goo blog サービス終了のお知らせ 

元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

朝ドラ・ らんまん「ムジナモ事件・東大教室の出入禁止」=<あの世で作成した問題集を解く者と神の使命の天才的才能を持つ者>問題集を投げ出さないように!!

2023-08-09 14:28:03 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

  この世の問題集は必ず解けるようになっている!!

◎ ムジナモを見た田辺教授(要潤)は、珍しい食中植物であるのを言い当て、この植物が日本にあり、その生態を論文として書くように勧めた。その後、このムジナモがめったに咲かないが開花することも分かった。このムジナモの研究に没頭した万太郎が、取り急ぎ植物画と論文を完成させたのは、ムジナモ開花後4か月後であった。

 その論文を見た田辺は「君は、自分の手柄だけを誇っているんだな」とおだやかだが何か言いたげ。論文を再確認した大窪助教授(今野浩喜)は、教授の田辺が著者として記載されていないことを指摘し、「お前が見つけたムジナモがアルドロヴァンダ・ヴェシクローサであると突き止めたのは教授だ! だがお前は、自分が見つけたという報告しか書いていない! いかに貴重なものを見つけても何であるか分からなければ、論文は書けなかったはずだ。当然、教授と共著の形にしなければならなかった。」と叱った。大窪助教授は、続けて「教授。申し訳ありません。事務局長としての私の落ち度です。全て破棄し、新たに刷り直します」と伝える。                     

◎ しかし、田辺教授は「何を期待していたんだか……。もういい! ミスターマキノ。今後、我が東京大学植物学教室への出入りを禁ずる」と万太郎に告げた。

 有名なムジナモ事件=植物学教室への出入り禁止事件である。田辺教授は、万太郎の植物学教室への出入りを認めたののであるが、この事件をきっかけとして、彼によって、万太郎の植物学教室への出入りが禁止されたのである。田辺教授は、万太郎の出入りにより植物学教室への活性化が認められると感じてはいたが、よくいわれる万太郎の才能に対して嫉妬したのも事実であろうし、物語にあるように、帝国大学という国立大学になった点などから、大学の出身者でない彼を排除しようとしたのもあろうと思う。

 あの世でこの世での課題を集めた問題集を自ら作成し、この世に生まれる際にそのこと自体を全く忘れるようになっており、その上で、この世でその問題集を解いていく仕組みになっているといわれます。学問を追及する植物学教室においては、一般的には東京大学の学生から植物学教室に専任し、・・・助手、講師、助教授、教授になっていくというシステムがあり、そこに勤務する人々も、その中でのルールに基づき、頑張っていくことになる。その人たちは、先ほどのこの世での問題集を解きながら、この植物学教室で生きていたのであろう。田辺教授も、留学した上で、このルールに基づき、この教室で生きてきた人物である。

 ところが、世の中には、この問題集を携えてくるのに加え、アインシュタインやモーツアルトのように、この世の文化・芸術・技術等の振興のため、天才的な才能を持って生まれてくる者もいる。遅れていた日本の植物学の振興のために、万太郎もこういった神からの使命をもって生まれてきた人であろう。こういった人々は、よく世間の常識からいって違った行動を取りやすい。というよりも、論文の共著で書くという植物学教室の教えは、学生から入って来た者ではない万太郎にとって、知らなかったのも無理はないのであるが・・・。いずれにしても、万太郎は、この植物学教室のルールを無視した行動(論文の共著)を取ってしまったのである。田辺教授が怒るのも無理はない。

 いうならば、植物学教室の中で問題集を解いていく者たちと神からの使命を持って天才的な才能を持って生まれた万太郎との「生き方のギャップ」によるトラブルであろう。

 さて、こういった人々に比べ、日々の生活を送ることだけに一生懸命の者もいる。生きていくだけでも精いっぱいの者もいる。その中には、生きるのに疲れてしまう人もいるのも事実。この世の問題集を解いていく過程で、その切り開いていく気力をなくしてしまう者もいるのだ。しかし、この世のその問題集は、その人に応じた問題集であるのであり、必ず乗り切れるものであるというのだ。今では、相談窓口がいろいろ設けられているし、隣の誰かに相談して乗り切るのもいい。※補足論点1・2

 途中で問題集を投げ出しても、あの世に行ったら、この世の途中で問題を投げ出したことを大いに反省し、同じような課題の問題集を行うことを、自ら進んで再度行うことになるというのだ。 

