寓居人の独言

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東京大空襲 火の粉の嵐を逃れて 第9回

2015年08月05日 19時18分18秒 | 日記・エッセイ・コラム

 午前3時頃になって、学校の近くには火の手が見え
なくなりました。それで本町にある従兄の家へ行くこ
とにして有馬国民学校を後にしました。その前に学校
の近くの人達はまだ学校にいましたのでお世話になっ
たお礼を言い、近日中にまた有馬国民学校へ来ますと
言ってその日はお別れしました。お別れする時にその
人達はこれを持って行けば当座はしのげるからと言っ
て食べ物と衣類などを持たせてくれました。

 私はどうしてこんなに親切にしてくれるのだろうか
と不思議に思いましたが、父と母が、一度は辞退しま
したが、その人達が「大変な時期にはお互いに助け合
わなければね」と言っていたのを聞いて、そういうこ
となのかと心の中に深くとどめることにしました

  有馬国民学校を出て水天宮の方へ向かいました。
呼吸をするととっても変な臭いがしていました。歩
きながら父達の話していることを聞いていて変なこ
とを感じました。

 9日の23時半過ぎに一度警戒警報の吹鳴音が鳴
って、すぐに解除されたというのです。そしてしば
らくすると今度は直接空襲警報になったというので
す。おかしいことがあるものだと話していました。
今になってその理由がわかりました。

 300機からなる大編隊の先頭の1機は偵察と報告
のために直進し、他のB29は九十九里浜へ向かい
九十九里浜の端で左折して東京上空へ入ってきたの
です。そのために横須賀の監視隊は普通の偵察だけ
だと判断してしまい警戒警報を解除してしまったの
ですね。東京へ近づいてからB29の大編隊来襲に気
がつき急遽空襲警報を発令したようでした。それで
無警戒の状態で空襲が始まってしまったのです。

 10日に日付が変更になって、北東の風が強く吹
いてきたのですね。それと米軍は3月10日の空襲
では作戦を変えていたのですね。

 それまでの空襲は爆弾による軍事施設へのピン
ポイント攻撃だったのですが、この日は後方支援?
つまり一般市民を犠牲にして軍事工場で働く労働
者に打撃を与えることにしたのです。そのために
いろいろな物質を実験した結果、ゼリー状のガソ
リンを詰めた焼夷弾(M69;長さ約50cm、質量
2,8Kg)を開発し、この日からそれを使い出したの
です。M69焼夷弾は、大きなケースに2段重ね
で蜂の巣状に詰め込まれていたそうです。それは
爆撃機から投下されると空中でケースが開いて
38本の焼夷弾に分裂して落下します。

 焼夷弾は屋根を通過し室内に着弾してから爆発
して、火のついたガソリンゼリーをまき散らしま
す。部屋のあちこちに飛び跳ねたものはそこにく
っついて火災を引き起こすというものでした。その
ために家人が気づいたときには広範囲に燃え広
がってしまい消火することが出来なくなってしま
いました。

 それでも政府は焼夷弾何する物ぞといって住民
を鼓舞しました。火叩き棒やバケツの水では消火
できないほどの数(米軍の記録では327,000発)
の焼夷弾がばらまかれたのですから逃げるのに精
一杯だったのですね。この頃学校は,関東大審査
の教訓から鉄筋コンクリート造りにしてあったの
で、火災時にはそこへ避難すれば火災を逃れると
思ったのですが、折からの強風と広範囲にばらま
かれた油性焼夷弾のためにたくさんの方々が帰ら
ぬ人となってしまったのでした。

  この状況については丁度10年前にNHKで放
送された「東京大空襲60年目の被災地図」という
番組があります。この番組の中で、空襲時に人々
がどのように安全なっ場所を求めて行動したかを
検証した記録が入っています。