25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

三浦友和

2018年10月13日 | 映画
 wowow のドラマは重厚で、時に重苦しいほどのものがある。いくつもwowow物をみたが、中でも 「特捜」がリアルで重かった。特捜とは政界、経済界などの巨悪を捜査する検事集団である。副部長が鬼塚。三浦友和。吉岡秀隆は平の織田検事を演じている。主人公だ。豪腕で自分が作り上げたストーリーどおりに捜査をしていく鬼塚のやり方に疑問を感じる織田検事。この東京地検には司法記者のクラブもある。
 大日本建設からの贈収賄事件。収賄側は、県知事であるが、たどっていけば民自党の幹事長にまでいけると鬼塚は描いている。
 彼はバラまき公共工事にはよく思っていない。織田検事の父親は代議士の秘書で、鬼塚らに逮捕され、のち自殺していた。
 鬼塚が描くストーリーで捜査は進んでいくが、犠牲者が出始める。
 ストーリーを紹介してもしかたがないのだが、検事集団、司法記者クラブ、警察、政界の描写が妙にリアルだった。突っ込みどころもいっぱいあったが、小沢一郎もやられかかった特捜部の内部が覗けたような気がした。wowowは中学生や高校生では好まれないような大人のドラマを作るのである。
 で、三浦友和はよい役者になった。山口百恵の相手役で、吉永小百合の浜田光夫のようなものだった。いろいろな役をした。吉永小百合を犯す悪役もした。「アウトレージ」ではヤクザもした。
 この検事役もはまっていた。厳しい、真剣な上司である。もう30年以上も三浦友和の推移を見ているように思う。りっぱな俳優になったと思う。

安藤サクラ

2018年10月06日 | 映画
 今日は尾鷲の林町を舞台とした「それでも恋する」というCBCドラマがあるということで、録画しておいた。昼の2時からという変な枠で、夜にでもじっくりみようと思っている。なにせ、「ひよっこ」の岡田惠和の脚本である。泣かせるセリフが続くのだろう。
 ドラマはこの頃は断然 Wowow のドラマが面白い。ぼくはwowowに入っていないのでDVDでしることになるのだが、これまで借り損をしたことがない。

 朝ドラの「まんぷく」が始まって、現在はまだ安藤サクラのキャラに違和感ありすぎで、なれるまで時間がかかりそうである。「愛のむきだし」ではえげつなさ全開であったし、題は忘れたが、別のドラマではバリバリ仕事のできる女で、欲望もむき出しであった。
 それが18歳からスタートしたせいか、きつい違和であり、逆にどうこなしていくのか強い期待がある。こういう女優は裏切らないように思う。
 
 雨、雨の毎日であきれ果てている。北陸、東北の果樹園は大変なことだろう。台風から梨や林檎を防ぐ手だてはないものだろうか。
 日本列島ドーム化なんてどうだろう。

沈黙裁判 田中哲司

2018年09月04日 | 映画
 急に明日のために調べて事ができてまだ台風が来ない朝の間に仕事を済ませた。昼の1時くらいから猛烈な風が吹き始めたので、Wowow のドラマをDVDでカリテいたのでそれを観た。「沈黙裁判」。永作博美が主役で、弁護士役で田中哲司、刑事役者で杉本哲太、主人公を想う男は市原隼人が演じていた。田中哲司と若村真由美の芝居を見に行ったことがある。舞台では顔の表情などはわからない。しかしテレビでは微妙な表情もよくわかる。田中哲司は上手いと思った。たいした俳優だ。黙りこむ被告人を演じた永作博美よかった。
 こころ優しく、真面目な主人公が派遣家事手伝いをしていた家の老人がある日首を絞められて死んでいた。容疑者として主人公も女性が逮捕された。状況証拠しかないが、警察検察は起訴づることになった。
 このドラマではネットカフェ住人や、マスコミの決めつけや、警視庁の埼玉県警への意趣返しやら、老人の孤独やら、仕事がない弁護士の状況など現代社会の陰の部分が克明に描かれていた。
 「Dele」という今やっているドラマもよい深みのある。こんなドラマを作る人もいるんだ、と思う。万人受けしないと判断されるのか、「Dele」は夜の11時15分から。「沈黙裁判」は有料番組である。ぼくもWowwow に加入していないから、ゴールデン時間ではないわけだ。