 ※補足論点1 まず、生きていることが理屈抜きに大事。いかに生きるか、どう生きるかも、もちろん重要だと思います。・・(しかし)・・・残りの9割ぐらいは生きることそのものだと言ってもいいのではないでしょうか。何があっても生きていれば、人生というテストに80点から90点は取れたようなものじゃないかと思います。(東大教授バリアーフリー研究者福島智=本人は3歳で右目失明・9歳で左目失明・18歳で失聴)<ことば巡礼 23年7月28日宮崎日日新聞 矢口誠著による>

 補足論点2 神は自ら「体」を持たないから、この世の体をもつヒトに対して「体験」させることにより、神も同時に「体験」したことになるという。生きることそのものがいかにつらいものであろうとも、神との一体化した体験であるということを考えれば、そのつらさが「やわらぐ」ことにはならないだろうか。

参考:完全版生きがいの創造 飯田史彦著 PHP文庫  

   神との対話

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝ドラ・ らんまん第54 回「ユウガオ」=<神はこの世での財産名誉欲には正・悪を判断しない>責められるように感じるのはなぜ!!

2023-06-19 15:36:26 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

 だれかに認めてもらいたいとそう思って「不安」で行動するから

 万太郎は石版印刷の技術をも習得。植物学会の会報誌ともいう雑誌の創刊号にこぎ着けた。                       

田辺教授;日本の植物学は、やっと目が出たということを世界に知らせるいい機会だろう。               私が雑誌を思いついたからこそ、こういう形になったわけだ。雑誌にするといったのは私だろう。

万太郎;はい、そのとおりです。

田辺教授;よかったじゃないか。槙野君、私が雑誌作りを許したおかげで、こうして見事にできたじゃないか。

万太郎;はい、ほんまにありがとうございました。うれしいですき。

 万太郎が雑誌の発刊を発案したのを知っている皆は、教授の態度にあきれている。また、万太郎のその調子の良さにもあきれているようだ。

 田辺教授は、財産・名誉欲の権化のようだ。雑誌がうまくできていなかったら燃やせばいいとまで言い切った教授であったがその出来栄えに感心して、人の手柄を横取りするのもいとわない。一方、万太郎と言えば、日本での植物学が世界に広まっていけばよいという純粋な目的による雑誌発行である。多分、万太郎のあの世で見つけ出した課題・そのための自分への問題集は、世界に遅れていた日本の植物学を日本で根づかせ、総まとめとして「植物図鑑」の発刊であろう。そして、この学会誌はその一歩であったのであろう。それゆえ、彼にとってこの雑誌の発刊は、この世の名誉や地位なんてものは目にはなく、その人生の問題集を解くため、そのための挑戦であって、それに向かう一直線にすぎないのだ。

 人は神に近づくために何度も生まれ変わるし、時には田辺教授のように、その生まれ変わった世において、地位・名誉のとりこになることもあるだろう。そのこと自体、神はそれを良いとか悪いとかはいうことはできないとし、まして罰するとかはしないという。(神との対話1) そういう生き方も認めるが、なんども何度も生まれ変わるうちには、最終的に自分の目指す方向はそこにあるんじゃないと自分で気づくんじゃないかということなのだろう。

 田辺教授のように、地位・名誉にとらわれすぎると「追いかけられている」「責められている」という感にとらわれることがあるだろう。田辺教授と著者の私を同レベルでとらえるのは、どうかと思うが、私が現役時代には、常にそういった感覚で仕事をしていたように思う。特に私みたいに天才的な才能は持っていないために、いつも誰かがトップにいたような場合には、「満足できずに」いつも追いかけられている感じであったのである。これは、地位・名誉にとらわれすぎだし、今思えばある程度の生活レベルが確保できれば「ばんばんざい」ということでは満足できなかったのか、ということでもあるのだが・・・。

 いつも誰かに責められているというある人が、退行催眠を受けて「光」からのメッセージは、「自分が何かをできるいということを、他人に見せようとしている。だれかに認めてもらいたいと、そう思って、そういう不安で行動している。それは違う。」という。

 どう変えていったいいのか、ヒントをください。自分に素直になること。恐れないこと。他人から認めてもらうことは必要じゃない。お前は、もう認められている。だから、もっと、愛を、自分の愛を信じて生きていけばよい

 私はいつも責められているような気がしているんです。「それは、学ばなければならないこと。誰もが必要な存在であること。何かができるとか、そういうことではない。自分も人も、人生も、愛にゆだねることを学ばなければいけない。責めるのではなく、許さなくてはならない。」 

