松島や 幸いあれと あの日のたわごとを ひとり抱く
とんでもない話 放ち聞いて 目が天も見ず宵
戯言と あれも刺客か 戸を閉てられず酔い
ハイドレード ハイトレードを 待つ日本人
見知らぬ人 路上にて笑い つつと顔を見る人あり tv真似男
我関せず ただ 事後報告 画面外
が、勝手に思い続けたsensualな「か」、いやいや騙され「ま」「か」不思議編集の威力が和風ひらがな発想を抜け、「力」化しました。
表現と個人のプライバシー・個人の問題をどのようにメディアが扱うか、多いに質がアップし、力になったのだといえましょう。
でも、恨みは残っているのが本音。たとえ、諌められようと、あるでしょう。だから活動しているのだと思います。 更年期、語らないで通れません。理解できないでしょう。
さまざまな意見と場面を踏んで、国民に浸透させ、放送番組をよりスマートに、より多機能、島国発想から抜け出して、世界に対応できるすように風が吹いて文化を創り上げているのかもしれません。
私たちの「少し変だね」を大切にする気持ちが発展に繋がっているのは、進歩向上と呼ぶのでしょう。
もっと柔らかにたおやかに、そして問題はすぱっと。地デジへの助走も見えます。 柔らかい頭でいましょう。苛めは、意識的だから、見えてしまいますよん。しない、しない!
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寅と馬
小学生になる以前だったでしょう。親よりも接触感が違った女性に出合った。
ブドウ園を始めた頃だった。 電車でやってきたご婦人二人連れの内のひとりが私と写真を撮ったのだった。 今でもアルバムにあり、その女性は、私の頬に近づけるくらい接近して写真に納まっている。
母とそのような接近時間は忙しさの故、持てはしなかった。 母が言った。「お子さんを亡くしたそうだわ。」
そして、別のある日、ときどき頭が少しばかり禿げかかった、恰幅の良い男性がプレスされた紺のズボンをはいて家に上がった。 私は、その人が家に来ると、家から遠ざかったのだった。
「養女に欲しい」と言うのだった。 商店の主だった。 そんなことがあった。
と、時は経ち、小学高学年の夏、立ちくらみを起こしたのか、ある時、気づいたら土の上で意識が覚めた。 家には、誰もいなかった。 し~んとして、いったいどうしたのか、怖いほどだった。
家族を探した覚えがある。けれど、夏の盛り、活動しているから、本当にどこにいるか、わからず、そのままだった。
と、更に時は経ち、通勤し、同居していた。 帰りはいつも私が最初で、夕食を作って家族が帰るのを暗くなるまで待っていた。 新しい人間関係との暮らしで体が慣れず、「自律訓練」のテープを買ったときもあった。 時々は、実家にたちより、ひととき休んだ。が、母には、「ふてて立ち寄った」ようにしか、見えず、こしらえたお稲荷さんを「ご家族に」と、持ち帰った時もあった
ある日、遊び心が生まれて、買い物をしていた。 ゆったりしたから、「きっと家には誰かが先に帰って、電気をつけているだろう」と、更に期待しながら少しばかり心がひとり緩んでいたのだった。
家が見えた。灯りを自分でつけた。 7時は過ぎていただろう。心がしぼんでいた。
育った家にはいつも母がいた。家には、いつも人がいるものだと思っていた。
トラウマは、家にいるのに安心した心地になれない、何かのはずみに感じ取ってしまう空気のような漠とした不安感でもあった。