カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

ぶらり麩屋町押小路・・・

2010-06-11 22:10:52 | 京都徘徊記
ランチにカフェモールに行ったが、まだ開店準備中だったもので
周辺をぐるっと・・・押小路(おしこうじ)麩屋町(ふやちょう)の角のコインパーキングに停めて、押小路通を西に御幸町通を北に上がり、二条通を東進、麩屋町通りを南に下れば、元に戻ります。角、角を左に曲がっただけ。(^_^ゞ

上の写真は、カフェモールと間違えたお店(?)。ちょうど作務衣姿の
白髪白髭のじっちゃんがいい感じだったので・・・
ここもこんもり植物が繁って、喫茶店か何かなんでしょうか?よく分かりませんでした。
じっちゃん、黒板にメニューでも書かれているのかと思ったら、
「風薫る」って言葉の語意や想いを書かれてました。アトリエか何かかな・・・?




向いにはこんなお店が・・・金属アクセサリーを製作販売されていました。
金偏に芳って書いて「錺(かざり)」って読みます。難読漢字やね。
ここは、京都で200年以上7代に亘って続く竹影堂のアンテナショップなんだそうです。


『竹影堂 かざりや 鐐<ryo>』


角には、お決まりの(?)ここも古い家をリノベーションしたものでしょう
築100年の京町家だそうで。パスタ・レストランです。


『パスタコレクションハウス 道月』



『柊家(ひいらぎや)別館』   『NISHIYAMA RYOKAN』

京都は街自体が観光地のようなもんだから、旅館も至るところにあります。
老舗がウリだったり、外国からのお客さんを積極的にとってるところも。


京都は古い家や建築物が残っているイメージだが、意外とそうでもない。
特に街中は幾度も大火に見舞われ焼失している。日本史上、最も長く続いた(続いている)首都。
数多くの政変、戦乱に巻き込まれた都市でもある。
先の世界大戦こそ大規模な空爆など受けては無いですが、印象的なものは
室町幕府下で起きた応仁の乱(1467-1477年)、10年続いた戦火で京の都は廃虚と化した。
この頃に疫病平癒のため始まった祇園祭は未だに続いてますが・・・
ま、この乱では戦闘と言うより治安の乱れで焼け野原になったようで。
復興も潤沢な資金があったにもかかわらず、将軍足利義政はその財源を民衆の救済にではなく、
趣味の建築や庭園に費やした。お爺ちゃん(義満)が造った金閣を真似て銀閣造ったりしてw
その後、長く疲弊していた京都を本格的に復興させたのは、豊臣秀吉だったんです。
京都の街は今でも秀吉の足跡が色濃く残されてます。佳きも悪きも・・・
鰻の寝床と言われる京の町家も秀吉の間口に対する税制の結果、狭い間口で奥行きの長い家を建て
節税した庶民の知恵だったんですね。〔秀吉ゆかりの京都〕
秀吉なくして今の京都は無いのに、京都の人は秀吉のことをあまり良く思ってないようですが・・・
京都最大の大火は天明大火(1788年)、出火場所が宮川町団栗辻子だったので
団栗焼け(どんぐりやけ)とも言われます。
原因は空き家への放火だったとか、2昼夜におよび燃え続け市街地を焼き尽くした。
その規模は応仁の乱による焼亡をさらに上回るもので、市街の8割以上が灰燼に帰したとか。
焼失家屋約3万7000、焼失神社仏閣約240、御所・二条城・東西の本願寺も焼けてしまっている。
御所はこの後にも嘉永七年の大火(1854年)にも焼失してます。この時の原因は、
梅の木に集まった毛虫を焼いていた火が燃え移ったのだとか・・・(^_^ゞ
被害は神社仏閣24、屋敷家屋約5300。(¨)nnnnn←毛虫の復讐?
幕末動乱期にも天明大火に次ぐ都市火災で、京都は丸焼けになってます。
今、大河ドラマでも池田屋騒動を描いてますが、その元治元年(1864年)。
池田屋騒動は7月8日。新撰組により尊王攘夷派の長州藩らを襲撃した事件ですが、
その報を受けた長州藩の武闘急進派が挙兵。7月19日に、御所の「禁裏の御門(禁門)」周辺で
戦闘を始めたものが禁門の変(蛤御門の変)です。
戦闘は長州藩兵が会津藩兵と衝突、御所内まで突入するも薩摩藩兵の援軍により形勢が逆転、
敗退する。騒乱は1日で決着するが20日には、落ち延びる長州勢が長州藩屋敷に火を放って逃走。
追う会津勢の攻撃も原因で、2ヵ所から上った火の手は京都の街をまたしても焦土と化す大火に。
21日に鎮火するも約2万7000世帯が焼失したと言われる。この火事、どんどん焼け広がったから
「どんどん焼け」とも言われてます。
ちなみに、開かずの門であるはずの禁門が何故、蛤御門(はまぐりごもん)と言われるかというと、
天明大火の際に初めて開けられたところから、焼けて口を開ける蛤に喩えられた所以です。
この3年後(1867年)大政奉還。京都は王政復古により政治の中心となっていったが、
この火災の被害から容易に立ち直れず、5年後(1869年・明治2年)には、新政府を
京都から東京に移す東京奠都が行われた。遷都(せんと)じゃないですよ、奠都(てんと)!
だから日本の首都は正式には、まだ京都です。首都機能は東京に移ってますが。マダユウカ!


