劇団風の子機関誌「風の子」(劇団風の子協議会発行、600円)を送っていただきました。不定期刊行で40号を数えました。まさに「持続する志」という感じです。表紙はいつもながらの滝平二郎のきり絵です。
私が唯一「風の子」に登場したのは29号(1992年)でした。当時、「学級崩壊」のクラスを抱えながら、「演劇と教育」の編集代表になり、「風の子」の座談会に呼ばれたのです。「福田三津夫さんに聞く、演劇教室などをめぐって」(特集、多田徹・対話の旅)という記事になりました。聞き手は、多田さん、宮下雅己さん(多田さんの弟)、中島紀さんという豪華メンバーでした。多田さんが終始にこやかで、ゆったりした雰囲気のなかで自由に話させていただいた記憶があります。今では多田さんと宮下さんは故人となられました。
さて40号ですが、「劇団風の子国際児童演劇研究所」と「四十年目を迎えた風の子の沖縄公演」の2大特集で、それぞれ読み応えがあります。小学校と大学講師を経験している私からすると、「保育実践と児童演劇……西垣吉之―子どもが表現することの意味」が最も興味がある記事でした。
「子どもとの関係性を変えるためにまず大切なことは、大人の側が変わることです。」
「子どもたちが思考をするその姿そのものや思考のプロセスを評価することが大切だということです。」
抜き書きなので、何を言われているかわかりづらいと思いますが、是非原文に当たられることをお勧めします。
□40号・目次(2016年、78頁)
拝啓 多田徹様……………………………………金田 拓
―これからに向かって―
劇団風の子国際児童演劇研究所
この十年(2006~2015)そしてこれから……中島 研
●研究所・常任講師座談会
授業の中から
五期十年(25期~29期)の実践を追う
菊池大成・霜山由子・若林こうじ
大澗弘幸・田中つとむ (司会)中島研
四十年目を迎えた風の子の沖縄公演…………上村洋
―沖縄で活動する「シマナイチャー劇団員」からみた沖縄―
●インタビュー
宮古島・花園保育園園長・金谷福代先生に聞く(聞き手/上村 洋)
―島の子どもたちに生の舞台を―(聞き手/上村 洋)
沖縄県東村・有銘小中学校校長・古謝治先生に聞く
―「授業とはまた別の時間」を体験させたい
琉球・沖縄史の特性と子ども文化…………浦添 正光
東日本大震災からの五年をふり返って………岩崎 道弘
―福島県文化センターの活動と文化施設のもっ社会的役割―
●特別寄稿
脳発達と演劇鑑賞(芸術体験)の関係……ジャッキー・e・チャン
―科学と芸術はよいチームである―
児童演劇からの学び……古賀由美子
―学生が「保育や教育の現場」に入る前に―
保育実践と児童演劇……西垣吉之
―子どもが表現することの意味―
39号も紹介しておきましょう。とりわけ4人の「多田徹論」が興味深かったです。
□39号・目次(2012年、64頁)
特集①多田徹論
■劇団員から見た多田徹 中島茜
「多田徹と劇団風の子」?風の子1期生の末弟末妹のひとりとして思う
■劇作家としての多田徹 さねとうあきら
「いつも子どものすぐそばで」?多田徹の戯曲を読み解く
■運動家・組織者としての多田徹 荒木昭夫
「畏兄・多田徹の夢」
■風の子と共に生きた多田徹/その足跡を追う
「ありがとう多田徹さん」 細沼淑子
特集②東日本大震災と劇団風の子
■福島を拠点に、これからも活動を続けます 澤田修
■岩手県釜石市訪問報告 信清敬子
幼稚園・保育園で「遊びの広場を」
■福島の子どもたちの中で目にしたもの 木島理恵子
「ガラスバッチ」をご存知ですか
■福島県相馬市の仮設住宅で公演 田中つとむ
「元気と幸せ」をもらったのは自分自身だった
■ワークショップと語りで 大森靖枝
宮城と福島の子どもたちの中に
「風の子」のバックナンバーを読み返していたら、ついつい『劇団風の子五十年史(一九五〇~二〇〇〇年)』(劇団風の子協議会、2,001年、2,000円)を紐解いていました。そしてさらに『ぼくのロングマーチ』(多田徹、大月書店、1,995年)を再読することになりました。多田さんは私の師匠の一人・冨田博之さんの思い出を次のように書かれていました。
「冨田さんとも古くからのおつき合いだった。風の子が初めて全国巡回に乗り出した頃(一九五〇年代の後半)、大阪で開かれた全国教研を傍聴に行った時に初めてお会いしたのだが、その時は“児童劇団相手にせず”という感じで名刺ももらえなかった。それが「カレドニア号出帆す」や「ボッタ子行進曲」などを創り続けるうちにすっかり仲良しになり、そのうちモービル文化賞を、冨田さんと風の子同時受賞ということにもなったのだった。冨田さんは理論派で、よく資料的に勉強されていて、啓発されることが多々あった。アメリカでの「児童演劇の憲法」といわれる原則を教わったのも氏からだった。そして我々はそのタブー破りに熱中したりしたものだった。冨田さんとはいつも仲良く論戦をしていたが、教えられること多大だった。博識多学な氏に代わる児童演劇研究者は当分は出ないだろうと思う。」131,2頁
