一事で万事をわかろう‥と云うよりも 分かっちゃいるけど止められない の方の意味での「限度」のことをつぶやきたい。例えば 美味しそうな煎餅をみつけ 味見を一枚だけ‥のつもりがテレビを見ながら山盛りを平らげた‥ということはよくあった。
若い頃は特に反省もなく軽く考えて過ごしてきたが 定かではない怪しげな齢の壁の外へ出てからは 先に限度を決めてしまうので 諸活動は気付かず消極的に‥。食事や運動など 日常生活の基本動作すべて 定量以上「やり過ぎない 休まない 諦めない」のキャッチコピーを「共有」?しようとする老齢の身となってしまった。
その大半の原因は 甘え心ではあろうが 自覚をしないまま 脳みそも含め身体が思うようには動いていない‥ということもある?のかも しれない。
それは なにか活動してみてから判る‥ということが最近分かってきた。なにしろ自分のことを判るのは 自分しかいないのだから‥。(すべてを判る訳はないだろうが‥)身近なことで低廉気軽に確かめるべく 歩数計(アナログタイプ)を準備し 日記にその日のデータを連日記録(ココがポイント)し 夜ジッと眺めるでもなく考えるでもなく‥(怪し気に!?)記録を見つめながら自身の内部からの湧きあがる反応の様子を伺ったのである。
結果 客観的な活動の総量!は エビデンス無視?で 往時(50代?)からひいき目に見ても半分 細分化し悪く見れば1/6くらいかな!?(例えば視力)と 年代区分してみても 自然対数のe曲線イメージにピタリ合うのであった。イイ線では 決してない。
(念のため 厚労省の年代別死亡率データでも酷似した「曲線」となり 相関していた。)
忖度せず しっかり自分らしい今の写真を!と云う思いを強くしたが なにしろ 収入・才能とも極限のゼロ 社会保険料は過酷に値上げ(老人いじめ)で 身体も写真機もまったく心細いからなぁ‥とトホホが溶岩流のように地獄の底からドロドロと湧き登り‥こんな状況のことを限度と云うのかもしれないな‥などとボヤキながら 日々シャッターを切るのだった。(‥本日も夢のない駄文となりて夜半の春‥)
「遥か見るとき遥かなる山法師:篠崎圭介」