昭和30年2月下旬、私は卒業式にも出ないで上京した。そのとき両親は文京区西片町の一角にある家の一階部分を借りて住み、仕事をしていた。そこから東大へは東の方へ行く坂道を上れば直ぐだった。
受験に失敗し、4月からお茶の水にあるS予備校へ通うことになった。西片町から予備校へ通うには春日町へ出て水道橋を渡り、中央線に沿って坂道を上れば約30分で行くことが出来た。他に本郷3丁目に出て医科歯科大の所にでて川を渡る道もある。予備校から南の方へ五分も歩いて行けば神保町の本屋街に出る。そこで私は恒子さんに何か欲しい本があったら書名と発行所を知らせて欲しいと手紙を書いた。しばらくして著者の氏名を忘れてしまったが詩集を欲しいという知らせが届いた。私は予備校の授業が終わってから神保町の書店へ行きその本を探したが見つけられなかった。店員に聞くと出版目録のようなものを取り出して探してくれた。全集の所を探して見つけてくれた。早速その書籍を買い店の方から送ってくれるように依頼して代金を払った。その後夏になるまで恒子さんからは音信が無かった。恒子さんも高校を卒業して、役場か農協に就職したとかで仕事に慣れるまで大変なんだろうと思っていた。
暑中見舞をかねて本が届いたかどうかをやんわりとたずねた。しばらくして恒子さんから返事が来た。久しぶりに見る恒子さんの文字は細いペンで書いたきれいな文字だった。紙面にはお礼の言葉とお返ししなければねと書いてあった。私は早とちりで送った本が気に入らないので返すということと解釈してしまった。それで直ぐに返すのなら高校の一年後輩に大山という子が伊達神社の近くにいたはずだからその子にあげて欲しいと書いて送った。それから以後音信不通になった。今思うと身が細る想い出である。
翌年春、私は何とか大学に入ることが出来た。それを伝える内容と恒子さんにも大学へ入るよう勧める手紙を書いた。もし東京へ出てこられないのなら中央大学など通信制の大学もあると募集案内を同封して送った。これも余計なことだったのかも知れないと後になって気がついた。
私の住んでいた家と畑は家族全員が東京へ戻ることになって借金(大方肥料代金)と相殺でOOさんという方に譲ってしまったので私がS村へ行っても寄る辺が無くなってしまった。その少し前に、私の次兄がY製作所というところで仕事をしていた。その近くに父親が公務員の方の娘さんと結婚することになった。それでまた足掛かりが出来た。
大学2年の夏休みにS村へ行った。何はともあれ恒子さんに会いたかったので、お宅を訪ねると農協に勤めているということだった。農協へ行くと恒子さんがいた。他に同級生の虎君と相君がいた。彼らと少し話をして、恒子さんの仕事が終わってから夜にまたたずねると行ってそのときは別れた。
その夜7時頃に再び恒子さんの家を訪ねた。その辺を歩こうということになり、華川の河原へ行った。大きな石に腰掛けて東京でのいろいろな出来事を話したり、学生運動が激しくなったこと、授業の進行がとっても早いことなどを話した。その夜は晴れていて星が沢山見えた。河原に寝転がって流れ星も見た。2時間ほども話したので遅い時刻になっていた。恒子さんは翌日も勤めがあるので戻ることにした。途中、中学校へよって校舎に入ってみた。この頃は夜でも校舎へ入ることが出来るほど治安が良かった。そこでも少し話をして、恒子さんの家へ送っていった。別れ際に握手をしたが私は震えてしまった。
「あなたって真面目なのね」と言われたが、その意味は分からなかった。後に大学へ行ったときに仲の良い友人にそのことの意味はどういうことなのかなと聞いたら、友人は「お前ってどうしようも無いなー」と笑われてしまった。それでまたその意味が分からなく私にとってしばらく後まで謎として残ってしまった。
その後数年して、恒子さんは中学の先輩と結婚したという噂が伝わってきた。2人のお子さんに恵まれたという話を同級生から伝えられた。
