平和公園から直ぐ近く、広島城へは歩いても行けるのですが
また戻るのもなんなので、クルマで移動。駐車場を探す方が大変だったかも。
平和公園の横、元安川の船着き場から宮島行きの船が出ているようです。
「世界遺産航路」、これも良さそうだなと横目で見ながら・・・(^_^ゞ
お正月だったせいか、お城近くの駐車場はどこも満車。探し回って
城北通りよりまだ北のコインPに停めて、てくてく・・・
あれれ、城内はやたら賑やか
何と城内に神社が『廣島護国神社』。初詣で賑わっていました。
広島らしく牡蛎の屋台も♪
当然、復元天守。平城ながら立派な天守で広島市街が見渡せるようです。
最初に築城したのは毛利元就の孫、毛利輝元。
毛利輝元は織田信長と対立、羽柴秀吉が中国攻めをした相手でもある。
その戦の最中、信長は本能寺の変で死去。秀吉の中国大返し、天下取りとなる。
後に輝元は秀吉に臣従、五大老の一人として豊臣政権を補佐。その時に
大坂城を見て、こんなお城を造ろっと。って思ったのか大田川のデルタ地に
築城を始める。海と川に囲まれた広~い島のようだったからこの頃から
この地域を広島と呼ぶようになったとか。
城は1599年に落成したと言われるが、翌年には関ヶ原の合戦があり、
西軍の総大将であった毛利輝元は徳川家康によって長門(山口県)へ転封され、
東軍で功績を挙げた福島正則に安芸・備後を与え、広島城主とした。
福島正則は城下町の整備など尽力するが、もともと秀吉の親戚筋でもあり
外様であった福島正則を幕府は何かと因縁をつけて改易することに。
この後は豊臣政権時代、五奉行であった浅野長政を父とする浅野長晟(ながあきら)が
同じく外様ではありますが、関ヶ原、大坂冬の陣と徳川方につき家康の娘を
妻にするなど、より徳川に近い浅野氏が広島藩主を12代、250年にわたり、
明治の廃藩置県で免官されるまで続きました。
廃藩置県後、本丸に広島県庁舎が設置されるとともに城内には大日本帝国陸軍の
施設が建てられるようになり、日清戦争時は大本営がここに置かれることに。
そのため、それまでの城としての建造物は壊されていきますが、歴史的価値を
見出され昭和6年、天守が国宝保存法の国宝(旧国宝)に指定されます。
広島大本営跡
昭和20年、原爆投下により
国宝天守をはじめ、まだ江戸時代から残る建物はことごとく崩壊します。
城内には臨時救護所が設けられ、国宝であった木材は薪として使われたそうです。
もっとも真の国の宝は国民であり、それを救うために使われたのは
国宝としての役割を果たしたと言えるのかも・・・。
昭和28年、広島の復興を内外に伝えるために開催された広島復興大博覧会の
一環として鉄筋コンクリート製の天守閣を外観復元。また、原爆で焼失した
二の丸の表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓は、戦前の写真・図面や発掘調査の
成果を元に平成6年までに、木造で江戸時代の姿に復元され現在に至っています。
ちなみにこの広島城、またの名を「鯉城(りじょう)」と呼ばれています。
「広島カープ(Hiroshima Carp)」の球団名の由来ですね。
現在の天守閣は博物館となり内部は撮影できないところも多く・・・
それでもまぁ、ちょっとばかり遊べます。(^_^ゞ
おいおい、何しとるネン?
鯉焼き、ならぬ鯛焼きを・・・♪
2013.1/4、広島城にて。
また戻るのもなんなので、クルマで移動。駐車場を探す方が大変だったかも。
平和公園の横、元安川の船着き場から宮島行きの船が出ているようです。
「世界遺産航路」、これも良さそうだなと横目で見ながら・・・(^_^ゞ
お正月だったせいか、お城近くの駐車場はどこも満車。探し回って
城北通りよりまだ北のコインPに停めて、てくてく・・・
あれれ、城内はやたら賑やか
何と城内に神社が『廣島護国神社』。初詣で賑わっていました。
広島らしく牡蛎の屋台も♪
当然、復元天守。平城ながら立派な天守で広島市街が見渡せるようです。
最初に築城したのは毛利元就の孫、毛利輝元。
毛利輝元は織田信長と対立、羽柴秀吉が中国攻めをした相手でもある。
その戦の最中、信長は本能寺の変で死去。秀吉の中国大返し、天下取りとなる。
後に輝元は秀吉に臣従、五大老の一人として豊臣政権を補佐。その時に
大坂城を見て、こんなお城を造ろっと。って思ったのか大田川のデルタ地に
築城を始める。海と川に囲まれた広~い島のようだったからこの頃から
この地域を広島と呼ぶようになったとか。
城は1599年に落成したと言われるが、翌年には関ヶ原の合戦があり、
西軍の総大将であった毛利輝元は徳川家康によって長門(山口県)へ転封され、
東軍で功績を挙げた福島正則に安芸・備後を与え、広島城主とした。
福島正則は城下町の整備など尽力するが、もともと秀吉の親戚筋でもあり
外様であった福島正則を幕府は何かと因縁をつけて改易することに。
この後は豊臣政権時代、五奉行であった浅野長政を父とする浅野長晟(ながあきら)が
同じく外様ではありますが、関ヶ原、大坂冬の陣と徳川方につき家康の娘を
妻にするなど、より徳川に近い浅野氏が広島藩主を12代、250年にわたり、
明治の廃藩置県で免官されるまで続きました。
廃藩置県後、本丸に広島県庁舎が設置されるとともに城内には大日本帝国陸軍の
施設が建てられるようになり、日清戦争時は大本営がここに置かれることに。
そのため、それまでの城としての建造物は壊されていきますが、歴史的価値を
見出され昭和6年、天守が国宝保存法の国宝(旧国宝)に指定されます。
広島大本営跡
昭和20年、原爆投下により
国宝天守をはじめ、まだ江戸時代から残る建物はことごとく崩壊します。
城内には臨時救護所が設けられ、国宝であった木材は薪として使われたそうです。
もっとも真の国の宝は国民であり、それを救うために使われたのは
国宝としての役割を果たしたと言えるのかも・・・。
昭和28年、広島の復興を内外に伝えるために開催された広島復興大博覧会の
一環として鉄筋コンクリート製の天守閣を外観復元。また、原爆で焼失した
二の丸の表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓は、戦前の写真・図面や発掘調査の
成果を元に平成6年までに、木造で江戸時代の姿に復元され現在に至っています。
ちなみにこの広島城、またの名を「鯉城(りじょう)」と呼ばれています。
「広島カープ(Hiroshima Carp)」の球団名の由来ですね。
現在の天守閣は博物館となり内部は撮影できないところも多く・・・
それでもまぁ、ちょっとばかり遊べます。(^_^ゞ
おいおい、何しとるネン?
鯉焼き、ならぬ鯛焼きを・・・♪
2013.1/4、広島城にて。
岐阜城ってまたレアですな。どうせなら郡上八幡城も作って下さいな。
登り道もしっかり・・・
私は日本100名城のスタンプ帳にハンコを捺すため?(^_^ゞ
ビルの多さや道路の広さは京都以上ですね。復興の力は凄いものです。
お城は変ってないでしょうね。
岐阜城ってレア(?)な城も作りました。
ほとんどが山だったけど・・・
他の方の写真で見ると、また雰囲気が違って面白いですね。
私は平日午前に行ったので、ほとんど貸し切り状態でした。
広島の建造物はほとんどが原爆投下以降の物だと思うと、なんだか複雑な気持ちになりますね。
広島懐かしいな・・・。
1980年代は結構いきました。
お城も仕事でいきました。
もう細かいこと忘れてしまっているけど。
お二人で遊んでいますね。
お城は外から見えてるし・・・(^_^ゞ
国土を守ることは大切なのでしょうが、その方法を間違えるといけないですね。
右傾化ととられても仕方ない昨今の世情、気をつけて見守る必要があるかもです。
平和ボケじゃなく、積極的に平和を守ることを考える時期かも知れませんね。
見かけただけかな。
平和祈念公園には何度か行きました。
平和を強く願うばかりですね。
最近「領土の為ならやむをえない」みたいな雰囲気が
ありますが、戦争や武力行使は絶対にいけないと思います。
「理由によってはやむをえない」なんて戦争があるとすれば、過去の戦争の全てが肯定されてしまうと思います。
そうではない、ということを今一度意識していきたいものです。
大坂城、姫路城、熊本城はテッパンかな。そう言えば
広島城はあったかな??
昭和28年に生まれてたぁ~ッ!!?私より年上やん!
広島城は販売されてなかったような・・・気がする。
もしかして・・・私、写真でも見るの初めてかも
昭和28年だったら生まれていたけどなー
中は博物館?武具などの展示がありました。武具好きには面白いです。
ちなみに饂飩屋さんはありません、あしからず。
中には入れるんでしょうか?