 このドラマを見終わると、台風の風も雨も止んでいた。明日のJRはどうなるのだろうと思い、駅に行くと
これから検査が始まるので、なんとも言えない、ということだった。テレビでは大阪の被害が報じられている。関西空港がひどい被害だ。
 やれやれ、今回も我が家は金魚メダカも孫が採った川魚の稚魚無事であった。災害が多くなっているような日本。まだまだ台風シーズンは続く。逆に湖が荒れたおかげで今年の渡ガキはよい収穫だろう。このぐらいの楽しみがないと。

肯定と否定

2018年08月28日 | 映画
 見ごたえのある映画を観た。タイトルは邦題で「肯定と否定」という。ヒトラーがホロコーストをめいれいしたかどうかが面白いのではない。あった書物に書き、授業でも教える女性教授は、ホロコーストはなかったと主張するイギリスの歴史学者をこきおろしたために
名誉毀損で訴えられる。
 この映画が魅力的なのは弁護団が打ち立てる裁判勝利への方針とその論理である。普通なら生き残ったユダヤ人たちを呼んできて、証人質問をするというにが常套手段に思えるが、その方法は取らない。被告人の女性教授はその方針が気に入らない。
 弁護士、法律家とは「情」で動くものではない。その弁護団チームは頑として最初にたてt(方針で裁判を行う。その作戦がおもしろかった。言語の組み立てがここまできたかと思わせ、優しさとはなにか、まで考えられさせる。
 たいへんおすすめの映画である。
 多様な意見があってよいのだが、嘘を本当のように語るおは意見ではない。
 日本人の多くはこの種の議論、討論が不得手のように思える。この映画は「南京虐殺」にも「慰安婦問題」にも通じ、この実話映画は語りに鋭い論理と人間性のよい部分が前面に出てきて、とても心を打たれた。



早坂 暁の作品

2018年08月08日 | 映画
 昭和のテレビドラマで何がよかったか、もう一度見たいかと言えば、「花へんろ」と「夢千代日記」そして「事件」を挙げる。ほかにもあるのだろうが、思い出せない。この三作とも早坂曉の脚本である。悲しみも、おかしみもある。何と言っても、「花へんろ」では俳句が「夢千代日記」では短歌が出てくる。そして「花へんろ」では桑原研朗が音楽を、「夢千代日記」では武満徹が音楽を担当している。これが映像とよく合うのだ。セリフ、ナレーション、映像、音楽どれもマッチしている。行間を読む、と言われるが、映像と音楽が行間を読む手助けをしてくれる。
 桃井かおりは彼女の俳優人生で代表作だろうし、吉永小百合も、もはや「キューポラのある街」よりは「夢千代日記」が最高の代表作だろうと思う。吉永小百合はこれがなかったら、青春ドラマ俳優で終わっていたかも知れない。
 若山富三郎も「事件」がなければ、「子連れ狼」かヤクザ物で終わっていたかもしれない。
 
「花へんろ」は渥美清がナレーションをやっていた。
 早坂暁と渥美清は仲がよかったらしく、渥美清に、尾崎放哉を演じてみないかと相当説得し、渥美清も乗り気になったらしい。寅さんからの脱皮を考えていた頃だ。ところがこの企画は関西で尾崎放哉のドラマが橋爪功を主人公としてつくられたというニュースがあって流れてしまった。渥美清の脱皮もできぬまま寅さんで役者人生を終えた。渥美清の自由律の俳句にいい句が多くある。
 
