東京思風塾6月例会が開かれました。13時から19時の講義のあと、今回は思風先生の72回目のお誕生会も開かれ、大変有意義に、そしてにぎやかにやって参りました。長いですがよろしかったらご覧ください。毎回のことですが、これは感性論哲学をぼく自身が理解している言葉で書いていますので、先生のおっしゃっている内容とは異なる面が多々あることをご了承ください。
芳村思風先生そして行徳哲男先生という哲学の師と仰げる存在が自分のベースとなっています。これからもこの学びを家づくりという仕事に生かしていきます。

東京思風塾6月例会
理性革命~理性の奴隷となるなかれ!!
≪1限目≫
近代文明は、人間の本質とは理性であるとして発展してきた。理性的に考えて合理的であることが真理であるとしてきた。しかし、行き過ぎた理性社会、合理社会が悪弊をもたらしている。理性の奴隷となっている。その結果、自然破壊・環境破壊・人間性の破壊をもたらしている。
人間が理性化されると感性をも理性的に理解しようとする。価値観の違うものを排除しようとする。画一化しようとする。しかし、これからは個性の時代だ。個性の時代とは、考え方が違い、宗教が違い、価値観が違う者同士が力を合わせて生きていく時代のことだ。
近代医学では、すべての病は心因性を起源とするといわれてきている。
『いのち』とは、宇宙に存在する或いは起こる、すべての要素が有機的につながって成り立っている。興味関心好奇心や喜怒哀楽といったいのちから湧いてくる欲求を、正しさや常識や倫理によって理性的に抑圧すると、それは不調和となり、やがて病を生む。
いのちの有機性を信頼するということは、内面においても外面においても対立構造をもたないということだ。有機的につながっているということは、理性も感性(欲求)も善も悪も清も濁もすべて意味と価値をもってつながっているということだ。協力させて相乗効果を生むということだ。あらゆる『対立』は、いのちの有機性を阻害する。
近代は数学的合理性に支配されてきた。物質的社会。数学的合理性とは、人間の作為に基づいて生きることが本質であるという生き方。有機的な生き方をするとは『生命合理性』という生き方。生命合理性とは、『いのちの生き方として』最も合理的な方法を考えること。。。。。。。。ああーーー自分で何を書いているのかわかんねぇ~。。。
≪二限目≫
なぜ、人間の本質は『理性』ではなく、『感性』であるといえるのか。人間は、理性的になればなるほど自分が自分から離れていく。
現代の多くの人は、『自分がしたい』と言えるものを持っていない。自分がしたいものがないということは、他者から与えられた生き方をするということであり、他者の奴隷になるということである。
中世は封建的で宗教や信仰に支配された非合理な社会であった。非合理な社会であったから故、合理への欲求が生まれた。⇒理性への目覚め
理性社会が成熟した現代は、非理性的、非合理的な欲求を生んだ。『理屈じゃない、こころが欲しい』という時代。『感性』を主軸とした時代。しかし、誰もが『自分はあたたかな血の通った人間である』と思っている。ぼくもそうだ。理性社会にどっぷりとつかっていると理性の奴隷となっていることがわからなくなってしまう。
たとえば社員が嘘をついた時にどう反応しているか。『嘘をついちゃダメじゃないか!!』と叱る。怒る。正しさを押し付ける。それは理性的には正しい。正しさは時に冷たく固く痛い。そこには人間的な血の通ったあたたかさはない。単なる理性的な主張は関係性をぶった切る。
嘘をついた社員は、ほんとは嘘なんてつきたくないんだ。嘘をつくに至ったプロセスを思えば、『そうなるまでに気づかずにすまんかった。』『次に何かあったらいつでも言ってくれ』と言える。もちろん『でも嘘をつくのはいかんぞ』と言わなければならないが。
『短所』についても同じである。人間は宇宙の中に存在するのであるから一切の無駄がない。長所はいいけれど短所はダメというのは理性がつくり出した幻想である。長所は愛せるけれど短所は愛せないというのは、人間を愛する資格がない。短所が目立つということは、長所が見えていないだけだ。短所をなくそうとしてはならない。短所をなくそうとすることは人間でなくそうとしているのと同義である。長所を伸ばせ。長所が伸びれば短所も成長して人間的な『味』となる。
理性とは、合理的に考えることができるすばらしい能力だけれども、合理的にしか考えることができない不完全で限界のある能力である。理性というのは人間が持っているひとつの能力に過ぎない。であるから、人間がよりよく生きていくための手段能力として、理性を成長させていくのだ。
≪3限目≫
理性とは、客観性と普遍性の能力である。
自分の力で問題を解決していく能力を身につける。人間は悩みながら考える。悩みの中にいて考える。『理性』は客観的に物事を見ることができる能力であるから、悩んだときには自分の悩みを他人事にしてみる。他人事にしてみたら答えは出やすい。自分事と他人事では、問題に対する距離が異なる。そして、『行動』する。行動すると、事象が動く。それを繰り返す。
