昭和20年8月15日正午、私たちは全員本堂に集められて緊張して待っていた。正午の時報に続いて放送員(アナウンサー)のこれから重要な放送がありますという声に続いて、放送受信機から「君が代」の演奏が聞こえた。私たちは正座して姿勢を正した。立っていた先生方は気をつけの姿勢をとった。それから天皇陛下の玉音放送が始まった。
私はこの放送を学童疎開先の新潟のあるお寺で聞いた。
この日は、朝からからりと晴れわたったよい天気であった。そのために本堂の中はかなり熱かった。児童は全員短ズボンと袖無しシャツだった。それでも熱かったのに汗をかくことはなかった。それほど緊張していたのだ。
玉音放送は天皇陛下の肉声だった。天皇陛下の声は震えているように聞こえたがそれはいつもの声であったらしい。国民学校の三年生の私たちにはお話の内容は理解の外であった。
しばらくすると、先生方初め大人の人たちは大きな声を出して泣き始め庫裏の方へ走って行ってしまった。それで私たちは大変なことが持ち上がったと感じた。それきり先生たちは本堂へ戻ってこなかった。それで班長の上級生が指示を仰ぎに行った。しかし先生たちは、個室に入って庫裏には誰もいなかったという。
一人の先生が出てきて、解散して各自責任ある行動をとるように指示した。私たちは何故か戸惑った感じになって、それぞれ自分の考えにしたがって本堂から出ていった。私はお寺の裏の方へいった。そこはいつも私が夜星空を見に行くところであった。やがて同級生が数人来て私の脇に座った。だけど誰も話をしようとしないで黙っていた。私と同じように事態を理解していなかったのだろう。やがて上級生がきた。その人たちに何が起きたのか聞いた。上級生の人も明確には理解していなかったが、戦争が終わったらしいと話してくれた。
午後四時頃になって、双発の飛行機が低空で飛んできた。私たちはどうしようかと身構えた。飛行機が頭上に来ると飛行機から沢山の紙が撒かれたのが見えた。私たちは道に落ちているものを絶対に拾ってはいけないと教え込まれていたので地上に落ちたその紙を手に取らずに落ちた状態で読んだ
そこには戦争が終わったと大きな文字で書かれていた。私たちはデマだと思って信用しなかった。しかし誰もが疑心暗鬼になっていた。その夜から灯火管制をしないでよいことになった。夕食後、夜になって裏山に行くと眼下に見える村の家々に電灯が灯っていた。こんなに家があったのを初めて見た。
一部の子は戦争が終わったのならこれで東京へ帰ることが出来ると喜んでいた。しかし実際に東京へ帰るのは10月の末日になってしまった。それは学童疎開にきていた沢山の児童は、順番待ちになっていたからであった。
学童疎開にきていた児童は、東京に帰っても家もなく家族もいない子たちが沢山いたのでそれをどうするかと言うことを優先的に考えていたことが後になって明らかになった。その子たちは東京へ帰っても引き取ってくれる人がいないので役所と学校で対応に苦慮したということを後になって父の話で知った。
たしかにどこにいっても浮浪児(適切な言葉が出てこないので使いました)が大勢いた。特に人の集まる上野公園やいろんな駅の周辺に集まっていた。最近NHKの番組で関連した特集を放映していた。あれはほんの一部でしかなかったのだけれど。
当時の私たちは、栄養的に飢餓状態にあったが一番飢えていたのは読む本がほとんど無いことだった。そして社会の様子が全く予想できなかったことであった。
日本では68年前のポッタム宣言受諾以降戦争に関わることは少なくとも表面的には無かったが、未だに世界のどこかで多数の人命を失う争いが続いている。何故争いがなくならないのだろうか。この問題についていずれブログに書かなければならないだろう。