 文学の香りがする早坂暁の作品を考えてみると彼の物語の源泉が太平洋戦争期の思春期時期にあり、彼のユーモアは商売人の一家でありながらも句会を主宰する親たちの風雅さである。
 太平洋戦争まではまだ庶民にはピンと来ていない戦争であった。太平洋戦争までの穏やかな日々のなかでいろいろなことが起こるが、それが国家による犠牲をあからさまに強いるものではなかった。
 昨日「花へんろ」の特別編がNHKBSであった。早坂暁を思わせる主人公良介は愛する義妹が広島のうつ原爆で帰らぬ人っとなってしまったことを知る。
 悲しいドラマであったが美しかった。儚い命であったが、命は尊いとじっくり思わせる脚本になっていた。
 こういう脚本を継いでいく人は誰なのだろう。いるはずもないのだが、そう思ってしまう。

 
 

ファウンダー

2018年08月05日 | 映画
昨日、マクドナルドの展開期に大活躍して、創始者と自分を呼んだ男が主人公の映画「(The founder 」を見た。20年以上前に「マクドナルド」というノンフィクション本を読んだことがある。それはいかに効率良く、味を均質化する苦労を取材したもので、フランチャイズ化にとりかかる前の話だったように思う。ハンバーガーショップをアメリカだけでなく、世界に広めたのはレイ・クロークという営業マンだった。マクドナルド兄弟は彼に展開を許し、最後は乗っ取られるような形で、クロークの勝利となった。マクドナルド兄弟は味ややり方の開発ができたのかもしれない。企業の創成期というのはホンダで言えば、技術開発の本田がいて、営業をする藤原がいてこそ発展した。ソニーしかりである。
 今朝、家の前ににシートのようなものが落ちていた。昨夜の花火の帰りに誰かが落としていったのだろう。拾ってみるとマクドナルドのシートだった。偶然の話だ。こんな世界の隅までマクドナルドは進出している。たいしたもんだ。成功の秘訣とは「執着」だそうだ。

15時17分、 パリ行き

2018年08月04日 | 映画
 昨日は川遊び、今日は海水浴場と息子たち夫婦は元気がよい。6歳の娘がいるからしかたないのだろうが。貴重な休みは精神は解放されているはずだから、まあいいのだろう。
 ぼくはすっかり海水浴をするという意欲がなくなっている。こどもが中学生になる頃までだったように思う。
 「今年の花火はやめとくわ」と夕べ母から電話があった。
 「まあ、今から決めんでも、明日になって決めればよいわい」
母の家から通りにでると交通規制になっており、車では運べない。200メートルほどの道を歩くのが億劫なのか、暑さに不気味さ危なさを感じるのか、昨日の熱帯夜を考えると、危ないな、と思うのかもしれない。毎年花火を欠かさず見ていた。
 息子がクリント・イーストウッドの「15時17分、 パリ行き」を見た。列車テロを偶然に防いだ青年3人の話でアメリカという社会がうまく描かれていた。国はキリスト教社会だと再認識した。「あなた、しっかりして、愛しているわ」
「もうすぐお医者さんがくるわ、頑張って、愛しているわ」と愛の連発である。闘うことへの勇気が絶賛される。クリント・イーストウッドの映画はそのなかに解釈を観客に委ねるところがある。
 もうひとつ見ようとなってとりだしたのが韓国映画「悪女」だった。「キル ビル」韓国版といったところだ。
 僕が知るかぎりの韓国映画は、おぞましく、暗く、殺し方も、殺す道具も斧まで使い、えげつない。しかも「恨」という情が絡んでくる。日本はさしずめこんな映画はつくらないと思うが、どうなのだろう。この国は儒教の層の上ににキリスト教が層を作っている社会である。
 大統領への弾劾の様を見ても、財閥の娘の不祥事への弾劾をみてもあまりに凄まじいので、日本とは文化の形成のされかたが違うと思わざるを得ない。どちらが良い悪いではなく、違う、ということだ。
 すっきりしない映画を見て、寝床に入って「日本人の信仰」という島田裕巳の新書を読み始めた。宗教という言葉は明治期に作られた。宗教をキリスト教宣教師のような厳しい信仰心をもたない日本列島人はこんな厳しい宗教については「無宗教」だと思った。宗教にいい加減な日本列島人、というよりはキリスト教と比較しての話である。キリスト教は布教活動が凄まじかった。それは腑に落ちた。
 眠くなったので、そのまま寝入ってしまった。この頃は6時間ほどで眠っていられなくなる。8時間眠ったという記憶がこの一年はない。老化らしい。

