おさむのブログ

日常考えていることや、感じた事を書いています!!

東京思風塾 4月

2013年04月07日 17時09分30秒 | 自分のこと
昨日、4月度の東京思風塾が五反田で開催されました。

その講義を、自分なりにまとめました。あくまで北澤修の主観で書いたもので、思風先生の正規の記録ではないのでご容赦ください。

ながーーいですが、よろしかったらどうぞ。

東京思風塾 4月

≪脱近代における人間性をつくる六つの問い≫
答えを求めてしまう。しかし人間はその答えによって縛られる。その答えによって成長が止まる。ひとに押し付ける。対立をつくる。
答えを求めるのは理性。問いをもつことは感性のちから。
問いをもつ限り、限りない成長をし続けることができる。
~そいえばある人と酒を飲んだ時、宗教への加入を強く強くすすめられたなぁ。彼は何度も言っていた。『答えを手にできるんだよ』と。

理性万能主義の近代が様々な対立を生み出した。ほんとうにこれでいいのだろうか???と誰もが思うようになった。理屈じゃない、こころが欲しい。

人間の本質は理性ではなく、感性だ。時代そのものが理性万能主義の近代から感性への時代を模索している。

原理的変革の時代

理性を解放する→フロイトが解明した世界。理性による抑圧が、心を病み、肉体を病ませる。

理性とは生きているものを殺す力→ベルグソン。生きているということは、変化し続けているということだ。

感性論哲学では、『理性とは、合理的に考えることができるすばらしい能力であるけれども、合理的にしか考えられない、有限で不完全な能力である』と位置付ける。なぜか、
① 理性の発祥は『言葉』である。だから理性とは、言葉の持つ限界を超えることができない。言葉とは人間が持つ抽象概念であるから、本質を現すことができない。
② 宇宙は有機的な連鎖によって成り立っている。生きたいのちの働き。理性によってつくられたものは数学的合理性であって、有機性(相乗効果)をもつことがない。ピンクレディーシンドローム(笑)

理性のプラス面とは。
理性は事実でないことが言える。ほんとのことも言えるけれど嘘も言える。事実に縛られない。未来に対応できる。夢・理想・計画。『嘘』にも意味と価値がある。理性に内在する能力を理解する。
理性とは、客観性と普遍性の能力→カント(純粋理性批判)

ひとは問題が起こったとき、迷いながら悩む。→結論が出ない。客観性がない。問題を解決したい時は、その問題を客観的に見つめる。他人事にする。自分事だと解決できない。客観性とは、問題と自分との間に距離があるということ!!!←これはいい!(笑)
より客観的になるために⇒『三人寄ればもんじの知恵』

客観的に物事を見るとは、『客観的に歪んでいる』ということ。主観的であっても偏見があり、歪んでいる。理性能力の限界がここにある。偏見も、理性的には正しいけれども偏っている、ということを理解していなければならない。

アジアは、理性による考え方の違いを排除しない。これからはアジアの時代である。

『理性と感性のバランスが大切なんだよねぇ』ではない。理性と感性は自己の中に別々に存在しているのではない。それは自己分裂の人間観である。理性と感性をどう有機付けるかが大切なんだ。

理性的になればなるほど、自分の実態から離れていく。感性こそ『我』であり、感性こそ『個性』である。感性が主、理性が従として有機的につながる人間観。

感性が人間の本質である。
感性が肉体をつくり、感性が精神をつくる。一般的には、感性とは肉体の属性であるという。感性は動物と同じである。理性は神から与えられたもの。従って、理性は感性よりも高次である、そうして近代理性社会は成長してきた。人生を客観視して、『生きる意味や価値はあるか』と理性で問う。(フランクルを思い出す『問われているのだ。』)
人生を意味あるものに、人生を価値あるものにするために理性を働かせる。

人間はしたいことをするために生まれてきた。我慢するために生まれてきたのではない。したいこともせずに何が人生か!
その、感性から生まれる、命を賭してでもしたいことと出会い、それを実現するために手段能力として理性を使う。なるべく人様に迷惑を掛けないように、なるべく人様の役に立つように。

感性の中には、理性よりも素晴らし能力がある。
いのちから湧いてくる知恵、天分、理屈を超える愛の力、不撓不屈の愛の力、技術に見る勘とコツ。我々は、理性を手段能力としながら、あらゆる感性の能力を実現していくような生き方をしていく。
108の煩悩を、理性を使ってすべてを生かし切る。煩悩こそ『我』。

脱近代とは、理性社会を超えるということだ。理性は考えの違いによる対立を生む。矛盾を排除する。画一性を追求する。だから理性を超えるとは、その矛盾を生きるということだ。考え方の違う人と、価値観の違う人と、能力の違う人と、共に生きるということだ。

愛の力が必要だ。理性よりも、愛の力で生きる。理性に頼っている限り、永遠に対立はなくならない。我々は、新しい歴史をつくるために生きている。愛の実力を養って、愛の実力を成長させて、新しい歴史をつくる。

対立に対する近代の解決策 ①説得②妥協③こびへつらう④逃げる⑤戦う しかなかった。
いずれも解決策にはならなかった。

『対立』にも意味と価値がある。

対立の発祥 ①体験②経験③知識・情報④解釈⑤出会い の違いによって生まれる。
ということは、『対立とは自分にないものを相手が持っている』ということ。

自己の成長とは、自分にないものを相手から学ぶ努力からしか生まれない。だから、対立とは、いまの自分の成長に必要な対象が現れているのだ。対立から学ぶ。対立から逃げてはならない。相手から学ぼうとしないということは『愛』がない。

矛盾を生きる力を、我々は身に着けなければならない。

対立に対する『戦いの目』から、相手から学ぶという『愛の目』に変わることで、すべてが変わる。
~確かに、『目』はすべてを伝え、すべてを変えるなぁ。理屈を超える、矛盾を生きるって、すばらしいなぁ。『愛』は在るもんじゃない。学び、成長させていくものなんだ。

親子の愛は、血縁という理屈を超えたつながりであるのに、そこに理屈を入れたらうまくいかないのは当然。

無我無欲無心という倫理道徳を根底から変える時代。我を生かし、欲を生かし、偏見を短所を生かし切ってこそ、摂理に叶う生き方である。宇宙には偶然はない。すべて必然なのであるから、存在するものすべてを生かし切る。悪をも生かし、短所をも生かす。何一つ無駄はない。なくそうとすることは、宇宙の摂理に対する謀反であり反逆である。否定的な倫理道徳からの脱却して、人間性を進化させていく。


という東京思風塾でした。


ではまた。

おさむ



コメント
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