私が大学を卒業して数年が過ぎた頃、後輩が児童研究会というのに所属していて、夏休みにどこか地方で合宿したいと行ってきた。それで恒子さんにその話をしたところ、山の分校を借りて合宿することが出来ると言ってくれた。その代わりに小学校で数回の公演をして欲しいという条件が付いた。そのことを後輩に話すと喜んで行きたいというので、恒子さんにお世話になることになった。帰ってきた後輩の話では、恒子さんのご主人が移動の世話をよくして下さったと言うことであった。私も心から感謝している旨をお伝えした。
それから時が過ぎて、石巻の大学へ行く用事が出来たので、その後S町へよることにした。私は塩釜の魚市場で鰹を一本買って恒子さんの所をたずねた。恒子さんは私が久しぶりにS村へ行くことになったので同期生を集めて隣町の東外れのOOと言う店で宴会を開いてくれた。その席へ祖根さんや横川さん初め懐かしい友人たちが二十人以上も来て下さった。とっても楽しかった。
その後は、鳴子で開かれた同窓会に出席したときに会うことが出来た。とてもお元気の様子だった。しかし長い話は出来なかった。
しばらくして、ご主人が交通事故で残念なことになったと聞いた。盛岡で学会があった帰りにS村によって、御霊前にご焼香させていただいた。
それからまた数年が過ぎて年賀状の文字がいつものきれいな文字ではなく、震えていることに気がついた。理由をお尋ねしたが、返事をいただけなかった。後で同級生からお子さんが事故に遭われたという話が伝えられた。勤めていた農協では財政部長?になって忙しくしていたのに、人生にはいろいろなことが起こるものだということをしみじみ感じた。
昨年松島のホテルでの喜寿祝賀会が行われたが恒子さんは体調が思わしくなく出席されなかった。お会いしたかったのに残念だった。
滝勝君は小学校五年生の時の同級生であった。色麻村(当時)一関という所に住んでいた。ちょうど河童神社へ入る道のあたりである。隣に竹荒商店というのがありここにも同級生がいた。道路向かいには横山さんという女子がいた。
滝君の家は農家で家の西の方に畑があった。家の県道に面しているところには小川があり、そこへ降りる石段があった。そこで食べ終わった食器や野菜などいろいろなものを洗ったりするようだった。
昭和22年になって希望者に学校給食が出されるようになった。それはアメリカ合衆国のMSA援助に基づく事業であるといわれていた。
初めは脱脂粉乳の飲み物だった。食べ物は何がでたのかもう覚えていない。クラスで半数くらいの児童が申し込んでいた。私は家の都合で申し込めなかった。
その頃わが家は、経済的に非常の困窮した状態だった。それで昼の弁当も持って行けない日が週のうち半分くらいあった。
5月になって、河童神社、愛宕山、袋と村の東半分を巡る遠足があった。その日は朝のうちは雲があったが、雨の降る様子は無かった。そして昼近くになって青空が見えてきた。愛宕神社で昼の弁当になった。私は弁当を持っていなかった。一人でみんなと少し離れたところに座って学校の方を見ていた。お腹が空くし、泣きたい気持ちになっていた。
そこへ勝君が近づいてきて私の横に座った。何か話しかけられるのかと思っていたら、勝君は大きなおにぎりを私の方へ差し出した。「これ食べてけろ。母ちゃんが今朝作ってくれた焼きめしだ。」
おにぎりは周りに味噌が薄く塗ってあり焼いてあった。私は思わず手を出してそのおにぎりをもらった。
「どうもありがとう。勝君のはあるの」
「俺はもう食ったから食べてけさいん」
勝君のくれた焼きめしはその時まで食べたことが無いほど美味しかった。私は勝君が神様のように見えた。その後遠足が終わり、花川のところで解散になるまでずーっと話をしながら歩いた。そのお陰で私は村の話し言葉を少し理解できるようになった。
その後も学校でときどきお昼の時間に焼きめしを作ってきてくれた。私は何もお礼を出来ないうちに小学校を卒業し、中学校を卒業し、高校を卒業して東京へ出てきてしまった。そしてそのことをいつの間にか忘れてしまった。遅ればせながら、滝勝君本当にありがとうございました。