寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

想い出話 父のこと(20130821)

2013年08月21日 11時34分39秒 | 日記・エッセイ・コラム

 私の父は明治28年(1895)生まれである。私は父の子供の頃のことは何も知らなかったし、成人した後のこともあまり知っていることはない。私の記憶の中に出てくる父は私が5歳くらいの時からである。しかし、それも断片的なことから始まっている。
 例えば師走の大掃除の日には必ず上野動物園に連れて行ってくれた。12月の動物園は人影も少なく子供心にもさびしく思った。帰りには上野のどこかの食堂でお子様ランチを食べ、御徒町で自転車屋をやっていた父の弟の家に立ち寄るのが常だった。自転車屋の叔父さんはお前が大きくなったら特別な自転車を作ってやるからな、と言って私の期待をかき立てた。叔母さんはいつも甘酒を作って待っていてくれた。夕方になるまで叔父さんの家にいて、円タクで家へ帰った。
 父の仕事は飾り職人だった。したがって銭湯に行ったり、たまに映画を見入ったり寄席に行ったりの外出をする以外はほとんど家にいた。父の仕事の関係で、わが家の畳全部が盆・暮れの2回新しいものと取り替えられた。私は畳が新しくなるとお盆が近いことやお正月が近いことが分かった。何故畳が新しくなるかというと、飾り職人は鑢(ヤスリ) を使うことが多く金や白金の粉が多量に出る。目に見えるほどの粉は刷毛で集めて吹き替え業者に持って行き、塊にしてもらって再び使用する。細かい粉は膝掛けや畳に飛び散り、父が歩くと家中に衣服などについていた粉が畳に落ちる。それで家中の畳が取り替えられるのだった。さらに手や使った道具は小ぶりな瓶(カメ)の中で洗う。手や道具に着いている貴金属の粉がその水に洗い落とされる。それでその水も持はっていった。その上に幾ばくかの報酬がもらえるようだった。
 父の作るものは、色石(翡翠、オエメラルド、オパール、スターサファイア、スタールビーなど)を中心にして周りを小さいダイヤモンドで二重、三重にぐるりと取り巻いた指輪や帯留めなどが中心だった。帯留めは長さ50~60ミリメートル、幅12ミリメートルほどの大きさの自作の白金の針金で作った台座の上に色石を5、6個一列に並べその周辺にダイヤモンドを2重にちりばめたものである。それは私が見ても惚れぼれするほどのものであった。これほどのものを誰が使うのかと想像すると楽しくなった。
 私が学生の頃(昭和31年~36年)父の作った帯留めの報酬は、一個4万円ほどであった。加工期間は5~6日ほどかかった。それで月間15~20万円ほどの収入があった。当時の大学卒業生の初任給が1万円前後だったので相当な金額になった。
  太平洋戦争後半期、日本の敗勢が決定的になる前に、父は人形町末広という寄席や電車通りの向い側にあった映画館によく連れて行ってくれた。寄席に行ったとき、紙切りをやっていて出来上がった作品をもらったことがあった。
 父のこれらの趣味は、私が大人になっても続いていた。私は両親とよく映画を見に行った。たいていの場合はチャンバラ映画だった。落語、講談、浪曲、民謡などは仕事をしながらラジオでよく聞いていた。
  父は、尋常小学校4年で学校を卒業し、飾り職人のところで修行をした。その親方のお上さんが、社会に出たときに学校を出ていなくとも”読み書き算盤”を少しは知っていないといけないと言って教えてくれたという話を聞いた。父はいい親方の弟子になったのだろう。ここで父は、仕事の腕をめきめき上げたので他の兄弟子達よりも早く独立できたという。しかし生活は苦しかったようである。今風にいうと顧客がまだ無かったからだったらしい。それでもがんばって少しずつ普通の生活を送れるようになって御家人の家に婿入りした。父はもともと武家の出身だったのでそんな縁が出来たのだった。3人の子供をもうけて妻が病没した。それで武家出身の私の母と再婚した。その後の生活は安定し始めたという。

 そんな矢先に父は生涯の中で2度全財産を失う災難に遭遇した。初めは関東大震災である。そして2度目は太平洋戦争の東京大空襲のときである。前者では数人いた子供も小さく火災から逃げるのが大変だったと母から聞いたことがある。後者は私もありありと覚えている。(参照:「その日から 子供の戦争・戦後体験記(日本文学館20130501;430頁、¥1785)」)。

 終戦の翌年春に父は一家を引き連れて東京都と国で募集した開拓団員として宮城県色麻村の開拓地へ入植した。そこで過ごした7年間は父の心労と健康を回復させるのに十分な期間だった。

