座間で9遺体が発見された事件。連日、新聞を賑わしている。被害者がようやく特定された。若い男女、自殺サイトで加害者と接触したようで、いずれも会って間もなく殺され、遺体が解体され、肉や内臓は燃えるゴミとして捨てられ、骨だけがクーラーボックスに入れられ、部屋に置かれていたという。何とも凄惨な事件だ。
人誰しも、長い人生の中、一度や二度、死んでしまいたいと思うことはあるだろう。特に、思春期のころなどはもともと様々なことに過敏になりやすい時期であるし、子どものころと違った対人関係を構築していく必要も出てきて、孤立感や疎外感に悩みやすく、かつ、将来への方向性を見出せないことへの焦り等、悩むことが多い。そんな心の隙間に入り込み、誘い出して、次から次へと殺人、遺体解体を続けていたというのだから、前代未聞の事件であり、かつ、どの動機も不可解だ。加害者の心は病んでいた、確かに病んでいたには違いないだろうが、そう言ったところで、何も分ったことにはならない。
この事件、鍵となるのはやはりSNS(ソーシャルネットワークサービス)だろう。SNSでは、通常ならば出会わないであろう人たちが出会い、様々なドラマを生み出す。面前での話では決して口には出さない内容も、SNSでは相手が見えないし、相手からも見られていないという安心感から、気軽に言葉として出てしまう。そして、相手が見えないから、相手のいう事を何の警戒心も持たずに、信じ込んでしまう。そして、自分の中に、相手像を描き出して、それがあたかも実際であるかのように信じ込んでしまう。今回の被害者について、事件に合う数日前には見違えるように明るくなっていたと証言している友達の言葉が新聞に載っていた。死にたいという自分の気持ちが共感してもらえたと勝手に思い込んで、加害者に好意を持ったためではないだろうか?その数日後には加害者によって殺されてしまうのだから、全く、皮肉なもんだ。
無名社会、隣に誰が住んでいるか分らないし、何をしている人かも分らない。私の田舎では、昔、どこどこの嫁さんはどこから来た人で、親は何をしている人で、その親はどこどこの出身だなど、全てが知られていたし、自分のことも同様に周りに知られていた。そんな社会では、下手なことはできない。まさに、何かへまをすると、それが即、家の恥になるし、周りの人に長い間記憶され、語り草になってしまう。そういった窮屈感がそこにはあった。そういった窮屈感から、都会へあこがれ、東京に出てきた人も多いのではないだろうか?
一方、都会は都会で、隣の人のことは分らない。全く、孤独感に苛まれることになる。どちらを選ぶかは個人の自由だが、都会には田舎と違って、セキュリティーが働いていないということをしっかりと認識しておくことが大事だと思う。SNSの世界はまさに、この「都会」と同じで、セキュリティーが働かないということを分っておく必要がある。会って話しをするのであれば、経験的に相手が確かな人なのか、危ない人なのか、ある程度分かるものだ。しかし、相手が見えないSNSではその経験的な能力も働きにくく、自分自身で、勝手にイメージを作り上げ、いざ会うときには、そのイメージ(先入観)というフィルターを通してしか相手を見れなくなっている。アバタも笑窪状態になっているのだ。もし、ネットで知り合って会うことになったときにはこのことを肝に銘じておいて欲しいもんだ。