エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

石神井公園へ!

2017年09月25日 | ポエム
孫の太鼓デビュー以来、ゆっくりと石神井公園に吟行に出かけたのであった。
良く晴れて、石神井池も三宝寺池も煌めいていた。
池の面を渡る風は、涼やかであった。

木洩れ陽を愉しむ吟行となった。
西武線石神井公園駅下車、石神井池を経て三宝寺池へと至る。



その道すがらが、誠に楽しい。
秋の一日であった。
石神井池では、ボートが愉しめる。
手漕ぎボーともあるし、足漕ぎボートもある、



石作りのポーチ型架け橋もあって、変化に富んでいる。
三宝寺池は、緑が滴っている。
まだ、夏の残滓が豊かであった。



ここは三宝寺池である。
野鳥が多いけれど、鵜も多いのである。
この池は、湧水が源の一つであるけれど水質はあまり宜しくない。







「湧水や光の溜まる注ぎ口」







三宝寺池の周りは、基本木道が張り巡らされている。
野草類も多く、素人カメラマンも多いのである。



帰路、石神井池で秋の気配をしっかりと捉える事が出来た。



桜の葉、である。
緑色の池の面に映えている。
気持ちのよい吟行であった。


      荒 野人

初秋の六義園

2017年09月24日 | ポエム
朝食後、出かけるとも無く出かけたのであった。
とにかく、ドクトルに云われているから歩かなければならない。
運動する、ことを求められているのである。

昨日は、ふと思いついて六義園に出かける事としたのである。
山手線の駒込駅から、徒歩で概ね10分。
しっかりと歩いて、到着。



いつでも、この緋色の唐傘は差し掛けてある。
風情の演出としては、マンネリだけれど間違いは無い。



今まで、幾つかの句を賜った。
句材の宝庫である。



長い、馬場のような一本道。
基本、あまり人が歩かない。
ぼくは、歩く事にしている。



ましてや、秋思に季節である。
白水引を愛でつつ歩くのである。







「さざ波の立って広がる秋の池」







この庭園は、柳沢吉保が将軍かtらの拝領の下屋敷である。
回遊式庭園の呈、である。
池を中心とした、設えである。



船遊びも楽しかったであろう。
ユラユラと浮島を回るだけでも、結構愉しそうである。
まさしく大名遊び、大尽遊びである。



         荒 野人

実柘榴

2017年09月23日 | ポエム
花柘榴は、葉を残したまま紅葉への移行期にある。
実柘榴は、静かにしずかに成熟しようとしている。
実りの秋、への移行期にあるのだ。



この柘榴、公園の隅にあって誰も身を獲ろうとしない。
確かに・・・柘榴は食べるのが面倒くさい。

そうだからと言って、折角食べ頃になったと云うのに収穫しないのは礼を失する。
今年は、チャリンコで行って幾つか頂こうかと思っている。

面倒だけれど、ぼくたちが幼かった頃の「おやつ」であった。
あの甘酸っぱい赤い実。
あのルビーのような透通った赤い実。



郷愁を覚える秋果の一つ、である。
かつて実家の庭に、一本あった。
クネクネして上へと伸びる柘榴の木は、極めて個性的である。







「実柘榴の碇下ろせる廃家かな」







実柘榴の季節は、無き父と母を思い出す。
そういえば、彼岸の季節でもある。



       荒 野人

柿の秋

2017年09月22日 | ポエム
路地植えの柿の木、である。
この木を植えられた一人暮らしのおばあさんは、ついこの間亡くなった。



お孫さんが生まれた時に「植えたのよ!」そう云って毎年収穫していたものだった。

甘い柿である。
ぼくも、毎年頂いた柿だ。

皮を剥き食べ易く切り分けると、ゴマ模様が入っていて食欲を誘った。



娘さん二人に看取られて、おじいさんと建てた家で亡くなられた。
一人暮らしだったけれど、最後はキチンと家族が看取った。
幸せな最後だったであろう。



何故か、シンミリとしてしまった。
秋の成せる業、である。







「熟るるまで指折り数ふ柿の秋







今年も収穫できた。
おばあさんを偲んで、頂く事にしようと思っている。

そうそう、この柿の木の葉は天麩羅にして頂いたものだった。
若い葉、である。
誰も剪定はしない。
それだけに「撓わ」に実る。

春と秋と、それぞれ愉しませて頂いた。
柿の秋、である。



         荒 野人

小楢の実

2017年09月21日 | ポエム
まだまだ青々としているけれど、小楢の実が目立つようになってきた。
昨日が彼岸の入り、明日には秋分の日をむかえる。

どんどん秋が深まっている。
そう云えば、彼岸花もそろそろ終わりだ。

まだ彼岸には行かないぞ!
と、強い気持ちを持ちつつ俳句を詠んでいきたいものである。

今日は、随分長い時間を歩いた。



見上げたら、小楢の実が光っているのであった。
楢の実と小楢の実を総称して、団栗と云うのである。
円錐形の先の少しばかり尖った実生、である。

マテバシイの実は、団栗とは云わないのである。
いまお見せしている実生こそが、団栗である。







「小楢の実二つだけ寄り添ふている」







秋を感じつつ、風に吹かれたのだけれど・・・。
秋の蚊に噛まれてしまった。

今も尚、痒くてならない。
秋の蚊は、なかなかにしぶとい。

噛まれた痕も、なかなか消えない。
明日は、秋の蚊で一句といこうかな!


       荒 野人