25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

エクソダス

2018年05月31日 | 映画
 寝る前に新約聖書を読んでいる。別に信仰もためではない。西暦30年から60年ぅらいの間に書かれた書き物として読んでいる。旧約聖書は「ヨブ記」を読んでいるだけである。
 マタイによる福音書を読み、マルコによる福音書、現在はルかによる福音書の途中である。ルカという作者はマタイやマルコが書いていないところも書き、重複が少ない。
 神と病気を治す奇跡をのぞけば、しっかりとした小説のようである、当時の世は戦争が絶えることなく、民は虐げられ、貧しかったのだろう。そんなこと思っていた。興味深いもは、イエスはモーゼだけは信じていたようである。それはまさに親鸞が法然上人だけは全面的に信じていたのとよく似ている。およそ自分の宗派をもとうなどとつゆほどにも思っていない親鸞であった。イエスhより積極的に12使徒を派遣し、普及に努めることを促した。
 モーゼとは一体どんな男なのだろうと思っていた。 

 すると、ちょうど借りたDVDがリドリー・スコット監督作品で「エクソダス」という映画の主人公がモーゼだった。まさかという偶然に喜んだ、有名な奴隷となって虐げられヘブライ人がエジプトを脱出する旧約聖書「出エジプト記(エクソダス)」を映画にしたものである。スコット監督お解釈が当然入っている。旧約聖書でどう書かれているのか知らないので、これは旧約聖書も読まねばと思ったのだった。
 BC1300年。300年に渡るヘブライ人の奴隷生活が終わる時。ヘブライ人という呼び名はエジプトの他民族がそう呼び、イエス・キリストはイスラエル人と呼んだ。
 同じ神を崇めるユダヤ教、キリスト教、イスラム教は現代においても人類が解決しなければならない問題として残っている。

聖書を読んでいて思うのは、書き物、いわば文学・思想として以後これに勝るものが出て来なかったことだ。インドではブッダ、中国では孔子がでているが、ヨーロッパではコペルニクスやダーウィンのような科学の登場とその理解を待つまでイエスに代わるものは出なかった。中東地域ではモハメットが戦争の中でイスラム法典の啓示を受けた。
 キリスト教は世界の隅々にまで果敢な布教を行った。アフリカ、南アメリカ、アマゾンの奥地にまで、アジアの東果てまで布教に努めた。

 生産力が上がり、人間が経済的に豊かになるにつれて宗教色は薄まっていくのも事実であるが、宗教色が薄まった地域でさえ、国民国家という宗教変形が現れ、いまも強固にそれは存在している。
ホモ・サピエンスのみが人類の中で原始宗教を作り出した。集団を大きくして、生物界を生き延びていくためである。この共同幻想にのちの人類は囚われることになった。
 AI だ、ロボットだ、IoTだという現代においてなおも、である。

ぼくの観念の中には「信仰」というものがない。人類にとって宗教を放棄する日がくるのだろうか。インドネシアのバリ島では人々は輪廻転生を信じ、日常的に敬虔な宗教に基づいた生活を当たり前のように送っている。それは村落共同体を観光産業から必死に守り抜こうとしているようにも見える。そして宗教そのものがうまく観光地化されているようにも思えるのだ。生活は慎ましい。多くを望めない。ゆったりとして現世を神とともに生きている。

 日本人のように働き過ぎない。日本人ほど多くのものをもたないが、完璧さに囚われず、隙間を残しながら生きているようにも見える。
 宗教は貧しさの中で生まれ、意識を共有させることで集団を守る。ぼくなどは「死んだら死にっきり」と思っているから、それは人類にとっては不遜なことなのだろうか。自分には本当に信仰心はないのだろうか。今のところいくら考えてもわからないのである。

 

  
 

映画とは、小説とは

2018年05月30日 | 映画
 映画だったら最初から最後まで観客を見させなければならない。そうでないと映画にならない。小説においても読んでもらえないと小説として成り立たない。
 だから、作り手側はまずその事に神経を使い、能力あるものは技を用いる。基本だからである。
 
 さらに時代を越えて生き残っていく作品には、人間考察への深みがなければならず、世界の一部の人々をも「自分のことが書かれている」と思わせるほどの共有性を提示し、こころの内にあるものをえぐりだすくらいの強烈さが必要である。このことは人間という生き物は共有する観念をもっているということである。個人幻想が共有によって共同幻想にもなりうる契機もはらんででいる。
 映画や小説でこの時間の遠くまで、意識の深みまで挑戦する人がいる。またそのような時間幅と深みをもった作品を探し求めている人たちがいる。
 
 作者は作品を作ってみるがなかなかうまくいかない。面白ければそれでいいのさ、ということも受けて手の自由である。

 夏目漱石のように現代でさえも「良い」と思わせる作家は少ない。また何度でも見たくなる映画も少ない。芸術としての言語、芸術としての映画もとても少ない。 

 いつも違う発想や物の考え方、ぼくの方からの想定が裏切られるようなものをぼくはいつも求めている。

 最近、優れた映画監督を認識した。リドリー・スコット。もうひとつ、
 前から知っていたコーエン兄弟。

 想像世界より現実が強い、と耳にすることもあるが、想像的世界を圧倒感で示すのはスコット監督だ。彼は人間の勇気が好きである。
 コーエン兄弟の映画は苦笑いのなかに人間のちっぽけな悪が巨大に連鎖していく様をみるが、かならず、登場人物にそれを見届ける人物を解決者としておいている。そこに安心感をわざと設定している。ぼくらはいつなんどき、偶然に何かを起こしてしまうかもしれない不気味な社会に生きている。

 芸術として才能を示す作家に現代では村上春樹がいる。彼の短編小説は珠玉である。時間も深みももっている。50年先にも読まれるはずだ。100年と断じる勇気はない。社会が一変しているように思えるからで、想像ができない。過去100年でどれほど変わったか。次の100年はとなると、遥かに想像しにくい。当然芸術家であるならば100年、1000年と生き残っていくはずだ、と思うが、弱きホモ サピエンスは、怠惰大食傲慢強欲憤怒嫉妬虚飾をどう始末するのだろうか。興味深い。100年先を見たいものだ。


 
 


レプリカント

2018年05月21日 | 映画
 この3月、4月、5月とアクション映画とSF映画をよく見た。中でも傑作だと思ったのは 「プロミテウス」と「エイリアン コヴェナント」だった。こんな創造をする人達というのはどんな人だろう、と思い、監督名に目を凝らすと、リドリー・スコットという英国人(現在はアメリカ住んでいる)だった。ウィキぺディアで調べると、代表作に「グラディエーター」がある。高倉健と松田優作がでた「ブラックレイン」も彼の作品である。
 すで80歳を越えている。「プロメテウス」と「コヴェナント」は大ヒットした彼の「エイリアン」の前日譚である。

 監督は「レプリカント」という言葉を造りだし、「アンドロイド」と区別した。アンドロイドには機械のイメージがつきまとう。レプリカントはあくまで機械ではない人造人間
で、監督は1983年に公開された「ブレードランナー」以降、レプリカントに飽きることのない興味を示している。

 「コヴェナント」ではレプリカントはさらに進化し、寿命までもなくなっている。そしてエイリアンを支配する野望まで抱くようになる。

 ぼくの興味は監督らが描く、未来の都市のイメージや見たこともない惑星の風景である。バックの風景には凝りに凝った美術監督らの想像力が随所に見える。室内でのグラスコップまでも、現在もものと違う。当然、車はビルも登り、空も飛ぶ。

 「ブレードランナー」では新宿歌舞伎町と香港町の混沌とでぃたイメージを参考にしたらしい。ネオンサインの進化したものも、コカ・コーラが相変わらず、巨大電子広告をしているのも、画面を惹き付ける役割をしている。
 見たこともない風景、見たこともない物を映画は見せてくれる。映画だけがもつ力である。
 ぼくは「2001年宇宙の旅」を見たのは1972年。2001年はとっくに過ぎた。スタンリーキューブリックが描いた宇宙ステーションはとっくに現実化している。
 「ブレードランナー 2049」が今年DVD発売となったので、早速借りることにしている。2049年あたりはAI.IoT.ロボティクスによる産業革命の真っ只中だろう。日本の人口が減りに減っている時期である。
 世界はどうなっていることだろう。レプリカントも作られていることだろうか。
 

旭川

2018年05月16日 | 映画
 TBSだったか、ドキュメンタリー番組で、北海道旭川の柔道をやっていた少年が旭国の誘いを受けてtr、大相撲の部屋に入った。ほっそりとした少年だった。朝早い稽古、フンドシカツギの生活に逃げ出すこともあった。
 あれから十年。旭大星は新入幕を果たした。
 あの少年が十年で大きな体になっていた。相撲の取り口ではもろ手でつくので勢いが感じられない。柔道技をとっさにだす。初日の一番は勝ったと思ったが、取り直しとなって妙義龍に負けた。2日目は安美錦に「裾はらい」という柔道技ににた技で安美錦をひっくりかえした。3日目、豪風を突いていなして、突き勝った。
 もっと「あたり」が強ければと思う。体は出来上がったのだから、自分の勝つ型を見つけなければならない。
 とりあえずは勝ち越しが目標である。6月には結婚式の予定である。
 2日目に初白星で、翌朝の朝日新聞はスポーツ欄で旭大星をカラーで報じていた。北海道出身の幕内力士は久しぶりらしい。
 NHKでもインタビューが映った。剽軽に、むっつりとせず、はきはきと答えていた。「一日一日頑張るdsけです」というお決まりの文句も出なかった。明るかった。
 あの「辛抱」の少年が異界で育ったのを見るのに、力が入る。
 相撲をみる時間が早くなった。すべてはその時刻にあわせて朝からの時間が動く。4時まですべてを済ませる。


Ghost in the shell

2018年05月12日 | 映画
 
  うなぎを食べに津の「はしや」に行こうと思ったが、止めた、思えば、「はしや」のそばにある「松島酒店」が休みだと思いだしたからだ。ここにはウィスキーだけでなく数多い葉巻も売っている。ウィスキーをみるのもよいが、葉巻を見るのもいいものだ。
 うなぎだけで津まで車を走らせることはどうできない。付加価値として「松島酒店」が空いていればいくのだが。この逆も同じである。ぼくの中では「はしや「と「松島酒店」はセットになっている。
 尾鷲にはうなぎ専門店がとうの昔になくなった。尾鷲で調達できなくなったものに、靴がある。紳士服も入れていいかもしれない。選択肢がないのだ。
 心配するのは高速道路が尾鷲北と尾鷲南が開通して、ストロー現象がおこるのではないか、よいうことである。すると尾鷲の国道42号線の店に影響するのではないか。
 ここにはイオンがあり、マック、すき家、コメリ、主婦の店、TSUTAYA、ウィズユー、おとと、三紀茶屋、おふくろ、ハオハオ飯店、もりば、大阪らあめん、EDION、K゜sデンキ、エサキチ、などがある。など、尾鷲内の客や他所からきてこの道を通る客がいる。
 尾鷲は月に20人ー30人の人口が減って行くなかで、たとえばイオンやコメリが撤退すると困ることになる。尾鷲北か、尾鷲南でおりて、いろいろな店があるゾーンだということを宣伝する必要があることだろう。
 ぼくらは見ているしかないので、行政のなんらかの働きかけが必要のように思える。

 結局津行きは諦めて、家でラーメンを啜った。映画「ゴースト イン ザ シェル」を観た。近未来の話で、作る側の未来の姿の想像力が駆使されていた。高層ビルが立ち並び、さらに電飾化され、広告看板も立体化、移動化され、情報は脳から脳へとネットワーク化されている。人間の脳がロボットの体に移植されたり、過去の記憶が消去できるようになっている。
 観ているぼくは悩む主人公に息苦しさを感じ、映画全体を楽しむことはできなかった。この映画は愉しさに欠けるのと、深い感動をさせる力がないと思うのだった。

 思えば今日から「大相撲」である。栃ノ心に期待している。

中井貴一のよさ

2018年04月21日 | 映画
 中井貴一という役者はたいしたもんだ、とまた時代劇映画「柘榴坂の仇討ち」を見て思った。桜田騒動で主君を守れなかった主人公は、襲撃をかけた水戸藩士ら襲撃者の首を取ってこいという命令で、十三年めにとうとう最後の男を見つけることになる。仇討ち禁止令がでる。世の中は大きく変わっている。妻が飯屋や縫い仕事で、彼の生活を支えている。
 降りしきる雪の中でも花を咲かせる風景が出てくるしみじみとした映画であった。幾つかの名場面があった。
 中井貴一の武士の所作、表情の変化、歩き方と姿勢、納得のいく名演技だった。この平成の世には時代劇を演じられる俳優はこの人しかいないのではないか。
中井貴一は演技分野も幅が広い。コメディっぽいものを軽妙にこなすこともできれば、悪役を演じることもできる。とうに父親の佐田啓二を超えている。
 「サラメシ」の明るいナレーションもよい。高慢ちき風でもない。やがては老人役もするのだろう。岸恵子や草笛光子が超年齢となって年齢不詳の女優になったように、中井貴一もそうなるのではないかと思うくらい、年齢が止まっているような感がある。
 「愛しのエリー」が流れていた「不揃いの林檎たち」から、テレビ、映画と間断なく登場する。
 
 思えば、時代劇が映画公開されるのは珍しく、制作されて上演されるものは力作ばかりである。
「雨上がる」くらいの時期から、「山桜」「武士の一分」「花のあと」「川辺のほとり」「義士壬生伝」「秘伝 鳥刺し」「殿、利息でござる」くらいしか覚えていないがどれも秀作で心打たれるものばかりだった。
 

有名女優 北川景子など

2018年04月03日 | 映画
 藤沢周平の作品だったと思うが、「花のあと」という時代劇映画があった。北川景子がひどく良かったのをおぼえている。ぼくにとっては初めて見た女優だった。その映画を見てから二年ほど経って、彼女はテレビに出始め、検事役をしたり、凄腕の不動産営業ウーマンをしたりしたが、大河ドラマでまた和服着物を着てでるようになった。北川景子は脚を矯正したほうがよいと思っていたが、この頃、矯正をしているのだろうと思う。
 「花のあと」では芯の強い女性で、夫の敵討ちをするのだったと記憶している。間違っているかもしれない。当時、藤沢周平の時代劇がいくつか公開されて、「山桜」もそのひとつだった。この映画もよく似たような雰囲気だったが、こちらは鈴木麗奈が主役だった。この女優もよかったが、ぼくは日本髪で和服姿の北川景子に軍配を上げた。
 TSUTAYA では「山桜」が今も並べられているが、「花のあと」は早々に引き払われてしまった。また観たいと思ってもないので、大変残念である。北川景子の記念碑的な作品だと思う。
 2016年テレビドラマ、松本清張の「黒い樹海」では姉の事故死にまつわる謎を追う妹役を演じていた。それを今日観たからつい北川景子の「花のあと」という傑作を思い出したのだ。
 この前草笛光子へのインタビューがあった。84歳だそうである。そしてその前に「徹子の部屋」に岸恵子がでていた。85歳だという。二人の若々しさには驚いた。内面が若いと思った。それに結構孤独好きだった。すでに年齢というものを越えていた。何歳かとも推量できるものではないのである。
 北川景子はどうなるのだろう。有名女優というのは超越した存在のように見える。しかもそこに知性が加わればさらに輝くような気がする。

ドクトルジバゴをなぜ好むのか

2018年03月05日 | 映画
デビッドリーンの映画「ドクトル・ジバゴ」をなぜ僕は好むのか、風邪でぼんやりしている中で考えてみた。
 やはり、理由の第一位として、ジュリー・クリスティーという女優の起用にある。少女から母親までの時代の「ラーラ」を演じた。若いジュリー・クリスティーと成熟したジュリー・クリスティーが見事に演じ分けられている。ぼくは看護師として働く彼女も、ユリアーティの図書館で働く彼女も、その冬のファッションも含めて好きだ。要するにぼくはジュリー・クリスティーにイカレているのだ。
 映画の目線は絶えずジバゴを追う形となる。ジバゴは革命の歴史に翻弄されていくことになる。革命政府から失脚した夫をもつラーラも翻弄されていく。
 ラーラのどの場面を見てもよいと思うのは、一カットごとに考え尽くされ、デビッド・リーン監督が最も良しとした角度や陰影によって像が作りだされていることだ。監督もジュリー・クリステーの美しさを最大限引き出したいのだ。
 一方の主人公ジバゴを演じたオマー・シャリフはいつも控えめであり、ギトギトしたものもない、心優しい医者・詩人である。デビッド・リーンは主張し過ぎないキャラクターを表現できるものとしてオマー・シャリフを選んだのだろうと思う。
 ジバゴは野戦病院でラーラと出会うことになる。彼の倫理観も、知性もまだ保たれていた。モスクワの家を追われ、ベルキノに逃れるが、その先の町の図書館で偶然にもラーラと出逢うことになる。この時、ついに恋に火がついてしまうのである。妻子を裏切ることになる。不運がまた訪れる。帰宅中にパルチザンに拉致され、医師として従軍することを強制される。生涯妻子とも離れてしまうことになる。

 「ドクトルジバゴ」を好む別の理由として、心の動きが風景の描写によって表されることだ。恋をすればこれまで見えていたものが違った美しさで見えるように、ラーラを囲む風景も、ベルキノという別荘地も美しいものに変わる。

 最後に全編を通して流れる「ラ-ラのテーマ」である。雄大なロシアの地。仰ぎ見る空。この「ラーラのテーマ」がバリエーションを変えて流れてくる。
 二人の恋は寡黙である。恋をしてしまった罪悪感もある。しかし抗えないのである。罪悪を越えるものとして恋を描く思いがデビッド・リーン監督にあった。このテーマは「ライアンの娘」で徹底的に追求されることになる。なぜ、デビッド・リーン監督は「恋の喜び・美しさと裏腹にある恋の残酷」に拘ったのだろう。そのために映像を駆使し、莫大な資金を使ったのだ。

 考えていると「ラーラ」はわかりやすそうでわかりにくい女性である。自分を主張するセリフがあまりないからである。その後映画で「ラーラ的な役」を見たことがない。
 いよいよパステルナークの詩を探そうか、小説を読んでみようかと考えている。

フルメタルジャケット

2018年02月28日 | 映画
 自分の身体にほとほと嫌気がさす。中学を卒業してからもスポーツ少年を続けるべきだった。「嵐が丘」に出会わず、音楽クラブなど作らず、毎日体を動かす何かをしておくべきだった、などと人生の岐れ道で、一切スポーツは避けてきた。
 筋肉がゆるんでしまう病気ってあるのだろうか。
 それに心臓だけ寒いのはどういうわけだろう。
 
 昨日、無事に寝付いたと思って目が覚めた。3時だった。再び眠ろうと思っても、ぼくは秘密諜報員になっていて、北朝鮮の核弾頭に特に強力な磁石でできた名刺ほどの大きさのものを貼りつけるのが任務である。もうぼくのなかにはあるミサイル基地へ行き方もすっかりわかっている。核爆弾を無効化するのである。そんな話が次から次に現れて、脳は休んだ気持ちにならない。
 6時になって、だされた夜の食事半分も食べず、炭水化物は一切なかった。もしかして、と思い、バナナと野菜ジュースを飲んでみた。
 もう諜報員のぼくは出てこず、なんとなく眠ったのだろう。目が覚めたのは10時だった。今日中に体調を取り戻すぞ、決意し、夜は再度、スタンリーキューブリックの「フルメタルジャケット」を見て、脳は騒がしく、体は横になってという格好で過ごすつもりである。



名画 David Lean 監督

2018年02月24日 | 映画
 心に残る名作映画の著作権が切れてきたのか続々と安く販売されるようになった。アマゾンで、もしかして「ライアンの娘」と「チップス先生さようなら」を調べてみた。なんと700円台であるではないか。しかもメイキング付きである。それではと、「ドクトルジバゴ」も調べてみた。すると「アニバーサリー版で登場していた。すふに買うことにした。今日3つとも配送されてきた。送料は無料だった。どうなっているのか知らないがお得感がある。「ライアンの娘」では美しいアイルランドの海岸や森の中の風景が思い出される。動く絵画をみているようであった。
 
 自分のなかで今日までみてきた映画のなかで、なんどもみる映画がある。

 ドクトルジバゴ
 ゴッドファーザー 1ー3
 007シリーズ
 インディジョーンズ 魔宮の伝説
 砂の器
 ディアハンター
 激突
 Kill Bill
 イングリッシュ ペイシャント
 シェルタリング スカイ

 をなんども見る。そしてなんども不思議さを感じる。忘れていたセリフ、シーンがあることにも気づく。こんなところに伏線があったのか、ああこれは予兆を表すシーンだったのかと気づく。
 これに、「ライアンの娘」と「チップス先生さようなら」が加わることになる。
 スピルバーグは新作映画を作る前には必ず「ドクトルジバゴ」「ライアンの娘」「アラビアのロレンス」を観るという。どれほどイギリス人監督の Devid Leanは優秀だったのだろうと思う。
 ネットで検索するとDevid Lean監督作品のランキングがある。キャサリンへプパーンが主演した「旅情」も東洋の端にいるぼくにはヨーロッパの町並みと旅の途中で知り合った男性への恋心を巧みに美しく表現していた。「戦場にかける橋」もリストにあった。
1950年代初期の作品も一覧されていた。DVDになってほしい。もしかしてあるのかも知れないと思い、またアマゾンで検索してみよう。





やっぱり初期の007は面白い

2018年02月21日 | 映画
アクション映画をレンタルしてきて、毎日のように年代を追って見ている。アメリカやイギリスのもの、スエーデン物、フランス物であるが日本、中国、韓国のアクション物は見ていない。
 旧スビエトを敵とした時代から、テロリストや情報通信が乗っ取られる内容に全体的に変化はしている。個人の俳優のアクション技術は相当進化しているが、年を追って、アクション映画はユーモアや洒落っ気がなくなりつつある。
 それを代表するのが「007シリーズ」である。ショーンコネリーやロジャームーアまでは悪戯っぽいシーンも多くあった。逃げる隙に、わざわざ目に飛び込んだチョコレートを持っていくシーンでクスッと笑ってしまうことが一本の映画に何度もあった。最近の「007」も、他のアクション映画も映像にユーモアはなくなり、カーチェース、格闘、爆発、時限装置を使った緊張の連続であり、暗くなった。アメリカ映画などはセリフでふざけたことを言うだけである。
 で、やっぱり「007」のショーンコネリー、ロジャームーアまでが明るく楽しい。ジェイソン・ステイサムの「トランスポーター」や「メカニクス」、やリーアン・ニーソンのそれぞれのアクション作品も面白いのだが、映画全体に豪華さというかお洒落感がない。
 「007」では行ったこともないリゾートホテルや街中などの風景が出て来る、必ずと言っていいほど豪華ホテルが出て来る。そこへ女が次々と出て来る。危機のとき、とっさの判断でその辺にあるものを使って脱出する手口もいろいろである。それに諜報部から与えられた武器も面白い。
 昨日は「エンド オブ キングダム」を観た。イギリスの首相が死に、その葬儀に世界各国の首脳が集まる機会をとらえて、ロンドンがテロリストによって破壊され、一部首脳は殺され、アメリカ大統領も執拗に狙い追われるという映画だが、ジョークのひとつもない深刻な世情を表した映画だった。情報が乗っ取られるとこれほど危ないものか、と切に訴えているようだった。あれよあれよ、と見てしまうのだが、映画を楽しむのは「007」の方がよい。冒険アドベンチャーではやはり「インディージョーンズ」が優れている。この映画にもユーモアがあった。
 スパイ物で「007」は先駆けとなり、冒険アドベンチャアでは「インディジョーンズ」が先駆けとなってその後の映画のパターンとなったような気がする。あとは過激になっていくだけである。