 今の私は周りの人を幸せにしていますか。幸せにしている。なのに、お前は、自分をとても責めている。」*1 

 前にも書いたが、この世を卒業して、「光」から投げかけられるのは、人間社会で成功したかは全く関係なく、2つの質問だけだという。

 「充分に、学んできたか。」 「充分に愛してきたか。」飯田史彦氏 (ツインソウルPHP研究所P77)

 「人生を楽しみましたか。」 「人に親切にしましたか。」斎藤一人氏 (変な人が書いた世の中にしくみP176/177)

 どちらも表現は違っても同じことを言っているように思う。日本人にとっては「愛」(高尚な愛というべきか)という言葉は、日常表現としてあまり使わないので、斎藤氏は「人への親切」で言い換えているように思う。 

参考:神との対話1(Nウォルシュ著)   

*1 引用;完全版生きがいの創造 飯田史彦著 PHP文庫P200・201 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝ドラ・ らんまん第29回「ドクダミ」=< 雑草という草はない> どの草花もそこで生きる意味がある!! !!

2023-05-21 16:06:18 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

 人はあの世で聞かれる2つの質問=①充分学んだか?②十分愛してきたか?

 上野戦争で政府軍に敗戦した彰義隊の生き残りの倉木隼人、その背中には刀傷が残り生活が相当すさんでいる。万太郎が宝物と称するトランク(草花の標本が入っている。)を、彼は金目のものと勘違いして盗んだ上で火にくべようとする寸前の所で、万太郎はその草花の標本に10円を出すと約束し取り返す。万太郎は長屋の彼のもとを訪ねてその支払いの場面。

<倉木>; 雑草だろうが・・・。なぜ雑草に金を払う。誰の目にも入らねえ、入ったとして疎まれ踏みにじられ、踏みにじったことを誰も覚えていない。生えててもしょうがないだろうが。

                                                                               <万太郎>;雑草という草はないき。必ず名がある。天から与えられた持って生まれた唯一無二の名があるはずじゃ。その名をまだ見つかってない草花なら、わしが名づける。草花に価値がないらぁ人が決めつけるな。わしは楽しぃながじゃ。わしが出会おうものが何者かを知るが。わしは信じているき。どの草花も必ずそこで生きる理由がある。この世で咲く意味がある・・・かならず。                                  

<倉木>; 出ていけ

 人と分け隔てなく付き合ったという牧野富太郎博士の有名なことばが、この「雑草という草はない」ということばなのだが、彼をモデルとして描かれたドラマの中で、これがうまく表現されている。 

 人はあの世にいけば、金持ちだろうが世に知られていた者であろうが、誰それ関係なく、2つの事しか聞かれないという。この点、一般に言うところの神の前では「平等」なのです。「充分に学んできましたか」というのが1問目。2問目は、「充分に愛してきましたか」というのだ。

 1問目は、生まれる前に、自分に対する何らかの課題を見つけて、その「問題集」をもって生まれ、この世においてその問題集を解いていくのだと言われています。(ただ、自分が作ったこの問題集。この世に生まれるときに忘れ去るようになっているといいます。これは問題集の答えが分かっていては意味がないからです。) その「学び」を投げ出さずに、十分にあなたは行ってきたのかという質問です。2問目はとりもなおさず、時にはうまくいかない人間関係において、人を憎まず「愛をもって接してきたか」ということなのです。 

 

 参考:飯田史彦著 「ツインソウル」2006年第1版p77 PHP研究所         

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝ドラ・ らんまん第23回「狐のカミソリ」=<この世で与えられた課題>あなたの段階にふさわしい問題集を解くこと!!

2023-05-06 09:53:52 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

 アインシュタインのような大きなミッションを持って生まれる人って!(その才能をうらましがる必要なし) 

 万太郎と姉の槙野綾は、祖父タキの前で、姉が養子を取ることにより峰屋を引き継ぐことを申し上げ、万太郎は次のように話し始めた。     

<万太郎>;わしのことは勘当してください。植物学の道に進むため東京へ行かせてください。お願いします。どうせわしは体が弱かった。元から生きながらえるかも分からんかった。それで、自分でも思うちょった。生まれてこん方がよかったと・・・

 タキは万太郎にびんたを浴びせて、仏壇の間に引きこもってしまう。万太郎は話の続きを伝えるために部屋の前で語り掛ける。

<万太郎>;わしは幸せもんじゃ。わしほど幸せもんはおらん。ぬくぬく守られてきた。ひとえにわしは、この家に生まれた男(おのこ)じゃけん、そのことをずーっと苦しゅう思うてきた。わしは酒も一滴も飲めん。皆が懸命に働くのを眺めぇゆうじゃけ。つらかった。なんで、わしみたいな出来損ないが当主に生まれたと思ちょった。けんど、そう思うのはやめたがじゃ。 

