エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

あの熱狂は何だったのだろうか・・・政権交代と言う熱病

2011年02月13日 | 日記
確かに時代は閉塞感に満ちていたのだった、と思う。
自民党の長期政権に辟易していたのは事実であろう。



マニュフェストと言う「呪文」も耳触りが良かった。
新鮮に響いた。

公約という言葉は破られるためにあったけれど、マニュフェストは何かやってくれそうな気分を持たせてくれた。
こうした気分に「行政改革」というセンテンスが絡まって最強の雰囲気をかもしだしてくれたのだった、と思う。



ぼくは総選挙の最終日、池袋西口にいた。
誰に頼まれたわけでもないけれど、民主党が西口で打ち上げると聞いたからであった。



集まってくる群衆は、確かにぼくのように動員で集まった訳ではなく自然に足が池袋西口に向いた、そうした気分であった。
もちろんかなりの数は、動員であっただろうことは論を待たないけれど。



マスコミもカメラの砲列を敷いた。
照明が煌々としてそこだけがまるで違う世界のようでもあった。



政権交代の幟も勇ましく、気分が次第に高揚したものだった。
ご丁寧に「準備完了」とまで書きこんでいる。

これは今や明らかであるけれど「嘘八百」である。



結果は政権交代が実現した。

だがしかし、いま思うのである。
管内閣の支持率が10%台にまで落ち込んだと言う。

来年春の統一地方選挙の候補者の民主の看板返上が続いているとも言う。
民主党公認では闘えないと、候補者の誰もが考え始めているのであろう。

それでも、管内閣は政権に居座っている。
ここまで国民が覚めてしまっているのに。

かつての自民党内閣とまるでうり二つでる。
あの熱狂はなんだったのだろうか?
と・・・。

マニュフェストは散々に破られ、管総理大臣には、自信の欠片すら見えない。
おどおど、としている。

答弁の最初は100%「まあ・・・」と始まる。
「ある意味で・・・」と乱発する。
なんの意味だよ!
と腹立たしい。

政策に「ある意味」も「どの意味」も「その意味」も「この意味」も無いではないか。
政策の意味は一つでなければならないのではないか。
幾つも解釈のある政策なんか、政策では無いではないか。

だから打つ手に「ある意味」で迫力が無いのである。

外交も責任政党とは思えない対応であって、管総理の国際関係に関する発言はあまりにも国及び国民に対して無責任である。
もしも選挙があったら、ぼくはどこの政党に、誰に投票するだろうか。



勿忘草である。
過日思いついて買い求めた。

  忘れないで
  過ぎたあの頃を
  夢のような
  二人の思い出

初心を忘れず、自らの矜持(きょうじ)をかけて国を運営する政治家の登壇を望みたいものである。

だがしかし、議会が自分の言いなりにならないからと言って愛知のような無茶はいけない。
これは時代閉塞を破ると言う大義名分を掲げても「ファシズム」の台頭を容認する事になりかねない。

「排外主義」の思想である。

自民党への先祖帰りは嫌だ。
彼らは党利党略の政治しか出来ていない。

自民党と組む公明党も相手にできないし、歯牙にかける価値は無い。
公明党はその生い立ちに戻り、解党して後、深い宗教的思索の時に入れば良いではないか。

いま一度問いたい。
「あの熱狂は一体何だったのだろうか?」

すまない・・・既にぼくのパッションは消え失せつつある。
この記事が、ぼくの最後の政治的発言である。






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