「絶対に捕まらないようにします」元電通 “五輪招致のキーマン・高橋治之”
への安倍晋三元首相からの直電。
司直の手に落ちた「五輪招致のキーマン・高橋治之」と「長銀を潰した男・高橋治則」。
文藝春秋10月号より、ジャーナリスト・西﨑伸彦氏による
「 高橋治之・高橋治則『バブル兄弟』の虚栄 」の一部を掲載します。
西﨑伸彦氏による「 高橋治之・高橋治則『バブル兄弟』の虚栄 」全文は、
月刊「文藝春秋」2022年10月号にてお読みいただけます。
(西﨑 伸彦/文藝春秋 2022年10月号) 2022/09/14 11:10 配信。
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「中心になってやって欲しい」
東京都が2016年五輪の招致に敗れ、
再び次の2020年五輪招致に向けて正式に立候補を表明した約1年3カ月後、
2012年12月に、それまで下野していた自民党が再び政権に返り咲き、
第2次安倍晋三内閣がスタートした。
安倍政権が肝煎りで推進した五輪招致のキーマン高橋治之は、
当時の状況について知人にこう話している。
「最初は五輪招致に関わるつもりはなかった。安倍さんから直接電話を貰って、
『中心になってやって欲しい』とお願いされたが、
『過去に五輪の招致に関わってきた人は、みんな逮捕されている。
私は捕まりたくない』と言って断った。
だけど、安倍さんは『大丈夫です。絶対に高橋さんは捕まらないようにします。
高橋さんを必ず守ります』と約束してくれた。
その確約があったから招致に関わるようになったんだ」と。
しかし、その五輪招致が実を結び、大会が無事終わった後、
約束の主、安倍元首相は凶弾に倒れ、招致のキーマンだった高橋治之は司直の手に落ちた。
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東京地検特捜部は2022年8月17日、
受託収賄の疑いで東京五輪大会組織委員会の元理事、高橋治之容疑者を逮捕した。
高橋治之氏は大会スポンサーだった紳士服大手の「AOKIホールディングス」から
総額5100万円の賄賂を受け取っていたとみられている。
高橋治之氏はゴルフを通じてAOKIの創業者で前会長の青木拡憲と知り合い、
2017年9月に自ら経営するコンサルタント会社「コモンズ」でAOKIと顧問契約。
その後、AOKIが東京五輪のスポンサーになる過程で、便宜を図り、
他にもAOKI側から競技団体へ拠出された寄付金の一部、
2億3千万円が高橋氏の元に渡っていたことも発覚した。
贈賄側も青木前会長、
実弟で前副会長の青木寶久氏や寶久氏の秘書役だった専務執行役員も逮捕された。
「AOKIは後発で始めたカラオケの『コート・ダジュール』や
結婚式場の『アニヴェルセル』は好調ですが、肝心の洋服事業が苦戦しており、
五輪の公式スーツの受注などを浮上の起爆剤にしたいと考えていた。
東京青山の『アニヴェルセル』には、
会長や副会長が使うプライベートラウンジがあるのですが、
そこで高橋治之氏や大会組織委員会の会長だった森喜朗元首相などをもてなしていたそうです。
(青木前会長を知る会社役員)
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高橋治之氏は、元電通専務で、スポーツビジネスに精通し、
絶大なる影響力を持つ大物として知られていた。
だが、彼は2013年9月にブエノスアイレスのIOC総会で開催都市が東京に決まり、
翌年1月に大会組織委員会が発足してもすぐには理事に選ばれなかった。
35人目の最後の理事枠に彼を押し込んだのは森元首相だったが、高橋氏には計算もあった。
五輪のスポンサー選びを担う専任代理店には4社が手をあげ、
最大手の電通が指名を受けた。
実質的にその下に広告大手のADKグループが入る形になったが、
電通の受注に関与した疑惑を持たれないよう、
高橋治之氏は結果を見極めたうえで理事のオファーを受けたのだ。
