毎月書いている『おさむのひとりごと』の7月号を書き終えました。。。北澤工務店で発行しているカタロ通信の発送に合わせてやっと書き終えたのですが、よろしかったらご覧ください。またまた例によってながーーーーーーいですが。。。(^_^;)
おさむのひとりごと2014-7
もう7月です!!つい最近『明けましておめでとうございます』って言っていたような。。。時間の流れの早さを改めて感じます。いかがお過ごしでしょうか。
毎月書いているこの『おさむのひとりごと』は、今回で171回目。12カ月で割ると14年書いていることになる。人に自慢できるものが少ないぼくですが、これはちょっと自画自賛です(^_^;)。いつもご覧いただき、ありがとうございます。
今月号は、先月6月号で書いた富士登山に対する思いを今一度転載させていただきながら、『日本人』というところに焦点を当てて、北澤工務店の家づくりの背骨の部分を書いてみたいと思います。
≪富士登山≫
今年の北澤工務店主催『ゆるゆる富士登山』は、7月29日(火)30日(水)に開催予定です。まだ8名ほど余裕がございますので、ご検討中の方はまずご一報ください。頂上だけが富士登山ではありません。7合目をゴールにしてもいいじゃないですか!!
昨年は『ゆるゆる富士登山』と称しながら『カツカツ富士登山』となってしまった反省を踏まえ、今年は一段と準備段取りを入念に行い、参加される方々に最高の体験をご提供できるようにしてまいります。
ぼくは富士山が好きです。見て美しい、登って素晴らしい。いつも胸の内に富士山を抱いています。富士山は当初『世界自然遺産』として登録申請しましたが、周辺の開発等々が自然遺産としてふさわしくないとの理由で却下された話は有名です。そして再度申請し採択されたのが『世界文化遺産』だったのです。
これはほんと、日本人にとって全くもってふさわしい採択であったと思います。富士山とはまさしく古来より、日本人の精神性の象徴であると思うからです。
≪見て美しい≫
富士山は登る山じゃないよ、見る山だ。そうおっじゃる方は多い。逆に言えばそれほどに美しい山だともいえます。
確かに、神業としか言いようのないほどに端正なあの姿。古来は神宿る霊峰として富士講の修験者など、一部の人間しか登ることができなかったのもうなずけます。がしかし、最近私は新たな発見をしたのです。それはバイクツーリングで『水ヶ塚』というところに行った時のことです。
水ヶ塚は登山シーズンになるとマイカー規制のための駐車場になる場所です。宝永山が間近に見られます。そこには、およそ非の打ちどころのないほどに美しいあの富士山とはまるで掛け離れた、恥ずかしいほどにバックリと口を開けた火口、痛々しいほどのえぐれた傷跡が垣間見えるのです。富士山にもこんな姿があるのか!!と絶句でした。
そして、胸が熱くなりました。こみ上げてくるものがありました。
富士山は、身をもって我々日本人にその生き方・在り方を教えてくれているんだ。手痛い深傷を負っても尚、『凛として生きよ』。娑婆において必ず起こる辛い体験や苦しい体験を丸抱えで生きよ・・・。ドドドドーと押し寄せるような、そんなメッセージが飛び込んできたのでした。
見て美しい富士山。まさに然り。しかしそれは、ただ秀麗なだけではなかった。ただ端正なだけではなかった。恥ずかしいほどに醜い部分をあわせ持つ存在だった。人間として美しく生きるとは、富士山のように在ることなのだと、深く深く感じたのでした。
≪登って素晴らしい≫
富士山は日本一の山であるにもかかわらず、登山愛好家には著しく評判が悪い。富士登山は登山じゃない、とまで言われる。あの人ごみ。登山マナーの欠片もない集団。すし詰めの劣悪な山小屋等々、確かにネガティブ面は多い。
加えて、延々と続く九十九折。美しい池があるわけでなく、高山植物が咲き乱れているわけでなく、景色に変化があるわけでなく、ひたすらひたすら、ただひたすら上り坂・・・。そんなんじゃー、北アルプスをはじめとする荘厳で美しく変化にあふれた『登山』を知る登山愛好家に好かれるわけはないですね。
でもしかし私、何度目かの富士登山の時に気づいたんです。『あ、これってもしかしたら、人生と同じような・・・』って。繰り返す日常生活。変化の少ない単調な日々。この中でどれほどの意味と価値を見い出せるだろうかって思い始めたら、いつの間にか富士登山の魅力に取りつかれていた。
風の薫りを感じる。雲の流れを感じる。平地では体験できないような激しい雷雨に打たれる。石が飛んでくるほどの強風に飛ばされそうになる。そして静寂の中、万物を照らすご来光を仰ぐ・・・・。
