旧南部家別邸庭園で恒例の庭園アート開催。茶室「白芳庵」のにじり口手前にある待合処の白壁にデジタル寫眞の掛け軸が掛かった。
さすが芸術家 目の付け所がよく 温かい雰囲気がよく伝わってくる。
…もともとは原敬が母親のために建てた別邸「介寿荘」の屋敷内にあった茶室「田舎屋」を移築保存した由緒のある建物。ここでの茶会の開催は 保存上からも難しいのでしょうから 時間の流れを体感する場として活用されているのが ほんわかと うれしかった。
「茶が咲いて 過ぎし日月嵩もなし:森 澄雄」
ネタ納め…で縄文シリーズを追加。祭祀(さいし)に用いられたもの…と考えられています。ちょっと怖い感じは権威を示そうということか?と 推測。
これはガラスケース内にあって触感はわかりませんでしたが 内側を下から覗くと綺麗に湾曲していて 目の間隔も程よく 仮面っぽいこと濃厚。
名付けて「鼻曲り土面(国重要文化財)」。
謎めいて不気味ながらも わかりやすい名称なのでした。
当時の村?は 墓地が集落の中心部に配置され 周辺に掘立柱建物(倉庫?)と竪穴住居があったことからも 祀りに関連する行事は多かったのかもしれないと これまた推測です。
「白亜紀の石に波寄す賢治の忌:遊田禮子」
また縄文モノ復活で・・・。我ながらあきれてます。一個たりとも手を抜くことなく精緻なつくり。しかも多数の出土。狩りが本業であったのだろう。こうして整理され美しく展示されれば 縄文人も充分満足してくれるのではないか。
良質な黒曜石は産地が限定され移入量も当地では少なく 代用材らしいのですが形は統一的で整っていて…作り手は専門職化してたのかも?です。鏃(やじり)と矢の芯とは 接着剤(アスファルト:新潟産?)と紐で固定した…らしい。これもいわば職人の技術の世界。
弓矢自体の資材の調達から製品化まで その過程を想像すると気が遠くなります。なんせ電気も工具(鉄)もなく 移動は足だけなので分業しないと十分な食糧確保は無理だったのでは?と思います。
男手ばかりか女性が担う仕事も相当ハードで重要だったかもしれません。
「ふり返る 猟人の眼の血帯びたり:能村登四郎」
当地盛岡の天満宮の撫牛は 1902(明治35)年の(学問の神さま)菅原道真公没後1千年祭を記念し 彫刻・奉納されたもの…とされている。一般的なご神牛とくらべ 柔和な表情が特徴…とのこと。
いつのころからか ご神牛を撫でた手で患部を触ると病気が治ると云うので…「撫牛」で“撫でだめ”をしてきました。
が…参拝の階段の登り降りですぐにも足が攣りそうに…寝溜め食い溜めと同じ類の溜めは効かない模様…ナノデシタ。でも ただただ加齢との日々の闘いをお見守りいただきたい。