25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

大きな蛇が這っていった

2014年11月10日 | 文学 思想
 その家は僕が17歳の時に建てた家で、すでに47年。父が死んだときで37年の歳月がたっていた。昔は畑だったそうで、土地の所有者が田んぼと畑を切り売りしたのだった。あの大きさの蛇だったら、相当長く生きていたのだろう。縁の下にでもいたのだろうか。何を食べていたのだろう。そんな場所で生きられるものなのか。
 大きな病気になって病院に入ったり、出たりの父を介護したのは母であった。今夜が危ない、というときに、母にも病室に来るかと尋ねると、「行かん」と言う。「もうわかっとる」と言う。

 僕は病室で父の呼吸がだんだんと止まっていくのを見ていた。まだしばらくは大丈夫だと思い、ついうっかり眠ってしまった。、「榎本さん、榎本さん」と言って僕の肩を叩くものがいた。ふっと目を開けると、担当のお医者さんだった。「たった今、亡くなりました」と言った。穏やかな死に顔だった。それからしばらく外にだされて、看護婦の方々がなんやかやしていた。

 僕は父の死の瞬間も見定められず、よほど父とは縁が少なかったのだな、と思ったものだ。
 父は僕が幼い頃、中学時代ぐらいまで、遠洋のまぐろ漁船に乗っていて、あっても年に2回ほどのものだった。姉と僕と母、隣には祖母と祖母の孫(僕には従兄)が二人住んでいて、そんな中に父が帰ってくると休みの一ヶ月ほどは僕にとっては辛いものだった。第一に、食事がその帰った日から違うようになる。冬だと「水だき」などを父は好んで食べていた。僕にとってはそのころは「水たきなどという鍋」の美味しさはわからなかった。邪魔くさい親だと思ったものだった。もうひとつは夜になると隣の部屋から聞こえてくる父と母のひそひそ話だった。耳栓をしたくなるほどで、枕に片方の耳を当てて、眠ってしまうまで辛抱していた。

 父とはほとんど会話をすることはなかった。大人になって父の船でよく「イガミ」やら「カサゴ」やら「カツオ」を釣りに行くぐらいのことで、父と何かについて話し合ったり、僕から何かを報告するということもなかった。
 父は無口であった。
 55を過ぎると、年金もあるせいか、沿岸で釣りをしたり、餌買いの仕事を頼まれたりしてのんびり暮らしていた。

 母は父が亡くなってから、ひとりでこの家に住んだ。しばらく経って姉と僕ら夫婦と母で食事をしたとき、「介護するのもたいへんだったやろが、まあはよう逝ってくれとは思わなんだ?」と僕が聞くと、「なに言っとるん。生きがいやったわい」と言った。僕は、「へえ」と思わず声にだしてしまった。母は49日だ、100日だ、3回忌やと、さらに墓参りはしきたりどおりきちんと行っていた。

 蛇がでていってからもこの家はなんの不運もなく、寂しいだろうが気楽なひとり暮らしを母は送っていたのである。そして事故から回復したあとも今はやや不自由ではあるが、以前と変わらぬ暮らしに戻っている。母が変わったことと言えば、「不安感」があまり意識に昇ってこないようである。特に津波の心配をしていたが、それもあきらめがついたような。

 時々、あの蛇のことを思い出す。思い出すたびに本当にみたのだろうか、あれは白昼夢だったのではないか、と朧げになってくる。今は仕事をしながら母の見守りや買い物をしているが、仕事が終わると僕は自分の家に戻る。母がいよいよ寝たきりになってくるとか、認知症が発生するとかとなったら、病院にも相談はするが、この家に、ついに46年ぶりに寝泊りすることになるかもしれないと思うと、あの蛇が思いだされるのである。

九州場所の女

2014年11月09日 | 日記

 大相撲九州場所。西の花道に毎日着物を替えて観戦している女性がいる。毎日同じ場所に座っていて、西側の関取をテレビカメラが映し出すと必ずいる。意識して座っている。姿勢もよく、だれかれの話をしているのでもない。気になってしかたがない。水商売の女性のように見える。映っていないと「あれトイレにでもいったのかな」とまで思ってしまう。大相撲も楽しみだが、九州場所はひそやかにこの女性を見るのも楽しみである。