どの体験も素晴らしいと感じる。だから一度きりの富士登山で快晴に恵まれ、ちゃちゃっと登頂できてしまったというだけではもったいないと思う。まして富士山は神宿る霊峰ですから、困難に困難を極めて頂上に立つことの方が実に味わい深いのではないか、と思うのです。もしかしたらヘリコプターでも行けるかもしれない。同じ頂上からの景色だ。でもきっと、まったく違って見えると思う。結果よりもプロセスが大切なんだな。
これってやっぱり、人生と同じように思えてならないです。
さらにさらに、富士登山は大変苦しい。だいたい、苦しいときに苦しい顔をするのは誰でもできる。苦しい時は、みんな苦しいんだ。苦しい時こそまわりにプラスのエネルギーを与えられるような人間でありたい。日常の暮らしも全く一緒だ。
そして富士登山も人生も、登山よりも下山が要注意。ほとんどのケガやひざの故障は下山時に起こる。ニュースで晩節を汚す事件を見ると悲しくなる。あぁほんと、富士登山とはまるで人生の縮図だ。
≪日常の中の富士山≫
そんな富士山は、この龍ヶ崎からもはっきりと見える。写真は8年前、家族で富士山の頂上に立った時のものです。1度目は天候不良のため7合目で下山。2度目は高山病で8合目で下山。そして3度目にして快晴の頂上。あの体験は家族が一丸となった貴重な共通体験として胸に刻まれています。
この先子供たちの人生に必ず起こるであろう様々な問題障害。そこに直面した時、夕映えに浮かぶ富士山を見つめてがんばってほしい。そしてそれを乗り切ってほしい。それは、ぼくと妻の願いであり祈りです。
≪なんで北澤工務店が?≫
ぼくはただ単にお祭り好きで富士登山を企画しているわけじゃないんです。
なんか、世間一般的な現代の世相は、スマートでかっこよくって、カンタン便利。享楽的で中身からっぽ。家づくりもそう。表面ばっかり。数字や目に見えることばかりが重要視され、それでなければ価値が見えない。ぼくはそんな世相に違和感を感じている。そんな家づくりに違和感を感じている。大切なものは、目に見えるものより目に見えないものなのだと思う。モノや理屈はもう充分だ。人間的な心が蝕まれている(むしばまれている)としか言えないような事件、疾患の激増がそれを如実に語っているではないか。内側からあふれ出てくる感性を蘇生させるんだ。そしてその感性を現実に照らし合わせながら生きていくんだ。
それは、『まあまあそこそこの人生』から『わくわくドキドキの人生』への転換だ。『まあまあそこそこの家づくり』から『わくわくドキドキの家づくり』の転換だ。
富士山は完全な存在ではなかった。負をも丸抱えだからこそ、美しかった。人間もそうなのだと思う。家づくりもそうなのだと思う。
北澤工務店の造る手づくりの家、自然素材の家は完全な仕事が難しい。時間もかかるしクレームも起こりやすい。ビニールやプラスチック建材や工場生産品なら問題は起こらないかもしれない。でもそれは、理性的で合理的で目に見えるだけの世界であって、本質においてからっぽだ。それは手離れはいいかもしれない。けれどぼくは、手離れの悪いいまの北澤工務店の家づくりをやっていく。
そして長く長く、お客様とつながっていく。手離れしない。お客様家族の成長をずっと見守っていく。関わらせていただく。その象徴的企画が富士登山。お客様家族と『共通体験』できるこの『ゆるゆる富士登山』をこれからも毎年、開催していきます。
あ、ちなみに年齢・体力を気にされている方もいらっしゃるかもしれませんが、昨年は80歳の方も7合目まで登りました。72歳の方は2名頂上まで行きました。ヽ(^o^)丿
ではまた。
おさむ
おさむのひとりごと2014-7
もう7月です!!つい最近『明けましておめでとうございます』って言っていたような。。。時間の流れの早さを改めて感じます。いかがお過ごしでしょうか。
毎月書いているこの『おさむのひとりごと』は、今回で171回目。12カ月で割ると14年書いていることになる。人に自慢できるものが少ないぼくですが、これはちょっと自画自賛です(^_^;)。いつもご覧いただき、ありがとうございます。
今月号は、先月6月号で書いた富士登山に対する思いを今一度転載させていただきながら、『日本人』というところに焦点を当てて、北澤工務店の家づくりの背骨の部分を書いてみたいと思います。
≪富士登山≫
今年の北澤工務店主催『ゆるゆる富士登山』は、7月29日(火)30日(水)に開催予定です。まだ8名ほど余裕がございますので、ご検討中の方はまずご一報ください。頂上だけが富士登山ではありません。7合目をゴールにしてもいいじゃないですか!!