もとい!閑話休題。何の話しやったっけ・・・

ほんでも新政権が落ち着いてきた明治初頭からは、市内は建築ラッシュだっとと言います。
新しもん好きの京都人。西洋建築をどんどん街に建て、街灯を点けぇの市電を走らせぇの・・・









ここにもありましたよ、明治時代のレンガ造り。



プロテスタント教会、日曜礼拝してました。
このレンガ造りの教会、窓の具合や屋根のカタチ、何か特徴あるなと思えば
やっぱりヴォーリズの仕事でした。




いろんなお店があるのは楽しいのですが・・・
町並としてのコンセプトは何も無い。ま、それも面白いところだけど。






ここもカフェ、エルガー&クラシック音楽ファンのお店かな?
オーナーの趣味は分かるけど、古い町家の間で異色。(^_^ゞ





銭湯もある「玉の湯」、ギャラリーの看板猫はタマちゃん?チャウカナ


やっぱりここのお店が気になるな・・・


2010.5/30、街でぶらぶら。


14 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
おはようございます (京男)
2010-06-12 06:31:43
この辺りはあまり歩いたことがないな。
通りすぎるだけ。
町家風のお店が増えましたね。
色彩をもう少し統一するともっとよくなるかも。
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Unknown (ピィ)
2010-06-12 07:15:08
京都の人にとって戦前というのは応仁の乱以前を指すんですってね(笑)

奠都と遷都、知らなかったです。
「へえ~」と思って妻に「日本の首都ってまだ京都なんだって」って言ったら、あっさり「そうだよ」って言われちゃいました・・・(笑)
簡単に言うと天皇陛下が「都を東京に移す」と宣言しないで行っちゃったからなんですね。
勉強になりました(^^)
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Unknown (Nylaicanai)
2010-06-12 08:45:58
こういう絵をみていると、行きたくなってきますねぇ。
とはいえ、もうすぐ梅雨なので、秋の紅葉時期でしょうか。
ところで麩屋町って「ふやちょう」だと思ってましたが、「ふやまち」という読みもあるんでしょうか?
京都は難しですからねぇ。
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Unknown (nob)
2010-06-12 18:18:21
僕もそのお店が気になりました(笑)
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とりあえず・・ (7駆)
2010-06-12 22:54:22
>梅の木に集まった毛虫を焼いていた火が燃え移ったのだとか・・
 
毛虫にてんごするのやめときます。

気になるお店・・・
迅速に調査しておかないと泣きをみます
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こんばんは。☆京男さんへ (路渡カッパ)
2010-06-12 23:30:25
時間潰しに歩いてみましたが、何処を歩いても
何か発見があって面白いですね。
町家、まだまだ廃屋寸前の物件もあるので増えるでしょうね。
色彩統一と電柱もね・・・
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戦前戦後 ☆ピィさんへ (路渡カッパ)
2010-06-12 23:31:04
応仁の乱が基準のようですね。どこまで遡るんや(笑)
同じく首都も問題にしてるのは京都の一部の人間だけだとは思いますが
なかなか面白い話しです。
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お元気ですか~ ☆Nylaicanaiさんへ (路渡カッパ)
2010-06-12 23:32:05
新造人間生誕おめでとうございます。
リハビリも順調なようで、思いっきりつぶやいてられる(^_^ゞ
「ふやまち」とも呼ぶことがあるんですが、「ふやちょう」の方が
正しいですね。修正しときます。
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謎? ☆nobさんへ (路渡カッパ)
2010-06-12 23:32:35
覗いたりしてみたのですが、
まず、何屋さんかも分からず・・・
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気になる店 ☆7駆さんへ (路渡カッパ)
2010-06-12 23:33:18
虫の恨みも無視できませんなぁ、あんまりてんごせんように。
何かとても味がありそうな店で、何ちゅうてもあのじっちゃんが
ええ味出してるでしょ。
そうか、早めに調査しないと、じっちゃんの歳からしても
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