<万太郎>;わし、とびっきりの才があるがよ。植物が好き。本が好き。植物の絵を描くが好き。好きと云う才がある。この才はわしが峰屋に生まれたからこそ、育ててもらったもんじゃ。名教館に行かせてもらった。好きな本は、なんでも買うてもろうた。なにより、おばあちゃんがおってくれ、いっつも大勢の人がおったき、寂しゅうなかった。

<万太郎>;みんなに守られて、好き云う才を育ててこられた。全部・全部・全部、峰屋やからこそ。人はわしに石を投げるじゃろ。運のえいじゃけののんきものじゃて。そのとうりじゃろ。わし運がいいじゃ、恵まれて生まれてきた。その分、われに出来ることを果たしたいがじゃ。母さんがわしを生んでくれた、おばあちゃんやみんながお日様みたいにわしを育ててくれた。ほんじゃき、わしは何者かになりたいがよ。

 峰屋の跡取りとして育った万太郎がその当主の座を捨ててまで、進むという植物学の道。今まで育ててきた祖母にとって、生い立ちにまつわる万太郎の様々な様子から分からんことではなかったが、峰屋の一家を預かるものとして、決して認められるものでもなかった。だから、祖父は「決して、お前を許さんぞね」と言いながらも、涙ながらに万太郎を抱きしめる。

 モーツァルトやアインシュタインのような人類の文化・科学の歴史で大きな影響を与えるような大きな業績を残すような天才的な才能をもった人は、前世からの才能を引き継いでいるのではないかと言われています。特にスポーツや音楽の世界では、その傾向が強いようです。どうもこの物語の主人公の槙野万太郎 実在名の牧野富太郎もそういった人の一人に挙げられそうです。

 しかし、そんな才能のある人をうらましがっても意味ないことです。人は、あの世において、この世に生まれてくる前に、何らかの課題を見つけ、その人の「問題集」をもって生まれてくるといわれています。小学生の始めの段階では、足し算・引き算を、それが進んでくると掛け算・割り算へ、そしてさらに因数分解へ。高校段階になると、微分・積分と習っていきます。このように、各自の能力に応じて最適な問題集を選択していくというわけです。しかも、こういった人それぞれの人生は、例えばとして今、算数の世界で考えましたが、算数だけでなく他の違う教科を習う授業もあって、しかも、同じ教科を習う者にとっても、このようにそのレベルが全く違うのです。だから、その人それぞれに与えられた問題集は幾多もあり異なっているのです。だから、因数分解を解いているあなたが、足し算・引き算を解いても意味ないように、微分・積分を解く人をうらやましがる必要もないのです。あなたも何回か生まれ変わり時期が来れば、微分・積分の問題を解く日が来るだろうということです。だから、いつの日か、あなたもモーツアルトやアインシュタイン、牧野富太郎博士のように、歴史に名を残すような人になって生まれてくるかもしれません。

 このように様々な問題集がこの世に存在することになり、人に与えられた課題・才能をうらましがっても仕方がありません。あなたはこの世において課題の問題集を解いていくのが与えられたあなたに与えられたミッションなのです。確実に解いていってください。そして、決して途中で投げ出さないようにしてください。才能とは、結局、過去世、また、この世でいかに修業をしたのか、その実績の積み重ねで決まるのですから。

<参考> 完全版「生きがいの創造」 飯田史彦著 PHP文庫 主にp798~800

     変な人の書いた世の中の仕組み 斎藤一人著 サンマーク出版 p190~191       

      

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝ドラ・ らんまん「藩校の出来事」=因果とは人を傷つければ自分に還ること<少なくとも他人の悪口は言わないようにしたい>!!

2023-04-22 06:07:54 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

 因果応報とはおどろおどろしいものではなく人生の成長過程での他人との貸し借りの原則!!

 土佐随一ともいえる作り酒屋「峰屋」の当主として生まれた万太郎。医者の息子とともに万太郎は、藩校である塾(実際は「名教館」というようだ)に通うことを許されるが、それを快く思わない武士の息子らが剣術の稽古と称して、今でいう「いじめ」を行う。もともと体の弱く力のなかった万太郎は、登校拒否ぎみになるが、塾頭の池田に大好きな植物の名称を教わることが縁で、また藩校に通うことが楽しくなる。

