エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

松尾芭蕉「おくのほそ道」への旅立ち

2011年02月24日 | 日記
松尾芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文が「おくのほそ道」である。



この旅立ちの場所が、清澄庭園のすぐ傍にある「採荼(さいと)庵」である。

場所としては、清澄通りを門前仲町方向に向かい、深川江戸資料館通りを過ぎる。



仙台堀川にかかる、この「海辺橋(うみべばし)」を越えた地点である。



松尾芭蕉である。
与謝蕪村描く芭蕉像である。

月日(つきひ)は百代(はくだい)の過客(かかく)にして、行(ゆき)かふ年も又旅人也。
舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口をとらへて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。
古人も多く旅に死せるあり。
予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂白の思ひやまず・・・。

「おくのほそ道」の書き出しである。

「月日(つきひ)は百代(はくだい)の過客(かかく)にして、行(ゆき)かふ年も又旅人也。」
実に味わい深い一文である。



あたかも芭蕉が旅立つ瞬間を感じさせる彫像である。

ぼくは大学一年の時、この「おくのほそ道」を学んだ。
芭蕉自筆のコピーで学んだのだけれど、このルートに憧れたものであった。



3月27日 明け方、採荼庵(さいとあん)より舟に乗って出立したのである。
この採荼庵の横は仙台掘川である。



ここを出でて、千住で船を下りて矢立の初めを詠んだ。
いわゆる「おくのほそ道」の発句である。

     行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪

8月21日頃、大垣に到着。門人たちが集い労わったとされる。
9月6日 芭蕉は「伊勢の遷宮をおがまんと、また船に乗り」出発する。

結びの句

     蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ行く 秋ぞ

である。

ぼくがここを訪れた時、川沿いの桜のつぼみが赤く綻びかけていた。
たった1本の桜の木だったけれど・・・。
その赤に、ぼくの心も染め上がった。



きっと今は咲いているのだろうと懐かしく思うのである。



間もなく桜の季節である。






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フクジュ草とレンギョウの花の鮮やかさよ

2011年02月23日 | 
福の寿の草と書いて「フクジュソウ」である。



ヒマラヤ杉の枯れた葉が敷き詰められている。
細く鋭いけれど、温かな褥(しとね)のようである。



不思議と黄色のフクジュソウと杉の枯葉のコントラストが季節を演出するのである。



竹の囲いと庭石の影が陽だまりを演出しているのだ。
ぽかぽかとした陽だまりで、ぬくぬくと花開いている。



近くの小料理屋の玄関にレンギョウが挿されてあった。
口細の壷である。

下の赤い花はキリシマツツジである。
いずれも、春の訪れを感じさせる花である。



黄色の花が目に優しく映る頃、季節は温かさへと移ろうのである。
お隣の国、韓国・ソウルのハンガン沿いにこのレンヒョウが咲くころ、春本番を迎えるのである。

ハンガンの氷が溶け、人々はハンガン沿いの公園に出かけるのである。



梅も香しく、街角に春の魁とばかり咲き始めるのである。
心も弾むし、目にも楽しい春が近付いている。





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清澄庭園を歩く・・・銀色の池面に感動する

2011年02月22日 | 日記
さきほどパンダが上野動物園に到着した。



祝・パンダ到着!

さて・・・。
清澄庭園は元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる。
享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、過日紹介した六義園と同様、明治11年に岩崎弥太郎が買収した庭園である。



入口の門である。



池の周囲に築山や名石を配置した回遊式林泉庭園で、東京都指定名勝に指定されているのである。



池には、鴨が羽を休めている。
水温む頃シベリアに戻るのであろう。



時々彼らはユリカモメの襲来を受ける。
海が近いのである。



松の枝にダイサギがひっそりと蹲(うずくま)っていた。
周囲を睥睨(へいげい)しているかのようである。



だがしかし、鴨は楽しげに水と戯れている。
少なくても、シベリアよりは水は温かい筈である。



鴨がかき乱した水面は、何時も違った模様を描く。
それを見ているだけで時間が流れて行く。



涼亭という東屋が水上にその屋根を伸ばしている。



1909年(明治42年)に建てられた数寄屋造りの建物である。



池の面に切れ味鋭く映っている。
滑らかな水面の時には、そのままに・・・泡立っているときにはその泡の面に。

泡立つ池の面。
銀色の池と建屋である。



この涼亭の横のサンシュユの花が黄色く膨らんでいる。



手前には「松尾芭蕉」の句碑が移されている。

   古池や 蛙とびこむ 水の音

である。
この清澄庭園と芭蕉に関わりがある訳ではないけれど、近くに芭蕉が結んだ庵がある。

改めて紹介しようと思っているのである。






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いまが見ごろ・・・クリスマス・ローズの花

2011年02月21日 | 
クリスマス・ローズの花は、実はガクの部分である。
この咲き方、ブーゲンビレアと同じである。



最近は、ハイブリッドの花が出回っている。
卑弥呼と称するクリスマス・ローズもあって、投機対象ともなっているのだという。
確かにガクが裳裾のようになっていて、見るからに巫女でもあった卑弥呼のイメージである。

花屋の店先では「写真お断り」の看板が垂れ下がっていることもある。



中国の四川省から雲南省にかけて自生している1種を除けば、15の原種の全てが、東ヨーロッパからバルカン半島からトルコ、シリアに自生している。

人が手をかけて慈(いつく)しんだ花である。



この花は「雪おこし」とも言う。
雪を破って花開く・・・そんな時期に咲くからであろうか!

美しい別名である。



この花は、大概下を向いている。
手鏡を持って鑑賞すると、楽しいのである。



花言葉は、「追憶」
     「私を忘れないで」
     「スキャンダル」
     「私の不安を取り除いてください」
     「慰め」である。

少しばかり暗いイメージを醸し出す花言葉である。
この花は、あるお寺の境内に咲いている。

竹矢来の向こう側に咲いているのである。



このお寺さんである。
山門をくぐって、すぐ左側に「無縁仏」が積まれていた。



寂しい景色である。
縁故者がこの寺に来なくなっていつしか「無縁仏」になってしまう。

人の運命だとか、宿命だとか、あるいはまた輪廻を感じさせるのである。
このクリスマス・ローズ、夏は休眠状態となり根は活動を休止し、呼吸しているだけの状態となるのである。

クリスマス・ローズ・・・妙にメリハリがあるのである。






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バンコク・NOW「洪水・・・人が溢れる街で」

2011年02月20日 | ポエム
バンコクの街角でぼくは、めくるめくような連想に捉われたのだった。



車が溢れ沸騰する街角で、ぼくは排気ガスに噎せかえりながら瞑想した。






        洪水・・・人が溢れる



      人が溢れる
      洪水が前にある
      自転車やバイクや
      それから
      人いきれや排気されるガスの
      腐った臭いが充満している街角で
      ぼくはきみと
      気の遠くなる口づけを交わしたのだった
      洪水の人の波は
      ぼくときみの二人には気づくこともなく
      通り過ぎ
      流れ去った

      ぼくはいま
      きみと手を繋がなかった事実に
      途方もない後悔を抱きつつ
      身を委ねている

      きみの手の甲や指が荒れていて
      悲しくなったとき
      きみの二の腕の思いもよらない柔らかさに
      埋もれてしまいそうになったとき
      きみを抱きしめた腕が滑らかさに
      震えたとき
      きみの項に口づけして甘さを感じ
      うっとりとしたとき
      いつまでも時間を忘れて唇を
      重ね続けたとき
      繰り返し繰り返しきみのくちびるを
      吸いつづけたとき
      いつのまにかきみの胸の膨らみに
      手がのびたとき

      きみはいやいやをしながら天使になって
      ぼくを包みこんだのだった

      この国の精霊たちが
      ぼくときみを引き離しても
      ぼくはきみを愛したことを
      忘れない
      ずっしりとした重みをもって
      ぼくはきみの存在と
      きみを抱いたときの感触を
      忘れることはない

      きみと二人で渡った
      川の流れが尽きても
      ぼくはきみを愛したのだ

      川が
      思いでという孤独を流し去っても
      きみはここに留まる
      ぼくの記憶というここに

      人が流れ
      それが洪水となっても
      ぼくはきみの思いでの中に留まり
      流されることはない

      いつまでもきみを抱き続けるのだから






だがしかし、ここはクルン・テープ「天使の都」である。
涅槃仏が口角を上げてぼくを見下ろしてほほ笑んだ。



きみを愛したのは間違いでなかった・・・と語りかけてくる。
天使の声で。
そう!笙の音色で云おう、ぼくはきみを愛したのだ。






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