もちろん、
冒頭の五輪招致への関与に消極的だったとの発言も単なる“ブラフ”に過ぎない。
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IOC総会に突然現れた高橋治之氏。
2009年10月、デンマーク・コペンハーゲン。
2016年の五輪招致活動に関わった幹部の1人は、
雌雄を決するIOC総会を目前に控え、現地に高橋治之氏の姿を見つけ驚いたという。
「招致活動にほぼ関わっていなかったはずの高橋氏が突然現れ、
票の行方を握るセネガル出身のラミン・ディアク国際陸連会長(当時)に接触し、
『ラミンはアフリカの16票を纏めたと言っている』という情報をもたらしたのです。
結果的に日本は敗れましたが、初めから高橋氏を頼るべきだったという後悔だけが残った。
次の五輪招致は、高橋治之氏頼みになることは目に見えていた」。
そして高橋氏は招致委員会のスペシャルアドバイザーに選ばれた。
スポーツマフィアが跋扈し、生き馬の目を抜く世界で、
高橋治之氏が力を持ち得たのは、彼の1歳違いの弟の存在を抜きには語れない。
それが「環太平洋のリゾート王」の異名をとり、バブル期に数々の伝説を残しながら、
のちに「長銀(日本長期信用銀行)を潰した男」と呼ばれた故・高橋治則氏である。
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ペレ引退試合で頭角を現す。
高橋治則氏は終戦の年、1945年に父親の実家がある疎開先の長崎県平戸島で生まれた。
高橋家のルーツは平戸藩の藩士とされ、
母方の遠戚には元運輸相の大橋武夫や「ライオン宰相」
として知られる元首相の浜口雄幸がいるという。
一家はその後、東京に移り住み、高橋兄弟は慶應幼稚舎から慶應高校へと進んだ。
兄、治之はそのまま慶應大に入ったが、治則は一度、高校を中退し、
世田谷学園に転入した後、再び大学で慶應に入り直した。
2人にとって慶應人脈はその後の人生のベースになっている。
高橋治之氏は旧皇族の竹田家の次男、竹田恒治氏と同級生で、
のちにJOCの会長になる3歳下の三男、恒和氏とも幼少期から親しく付き合う仲だった。
大学を卒業した高橋兄弟は、兄は電通、弟は日本航空に就職した。
1967年に電通に入った兄治之が配属されたのは大阪支社の新聞雑誌局だった。
3年後に開催される大阪万博関連の仕事で、
和歌山県選出の山口喜久一郎衆院議員の秘書だった中西啓介氏と知り合ったとされる。
のちに中西氏は衆院議員となり、高橋治之氏の弟、治則氏と刎頸の友となるが、
最初の出会いは兄の方だった。
高橋治之氏がスポーツ事業で頭角を現したのは、
サッカー界の英雄ペレの引退試合を成功させた1977年だ。
ノンフィクション作家の田崎健太氏の著書『電通とFIFA』には、
その時の様子がこう描かれている。
〈ペレの引退試合の話を耳にした高橋治之は
「自分に任せてくれれば必ず成功させる」と手を挙げたという〉
結果、ペレの引退試合は国立競技場が超満員となる大成功を収める。
噂を聞きつけたサッカーのワールドユース大会のスポンサーだったコカ・コーラ社が
高橋治之氏を直々に指名。
その後、日本で開催されるワールドユース大会の事務総長として来日したのが、
ブラッターだった。
彼はサッカー界に君臨するFIFA会長、アベランジェの側近であり、
自身ものちにFIFAの会長に就任している。
高橋治之氏はスポーツ界の中枢に繋がる鉱脈を引き当てたのだ。
高橋治之氏が、ペレの引退試合を成功させた年、弟の治則氏は日本航空を辞め、
電子部品を輸入販売していた「イ・アイ・イ」(EIE)に入社する。
テレビ朝日の取締役だった高橋兄弟の父、高橋義治氏が、
EIEの再建を頼まれ、社長に就任。
高橋治則氏は副社長として実業の世界に足を踏み入れた。
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安倍晋太郎との蜜月ぶり。