インターステラー

2018年07月14日 | 映画
 もう相撲についてはあきれて言うことなし。怪我について真剣に考えなければならない時期がきている。今のところ、優勝候補は、御嶽海、遠藤、豪栄道といったところか。
 今年の夏は暑い。尾鷲で30度、せいぜい31度という記憶しかないが、連日不快な暑さが続いている。
 ぼくは室温25度くらいがちょうどよく、26度になると汗がでてくる。以前は27度で汗がでたのだが、今年は26度である。細君は26度がよいらしい。エアコンの温度の取り合いもイヤなので、扇風機を取りだし、夫婦間のバランスを取っている。
 テレビの音もそうで、ぼくは18くらいがちょうどよく、細君は17くらいのボリュームである。ぼくは17で我慢し、一人で見るからにときは18、19にする。
 
 テレビや映画の好みも違っていて、昨日は一人で「インターステラー」という超大作、人類滅亡の危機から始まり、ブラックホールの中に入り込んで銀河系を抜けて、人類が生きられる惑星を探し、人類の受精卵を運ぶ使命をもつラザロ計画に参加する主人公とその娘の壮大で、深遠で、複雑で最後はシンプルな救世主登場で終わる話である。いたるところでキリスト教的発想が出てくる。死んだ男がキリストによって甦った男の名はラザロであった。主人公はヨハネからの名前であった。どうやら誰も解けなかった方程式を解いたのは娘だった。彼女は異次元にいる父からの重力のに関するデータを三次元にいる娘に父が愛を込めて贈った腕時計にモールス信号を認めたおだった。娘は神の子となった。そして人類は土星に移住した。
 最後は愛の力を信じた。
 ああ、こういう風に脚本家や監督にも染み渡っている意識が無意識にでてくる言葉は大和言葉であるはずもない。あるとすれば多くは聖書言葉であり、その反語である。
 人間が宇宙を探索する。物理学、数学を用いる。しかし謎は残る。その謎の向こうに神がいると詭弁する。
 クリストファー・ノーラン監督。1970年生まれ。若い監督である。
 
 

女優と歌手

2018年07月11日 | 映画
 「ハイ・クライムズ」という2002年(だと思うが確かではない)の映画を観て、Åsheley Judo という女優を見てびっくりし、あまりもの美しさに見入ってしまった。二回目は彼女だけを見ていた。目が生き生きしているのには知性が感じられた。映画そのものも良かったが映画のラストで流れる音楽がまたよくて、DVDを一時停止して、それが何という音楽で誰が歌っているのか知りたかった。CDを買おうと思ったのは Camila 以来の久しぶりだった。挿入音楽が多すぎて、特定できない。それで、ハイ・クライムズ を検索してみたら、いろいろとあって、探していくと、「エンディングに流れる歌が良かったが誰?」という質問が載っていた。すると回答者が Lina という歌手で、アルバムの5曲目にある I am the enemy ではないか、という回答があった。早速 Lina を検索して、そのままアマゾンに飛び、Lina のアルバムを注文した。ついでに The shape of Water のサウンドトラックも注文した。どれも中古品である。
 依然とCDアルバムは買うには危険が伴う。試聴ができるのものは限られている。タイトルとインレイのデザインで選ばなければならない。今はダウンロードもできるので、と思うがやはり、昔ぼくが考えて試みたような試聴用の20時間ほどのCDカタログがほしい。毎月リリースされるCDカタログがあればいいと思う。
 まだ知らない俳優や歌手は世にいるのだろう。緑色した瞳をもつ絶世の女優というのはいないものだろうか。
 Asheley Judo(シェリー・ジャド)は Collector というサスペンス映画にも出ていることを知ったので、それも観た。しかしながら役柄が彼女を生き生きとさせていたのは ハイ・クライムズ だった。弁護士役だった。イタリア人の父とカントリーミュージシャン、ナオミなんとか(ナオミというのだからユダヤ系かもしれない)からこんな美人が生まれるんだと感嘆した。

