カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

通称、光秀寺。

2012-07-11 23:53:25 | 洛外うろうろ
ご存知のように明智光秀は戦国武将、織田信長の家臣として活躍しましたが
日本戦国史、最大の謎?「本能寺の変」で主君信長を討ち(自刃)、俗に言う
三日天下の語源になった人物です。
その明智光秀の首がここに埋葬されている・・・ってことになりますが、






光秀の首は・・・?
本能寺の変があったのは1582(天正10)年6月2日。まんまとクーデターを
成功させるも、羽柴秀吉の「中国(備中)大返し」により、
13日には山崎(天王山)の戦いで破れ、近臣とともに長岡京市の勝竜寺城を
脱けだし、坂本城に向かう途中、山科の小栗栖で落ち武者狩りの土民に竹槍で
突かれ深手を負った光秀は、家臣・溝尾茂朝に介錯を命じ自刃(じじん)した。
茂朝はその首を近くの薮の溝のなかに隠した後、坂本へと落ちのびていった。
翌朝、付近の農民が3体の遺体を発見。内2体は顔の皮が剥がされ正体不明。
光秀と共に殉死した家臣のものです。首の無い遺体は鎧からして光秀であろうと
辺りを探索したところ、布に包まれた首が見つかり秀吉の元へ届けられた。
秀吉自ら首実検をし、光秀と断定。本能寺に晒され、さらに胴と繋がれ
粟田口に晒された。

※これに関しても数々の異説がある。介錯をした茂朝が京へ運び隠したとか
坂本まで持って行ったとか・・・

光秀の首は粟田口に晒された後、黒谷に他の数千の首と一緒に埋められたとも。
それがどうして谷性寺に運ばれたのか?
坂本城に運ばれたとも言われているし、宮津の細川ガラシャ(光秀の娘)の元に
届けられたとも・・・明智光秀は幾つ首があったんだろう?(^_^ゞ
そして、京都・粟田口白川筋に首塚が今も存在する。


白川筋三条を下がった所にある『餅寅』という饅頭屋さんが管理されている。
Googleのストリートビューが店の中まで入れるようになっていました。
銘菓「光秀頭」あ、いや、「饅頭」ってのがあるらしい・・・(^_^ゞ


亀岡・谷性寺にもどりますが・・・




これが光秀公首塚。 そして、明智山門。




「本堂」?




墓地の一角に古い石塔群があるが、これは室町時代に造られたものだという。

谷性寺は、桔梗寺という別名でも呼ばれているとのことですが、境内には
それほど桔梗は咲いていませんでした。

戦国ミステリー、謎多き武将・明智光秀のことを調べるととても面白いです。
ただしあまりにも多数の推論があるので、まとまりがつきません。
謀反人、反逆者、裏切り者、闇討ち・・・などあまり良いイメージは与えて
もらえないのですが、一方で光秀の心情を斟酌する人間も少なく無く、
特に地元、丹波の方では今も親しみを感じている人が多いようです。

下克上の時代、今とは倫理観も違ったのでしょうが兎に角、歴史の流れにあって
とてつもないことをしでかしたことには間違いないですね。

しかし本能寺の変、光秀謀反の理由は今なお『謎』のままであり日本の歴史上
解明されていない問題の1つです。野望説・怨恨説・前途不安説・朝廷誘導説・
足利義昭黒幕説・諸将黒幕説などの諸説まだまだありますが、いずれも定説と
なりうる決め手に欠けているのか、資料も「軍記」などによるものなので
信憑性に問題があるのかも・・・そんな中、ひとつ面白い見解があるので
書き留めておきます。
それは「源平交代政権思想」で平氏将軍阻止が理由では無かったのかと言うものです。