問題の本質は、『いまの自分の能力では解決できない問題だから問題なんだ』ということ。問題を乗り越えることができたら、次に同じことが起こっても問題ではなくなる。理性の成長の証。
選択肢に迷う。悩んで悩んで迷ったら、サイコロを振ったらいい。鉛筆を転がしたらいい。迷うということは、どっちでもいいんだ。そしてどの選択をしてもいずれ必ず問題が起こる。問題を乗り越えていくことでしか豊かな人生はない。成長のある人生はない。その時に大切なことは、『決断』するということ。『決める』ということだけではなく、『断ち切る』ということ。ひとつの選択をしたのなら、他のあらゆる可能性や選択肢を断ち切る。そして選んだ選択肢に起こる問題を乗り越え続ける。
理性能力とは『解釈能力』であるともいえる。事象はひとつであっても、360度の方向から解釈することができる。『万象是我師』。
『こころ遣い』とは、感性だけではないし理性だけでもない。感性で感じたものを理性を手段能力として行動すること。『こころ』とは、感性と理性が有機的につながるということ。
理性を使って感性を成長させる⇒仕事や人間関係や起こる事象のより深い意味と価値を考える⇒その意味と価値を本音として実感することができる⇒理性が感性を成長させていく。
理性は矛盾を排除しようとする。しかし、理性を手段能力として使うことによって、『どうやったら価値観の違う人、宗教の違う人と仲良くやっていくことができるだろうか。』と考えることができる能力でもある。感性の欲求を実現するために、理性を手段能力として、問題解決能力として成長させていく。
人生を意味あるもの価値あるものにするために理性がある。
ほーー!!理性万歳じゃないですか~ヽ(^o^)丿
≪4時限目≫
宇宙はエネルギーバランスを模索してゆらいでいる。。。。あーーー、ここはすごいお話しだ!!感性の根源のお話しーーーー。おもしろーい!!!速くて記録できな――――い!!!先生非常に熱く語る!!!
いのちの中に宇宙の作用が働いている。
いのちはよりよく生きようとしている。単細胞から始まるいのちの歴史がそれを物語っている。
こうしたらいいだろう、ああしたらいいだろうという模索する理性的生き方が感性を成長させる。現実社会の矛盾を生きる生き方とは、このような模索的な生き方をいう。これを、『意識するかどうか』がとても重要。無意識無自覚に考えるだけでは感性が刺激されない。無意識無自覚に理性に支配されるのではなく、理性を手段能力として、問題解決能力として成長させていく。これぞ、理性革命。
塾生でもあるはまちゃんのお店、ヴェトナムアリス新宿店でお誕生会\(^o^)/


ではまた。
おさむ
芳村思風先生そして行徳哲男先生という哲学の師と仰げる存在が自分のベースとなっています。これからもこの学びを家づくりという仕事に生かしていきます。

東京思風塾6月例会
理性革命~理性の奴隷となるなかれ!!
≪1限目≫
近代文明は、人間の本質とは理性であるとして発展してきた。理性的に考えて合理的であることが真理であるとしてきた。しかし、行き過ぎた理性社会、合理社会が悪弊をもたらしている。理性の奴隷となっている。その結果、自然破壊・環境破壊・人間性の破壊をもたらしている。
人間が理性化されると感性をも理性的に理解しようとする。価値観の違うものを排除しようとする。画一化しようとする。しかし、これからは個性の時代だ。個性の時代とは、考え方が違い、宗教が違い、価値観が違う者同士が力を合わせて生きていく時代のことだ。
近代医学では、すべての病は心因性を起源とするといわれてきている。
『いのち』とは、宇宙に存在する或いは起こる、すべての要素が有機的につながって成り立っている。興味関心好奇心や喜怒哀楽といったいのちから湧いてくる欲求を、正しさや常識や倫理によって理性的に抑圧すると、それは不調和となり、やがて病を生む。
いのちの有機性を信頼するということは、内面においても外面においても対立構造をもたないということだ。有機的につながっているということは、理性も感性(欲求)も善も悪も清も濁もすべて意味と価値をもってつながっているということだ。協力させて相乗効果を生むということだ。あらゆる『対立』は、いのちの有機性を阻害する。
近代は数学的合理性に支配されてきた。物質的社会。数学的合理性とは、人間の作為に基づいて生きることが本質であるという生き方。有機的な生き方をするとは『生命合理性』という生き方。生命合理性とは、『いのちの生き方として』最も合理的な方法を考えること。。。。。。。。ああーーー自分で何を書いているのかわかんねぇ~。。。
≪二限目≫
なぜ、人間の本質は『理性』ではなく、『感性』であるといえるのか。人間は、理性的になればなるほど自分が自分から離れていく。
現代の多くの人は、『自分がしたい』と言えるものを持っていない。自分がしたいものがないということは、他者から与えられた生き方をするということであり、他者の奴隷になるということである。