 年を重ねた父は、冬季の寒冷が厳しい色麻での生活を中止せざるをえなくなった。東京へ戻った父は昔の仕事を始め、顧客もついてある程度楽な生活を出来るようになった。
 父の嗜好物はタバコと甘みだった。タバコは終戦後のタバコ不足時代に大変苦労した。高齢になってそろそろ引退時期を迎える年になってもタバコを止めることはなかった。そんなある日、脳梗塞で医者の診断を受けることになった。父は、医師に今回は軽い脳梗塞であるがタバコを止めないと次は回復できないかも知れませんよといわれた。それで父はタバコをすぱっと止めてしまった。
 そのときから父は仕事も止めて私の家で庭いじりなどをして余生を過ごした。この時期が父の一番穏やかな時を過ごした期間だと思う。
  私は父に謝らなければならないことが一つある。それはここに記さないが、そのことを反省して私の生き方が変わったのは事実である。  私は、あるときは目に見えないやり方で、別の時は昔話を通して父からいろいろな形で教訓を得た。私はそんな父を尊敬しており、それ以上に感謝している。


想い出話 麻生 暉さんのこと(20130821)

2013年08月21日 07時58分23秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昭和36年、私が大学に就職したとき教養科目の実験を担当することになった。理工系学部の学生は数学科を除いてこの授業が必修科目となっており受講者数は400名に上った。50名収容の実験室だったので毎週9クラスを2人の同僚と3人で受け持った。そのため準備・指導が大変であった。そのために実権準備をしてくれる方がいた。それが麻生暉さんだった。私より3才ほど年上の方で色白の丸顔で丁寧な話し方をする方だった。当時、麻生さんは千葉県の柏の方から通勤していた。上野駅で山手線に乗り換えて渋谷から東横線で目的駅で降り徒歩で勤務先へ着くというのが日常的な行動パターンだった。
 大学ではその頃、学生生活協同組合というのが出来ることになった。小さな部屋に文房具や教科書などを並べたりと言う店舗が出来た。そこに販売員として二人の大変美しい女性が勤めることになった。一人は純和風な感じの方で優しい声の方だった。もう一人の方は逆に洋風が似合う活発な感じの方であった。
 麻生さんは、この二人のどちらかの方に恋をしてしまった。その女性は、麻生さんが渋谷駅から乗る東横線の同じ車両に乗ることがしばしばあったという。それで恋い心が芽生えたのかも知れない。麻生さんはそれが恥ずかしいと思い渋谷駅からバスで勤務先へ行くようにしたという。その当時でも普通の若い男性は逆に好ましい女性が乗る電車に時刻を合わせて乗るようにするものだが、麻生さんの場合は逆だった。それには幾つかの原因があったらしいと同研究室の先生が教えてくれた。その一つは、数回この大学の入学試験に失敗したということ。自分の顔に自信が無かったということ、そのために鼻の整形手術を受けたということであった。それから職種が大学にいて教員ではなかったということだったという。
 その二人の女性は相次いで卒業生と結婚してしまった。それは麻生さんにとって辛い失恋であった。その後先生方が麻生さんに縁談を持ちかけても、彼は有馬稲子か岡田茉莉子でなければ結婚しないと断っていたという。

 それで教授の紹介で最大手の製鉄会社の事務担当に転職することになった。そこは会社の研究所で、そこで使用する在庫管理を一手に任されるほど信任されていたということだった。数年して麻生さんに再会する機会が出来た。研究室で4泊5日の旅行(五色沼、白布高湯、蔵王青根温泉、松島、仙台へ往復夜行、宿で2泊という強行軍だった)に行くことになり麻生さんをお誘いした。久しぶりに会った麻生さんはずいぶん変わっていた。よく笑い、よくおしゃべりをし、よく飲みよく食べるようになった。最後の夜仙台で麻生さんは私を労うということでバーへ連れて行ってくれた。感じのよい中くらいの店だった。ウィスキーを一杯飲んでいるところへ30代の男が這入ってきた。その男は店のママと知り合いらしく親しげに話し始めた。何気なしに聞こえてきた会話の中に、
「今度は長かったのね」
「そう、一人やってしまったのでO年食らってしまった。」
 麻生さんと私はOO危険には近寄らず、と言って直ぐ店を出た。2軒目にいったのは仙台駅近くのトリスバーだった。そこには数人の女性客がいた。麻生さんはその一人を誘って狭い店内でダンスを始めた。
 私は、呆気にとられたと同時にあの生真面目で内向性格だった麻生さんがずいぶん変わったと思い、嬉しくなった。

 麻生さんは、事務能力を買われて本社長大建造物関係の部署に転勤し参与として活躍した。

 そんな麻生さんとはしばしば麻雀をやった。会社の同僚とやる麻雀はレートを高くするのが上手いという考えで雀鬼とあだ名されるようになっていた。私はこう言っては何だが麻雀を高レートでやるような腕前ではなかったと思ったものである。
 麻生さんには、いろいろな面で大変お世話になった。ここに感謝の意を表します。