昨年は『ゆるゆる富士登山』と称しながら『カツカツ富士登山』となってしまった反省を踏まえ、今年は一段と準備段取りを入念に行い、参加される方々に最高の体験をご提供できるようにしてまいります。
ぼくは富士山が好きです。見て美しい、登って素晴らしい。いつも胸の内に富士山を抱いています。富士山は当初『世界自然遺産』として登録申請しましたが、周辺の開発等々が自然遺産としてふさわしくないとの理由で却下された話は有名です。そして再度申請し採択されたのが『世界文化遺産』だったのです。
これはほんと、日本人にとって全くもってふさわしい採択であったと思います。富士山とはまさしく古来より、日本人の精神性の象徴であると思うからです。
≪見て美しい≫
富士山は登る山じゃないよ、見る山だ。そうおっじゃる方は多い。逆に言えばそれほどに美しい山だともいえます。
確かに、神業としか言いようのないほどに端正なあの姿。古来は神宿る霊峰として富士講の修験者など、一部の人間しか登ることができなかったのもうなずけます。がしかし、最近私は新たな発見をしたのです。それはバイクツーリングで『水ヶ塚』というところに行った時のことです。
水ヶ塚は登山シーズンになるとマイカー規制のための駐車場になる場所です。宝永山が間近に見られます。そこには、およそ非の打ちどころのないほどに美しいあの富士山とはまるで掛け離れた、恥ずかしいほどにバックリと口を開けた火口、痛々しいほどのえぐれた傷跡が垣間見えるのです。富士山にもこんな姿があるのか!!と絶句でした。
そして、胸が熱くなりました。こみ上げてくるものがありました。
富士山は、身をもって我々日本人にその生き方・在り方を教えてくれているんだ。手痛い深傷を負っても尚、『凛として生きよ』。娑婆において必ず起こる辛い体験や苦しい体験を丸抱えで生きよ・・・。ドドドドーと押し寄せるような、そんなメッセージが飛び込んできたのでした。
見て美しい富士山。まさに然り。しかしそれは、ただ秀麗なだけではなかった。ただ端正なだけではなかった。恥ずかしいほどに醜い部分をあわせ持つ存在だった。人間として美しく生きるとは、富士山のように在ることなのだと、深く深く感じたのでした。
≪登って素晴らしい≫
富士山は日本一の山であるにもかかわらず、登山愛好家には著しく評判が悪い。富士登山は登山じゃない、とまで言われる。あの人ごみ。登山マナーの欠片もない集団。すし詰めの劣悪な山小屋等々、確かにネガティブ面は多い。
加えて、延々と続く九十九折。美しい池があるわけでなく、高山植物が咲き乱れているわけでなく、景色に変化があるわけでなく、ひたすらひたすら、ただひたすら上り坂・・・。そんなんじゃー、北アルプスをはじめとする荘厳で美しく変化にあふれた『登山』を知る登山愛好家に好かれるわけはないですね。
でもしかし私、何度目かの富士登山の時に気づいたんです。『あ、これってもしかしたら、人生と同じような・・・』って。繰り返す日常生活。変化の少ない単調な日々。この中でどれほどの意味と価値を見い出せるだろうかって思い始めたら、いつの間にか富士登山の魅力に取りつかれていた。
風の薫りを感じる。雲の流れを感じる。平地では体験できないような激しい雷雨に打たれる。石が飛んでくるほどの強風に飛ばされそうになる。そして静寂の中、万物を照らすご来光を仰ぐ・・・・。