中世は封建的で宗教や信仰に支配された非合理な社会であった。非合理な社会であったから故、合理への欲求が生まれた。⇒理性への目覚め
理性社会が成熟した現代は、非理性的、非合理的な欲求を生んだ。『理屈じゃない、こころが欲しい』という時代。『感性』を主軸とした時代。しかし、誰もが『自分はあたたかな血の通った人間である』と思っている。ぼくもそうだ。理性社会にどっぷりとつかっていると理性の奴隷となっていることがわからなくなってしまう。
たとえば社員が嘘をついた時にどう反応しているか。『嘘をついちゃダメじゃないか!!』と叱る。怒る。正しさを押し付ける。それは理性的には正しい。正しさは時に冷たく固く痛い。そこには人間的な血の通ったあたたかさはない。単なる理性的な主張は関係性をぶった切る。
嘘をついた社員は、ほんとは嘘なんてつきたくないんだ。嘘をつくに至ったプロセスを思えば、『そうなるまでに気づかずにすまんかった。』『次に何かあったらいつでも言ってくれ』と言える。もちろん『でも嘘をつくのはいかんぞ』と言わなければならないが。
『短所』についても同じである。人間は宇宙の中に存在するのであるから一切の無駄がない。長所はいいけれど短所はダメというのは理性がつくり出した幻想である。長所は愛せるけれど短所は愛せないというのは、人間を愛する資格がない。短所が目立つということは、長所が見えていないだけだ。短所をなくそうとしてはならない。短所をなくそうとすることは人間でなくそうとしているのと同義である。長所を伸ばせ。長所が伸びれば短所も成長して人間的な『味』となる。
理性とは、合理的に考えることができるすばらしい能力だけれども、合理的にしか考えることができない不完全で限界のある能力である。理性というのは人間が持っているひとつの能力に過ぎない。であるから、人間がよりよく生きていくための手段能力として、理性を成長させていくのだ。
≪3限目≫
理性とは、客観性と普遍性の能力である。
自分の力で問題を解決していく能力を身につける。人間は悩みながら考える。悩みの中にいて考える。『理性』は客観的に物事を見ることができる能力であるから、悩んだときには自分の悩みを他人事にしてみる。他人事にしてみたら答えは出やすい。自分事と他人事では、問題に対する距離が異なる。そして、『行動』する。行動すると、事象が動く。それを繰り返す。
問題の本質は、『いまの自分の能力では解決できない問題だから問題なんだ』ということ。問題を乗り越えることができたら、次に同じことが起こっても問題ではなくなる。理性の成長の証。
選択肢に迷う。悩んで悩んで迷ったら、サイコロを振ったらいい。鉛筆を転がしたらいい。迷うということは、どっちでもいいんだ。そしてどの選択をしてもいずれ必ず問題が起こる。問題を乗り越えていくことでしか豊かな人生はない。成長のある人生はない。その時に大切なことは、『決断』するということ。『決める』ということだけではなく、『断ち切る』ということ。ひとつの選択をしたのなら、他のあらゆる可能性や選択肢を断ち切る。そして選んだ選択肢に起こる問題を乗り越え続ける。
理性能力とは『解釈能力』であるともいえる。事象はひとつであっても、360度の方向から解釈することができる。『万象是我師』。
『こころ遣い』とは、感性だけではないし理性だけでもない。感性で感じたものを理性を手段能力として行動すること。『こころ』とは、感性と理性が有機的につながるということ。
理性を使って感性を成長させる⇒仕事や人間関係や起こる事象のより深い意味と価値を考える⇒その意味と価値を本音として実感することができる⇒理性が感性を成長させていく。
理性は矛盾を排除しようとする。しかし、理性を手段能力として使うことによって、『どうやったら価値観の違う人、宗教の違う人と仲良くやっていくことができるだろうか。』と考えることができる能力でもある。感性の欲求を実現するために、理性を手段能力として、問題解決能力として成長させていく。
人生を意味あるもの価値あるものにするために理性がある。
ほーー!!理性万歳じゃないですか~ヽ(^o^)丿
≪4時限目≫
宇宙はエネルギーバランスを模索してゆらいでいる。。。。あーーー、ここはすごいお話しだ!!感性の根源のお話しーーーー。おもしろーい!!!速くて記録できな――――い!!!先生非常に熱く語る!!!
いのちの中に宇宙の作用が働いている。
いのちはよりよく生きようとしている。単細胞から始まるいのちの歴史がそれを物語っている。
こうしたらいいだろう、ああしたらいいだろうという模索する理性的生き方が感性を成長させる。現実社会の矛盾を生きる生き方とは、このような模索的な生き方をいう。これを、『意識するかどうか』がとても重要。無意識無自覚に考えるだけでは感性が刺激されない。無意識無自覚に理性に支配されるのではなく、理性を手段能力として、問題解決能力として成長させていく。これぞ、理性革命。
塾生でもあるはまちゃんのお店、ヴェトナムアリス新宿店でお誕生会\(^o^)/


ではまた。
おさむ