 昔、ヒッチコックの映画「鳥」で出て来たスザンヌ・プレセット以来の感激であった。
 Lina についてはもうすぐCDが届くはずなので、詳しいことは今わからない。検索もしていない。ジャズのようなロックのような奇妙に聞き入ってしまうのだ。

 自分だけの発見と言える。自分の感覚に合う人に出遭えるのは嬉しい。
 まだ聖書、および聖書関連美術書、聖書関連本(イエスの時代など)を読んでいる。グレートな文学作品である。それが西暦100年~200年くらいの間に書かれている。すごいもんだ。

ヒュパティー

2018年07月03日 | 映画
 4世紀や5世紀あたりのオリエントやヨーロッパの地図を見てみると、部族集団とも言うべき国家の体をなしていないような民族の集まりが割拠するとい状態である。ローマが西と東に分裂して、北アジアのフン族だの西ゴートや東ゴートなど様々な部族というか民族がゲルマン民族の大移動に繋がっているようである。凄惨な領土の取り合いは恐るべき野蛮と欲望のように見える。騎馬民族は特に定住しないものだから、ローマやアレキサンドリアのような都市を作ることはなかった。
 アレキサンドリアにヒュパティアという哲学者であり、天文学者だった女性がいた。彼女はローマ帝国が支配するこの都市の図書館で生徒たちに幾何学や天文学を教えていた。西暦415年にキリスト教徒によって虐殺されている。信仰を拒否したからである。キリスト教では女は男よりでしゃばってはいけないし、女が男に教えることもいけないとされていた。ヒュパティアは独身を通し、生涯を天文学、哲学に捧げた。太陽を回る軌道は放物線であることを証明したとされているが、その資料はどこにもない。地球は自転しながら公転しているという考えまでもう一歩である。彼女の見識がキリスト教徒やローマの長官や兵士にわかるはずもなかった。ギリシャ哲学は受け継がれていたのである。フン族やヨーロッパの諸部族にわかるはずもなかった。闘うこと、人間狩り、財産の奪取が生きていることであるようだった。キリスト教徒も彼らと変わらなかった。迫害にめげず、広まったものの、領地の奪い合いは同じであった。
 親鸞が墓も要らぬ、寺も要らない、宗派をつくることなど毛頭考えていなかったにもかかわらず、彼の血筋の蓮如が浄土真宗開く。おかしな話だ。聖書の主人公なら、ヒュパディアを殺すはずもなかったのに。
 人間の大衆というものの愚かさや希望のようなもにがほんの少しずつ歴史を歩んでいく。時にでてくるのが早すぎる人が出てくる。

 さてさて、サッカーへの熱狂。まるでコロシアウムで、人間同士が殺し合ったり、闘牛場で牛と人間が闘ったり、部族間で闘ったりしている様を思い起こしてしまう。なぜ、これほどまでに熱狂するのか。俄サッカーファンまで興奮している。日本が負けるなどとテレビの前で予想でもしようなら何されるかわからないと思えるほどだ。さすが現在はスポーツゲームにはなっているが。
 