どの体験も素晴らしいと感じる。だから一度きりの富士登山で快晴に恵まれ、ちゃちゃっと登頂できてしまったというだけではもったいないと思う。まして富士山は神宿る霊峰ですから、困難に困難を極めて頂上に立つことの方が実に味わい深いのではないか、と思うのです。もしかしたらヘリコプターでも行けるかもしれない。同じ頂上からの景色だ。でもきっと、まったく違って見えると思う。結果よりもプロセスが大切なんだな。
これってやっぱり、人生と同じように思えてならないです。
さらにさらに、富士登山は大変苦しい。だいたい、苦しいときに苦しい顔をするのは誰でもできる。苦しい時は、みんな苦しいんだ。苦しい時こそまわりにプラスのエネルギーを与えられるような人間でありたい。日常の暮らしも全く一緒だ。
そして富士登山も人生も、登山よりも下山が要注意。ほとんどのケガやひざの故障は下山時に起こる。ニュースで晩節を汚す事件を見ると悲しくなる。あぁほんと、富士登山とはまるで人生の縮図だ。
≪日常の中の富士山≫
そんな富士山は、この龍ヶ崎からもはっきりと見える。写真は8年前、家族で富士山の頂上に立った時のものです。1度目は天候不良のため7合目で下山。2度目は高山病で8合目で下山。そして3度目にして快晴の頂上。あの体験は家族が一丸となった貴重な共通体験として胸に刻まれています。
この先子供たちの人生に必ず起こるであろう様々な問題障害。そこに直面した時、夕映えに浮かぶ富士山を見つめてがんばってほしい。そしてそれを乗り切ってほしい。それは、ぼくと妻の願いであり祈りです。
≪なんで北澤工務店が?≫
ぼくはただ単にお祭り好きで富士登山を企画しているわけじゃないんです。
なんか、世間一般的な現代の世相は、スマートでかっこよくって、カンタン便利。享楽的で中身からっぽ。家づくりもそう。表面ばっかり。数字や目に見えることばかりが重要視され、それでなければ価値が見えない。ぼくはそんな世相に違和感を感じている。そんな家づくりに違和感を感じている。大切なものは、目に見えるものより目に見えないものなのだと思う。モノや理屈はもう充分だ。人間的な心が蝕まれている(むしばまれている)としか言えないような事件、疾患の激増がそれを如実に語っているではないか。内側からあふれ出てくる感性を蘇生させるんだ。そしてその感性を現実に照らし合わせながら生きていくんだ。
それは、『まあまあそこそこの人生』から『わくわくドキドキの人生』への転換だ。『まあまあそこそこの家づくり』から『わくわくドキドキの家づくり』の転換だ。
富士山は完全な存在ではなかった。負をも丸抱えだからこそ、美しかった。人間もそうなのだと思う。家づくりもそうなのだと思う。
北澤工務店の造る手づくりの家、自然素材の家は完全な仕事が難しい。時間もかかるしクレームも起こりやすい。ビニールやプラスチック建材や工場生産品なら問題は起こらないかもしれない。でもそれは、理性的で合理的で目に見えるだけの世界であって、本質においてからっぽだ。それは手離れはいいかもしれない。けれどぼくは、手離れの悪いいまの北澤工務店の家づくりをやっていく。
そして長く長く、お客様とつながっていく。手離れしない。お客様家族の成長をずっと見守っていく。関わらせていただく。その象徴的企画が富士登山。お客様家族と『共通体験』できるこの『ゆるゆる富士登山』をこれからも毎年、開催していきます。
あ、ちなみに年齢・体力を気にされている方もいらっしゃるかもしれませんが、昨年は80歳の方も7合目まで登りました。72歳の方は2名頂上まで行きました。ヽ(^o^)丿
ではまた。
おさむ