私が唯一「風の子」に登場したのは29号(1992年)でした。当時、「学級崩壊」のクラスを抱えながら、「演劇と教育」の編集代表になり、「風の子」の座談会に呼ばれたのです。「福田三津夫さんに聞く、演劇教室などをめぐって」(特集、多田徹・対話の旅)という記事になりました。聞き手は、多田さん、宮下雅己さん(多田さんの弟)、中島紀さんという豪華メンバーでした。多田さんが終始にこやかで、ゆったりした雰囲気のなかで自由に話させていただいた記憶があります。今では多田さんと宮下さんは故人となられました。
さて40号ですが、「劇団風の子国際児童演劇研究所」と「四十年目を迎えた風の子の沖縄公演」の2大特集で、それぞれ読み応えがあります。小学校と大学講師を経験している私からすると、「保育実践と児童演劇……西垣吉之―子どもが表現することの意味」が最も興味がある記事でした。
「子どもとの関係性を変えるためにまず大切なことは、大人の側が変わることです。」
「子どもたちが思考をするその姿そのものや思考のプロセスを評価することが大切だということです。」
抜き書きなので、何を言われているかわかりづらいと思いますが、是非原文に当たられることをお勧めします。
□40号・目次(2016年、78頁)
拝啓 多田徹様……………………………………金田 拓
―これからに向かって―
劇団風の子国際児童演劇研究所
この十年(2006~2015)そしてこれから……中島 研
●研究所・常任講師座談会
授業の中から
五期十年(25期~29期)の実践を追う
菊池大成・霜山由子・若林こうじ
大澗弘幸・田中つとむ (司会)中島研
四十年目を迎えた風の子の沖縄公演…………上村洋
―沖縄で活動する「シマナイチャー劇団員」からみた沖縄―
●インタビュー
宮古島・花園保育園園長・金谷福代先生に聞く(聞き手/上村 洋)
―島の子どもたちに生の舞台を―(聞き手/上村 洋)
沖縄県東村・有銘小中学校校長・古謝治先生に聞く
―「授業とはまた別の時間」を体験させたい
琉球・沖縄史の特性と子ども文化…………浦添 正光
東日本大震災からの五年をふり返って………岩崎 道弘
―福島県文化センターの活動と文化施設のもっ社会的役割―
●特別寄稿
脳発達と演劇鑑賞(芸術体験)の関係……ジャッキー・e・チャン
―科学と芸術はよいチームである―
児童演劇からの学び……古賀由美子
―学生が「保育や教育の現場」に入る前に―
保育実践と児童演劇……西垣吉之
―子どもが表現することの意味―
39号も紹介しておきましょう。とりわけ4人の「多田徹論」が興味深かったです。
□39号・目次(2012年、64頁)
特集①多田徹論
■劇団員から見た多田徹 中島茜
「多田徹と劇団風の子」?風の子1期生の末弟末妹のひとりとして思う
■劇作家としての多田徹 さねとうあきら
「いつも子どものすぐそばで」?多田徹の戯曲を読み解く
■運動家・組織者としての多田徹 荒木昭夫
「畏兄・多田徹の夢」
■風の子と共に生きた多田徹/その足跡を追う
「ありがとう多田徹さん」 細沼淑子
特集②東日本大震災と劇団風の子
■福島を拠点に、これからも活動を続けます 澤田修
■岩手県釜石市訪問報告 信清敬子
幼稚園・保育園で「遊びの広場を」
■福島の子どもたちの中で目にしたもの 木島理恵子
「ガラスバッチ」をご存知ですか
■福島県相馬市の仮設住宅で公演 田中つとむ
「元気と幸せ」をもらったのは自分自身だった
■ワークショップと語りで 大森靖枝
宮城と福島の子どもたちの中に
「風の子」のバックナンバーを読み返していたら、ついつい『劇団風の子五十年史(一九五〇~二〇〇〇年)』(劇団風の子協議会、2,001年、2,000円)を紐解いていました。そしてさらに『ぼくのロングマーチ』(多田徹、大月書店、1,995年)を再読することになりました。多田さんは私の師匠の一人・冨田博之さんの思い出を次のように書かれていました。
「冨田さんとも古くからのおつき合いだった。風の子が初めて全国巡回に乗り出した頃(一九五〇年代の後半)、大阪で開かれた全国教研を傍聴に行った時に初めてお会いしたのだが、その時は“児童劇団相手にせず”という感じで名刺ももらえなかった。それが「カレドニア号出帆す」や「ボッタ子行進曲」などを創り続けるうちにすっかり仲良しになり、そのうちモービル文化賞を、冨田さんと風の子同時受賞ということにもなったのだった。冨田さんは理論派で、よく資料的に勉強されていて、啓発されることが多々あった。アメリカでの「児童演劇の憲法」といわれる原則を教わったのも氏からだった。そして我々はそのタブー破りに熱中したりしたものだった。冨田さんとはいつも仲良く論戦をしていたが、教えられること多大だった。博識多学な氏に代わる児童演劇研究者は当分は出ないだろうと思う。」131,2頁