 人は持って生まれた環境の下で育っていくのだが、江戸の末期のこのころ、まだ身分制度があった時代においては、いかに酒屋として豪商の息子として育ち裕福な身分であっても、士農工商と言う身分制度にはかなわない。武士の息子ととて、そういうまだ身分制度がある中で、同じ塾生として同じ学問の道を志すこと自体が我慢ならんことであったのであろう。だから「剣術の稽古」となったのだ。どちらも、この時代、ありうべき衝突、必然的な結果ともいえる。時代がそういう場面を設定したともいえる。だからなのか、彼(ドラマの万太郎ではなく現実の富太郎博士)はこんな事件ゆえなのか、生涯、他人と全く「平等」の関係で接したという。

 人は、あの世から、この世の中で起こりうべき「計画」を立てて生まれ、その時々でどうするかを決めながら成長していくものであるという。(ただし、この世の予想した出来事はこの世に生まれ際に忘れてしまうのだというのだ。)当然、他人とのかかわりを通じて、「計画」を実行していくのだから、万太郎の時代の身分というものがあったように、他人に傷つけられ、また自分が気がついてなくとも( 意図的にはもちろん許されないことですが、意図的ではなくとも、気づかずに ) 豪商であるがゆえに、当主として他のだれかを傷つけていくことがあったかもしれない。しかし、これを実感として自覚することが「因果関係の法則」からは重要なのだ。

 「因果関係の法則」というのは、<自分が誰かを傷つけると、いつか必ず自分も誰かから傷つけられ、逆に自分が誰かを助けると、いつか必ず、自分も同じように助けてもらえる ※注>ようにできているというのです。しかも、この世だけでなく、次の世においてこの貸し借り(「気づかずに」を含めた傷つけ助け合う関係)を清算することもあるようです。この因果関係と言うのは、なにか因縁めいた「おどろおどろしい」ものではなく、単に自分の人生の中で、自分が立てた計画を実行して、自分が成長していく糧としていくため、他人とかかり合う関係・出来事であるということもできます。

 自分が返してほしくいないものは貸し借りをしないように努めるのが本当のところであろう。しかし、何かの縁では、知らず知らずのうちに、他人を傷つけているかもしれないのだ。そうであるならば、自分が成長するために「因果関係の法則」が働くのは必然的であるのであれば、気づかずに他人を傷つけないためにも、少なくとも、「他人の悪口を言わない」というのが、今自分にできる唯一の方法であるようだ。社会からリタイアーした自分は、今頃、そういうことをいっても後の祭りであろうが・・・。しかも、気が付いてもいまだに実行するのも難しい。前にここで取り上げたように、タモリさんは、その点、実に若いころから、自分を律して心がけていうから尊敬に値する。

 気づかずにといえば、自分の例を挙げて恐縮であるが、まだ子供の頃、電化製品のない時代のこと。自分は地方公務員の息子。というのも、父は地方では割と大きな農家の息子であったが、それも3・4番目の息子(何番目かは今となっては不明)であって養子に出されたが、戦後戦争から帰って来ても耕す農地もなく、役場に勤めることになったようなのである。そこで、周りは農家という地域に育った。まだ田植えも手植えをする時代で唯一の人力でないのは田を耕すのに、牛を使って行っていた時代であった。そんな時代だからこそ、日が暮れるまで農家の人々は働いた。一方、私たちはと言えば、年中、同じ時間に夕食になったのだが、夏の日が長いころになると農家の人がまだ野山で働いていた頃に、夕食の時間ということになる。そこで、ある日、母親が「いい身分」だと誰かに嫌味を言われ、しょっちゅう気にかけていたのを覚えている。傷つけあう関係と言うのは、意図的に行うのには差し控えるべきだが、育った環境や文化等の違いから、意図しなくとも傷つけ合うこともあり得るのだ。そして、何となく違和感を覚えながら、そういう関係は、子供の頃、特に小中学校のころは、意図しなくとも自分の「無知」がゆえに、自分のある発言が他人を傷つけあうことになっていたと思うのだ。

 今からでも、反省して残りの人生を、他人の悪口を言わず他人を傷つけないようにしたいと思うのだが、本当のところは、難しいと思う自分がいる。というのも、悪口を言うことによって、何か胸のつかえが降りたようにスーッとするように感じるからである。しかし、その時はそう感じても後で後悔するのであるが・・・。そこで、いまさらながら「どうでもいいわ」と言う自分がいるのだ。   

 何はともあれ「そのどうかしたいと思うこと」だけからでも出発したいと思う。

※注 引用; 完全版「生きがいの創造」 飯田史彦著 PHP文庫 p360~361

<参考> 完全版「生きがいの創造」 飯田史彦著 PHP文庫

     変な人の書いた世の中の仕組み 斎藤一人著 サンマーク出版       

      

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする