香港政府が「逃亡犯引き渡し条例」を撤回したというニュースが昨晩入ってきた。ブログでこの話題を昨日の午前中、アップするのを忘れていたのでしたばかりだった。思いが届いたようで嬉しかったが、学生たちの要求の一番に誰でも立候補できる「普通選挙」がある。香港自治政府がここまで本当は認められているはずだった。一国二制度制を反故にしたのは中国政府の方である。この推移を遠く日本から注視したい。
日本と韓国の問題で週刊ポストが大失態をしてしまった。テレビ報道番組でも馬鹿なことを言う者がいて、嫌韓を煽る。しかしこの頃では「冷静に報道しよう」という番組も現れ、政権対政権の喧嘩が国民対国民にならない余裕を両国の国民はもっているようである。早く、国内の空港で便が止まっている韓国―日本便が復活してほしいものだ。
戦前、毎日新聞が主戦論を唱えると新聞の販売部数が増え、結局は朝日新聞までも主戦論を唱えるようになった。国民が煽り煽られ、新聞の煽り煽られ、内閣は判断を間違い、軍部は天皇を利用し、精神論だけで戦争に突入していく。最後は空襲、原爆で兵士ではない一般人、女子供まで殺されることになった。
ぼくは戦争には正義の戦争はなく、戦争そのものが悪だと考えている。同じような意見の人が多くなってきているように思うがどうだろう。嫌韓論を書き、韓国の悪口を言っているような学者や文化人、それに賛同する人は圧倒的に少数だと思う。ただこの少数がこまめにSNSを使い、こまめに活動するのだ。
「日本人は汚れたことなどしない民族なのだ」と思いたい勢力がこの国には少数いるのだ。「しかたのなかった戦争だったのだ」と思いたい。「戦争で死んだ人たちに無駄に死んだなどと言えない」と思いたい。
人間は科学技術をすごい勢いで発展させたが、煽り煽られとか、マスコミの態度、政治家の態度など進歩していないところがあって、七十数年前と同じようなことをやってしまっている。そう思うと暗澹とした気分にもなり、人間性というものはそうそう早くに変わるものではないのだと、自分が生きている間にはどうにもならないのだと、と思える。
話は違うが、ちょっとした知恵が人間の意識を変えることがあるかもしれない。例えば、桑田佳祐が「ピースとハイライト」の歌詞の中で、「教科書は現代史をやる前に時間切れ どうしてそうなっちゃうの」と書いたように、歴史は現在から過去に下っていった方がいいのではないか。原始時代からより、現在から。そして「なぜそうなったの」とつないで過去に向かう。
ちょっとづつ、一人一人の冷静な努力で、生活の場面で、自分も煽り煽られない努力をしなければならないのだろう。
日本と韓国の問題で週刊ポストが大失態をしてしまった。テレビ報道番組でも馬鹿なことを言う者がいて、嫌韓を煽る。しかしこの頃では「冷静に報道しよう」という番組も現れ、政権対政権の喧嘩が国民対国民にならない余裕を両国の国民はもっているようである。早く、国内の空港で便が止まっている韓国―日本便が復活してほしいものだ。
戦前、毎日新聞が主戦論を唱えると新聞の販売部数が増え、結局は朝日新聞までも主戦論を唱えるようになった。国民が煽り煽られ、新聞の煽り煽られ、内閣は判断を間違い、軍部は天皇を利用し、精神論だけで戦争に突入していく。最後は空襲、原爆で兵士ではない一般人、女子供まで殺されることになった。
ぼくは戦争には正義の戦争はなく、戦争そのものが悪だと考えている。同じような意見の人が多くなってきているように思うがどうだろう。嫌韓論を書き、韓国の悪口を言っているような学者や文化人、それに賛同する人は圧倒的に少数だと思う。ただこの少数がこまめにSNSを使い、こまめに活動するのだ。
「日本人は汚れたことなどしない民族なのだ」と思いたい勢力がこの国には少数いるのだ。「しかたのなかった戦争だったのだ」と思いたい。「戦争で死んだ人たちに無駄に死んだなどと言えない」と思いたい。
人間は科学技術をすごい勢いで発展させたが、煽り煽られとか、マスコミの態度、政治家の態度など進歩していないところがあって、七十数年前と同じようなことをやってしまっている。そう思うと暗澹とした気分にもなり、人間性というものはそうそう早くに変わるものではないのだと、自分が生きている間にはどうにもならないのだと、と思える。
話は違うが、ちょっとした知恵が人間の意識を変えることがあるかもしれない。例えば、桑田佳祐が「ピースとハイライト」の歌詞の中で、「教科書は現代史をやる前に時間切れ どうしてそうなっちゃうの」と書いたように、歴史は現在から過去に下っていった方がいいのではないか。原始時代からより、現在から。そして「なぜそうなったの」とつないで過去に向かう。
ちょっとづつ、一人一人の冷静な努力で、生活の場面で、自分も煽り煽られない努力をしなければならないのだろう。