このブログでも触れていますが、ここ1,2年演劇教育に長年関わってこられた方々が亡くなっています。辰嶋幸夫さん、後藤富美さん、さねとうあきらさん、池田潤子さん、渡辺茂さん…本当に悲しいことです。そして、7月16日に畑野稔さんが逝去されました。
畑野稔さんは日本演劇教育連盟(演教連)の全国委員として活躍され、毎年、総会や全国演劇教育研究集会などにもはるばる愛媛の地から東京まで手土産持参で足を運んでくれました。全国委員会などでは、愛媛の困難な教育状況を語られるのが常でした。
畑野さんは早くから演教連のワークショップでスタニスラフスキーシステムを学ばれ、地域での演劇教育を牽引されました。
畑野さんの愛媛や四国での活動は、私には想像もできない広範なものでした。愛媛新聞の追悼記事を見つけました。
●酒井稔さん死去、愛媛の演劇文化けん引 86歳
(愛媛新聞2016年07月18日(月))
愛媛の演劇界を長年支えるとともに反戦平和運動を続けてきた酒井稔(さかい・みのる)氏が16日午後10時20分、胆管がんのため松山市の病院で死去した。86歳。内子町出身。自宅は松山市木屋町4の35の1。葬儀・告別式は19日午前10時半から松山市天山3の2の27、ベルモニー会館天山で。喪主は長男哲哉(てつや)氏。
1957年に現在の「こじか座」の前身となる児童劇団を立ち上げ、以来60年近く愛媛の演劇文化をけん引。教員として勤務した松山東雲中・高校などで、子どもたちに演劇指導した。
戦時中、海軍飛行予科練習生に志願し、山口県周南市の基地で訓練中に終戦を迎えた。松山市平和資料館をつくる市民の会会長として2003年から毎年、松山空襲の惨状を語り継ぐ資料展を開き、平和の尊さを訴え続けた。広島で被爆し亡くなった松山市出身の俳優丸山定夫の顕彰にも尽力した。
前県文化協会長、愛媛演劇集団協議会長。15年に愛媛新聞賞。
さらに次のようなご本人の映像付きの記事も発見しました。
●戦争の悲惨さ伝える「平和展」始まる(愛媛新聞2014年07月25日(金))
戦争の悲惨さを伝える「平和展」が25日、愛媛県松山市湊町7丁目の市総合コミュニティセンターで始まった。召集令状や遺書など第二次世界大戦に関する資料に加え、今年は集団的自衛権行使を容認する閣議決定を報じた愛媛新聞など7月2日付の全国14紙を並べ、世情を反映した展示となっている。29日まで。無料。
松山空襲の犠牲者を追悼し平和の大切さを伝えるため市民団体「松山市平和資料館をつくる市民の会」(畑野稔会長)が毎年開催。空襲で焦土化した市街地の写真や市内に落ちた焼夷弾の弾頭など約500点を展示している。
「死亡児童三名」。雄郡国民学校(現雄郡小)の宿直者が記した帳簿は、松山空襲がもたらした被害を赤裸々に伝える。
演教連が主催する演劇教育賞に私の実践記録「ことばと心の受け渡し」を推薦してくれたのは畑野さんと種田庸介さんでした。その実践記録を収録した拙著『いちねんせい-ドラマの教室』(晩成書房、2005年)を全国委員会の時にお二人に手渡すことができたのでした。
「演劇と教育」の原稿を最後にいただいたのは「戦争と教育-軍国少年の戦中・戦後」でした。ファックスで入稿され、何度かやりとりをして完成稿にもっていったのですが、年下の生意気な校正者に一言も文句は言いませんでした。その文章が「演劇と教育」最新号(2016年8+9月号)に再録されています。末尾の文章は畑野さんの遺言と思って、引用したいと思います。合掌
『 修身教育で育てられたり、軍隊で過酷な教育を受けたりしても、根本的な人間そのものについての思索と結びつかない限りそれは空疎でしかなかったことから考えて、「徳育」を教科にして徳目を教え込もうという今の教育行政の方策は何の効果も生まないと思う。また個人の尊厳を謳った憲法十三条や人格の完成を目指した元教育基本法は不変の真理であり、教育がこれに基づいて行われない限り、一方向に向かわせるためではない真に人間を育てる教育の営みにはなり得ない。