 クリントイーシトウッドの映画はまた一味違う。たぶん「007」などの目指すものと違うのだ。クリントイーストウッドは面白ければいい、という映画を作らない。監督の心理やこだわりが作品に刻まれている。
 SFではやはり「ターミネーター」と「エイリアン」が先駆けなのだろう。
 総じて映画もアクション、冒険、SFなど総合化しつつある。
 

オデッセイ

2018年02月04日 | 映画
  「オデッセイ」という2015年制作のアメリカ映画をみた。たいへん面白かった。何がかというと、火星に取り残された男と、それを救うというストーリーの中で、生き延びるにも、救うにも、「知力」がいるということだ。そしてその知力を活かすも殺すのも「胆力」が必要だっということだ。火星や宇宙空間での制限されたところでの人間の動き方にも気をとられたが、つまるとことろ作者は「知識に基づいた知力を駆使する人間」と「危機のときに知力をつかった勇気を出す人間」
これが人間なんだ、どうだ、と言っているような気がする。さすがアカデミー賞作品賞などその年の数々の映画賞を総なめにした傑作であった。
 主役のマット・デーモンにも敬意を表する。火星で生き残るための食糧を自分で栽培し、うまくいぅのだが、不慮の事故で瞬時に凍り、死滅してしまう。アクション映画にも出る彼はそれ相応の筋肉があぅた。火星を脱出うる時の彼は信じられないほどの痩せ方であった。この妥協のなさも、苦しかったろうと思わせるとともに、役への執念も感じる。急激に痩せることになひとつよいことはない。あえてそこまでするのは彼がまだギリギリ若く、肉体を取り戻せる自信もあるからなのだろう。
 2年ほど前になぜこんな映画を観なかったのか、と不思議に思う。アンテナは高くしているつもりである。別のことに気をとられていたのだろう。それは何だったのか思い出せない。

  

ショーン-コネリー

2018年01月08日 | 映画

 ぼくはショーンコネリーという俳優の相当なファンで、それは「007」のときからである。みなさんにぜひ見てもらいたい彼が出る映画がある。「ロシアンハウス」という映画である。映画そのものはたいしたことはないにであるが、音楽が素晴らしい。特にショーンコネリーがサキソフォーンをジャズバンドをバックに演奏するシーンが格好良すぎるのだ。

 老いてますますカッコよくなる人もいるものだ。

 最近、スマホのアプリにミラーをダウンロードした。勝手にされたといっていいのだが、これを起動させると自分の顔がスマホに映る。自分の顔はひどいもんだ。顔の部分のどこもが緩み切っている。醜い。

  映画俳優はたいしたもんだ。映画を撮るためとあれば身体の形や顔写真や髪に気をつけるだろう。仕事と思えば、身体も動いて、拭き掃除も、片付けも、草刈りもヒョイヒョイとやってしまうのと同じなのかもしれない。

 007 の「Sky Fall」(2012年作)は傑作であったが、ショーンコネリーのスマートな明るさがダニエル-グレーンにないのだ。

 ショーンコネリーのようになりたいな、とよく思うのである。


正月は満月

2018年01月01日 | 映画

 謹賀新年

 本年もよろしくお願いたします。

 暦を見たら、なんと今日も明日も満月である31日から2日までは。

 磯のアワビも陸に上がってくる。明日、行こか、と思っている。なかなか正月に大潮なんてないから、息子も説得しよう。

 紅白はうっちゃんがよかったですね。ビジュチューンを真似た石川さゆりの舞台わかりました?  孫の影響でEーテレで見始めたのでわかるのです。有名美術を見た若者の作曲、作詞をする男が絵画を見てストーリーを作る。これが歌になっていて愉快なのです。