 今日が九州場所の初日なので、彼女もきっといるだろうと思ってテレビのスイッチを入れた。ところがまだ4時45分の時点ではその女性はいなかった。いつものの舛席には顔は違うが同じような着物を着てすっと座っている女性がいる。「今日はあなた行きなさい。姿勢は崩さないでね。ゲラゲラ笑ったり、人と話をしたらだめよ。いいわね」とか言って送り込まれたのだろうか、などとつい思ってしまう。館内は暑いのか、その女性は扇子を出して、風をかけていた。
 たいしたもんだと思う。必ずや明日、明後日でてくることだろう。ネットで調べてみた。するとこうあった。やはり質問者が多いのだ。写真までも出ている。

 「彼女は、福岡国際センター近所のビルに小規模個人経営店『スナック田じま』を構えるオーナーママで、田島恵美子さんその人です。年齢は34歳ということで、さしずめプチ熟女といった按配です。知り合い若しくはお得意客と歓談を交えつつ観戦している様子が映し出され、毎年のことながら西側の所定の枡を確保しています。著名人で田島ママと顔立ちの雰囲気が似ている美人に、女優の笛木優子やシンクロ銅メダリストの小谷実可子がいます。」

 ネットで騒がれるのだから、大層店の広告としてはいことだろう。僕だって福岡に行けば必ずいくことだろう。
 僕はこんな風に大胆に商売を仕掛ける経営者が好きなのだろう。
 おそらく今日はネットの質問箱でも、「どうして今日は来なかったの?その代わりのように若い女性が二人いたけど」なんて、質問が来ているのだろう。

 さて、今日は図書館フェアがあって、図書館側からみて、もう処分しなければならない本を無料で10冊までもらえる日だった。
「私の一冊」というコーナーもあって、僕が書いた「夜の光に追われて」の感想文も掲示されていたので、写真も撮りたかった。

 すると、「ブッダのことば」という岩波の文庫本があり、数多い仏教書のうちで最も古い聖典である。これには興味をもった。訳文がでてから出版時で26年。訳文はいっそう読みやすくなっているということだ。仏教というのはお坊さんがブツブツと行っているが何を意味しているかもわからないし、いろいろと経典があるから、ややこしい。ブッダそのものの言葉を残しているものが読みたかった、ということもあって、それを頂いた。さらに驚くことに、早坂暁の「花遍路」の脚本本あった。このドラマはよかった。再放送をしないか、いつも待ちに待っているのだが、NHKはまだしない。「夢千代日記」はしたというのに。

 そんなこんなで、のんびり喫茶店で本や雑誌や「堀ちえみ」の「青春の忘れ物」まで聞いてしまって、良い日であった。

P.S. テレビ画面をよくよく見ていると、九州場所の女は今場所は東と西の間のさらにもっとテレビに映る場所に正坐していた。(ような気がする)。間違っているかもしれない。彼女はわざと場所を出世させたのだ。妄想ですよ。妄想。


死ぬときは納得していたい

2014年11月09日 | 文学 思想
 エボラ出血熱の致死率は70%。それに対する方法は、免疫力をつけておくこと。つまり、ストレスを溜めない、暴飲暴食を慎む、うがいとアルコールでの手洗い。アフリカから起こったこのウィルス感染患者が増え続けている。

 バリ島のような観光地に広がったら、バリ島はアウトである。
 僕はこれまでバリ島で2回の爆弾テロと鳥インフルエンザで観光客が落ち込んだことを身をもって知っている。接触する職業は全部だめになるだろうから、バリ島のエステ業もアウトだろう。やれやれ。

 2002年と2004年の爆弾テロではひどい目にあった。やっていた雑貨店とレストランとエステサロンは、半年にわたる道路閉鎖で休業となった。爆風でガラスも割れた。その時はスタッフの一部を大阪に移して、この事業を継続させた。2回目の爆弾テロで、これはいかん、とレストラン、エステは閉鎖し、エステの部門のスクールのみ、サヌールに移した。僕は「からだとこころ」のことを研究した。エステテシャンはからだのことを知らずして美容だ健康だとやっている。そこをなんとかしたかった。彼女たちがまともな知識と身体操作を知っていれば、彼女たちから伝わっていく。