もともと日本の氏姓は「源平藤橘」のルーツを持ち集約されると言われています。
源氏、平氏、藤原氏、橘氏です。平安末期に武家が政治の実権を握るように
なってからの流れは、平清盛(平氏)→源頼朝(源氏)〔鎌倉幕府〕→
北条氏(平氏)→足利氏(源氏)〔室町幕府〕→織田信長(平氏)→
明智光秀(源氏)→豊臣秀吉(農民:平氏:藤原氏)→徳川氏(源氏)〔江戸幕府〕
こうして並べると上手く平氏、源氏が交互に並びます。
注目すべきは朝廷より将軍(征夷大将軍)を任じられ幕府を開いたのは源氏の
系統ですね。明智のルーツは土岐氏とされていますから源氏の流れです。

本能寺の変の動機に戻りますが、朝廷は室町幕府を倒した信長の勢いを恐れ
征夷大将軍の位を授けようとします。信長は平氏と称しているので、源氏の
プライドをかけて平氏から将軍を出したくない。とにもかくにも阻止すべし!
その大きな役割とチャンスを得たのが明智光秀だったのかもしれません。
ちなみに、本能寺の変の直前に信長は安土城に家康を招き、その接待役を
光秀としました。接待役と言うか信長より家康を毒殺するよう命じられたとか。
それを拒み(源氏同士だからでしょうか?)暗殺を不成功にした。
それに怒った信長はすぐさま光秀の接待役を解任、途中交替させた・・・

接待役を途中解任された光秀は、毛利攻めの秀吉援護の出陣を命ぜられ、
丹波亀山城から備中へ出陣するはずが、逆方向の信長のいる京へと向います。
総勢1万3千の兵を率い「敵は本能寺にあり!いざ!」「オーッ!」
・・・となったのかと言うと、さにあらず。
兵の中には信長軍から預かった兵も多々。その兵にしてみれば主君は信長なわけで。
だから、京に向った理由は「信長の閲兵を受けるのだ」としたようです。
桂川まで来て1万の兵を残し、3千ほどが洛中に向かい本能寺での戦を知らされますが
その時ですらターゲットは信長だと言うことを知っていたのは、わずかで。
ほとんどが信長の命で家康を討ち取るものだと思っていたとか?
こんなことが事実なら、天下取りが目的だったとは思えません。ただ信長を
亡き者にするためだけの行動のように思える。
平氏を名乗る人間を将軍には絶対させないぞってね・・・


この説、かなり無理な部分があります。尾張織田家は藤原氏の流れだったはず、
系図上の平重盛の子資盛の遺児、親真を祖とするというのは付け加えたものの
ようで、桓武平氏と言うのは自称のようです。同じく徳川家も源氏の流れは
汲んでおらず自称、もっと言えば朝廷より征夷大将軍の位を得るために
手っ取り早く、家系図を捏造したものと・・・。
秀吉に至っては言うまでも無く、財力によって買い取った家柄のようなもので、
平氏を名乗ったのは信長を真似ただけ。関白に就任するために、前関白
近衛前久の猶子となって(無理やり?)藤原氏に改めたもの。
ここまで言うと「源平交代政権思想」は、ちゃんちゃら可笑しいのですが・・・
氏姓のもつ意味が、現代の感覚と違い重く大きかったのでしょうね。

ところで、江戸幕府(源氏)が倒れて現代へと繋がっているから、今は平氏の世?

ま、色んな妄想、憶測ができるのも歴史の面白さです。特に光秀に関してはね。
生存説(南光坊天海説)まであるもんね。キリが無いので止めますが・・・





谷性寺の隣りに神社がありましたので寄ってみました。「篠葉神社」





ちょうど夏越の祓、「茅の輪くぐり」をしてきましたよ。




この後、「ききょうの里」駐車場に戻ったのがもう4時になっていました。
お昼ご飯、食べてません・・・(^_^ゞ 
駐車場で案内をされていた親爺さんに聞いて、紹介してもらったのがココ。


まいうーのタレントさんも来たようですね。


面白いメニューは無いかと・・・ネタ探し?