 14番の若者がケン玉で失敗し、それはだれそれの友達だとか、女の子が三人舞台で失神して倒れたとか、談義にもなり、やはり紅白歌合戦は健在であった。

 坂本冬美。ああいう歌、歌っていたらあかんぜよ。星野源、もっと歌うまくなれよ。

 で、欅坂の「不協和音」の歌詞はまさに枝野党首の歌であった。

 「今年の紅白、どっちが勝った」などと6歳の孫が引っ掛け問題を言ってくる。

 元旦の夜は息子が持ち込んできたトルコ映画「愛より強く」を見て、ああ、日本やフランスやトルコのような国はハリウッドのようなお金をかけた映画は作れないのだな、とまた思った。映画はより深刻になる。

 「ジーコ」という呼び方はあかん、と孫に、「グランパ」か「おじいさま」と言いなさい、一回言えたら百円、などとふざけていたら、グランパと呼び掛けるようになった。「愛しグランパ」という菅原文太と石原さとみの映画があって、グランパはホテルバーでジャズを歌ったのだった。蝶ネクタイですよ。これをやってみたいと前から思っていた。

 ガヤガヤと家族正月は過ぎ、明日は娘達が合流するのである。

 


 


「狩人の夜」

2017年12月30日 | 映画

 息子たちがやってきて、息子は休み中に、5本の映画を観ると言って張り切っている。多分ぼくのアンテナではとらえられなものだ。昨日付き合って見たのは1955年のアメリカ映画で、当時上映禁止れて、この監督が残したたった一本の作品である。監督の名前は忘れた。「狩人の夜」で検索すれば出てくると思う。ぼくには1939年代のアメリカ人の生活あ倫理観がよくわかり、背景の映像も珍しく、殺人鬼に追われる少年とその妹の逃亡劇であるが、その後のアメリカ映画のひとつのモデルを提示したようなものだった。英三が暗喩として挿入される場面も多々あった。監督の死後20年経って世に認められ、今ではアメリカ人がみなければならない50の映画に推薦されている。日本にも配給されたのだから、たいしたもんだ。

 もうひとつは若尾文子主演で、川口浩が相手役の「最高殊勲夫人」という1959年の大映映画だった。山の手の会社社長や有閑マダム、サラリーマンの上昇志向、女子社員の結婚願望という当時の金持ち社会を描いたものだった。

 ぼくなどは大映映画というと、なんだか大人の映画で、馴染めず、避けてきた映画だった。

この「最高殊勲夫人」を見ていたら、漱石の「明暗」に登場する社長の夫人が思い起こされた。暇な夫人が夫の肩書きを武器につまらない画策をする。

 ぼくらにはない世界だけに、ああ、こういう有閑マダムは今もいるものなのか、と思うのだった。

 一方で日活は若い労働者の映画を作っていた。「キューポラのある町」を思い出す。ぼくは、吉永小百合や倍賞千恵子の映画の方を見た。

 これも息子が持ってこなかったらほぼ見なかった映画だと思う。

 尾鷲は帰省客で車が多くなった。国道に出るのに、コクドウ手前で信号2回待ちである。

 そう言えば、おととい、石川さゆりのリサイタルを見た。多くの曲が和太鼓、二胡、笛、ピアノ、バイオリン、アコースティックギターで、伴奏も歌も素晴らしかった。色々な歌に挑戦する歌手だが、NHKは「津軽海峡冬景色」と「天城越え」しか紅白で歌わせない。不本意という思いも越えてしまったのだろうか。

 来年は尾鷲にも「石川さゆり」が歌いにくる。