Three Billboards

2018年06月26日 | 映画
Three billboards は見応えのある映画だった。Shape of water とアカデミー賞を争ったにはわかる。shape of water の女優はもらえるはずの主演女優賞を逃したのはきのThree Billboard に女優の演技が半端なくすごかったからだ。
 舞台はミズリー州のある尾鷲みたいな田舎町。町の人は顔見知り。黒人への差別、取り締まりも厳しく、警察官は締まりなく仕事をしている。主人公の女の娘はレイプされてた上で焼き殺された。母、なけなしのお金で、国道に3つの広告看板をレンタルした。いつになったらv犯人は捕まる? 警察署長は何してるの、と捜査の連絡もよこさない警察への抗議である。これが波紋を呼ぶ。
  内容の紹介は省かせていただいて、あまりにもアメリカ的であることに驚く。想像を絶する。
 警察署長は膵臓がんで余命も少ない。白人仲間からは尊敬されている。かれは自殺する。馬小屋で。なんで馬小屋? 部下の一人が広告屋の男を襲う。母は警察を襲う。なにこれ?と思う。
 自分で自分の身を守るのが鉄則である。腐敗した警察に果敢に怒りをぶちまける。犯人がわかっていても捕まえようともしない。

 アメリカはこのまま統一された国家であり続け得るだろうか。
 たかだか150年くらいのものである。それぞれの州の独立や合併もあり得る。民主党と共和党の戦争だってあり得る。最終のあたりで犯人らしき人物の背景も暗示される。
 黙示録のような映画だった。アメリカと日本はまるで正反対のようにちがうなあ、と思うのである。とんでもなく激しく、戦闘的だ。
 No Country や Fargo をみたときにも思った。壮大な愛を語る映画もあれば徹底したアクション暴力映画、はたまた壮大なSF映画、コメディー映画。これらの中に現実のアメリカが散らばっているのだろう。それにしても、よくよく考えれば理解しがたいのである。ぼくは自分のことを無神論者で合理的に物事を考え、感情というものもわかっているつもりでいたが、どうやら歴史のページは超厚く深く、サピエンスが分化しているのではないかと思えるほどだ。
 考えこまされた映画だった。だが面白い。アカデミー賞作品賞か監督賞でもよかった。

  

THE SHAPE OF WATER

2018年06月22日 | 映画
 「The Shape of Water」を観た。最新のアカデミー賞作品賞、監督賞作品である。腮呼吸と肺呼吸両方の呼吸ができ、体には鱗があり、二本足で立つ。塩水の中にいるほうが心地よいらしい。そういう半魚人のような生物が生け捕られて、アメリカの秘密研究所運ばれる。
 主人公の女性は口がきけない障害者である。彼女は秘密研究所の清掃人をしており、優しい同僚がいる。アパートにも心優しい絵描きも住んでいた。
 この生物は解剖されることになっている。
 
 奇妙な映画であり、暗い画像であるが水を映すシーンは美しかった。舞台は1962年だった。ソ連との冷戦時代である。障害者の彼女は性欲ももつ生身の人間である。彼女は口の聞けない半魚人も同じではないかと思う。次第に半魚人を助けようと思い始める。
 卑猥な言葉、汚い言葉を使う人間も意図的にセリフの中にある。出世欲に充ちた管理人は半魚人に指の2本を食いちぎられるが、清掃員の女性には従順である。「共感」しあっているのだ。

 「愛」について描かれた映画だ。しかも綿密である。あり得ない話だが、その半魚人を何物かに象徴させているように素直に思える。人間というものが凝縮されているように思える。
 
 まだこの映画を消化できないでいる。夫婦仲が悪い清掃員の女性。写真よりも優れた絵画を描きたい絵描き。ソ連のスパイである博士。なんとしてもこの計画を遂行したい管理人。はて、人間とは七面倒臭い存在であることがわかる。
 