 おかげで、若い人たちと多く知り合った。それが僕のアンチエイジングだったのかもしれない。とにかく15年は研究に研究を重ねた。そしてそろそろ引退する時期がきている。概ね達成した感がある。僕には次にしたいことがあるのだ。しかしそれに才能があるのかどうかはわからない。やってみないとわからないのだ。これもやれやれだ。でないと納得した死に方ができないような気がする。

小説に没頭している

2014年11月08日 | 文学 思想
村上春樹の小説を続けて読んでいます。昔、ノルウェーの森を読んで、悲しい青春の話だぐらいにしか思っていませんでした。ところが1995年の近代都市が我時に崩壊する阪神淡路大震災があり、すぐにオウム事件が起こりました。
 これを機に村上作品は変わったように思いました。「神のこどもはみな踊る」でとても不思議で、よくわかる短編集をだしたのです。村上春樹が外界の事象にコミットし、現代社会という背景にも裏打ちされたものとして、僕はふしぎな感覚で読み、感銘を受けたのです。以後、彼の短編集が楽しみになりました。中編の「アフターダーク」も読み、「海辺のカフカ」も読みました。すふと長編になると、とたんに僕には退屈に感じました。カフカ少年のような人物にも人間くささがなく共感しません。
 出版社の広告がうまいのか、彼の長編小説がでるたびに大騒ぎです。
 それで、またおお騒ぎで、「1Q84」がでました。これも無視していました。2年経って、なぜだったか忘れましたが、図書館で目にとまり、読んでみようかと思ったのです。
 青豆という女性は魅力的です。天吾という男性は毎度おなじみの受動態のような孤独な男ですが、セックスだけは事足りる、変な女にもてるいつもの 村上春樹の主人公です。
 オウム真理教事件が背景にあり、小説は深化し、ストーリーも格段に面白く、謎をかんがえる余裕もなく興奮して読みました。
 1年後、また読み返してみました。すると何倍も面白いと思い、謎について考えることもしました。
 こうなれば、彼の長編小説を全部読んでしまおうと思ったのです。新しい順から遡っていく順で読んでいます。
 村上の小説の吸引力は女性にあります。僕は前にまちがったことをかきました。
「1Q84」では青豆と天吾がたがいに牽引しあったのだ、と言いましたが、今は青豆が引っ張りあげたのだと思います。「ねじまき鳥クロニクル」を読み、
 「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読み、ノルウェイの森を再読し、途中で、新刊の「女のいない男たち」を読み、今、「羊をめぐる冒険」を読んでいます。どのくらいの質量があるものか、量りたい個人的な趣味というものです。そして女性が牽引しているのはどれも変わりありません。男性像にやや魅力に欠けるのも、僕にとっての特徴です。
デビュー作の「風の歌を聴け」まで、あと3作品です。


TVではだれも詳しく語らない

2014年11月07日 | 社会・経済・政治
 日銀黒田総裁の第2の「バズーカ砲」について、テレビニュースの解説は「プラスの面とマイナスの危険性」についてぼんやりいうだけである。ルビコン河を亘ってしまった日銀は限りのない、永久に国債を買い続けるのだろうか。どこかでストップの匂いを感じたら、投資家は先に逃げるのではないか。すると日本の国債の価値は下がり金利が上がり、政府の返済はいっそうたいへんになるのではないか、そしてハイパーインフレがくるのではないか。ハイパーインフレは借金漬けの政府にとっては借金目減りとしてはいいが、と僕らはそう単純に思う。

 株をもてる余裕のある人が一時的にもさらに収入を増やす。その人たちがものを買う。それが地方にまで行き渡り、消費が上向く、輸出企業の社員給料は上がる、だから消費は上向く。
 異次元の量的緩和を発表する前の民主党政権の頃からじょじょに経済は上向いていた。株価もあがりつつあった。衆議院選挙でムードがアベノミクスとなった。それでいっそう株価があがった。給料も一部の大手の会社で上がった。輸出企業は為替差益で潤ったが、輸出量そのものはむしろ減少した。消費税が上がった。そしてまた経済が下降し始めた。量的緩和をしたというのに。

