午前3時頃になって、学校の近くには火の手が見え
なくなりました。それで本町にある従兄の家へ行くこ
とにして有馬国民学校を後にしました。その前に学校
の近くの人達はまだ学校にいましたのでお世話になっ
たお礼を言い、近日中にまた有馬国民学校へ来ますと
言ってその日はお別れしました。お別れする時にその
人達はこれを持って行けば当座はしのげるからと言っ
て食べ物と衣類などを持たせてくれました。
私はどうしてこんなに親切にしてくれるのだろうか
と不思議に思いましたが、父と母が、一度は辞退しま
したが、その人達が「大変な時期にはお互いに助け合
わなければね」と言っていたのを聞いて、そういうこ
となのかと心の中に深くとどめることにしました
。
有馬国民学校を出て水天宮の方へ向かいました。
呼吸をするととっても変な臭いがしていました。歩
きながら父達の話していることを聞いていて変なこ
とを感じました。
9日の23時半過ぎに一度警戒警報の吹鳴音が鳴
って、すぐに解除されたというのです。そしてしば
らくすると今度は直接空襲警報になったというので
す。おかしいことがあるものだと話していました。
今になってその理由がわかりました。
300機からなる大編隊の先頭の1機は偵察と報告
のために直進し、他のB29は九十九里浜へ向かい
九十九里浜の端で左折して東京上空へ入ってきたの
です。そのために横須賀の監視隊は普通の偵察だけ
だと判断してしまい警戒警報を解除してしまったの
ですね。東京へ近づいてからB29の大編隊来襲に気
がつき急遽空襲警報を発令したようでした。それで
無警戒の状態で空襲が始まってしまったのです。
10日に日付が変更になって、北東の風が強く吹
いてきたのですね。それと米軍は3月10日の空襲
では作戦を変えていたのですね。
それまでの空襲は爆弾による軍事施設へのピン
ポイント攻撃だったのですが、この日は後方支援?
つまり一般市民を犠牲にして軍事工場で働く労働
者に打撃を与えることにしたのです。そのために
いろいろな物質を実験した結果、ゼリー状のガソ
リンを詰めた焼夷弾(M69;長さ約50cm、質量
2,8Kg)を開発し、この日からそれを使い出したの
です。M69焼夷弾は、大きなケースに2段重ね
で蜂の巣状に詰め込まれていたそうです。それは
爆撃機から投下されると空中でケースが開いて
38本の焼夷弾に分裂して落下します。
焼夷弾は屋根を通過し室内に着弾してから爆発
して、火のついたガソリンゼリーをまき散らしま
す。部屋のあちこちに飛び跳ねたものはそこにく
っついて火災を引き起こすというものでした。その
ために家人が気づいたときには広範囲に燃え広
がってしまい消火することが出来なくなってしま
いました。
それでも政府は焼夷弾何する物ぞといって住民
を鼓舞しました。火叩き棒やバケツの水では消火
できないほどの数(米軍の記録では327,000発)
の焼夷弾がばらまかれたのですから逃げるのに精
一杯だったのですね。この頃学校は,関東大審査
の教訓から鉄筋コンクリート造りにしてあったの
で、火災時にはそこへ避難すれば火災を逃れると
思ったのですが、折からの強風と広範囲にばらま
かれた油性焼夷弾のためにたくさんの方々が帰ら
ぬ人となってしまったのでした。
この状況については丁度10年前にNHKで放
送された「東京大空襲60年目の被災地図」という
番組があります。この番組の中で、空襲時に人々
がどのように安全なっ場所を求めて行動したかを
検証した記録が入っています。