私の父は明治28年(1895)生まれである。私は父の子供の頃のことは何も知らなかったし、成人した後のこともあまり知っていることはない。私の記憶の中に出てくる父は私が5歳くらいの時からである。しかし、それも断片的なことから始まっている。
例えば師走の大掃除の日には必ず上野動物園に連れて行ってくれた。12月の動物園は人影も少なく子供心にもさびしく思った。帰りには上野のどこかの食堂でお子様ランチを食べ、御徒町で自転車屋をやっていた父の弟の家に立ち寄るのが常だった。自転車屋の叔父さんはお前が大きくなったら特別な自転車を作ってやるからな、と言って私の期待をかき立てた。叔母さんはいつも甘酒を作って待っていてくれた。夕方になるまで叔父さんの家にいて、円タクで家へ帰った。
父の仕事は飾り職人だった。したがって銭湯に行ったり、たまに映画を見入ったり寄席に行ったりの外出をする以外はほとんど家にいた。父の仕事の関係で、わが家の畳全部が盆・暮れの2回新しいものと取り替えられた。私は畳が新しくなるとお盆が近いことやお正月が近いことが分かった。何故畳が新しくなるかというと、飾り職人は鑢(ヤスリ) を使うことが多く金や白金の粉が多量に出る。目に見えるほどの粉は刷毛で集めて吹き替え業者に持って行き、塊にしてもらって再び使用する。細かい粉は膝掛けや畳に飛び散り、父が歩くと家中に衣服などについていた粉が畳に落ちる。それで家中の畳が取り替えられるのだった。さらに手や使った道具は小ぶりな瓶(カメ)の中で洗う。手や道具に着いている貴金属の粉がその水に洗い落とされる。それでその水も持はっていった。その上に幾ばくかの報酬がもらえるようだった。
父の作るものは、色石(翡翠、オエメラルド、オパール、スターサファイア、スタールビーなど)を中心にして周りを小さいダイヤモンドで二重、三重にぐるりと取り巻いた指輪や帯留めなどが中心だった。帯留めは長さ50~60ミリメートル、幅12ミリメートルほどの大きさの自作の白金の針金で作った台座の上に色石を5、6個一列に並べその周辺にダイヤモンドを2重にちりばめたものである。それは私が見ても惚れぼれするほどのものであった。これほどのものを誰が使うのかと想像すると楽しくなった。
私が学生の頃(昭和31年~36年)父の作った帯留めの報酬は、一個4万円ほどであった。加工期間は5~6日ほどかかった。それで月間15~20万円ほどの収入があった。当時の大学卒業生の初任給が1万円前後だったので相当な金額になった。
太平洋戦争後半期、日本の敗勢が決定的になる前に、父は人形町末広という寄席や電車通りの向い側にあった映画館によく連れて行ってくれた。寄席に行ったとき、紙切りをやっていて出来上がった作品をもらったことがあった。
父のこれらの趣味は、私が大人になっても続いていた。私は両親とよく映画を見に行った。たいていの場合はチャンバラ映画だった。落語、講談、浪曲、民謡などは仕事をしながらラジオでよく聞いていた。
父は、尋常小学校4年で学校を卒業し、飾り職人のところで修行をした。その親方のお上さんが、社会に出たときに学校を出ていなくとも”読み書き算盤”を少しは知っていないといけないと言って教えてくれたという話を聞いた。父はいい親方の弟子になったのだろう。ここで父は、仕事の腕をめきめき上げたので他の兄弟子達よりも早く独立できたという。しかし生活は苦しかったようである。今風にいうと顧客がまだ無かったからだったらしい。それでもがんばって少しずつ普通の生活を送れるようになって御家人の家に婿入りした。父はもともと武家の出身だったのでそんな縁が出来たのだった。3人の子供をもうけて妻が病没した。それで武家出身の私の母と再婚した。その後の生活は安定し始めたという。
そんな矢先に父は生涯の中で2度全財産を失う災難に遭遇した。初めは関東大震災である。そして2度目は太平洋戦争の東京大空襲のときである。前者では数人いた子供も小さく火災から逃げるのが大変だったと母から聞いたことがある。後者は私もありありと覚えている。(参照:「その日から 子供の戦争・戦後体験記(日本文学館20130501;430頁、¥1785)」)。
終戦の翌年春に父は一家を引き連れて東京都と国で募集した開拓団員として宮城県色麻村の開拓地へ入植した。そこで過ごした7年間は父の心労と健康を回復させるのに十分な期間だった。
年を重ねた父は、冬季の寒冷が厳しい色麻での生活を中止せざるをえなくなった。東京へ戻った父は昔の仕事を始め、顧客もついてある程度楽な生活を出来るようになった。
父の嗜好物はタバコと甘みだった。タバコは終戦後のタバコ不足時代に大変苦労した。高齢になってそろそろ引退時期を迎える年になってもタバコを止めることはなかった。そんなある日、脳梗塞で医者の診断を受けることになった。父は、医師に今回は軽い脳梗塞であるがタバコを止めないと次は回復できないかも知れませんよといわれた。それで父はタバコをすぱっと止めてしまった。
そのときから父は仕事も止めて私の家で庭いじりなどをして余生を過ごした。この時期が父の一番穏やかな時を過ごした期間だと思う。
私は父に謝らなければならないことが一つある。それはここに記さないが、そのことを反省して私の生き方が変わったのは事実である。 私は、あるときは目に見えないやり方で、別の時は昔話を通して父からいろいろな形で教訓を得た。私はそんな父を尊敬しており、それ以上に感謝している。