寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

東京大空襲 火の粉の嵐を逃れて 第5回

2015年08月01日 23時06分45秒 | 日記・エッセイ・コラム

  その頃の子どもの遊びで年長の子が年下の子の
面倒をよく見ていましたね。最も流行っていた遊び
は「駆逐戦艦(水雷)」というものでした。「駆逐戦艦
(水雷)」は一組7,8人で敵味方2組になって対戦す
る遊びです。両方の組は基地を離れた位置に作り
ます。指揮官の戦艦役他、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦
(水雷艇)などの役割があります。飛行機役はまだあ
りませんでした。大艦思想の影響でしょうかね。

 それぞれの役割は服装によって相手にも分かるよ
うにします。防止を被っている指揮官、巡洋艦役は
帽子を被って両手の袖口を外側に織り返す、駆逐艦
役は帽子を被らないで両手の袖口を外側に織り返す、
潜水艦役は帽子を後ろ向きに被ります。各組はどの
役を何人にするかを決めておきます。これは作戦で
すね。

 規則(ルール)は、指揮官の戦艦役は水雷艇役に
接触されてジャンケンに負けると捕まったことにな
ります。それで対戦に勝ったことになります。
 戦艦役は水雷艇役以外の総ての役に優位にあり接
触によって捕まえることが出来ます。同じ役同士は
接触したときのジャンケンに勝った方が捕まえるこ
とになります。 捕まると相手の基地に止まることに
なり、味方が接触できれば助けられたことになりま
す。 これはかなり走り回るので体力と俊敏性を養
うのにはとても良い遊びでした。

  その他にはメンコ、ビー玉、ベーゴマなどの遊び
も空襲が激しくなる前までは行われていました。メ
ンコは丸い物と細長い謎メンというのがありました
ね。ビー玉は薄青いのと色模様付きの物がありまし
た。形は少し歪な物がたくさんあって真っ直ぐ転が
らないこともありました。ベーゴマは鉄製や安いの
は鋳物製の物がありました。鉄製のものは重さがあ
り人気でした。売っているのは高さ1.5cmほどのも
のでしたが、グラインダーやヤスリあるいは竹の先
に着けて路面に擦りながら歩き先を尖らせたりして
ペチャというものを作りしました。

 ペチャは相手のベーゴマの下に潜り込んで押し出
すので有利でしたね。資源供出が始まると瀬戸物に
なりましたがすぐ割れてしまうので自然に遊ぶ子が
いなくなりました。
 模型飛行機や凧などもよく作っていました。竹ヒ
ゴは竹を削って作りましたが、大方は部品総てがセ
ットになっている物が売られていたのでそれで作
ったようです。

 学校の運動会も私が国民学校2年生の時が最後で

した。学校では体操やかけっこ、剣道、銃剣術、水泳
が中心に行われました。


東京大空襲 火の粉の嵐を逃れて 第4回

2015年08月01日 07時57分37秒 | 日記・エッセイ・コラム

  空襲が激しくなる前の私たち子どもの様子を少し
紹介しましょう。まず食べ物についてです。私の家
では鰯をよく食べました。鰯をそのまま焼いて頭か
らよくかんで食べました。

 小さい子どもにはギョロッとした目玉が恐くて頭
を残しがちでしたが、親はこんがり焼いて頭が美味
しいからといって無理矢理食べさせられました。鰯
は丸ごとすり鉢に入れてすりこ木ですりつぶして団
子にして味噌汁に入れて食べました。鰯は丸ごと食
べるので小骨がのどに詰まることがありました。あ
れは痛かったですね。そのとき母は巣鴨のとげ抜き
地蔵で買ってきた小さな薄い和紙ののような物を飲
みなさいと言って少しの水で飲ませてくれました。水
をたくさん飲むと効果がないと言っていました。それ

を飲むと不思議にのど元の刺が抜けて痛くな
くなりました。

 それから煮た魚もよく食べました。何の魚かもう
覚えていませんが、冬になると魚の煮汁を寒いとこ
ろにおいて凍らせたものを食べましたね。煮凝りと
いう物です。

 それから鮭はよく食べましたね。当時鮭は非常に
安く猫またぎなどとも言われ貧乏人の食べる魚でし
た。しかし美味しかったですね。今のように油を使
った総菜はあまり食べませんでしたが、焼いた鮭は
油が七輪の炭団(タドン:石炭と炭の粗く粉にした
ものを直系6,7センチメートルの球状にしたもの)
の上に落ちて香ばしい香りを出していました。

 野菜の煮物もよく食べましたね。中でもジャガイ
モの煮っ転がしはとても美味でした。夏場はキュウ
リモミをよくたべました。母の作ったキュウリモミ
は、輪切りにしたキュウリのむこうがわが透けて見
えるほど薄く美味しかったです。刺身や肉を食べた
記憶はありません。

 特筆すべきことがあります。それは児童に学校か
らふかし芋県というのをもらいました。それをもっ
てふかし芋屋へ行くと大きな蒸かしたサツマイモを
新聞紙で作った袋に一杯区れっました。

 しかし甘い物はほとんどなくなっていました。唯
一あったのが乾燥バナナでした。これは黒く細長い
異様な物でしたが口に言えてよく咬んでいると甘さ
が口いっぱいに広がって美味しかったですね。

 ご飯は毎日押し麦がたくさん入ったご飯でした。
押し麦の真ん中にある焦げ茶色の線がいやでしたね。
昭和20年になるとオジヤをよく食べました。ご飯
にいろんな物を入れてゆるく煮た物ですが、食べて
もすぐお腹が空いてしまうのでした。

 最後に、家の近くに亜m座キョコ超というところ
がありました。そこにあった大きな寿司屋?で、毎
朝弁当劵を配りお昼頃にそれをもって店に行って経
木の箱に入った弁当を買いました。