 最近の映画では「パイ オブ ウォーター」に続き優れた映画であった。
 ぜひおすすめしたい。

メル・ギブソン

2018年06月20日 | 映画
「Passion of Crist」(イエスの受難)という映画を観た。2004年のメル・ギブソンが私財を投じて監督、プロデュースをした映画である。ネットで検索をすると、この映画を観てアメリカでは2人ショック死をしたという。イエスが捕まり、磔刑になるまでの十二時間を描いている。ネットでは賛否両論、よかった、涙がでた、見ているじぶんも痛かった、退屈だった、わけわからんかった、といろいろである。
。殴る、蹴る、落とす、鈎つきのムチによる傷めつけ、十字架を担がされて歩くときの傷めつけ、手と足に釘を打って固定する磔刑(たっけい)による死までが描かれている。ほとんど聖書の内容からは逸脱していない。目をそむかせるようなシーンが続くのだったらやめておこうと思ったが、結局目を逸らさず見入ってしまった。
 この磔刑と復活物語によってイエスは人間の内面に生きるのである。メル・ギブソンらは討議を重ねただろう。聖書からどこまでリアルな刑が想像できるか。ムチ打つ側の者も次第狂気じみてくるだろうとそうぞうした。
 徹底した刑がつづき、結末はわかっているのに、最後までみてしまうのはこの映画の力なのだろう。人間の罪を全部引き受けてくれるのだから、まだまだかもしれない。メル・ギブソンの畏れぬ勇気にも驚いた。2004年のころはぼくも映画を観る余裕もなかった。

 こういう映画を観て寄り道していると、聖書読みが遅々となる。
 しばらく、映画をストップしようと思ったのだった。




K

JCスーパースター

2018年06月13日 | 映画
 今日は天気もよかったので、弁当を持って曽根へ行った。民泊の標示と掲示し、写真に撮り、県にメールで送った。ついでにまた草刈りをしておいた。前に横たわるようにある海は青く、遠くの山裾に古江がギリシャの島の町のように屋根や壁が折り重なるようにしてある、もちろん、ギリシャ的色合いではない。日本的、瓦的色合いである。
 あの壁が青で、あれが黄色、と思いながら古江のまとまった村落をしばらく見ていた。
 
 涼しいのだが、体を動かすと汗だくになる。自分で草刈りができなくなったら他人にお金をdscでぃて頼むことになる。床も傷んできている。床の張り替えも自分でしようかと思っているとこである。きっと面倒に思うだろうからと大工を思い浮かべるが、それの方が面倒な気もして決心を遅らせている。
 
 アマゾンで注文したDVDが間違ってCDが送られてきた。注文確認をみると、ちゃんと「ジーザスクライスト スーパースター」となっている。返品し、もう一度送ってもらうのも面倒なことだ。ぼくはこの映画をロンドンで見た。1973年のことである。ロックミュージカルでキリストが主人公である。2回目は東横線の自由ヶ丘の映画館んで今の妻と観た。テレビをつければトランプと北朝鮮のことばかりだから、この映画をみるつもりでいる。
  新約聖書は書簡入っており、異邦人への布教、教会の維持、活動、信徒としてのこころ構えのようなことをくどくどと説いているところである。もう読まなくてもいいのではないか、とも思うが、読んだからには最後までと思っている。
 
 イエスが生まれたあたりは生きるに難しいところだったのだろう。日本では考えられない苛酷さがあったのかもしれない。そのあたりのことは今週土曜日名古屋にでかけ、じっくりと書店で探そうと思っている、12使徒のうちヨハネをのぞき、ユダの自殺を除き、ぺテロはローマで逆さ磔で殺されて殉教、インドあたりまで行って殉教、斬首刑になるもの、胴体を真っ二つに切られるものと殉教者だらけである。そんな困難をしてまで布教をしようとする信念は、聖書のなかに源泉があるはずである。

 ロックミュージックは福音書の要点をうまくティム・ライスが作詞し、それにアンドリュー・ウェーバーが曲をつけている、
 確か、オペラ座談の怪人も、エビータや、キャッツも同じ作曲家でなかったか。傑出している。彼は時代が変わっても、譜面通りに演奏されること望んでいるらしい。70歳である。
 劇場のもより、ぼくは映画の方がずっとよかったと思っている。彼は映画が不満だったらしい。ぼくはノーマン・ジェイソン監督に軍配を上げる。