これが苦難の体験を通してつかんだ元軍国少年の結論である。』(2007年8+9月号より再録)
畑野稔さんは日本演劇教育連盟(演教連)の全国委員として活躍され、毎年、総会や全国演劇教育研究集会などにもはるばる愛媛の地から東京まで手土産持参で足を運んでくれました。全国委員会などでは、愛媛の困難な教育状況を語られるのが常でした。
畑野さんは早くから演教連のワークショップでスタニスラフスキーシステムを学ばれ、地域での演劇教育を牽引されました。
畑野さんの愛媛や四国での活動は、私には想像もできない広範なものでした。愛媛新聞の追悼記事を見つけました。
●酒井稔さん死去、愛媛の演劇文化けん引 86歳
(愛媛新聞2016年07月18日(月))
愛媛の演劇界を長年支えるとともに反戦平和運動を続けてきた酒井稔(さかい・みのる)氏が16日午後10時20分、胆管がんのため松山市の病院で死去した。86歳。内子町出身。自宅は松山市木屋町4の35の1。葬儀・告別式は19日午前10時半から松山市天山3の2の27、ベルモニー会館天山で。喪主は長男哲哉(てつや)氏。
1957年に現在の「こじか座」の前身となる児童劇団を立ち上げ、以来60年近く愛媛の演劇文化をけん引。教員として勤務した松山東雲中・高校などで、子どもたちに演劇指導した。
戦時中、海軍飛行予科練習生に志願し、山口県周南市の基地で訓練中に終戦を迎えた。松山市平和資料館をつくる市民の会会長として2003年から毎年、松山空襲の惨状を語り継ぐ資料展を開き、平和の尊さを訴え続けた。広島で被爆し亡くなった松山市出身の俳優丸山定夫の顕彰にも尽力した。
前県文化協会長、愛媛演劇集団協議会長。15年に愛媛新聞賞。
さらに次のようなご本人の映像付きの記事も発見しました。
●戦争の悲惨さ伝える「平和展」始まる(愛媛新聞2014年07月25日(金))
戦争の悲惨さを伝える「平和展」が25日、愛媛県松山市湊町7丁目の市総合コミュニティセンターで始まった。召集令状や遺書など第二次世界大戦に関する資料に加え、今年は集団的自衛権行使を容認する閣議決定を報じた愛媛新聞など7月2日付の全国14紙を並べ、世情を反映した展示となっている。29日まで。無料。
松山空襲の犠牲者を追悼し平和の大切さを伝えるため市民団体「松山市平和資料館をつくる市民の会」(畑野稔会長)が毎年開催。空襲で焦土化した市街地の写真や市内に落ちた焼夷弾の弾頭など約500点を展示している。
「死亡児童三名」。雄郡国民学校(現雄郡小)の宿直者が記した帳簿は、松山空襲がもたらした被害を赤裸々に伝える。
演教連が主催する演劇教育賞に私の実践記録「ことばと心の受け渡し」を推薦してくれたのは畑野さんと種田庸介さんでした。その実践記録を収録した拙著『いちねんせい-ドラマの教室』(晩成書房、2005年)を全国委員会の時にお二人に手渡すことができたのでした。
「演劇と教育」の原稿を最後にいただいたのは「戦争と教育-軍国少年の戦中・戦後」でした。ファックスで入稿され、何度かやりとりをして完成稿にもっていったのですが、年下の生意気な校正者に一言も文句は言いませんでした。その文章が「演劇と教育」最新号(2016年8+9月号)に再録されています。末尾の文章は畑野さんの遺言と思って、引用したいと思います。合掌
『 修身教育で育てられたり、軍隊で過酷な教育を受けたりしても、根本的な人間そのものについての思索と結びつかない限りそれは空疎でしかなかったことから考えて、「徳育」を教科にして徳目を教え込もうという今の教育行政の方策は何の効果も生まないと思う。また個人の尊厳を謳った憲法十三条や人格の完成を目指した元教育基本法は不変の真理であり、教育がこれに基づいて行われない限り、一方向に向かわせるためではない真に人間を育てる教育の営みにはなり得ない。
これが苦難の体験を通してつかんだ元軍国少年の結論である。』(2007年8+9月号より再録)