高橋治則氏は、日本航空時代に“北海道の政商”と呼ばれた北海道テレビの創業社長、
岩澤靖の次女と結婚。
結婚披露宴には後に首相に就任する三木武夫や福田赳夫ら大物が挙って出席し、
政治家志望だった彼は次第に政界に人脈を伸ばしていく。
EIEは、円高の追い風に乗り、危機を乗り切り、業績は上向き始めた。
そして高橋治則氏は、その手腕を見込まれ、
1982年に協和信用金庫の立て直しを依頼されるのだ。
彼はそれまで培った人脈を駆使して瞬く間に10億を超える預金を集めてみせた。
その中には田中角栄の金庫番で、
「越山会の女王」と呼ばれた佐藤昭子の名前もあった。
佐藤昭子の元には前述した中西啓介氏が頻繁に通っており、
中西を通じて治則氏も出入りするようになったという。
当時、自民党の実力者だった小沢一郎衆院議員とも佐藤昭子を通じて近しくなった。
その頃、高橋治則氏と同じマンションに住み、
のちに事業で深く関わった山口敏夫元衆院議員が語る。
「私はノリちゃん(治則氏)もハチ(治之氏)もよく知っていますよ。
ハチは電通で派手にやっていましたけど、あれはEIEのカネでうまくやっていただけ。
兄弟は全然性格も違います。
政治家とメシを食う時にはノリちゃんを呼んでいろいろ紹介しました。
安倍晋太郎とは以前から関係があったようでしたが、私のお陰で仲良くなった」
高橋治則氏にとって安倍晋三の父、晋太郎は政治家のなかでも特別な存在だった。
高橋治則氏と20年来の付き合いだった知人が明かす。
「2人は頻繁に会食をしていました。
『次は自民党の幹事長になる』と高橋治則氏が嬉しそうに話していたことを覚えています。
『普通の人だけど幹事長になれちゃうんだよね』と肩肘を張らない関係だった。
一度お互いに古い家系図を持って来て突き合わせてみたら、
どこかで繋がっていたという話もしていた。
平戸がルーツの高橋家とは遠戚関係にあるようでした。
秘書として晋太郎さんに付くようになった晋三さんのことも可愛がっていて、
『経済のことを何も知らないからな』と言っていろいろと教えてあげている様子でした」
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「スペシャルマッサージ?」
その後、協和信金トップの背任事件などもあり、
実績を残す治則氏は非常勤理事から副理事長へと取り立てられた。
そして1985年5月、協和信金から改名した東京協和信用組合の理事長に就任する。
のちに1985年は「バブル元年」と言われるが、
金融機関を手中に収めた高橋治則氏は、狂乱のバブルへと突き進んでいく。
彼はその後、
メインバンクとなった長銀からEIEインターナショナルに湯水の如く注ぎ込まれた融資を元手に、
ゴルフ場開発やリゾートホテルの買収に手をつけた。
サイパンの「ハイアット・リージェンシー・サイパン」を42億円で手に入れると、
オーストラリアでは、「リージェント・シドニー」を130億円、
「ハイアット・リージェンシー・パース」は120億円で取得。
2機のプライベートジェットで世界中を飛び回り、
香港、ミラノ、ニューヨーク、タヒチなどでも次々とホテルを買い漁った。
グループの資産は1兆円を超えた。
「お金に頓着しない人で、財布にはお金は殆ど入っていませんでしたが、
海外では勝手が違った。バンコクでマッサージを頼んで、
数えもしないでお金を渡したら『スペシャルマッサージ?』と言われたと笑っていました。
聞くと、凄い金額を払っていた。
オーストラリアに行った時は、
あとでホテルから『現金のお忘れ物があります』と連絡があったのですが、
チップ代わりに札束を置いてきたようでした」(同前)
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西﨑伸彦氏による「 高橋治之・治則『バブル兄弟』の虚栄 」
全文は、月刊「文藝春秋」2022年10月号と「文藝春秋digital」にてお読みいただけます。
(西﨑 伸彦/文藝春秋 2022年10月号)