 株価が上がればよいことだという考え。公共事業にお金を使えば、これが経済政策だという考えは三時産業や四次産業の日本社会ではあまりにも古すぎると思うが、TVコメンテーターは「バラマキをやめて」とか「株価があがったのは評価できる」せいぜい「危険な綱渡りである」ぐらいのことしか言わない。
 対抗する案がないのだろうか。なぜ、このバズーカ砲によって日本の経済はよくなり、いつまで借金をつづけ、いつになったら借金が返済できるのか、そんな道筋は見えてこない。現在、借金が苦しいために、年金を下げ、健康保険を上げ、消費税を上げ、高速道路を上げ、諸物価を上げている。

 すでにもてるものはもったこの日本社会で内需が拡大するというのも不思議な話だ。空家は東京だけでも20万件あるほどなのだ。

 銀行はカネ余りの状態だから中小企業にもお金を貸すのだろうが、それは返さなければならないお金だ。一時しのぎはただ倒産への時間を伸ばすだけだ。輸入企業は今、目もあてられない状態だろう。

 TVも新聞も、こういう経済解説をわざと避けているように思える。大衆の心理を思っている
のかもしれない。黒田総裁の放つ「バズーカ砲」の短期的、中長期的な推察を詳しくやってもらいたいものだ。

 福島原発事故のときでも政府は人々の心理を思い測り、嘘を言い、隠した。この経済問題も本当はにっちもさっちにもいかなくなっていて、原発事故と同じようなことをしているのかもしれないと勘ぐってしまうのは僕だけだろうか。

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25時間目はヤプログより移転したものです。2004年から2014年11月5日までのものはこちらです。

 

世界の終りとハードボイルドワンダーランド 読むヒント

2014年11月06日 | 文学 思想
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読み終えました。相当昔の村上春樹の小説です。
 150ページぐらいまでは何がなんだかわからないため、読むのをやめてしまう人が多いように思います。ですので、この本は、
「世界の終り」の章と「ハードボイルドワンダーランド」の章が交互に進行していくため、毎日2章ぐらいづつ読んでいきました。
それで、半分まできても面白くなかったら、やめればよいのだと思います。
 なぜ「1Q84」のよういすべりだしが緩慢なのか。
 ちょっとヒントでもあればすべりだしからおもしろく読めそうです。
 そのヒントを書いておきます。「世界の終り」の章は「主人公の無意識の核」の世界です。私たちには自分でも気がつかない無意識というものがあります。文学とは無意識世界を書く事といってもさしつかえないかもしれません。その無意識にはさらに核があると、村上春樹は考えるのです。自分の全く知らない世界です。その世界にあるものは全部実は自分の一部です。壁も、川も、森もです。主人公は自分のことを「僕」と言っています。
 次に「ハードボイルドワンダーランド」の章はへんてこな現実の世界です。僕と同じ主人公は今度は「私」となっていますが、同一人物です。

 最初にこのことを知っていればおもしろく進んでいけそうです。

 村上春樹の作品はよく言われるパラレルワールド」が多いので、はじめ、わかいづらいところがあります。謎、謎で進んでいくのです。「ねじまき鳥クロニクル」もそうでした。この場合は無意識の中で別の無意識に壁抜けする物語でした。それが冒険譚のように語られていきます。

 今、「ノルウェイの森」を25年ぶりぐらいで再読しています。すると、「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」ともつながっていきます。ノルウェイの森は「1973年のピンボール」ともつながっていき、「風の歌を聴け」ともつながっています。

 村上春樹の小説には「名セリフ」と言えるものも多く、思わず付箋をしてしまいます。なんども読ませる、読むたびになにかがわかってくる。こんな小説は夏目漱石とか、太宰治とか日本では数少ないと思います。
 おそらくこのブログでもくどく村上春樹がでてきそうになりそうです。