「おばば弁当(上)」と「卜伝セット」にしました。
名前の由来は聞きませんでしたが・・・(^_^ゞ


「卜伝(ぼくでん)セット」


「上おばば弁当」


おばば弁当「上」は、デザート・フルーツ付みたい♪





2012.7/1、京都亀岡、ききょうの里にて。


12 コメント

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そんなお寺があるのね (京男)
2012-07-12 06:04:06
おはようございます。
歴史って本当はどうなんだろう?
そう思いますね。勝者の歴史ですかね。
信長襲撃の真犯人は、秀吉みたいなきがします。
一番得をしていますから。
本当はどうなんだろう?
取りあえず有識者による第三者委員会でアンケートをとった方がいいかな。誰に?(笑)
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Unknown (ピィ)
2012-07-12 08:08:57
「源平交代政権思想」って、なかなか面白い説ですね。
あまり信憑性はなさそうですが、実際にはそういう力を働かせたいという人達がいて、暗躍していてもおかしくない気がしますね。
明治維新は、関ヶ原で負けた側の壮大な意趣返しという考え方もあるようですし。
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歴史の講義 (mone)
2012-07-12 11:39:01
いつもながら歴史の解説はすごいですね。学生時代にもどって歴史の講義を受けているような気になります(頭がいたい)
写真の編集、記事、これだけまとめるのには頭が下がります。私なんか写真はできるだけ入れますが、言葉は少なくです。
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☆信憑性 >京男さんへ (路渡カッパ)
2012-07-12 11:40:11
不確かであることは確か?(^_^ゞ
ま、近世・現在のニュースだって信用できないしね。この時代のことは・・・
だから領土問題も難しい。
ただ、安土桃山時代のことはイエズス会のフロイスが母国への報告書として多くのことを書き残している。それをベースに僕らは教科書から勉強したようなものですが・・・それもまた辻褄が合わないこともあり信憑性には欠けます。
僕も光秀が秀吉に唆された、口車に乗ってやってしまったって説は面白いと思います。
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☆源平 >ピィさんへ (路渡カッパ)
2012-07-12 12:00:03
紅白源平合戦、今も日の丸は紅白だしね、せめぎ合っているのかも。
「氏」の感覚は今とは違いますね、秀吉も四大氏(源平藤橘)に次ぐ五大氏とすべく「豊臣」を立ち上げていますしね。
「源平交代政権思想」面白い説なんですが、ムリも多い。(^_^ゞ
維新の討幕派も源氏系が多いしね・・・辻褄が合わない。
まぁ歴史ミステリーは、まことしやかなだけに面白いですが。
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☆ついつい >moneさんへ (路渡カッパ)
2012-07-12 12:04:29
ちょっと調べてみるつもりが、深みに嵌まってしまいます。
今回もほんのサワリだけをサラッと書いただけなので、ツマンナイかも。
もっとディープに調べていくと面白くて仕方なくなりますよ。
頭は痛くなりますが・・・
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うるさかったやろーに (7駆)
2012-07-12 13:32:43
3千ほどでも大変な数の兵。
京の町を駆け抜けたらさぞや「ガシャガシャ」うるさかったかと・・・
情報戦に長けた信長がむざむざとってのが、どうも腑に落ちぬ
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☆腑に >7駆さんへ (路渡カッパ)
2012-07-12 17:26:44
そうなんですよね、色んな説があってもどこか腑に落ちないところがあります。
>信長がむざむざと・・・そこも不思議ですね、それほど綿密な計画とも思えないし。
ただ、光秀は亀岡から京都に至るまで軍勢の目撃者を全て切り捨てよと命令したとか・・・
通報されないようにでしょうが、おちおち表も歩いてられない時代ですね。
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Unknown (Tansok)
2012-07-12 21:21:11
ううむ。。。そうですよね。
ジュウベイ光秀さんを打ち取った村の英雄も
あとから学者が調べたら、名前が残って無かったりとか。。。

後の政権が何故かしら、歴史を書き換えた考えも
多いですね。

小説とかは、天海説とかで一昔、盛り上がっておりましたが。。。

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☆天海説 >Tansokuさんへ (路渡カッパ)
2012-07-12 23:09:52
>あとから学者が調べたら、名前が残って無かったり
よくご存知ですね。家系図まで捏造するくらいですから
当時の歴史資料はアテになりませんね。
天海説もそれらしい資料を集めた面白いものですが
やっぱ矛盾だらけですね。
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