どんな人でなしであっても、その人を殺してしまえば、殺人で立派な犯罪行為だ。ところが、国と国の間では公然とまかり通っている。もし、相手が犯罪を犯したのであれば、世紀の手続きを経て罰を与えるそれが文明国というものだろう。ところが、米国はテロとの戦いと言いながら、公然と暗殺を繰り返している。一方では、国民の人権を無視した独裁政治をしているといって批判し、いかにも自分たちが正義だと主張する。しかし、どんな理由があったにせよ、親兄弟を殺され、打ち負かされた国の国民は、米国に対して好感情を抱くはずもない。そして、米国の力が弱まったときは、逆に攻められ、他国の支配に屈することになる。だからこそ、米国は立ち止まって考える余裕が持てないのだろう。そう、立ち止まれば、攻め入られる隙を与えることになるわけだからね。力で相手を倒したものは、いずれ力で相手に倒される運命にあるということを忘れてはならない。
狩猟民族と農耕民族の大きな違いは、農耕民族が自然の摂理を受け入れ、そして、共に共存していくという知恵を持っているのに比べ、狩猟民族は、獲物を殺し、餌にする。獲物の方が強ければ、逆に殺されてしまう、いわば、生か死かに直結している生活を送っていたということだろう。そして、獲物がいなくなれば、獲物を求めて移動を続ける。不安定な生活なのだ。そこから生まれてくる文明もまた大きく違ってくるのは当然の話なのだ。日本人の我慢強さはこうした風土と生活に根ざしたものだ。これは対人関係の持ち方についても言えることだと思う。日本人がはっきり物を言わないのは、殊更言う必要がないということと、相手は常に身近にいる存在で、関係を悪くしたくないという配慮が優先されるためなのだと思う。
中東の問題は大きな問題には違いない。どちらが良いともどちらが悪いとも言いがたい。どちらにも言い分があるわけだ。とどのつまりは、ヨーロッパ諸国がユダヤ人に肩入れし、周辺の諸国に対し、何の準備も交渉もなく、勝手にユダヤの国(イスラエル)を作ってしまったことに端を発している。国を負われた先住民は難民となって困窮し、相手国を憎むようになったわけだ。また、こうした困窮は、部族争いを生み、支配・被支配の小競り合いを続けているわけだ。こうした難しい問題はYes/Noで簡単に解決できるものではない。長い時間を掛けて、双方に折り合いをつけさせていく地道な努力を続けていく必要があるのだ。それこそ、Yes/Noで簡単に片付けることが苦手な日本人がこの交渉の主役にもっともふさわしいのではないだろうか?米国に迎合するのではなく、日本がイニシアティブをとって解決に当たるべき問題だと思うが、いかがでしょうか・