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これまではブログはこちら

健全なところからでてくる芸術があってもよい

2014年11月06日 | 文学 思想
 細胞のひとつひとつに記憶がある、と言われるようになった。iPS細胞の研究が応用されてくるにあたって、ぼんやりながら、細胞のもつ奇妙は世界が浮かびあがってくる。

 ところがほんの日常的に言えば、僕には父と母がおり、その父母の上に両父母がおり、さらにどんどんさかのぼっていけば、生命の誕生のところまで切れることなくいくはずだ、ということは簡単に理解できる。
 精子の数は一生分で1兆から2兆匹と(匹というのだろうか?),卵子の有効卵子数は400個であり、僕がこの世に誕生したのは、脈々と途切れることなく続いてきた生命がつまり一兆匹の精子のひとつと400の内の卵子のひとつが偶然のように合体したからである。なんという不思議さだろう。卵子にも記憶があり、精子にも記憶があることは科学の立証などを得なくても当然すぎるように思える。

 僕の先祖の誰かが、子を作ったのちに早々と死んだものもいれば、戦いで死んだり、飢餓で死んだりしているかもしれない。人を殺しているかもしれない。楽しい日々もあれば辛い日々もあったに違いない。
 40億年にわたって受け継がれてきた生命の記憶は僕らの脳のどこかにあって、それは開けられることなく沈んでいる。おそらくその殻の細胞のひとつ、ふたつ壊れ、開いてしまった状態が「サヴァン症候群」ではないかと思う。彼らは、ピアノを弾いたこともないのに、突然弾けてしまったり、普段数は数えられないのに、上空からビルを見て、絵を描けば、窓の数は全く同じであったりする。

 この深くて遠い記憶を閉じ込める殻(あるいは倉庫)はしっかりと閉じられているはずだ。しかしこの殻(あるいは倉庫)は僕らの無意識の世界に渦を巻くように浸潤しているか、放射状のように照らしているか、いずれにせよ、人格と呼ばれるものに、影響を与え続けている。

 母との関係が悪く、母の振る舞いや言動がトラウマとなり、悩み、荒れ、時には母を殺し、あるいは遠くに離れる人。あるいは共依存してしまって生きていく人、そんな小説やドラマは多い。

 母の上にはまた母父がおり、その上にまた4人の父母がいる。母だけを責めることもできず、責めるならば延々と延長して生命の起源にまで責めなくてはならないことになる。どこに到達するのか。

 僕らが「現在を生きる」ということで、現在だけを見ているだけではこの問題は解決できず、乳児や胎児の頃までさかのぼっても解決できず、いっそ「大過去」まで意識を遡らせることが必要のように思える。心の問題がある人はいっそのこと、生物の歴史にまで問題意識を遡らせる。そしてまた自分の終わりの時点、(つまり未来ということだが)から現在を照射してみる。そこまでの幅のある観念が必要なのではないかと思う。

 何の不満もなく、両親は仲良く、経済も安定して、両親から慈しまれて育った人も多いだろう。歪みのない、健全な人も多くいることだろう。

 ほとんどの物語は「歪み」があって、始まっていく。そうではなくて、歪みのない健全なところから始まっていく物語もあってほしいものだといつも思う。はっきり言って、もうそんなドラマや物語には辟易している。

 芸術というのは「歪み」から生じるものだ、という常識はそろそろ破られてもいいのではないかと思う。
 なぜなら、40億年の歴史から脈々と長らえてきたたった一人の孤独な自分だからだ。そして人間は乳児期の頃に一度それまでの閉じてしまいリセットするようにできているからだ。それはひとつの防御本能であるとも言える。僕らの殻。ひしめく記憶の倉庫。これが歪みの芸術へと昇華されるならば、正しい芸術といおうか、健全な芸術といおうか、そういうものもあっていいはずだ。
 
   

25時間目はひきつづき goo のブログで継続します

2014年11月06日 | 文学 思想
 2005年4月から続けてきたヤプログでのブログをgoo に引っ越すことにしました。海外からの迷惑コメントが多く、その削除作業に時間がとられます。それでやっとブログを引越しました。
 以前のブログはここから

どうぞよろしくお願いします。