごい名前ですね。
10/4は残念。
ちょっと外せそうにない仕事ですm(__)m