 



三度目の殺人  是枝監督

2018年06月06日 | 映画
 是枝裕和映画監督の作品「三度目の殺人」のDVDをレンタルして観た。脚本も是枝監督である。
 この映画はじっくりと観させるいかにもお金をかけずに中身の深さで勝負のようなカンヌ映画祭向きの作品であることはハリウッド映画と違ってしかたのないところである。

 初めから矛盾があって、それが最後まで違和感として残った。三度目の殺人をして捕まった男は過去に二人の人を殺し、三十年刑務所にいた男である。「自分はこの世に存在しているだけで人を傷つけてしまうような人間」だと思っている。「生まれてきてはいけない人間はいるのだ」「父、母、妻が先に死に自分のような人間が生きていると言うのは不条理だ」と思っている。この三隅という犯人役を役所広司が演じている。この作品の失敗といおうか、評価に欠ける部分はこの俳優選びと殺人犯に吐かせる言葉である。映画で見る限り、この男はまともで、きちんと挨拶もでき、論理的でもある。つまりインテリである。とても極悪非道な殺人を以前に犯しているとは思えない。

 福山雅裕の演技は「龍馬伝」の時と比べると格段によくなっていた。彼は重盛というリアルな弁護士である。三十年前の殺人事件の裁判で裁判長を務めたのは重盛の父だった。父は三隅のことを「獣みたいな人間」と言い表している。当時三隅を逮捕した刑事は「感情のない空っぽの器」と言っている。
「獣みたいな男」「感情のない空っぽの器」という言葉は三隅(役所広司)に合わないのである。

「人は人を裁けるか」というような永遠の命題も「真理」を追究しようとしない法曹界にも異議申し立てをしたそうな監督であるが、その説得力はなかった。役所広司を選んだからである。彼にはこの役は無理なのだ。獣と思わせるような人間であり、三度目の殺人では自分の娘と重ねてしまう被害者の娘が被害者である父に性的虐待をされていたことが公になることを恐れ、急に「自分は殺人をやってない」と三転して主張をひるがえすのである。それは被害者の娘への愛情もしくは親和感である。そうして三隅は愛情と知能のある人間に変わってしまっている。

 ぼくは違和感を抱きつつ、最後まで違和感をもってこの映画を観た。
 また言っておきたいことがある。

 「人間が生まれる」ということをやや浅い知識で言葉を吐かせていることである。受胎から誕生までの凄まじい生き残りの上で生まれるのが人間である。40億年の苛酷な生命の再現を行い、生まれてのなお歩くこともできない人間なのである。母がどうであろうと、父がどうであろうと、人間には「存在するだけでもつ倫理」があるのだ。母を責めても責めきれず、父を責めても責めきれない。社会を責めても、法を責めても、この「存在するだけでもつ倫理」は究極的に自分についてまわるものだ。生まれない方がよかった人間はあり得ないのだ。重盛の助手のような立場の弁護士がそういう三隅に異議を言う場面が一言あった。しかしそれは世間でよくいう「人間だれでも価値があるんだ」という風にぼくには聞こえたのだった。たぶんこの短い言葉に是枝監督の現在の思考の段階が現れたのだった。

 一方で、死刑よりも減刑されることを優先する重盛という人物には好感をもった。そこにリアルさとありそうな弁護士像をうまく演じる福山雅治がいたからである。作り笑いするでもなく、キザでも、えらそうでもなく、若干の感情を表して淡々と演じていた。
 賞をとるにはもう一歩だと感じた。しかし是枝監督は「万引き家族」で今年の第71回カンヌ国際映画祭で最高賞となるパルムドールを受賞した。彼はどのように変化したのか映画を見てみたいと思う。