徳丸無明のブログ

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栗山米菓 ばかうけ 青のりしょうゆ味・ごま揚しょうゆ味

2024-12-21 23:43:02 | 
今日はイディオット・アミュージングです。






揚げてあるほうがジュワッとしてはいますが、青のりのほうも負けず劣らずこうばしいのです。甲乙つけがたし。
ばかうけと言えば、だいぶ前に「にけつッ!!」で千原ジュニアが、「テレビ局の楽屋に置いてあるお菓子は、ばかうけであることが多い。これはきっと、お菓子を買ってくるスタッフさんが、番組が大ウケしますように、という願いを込めているのだろう」という話をしていたんですよね。ばかうけがゲン担ぎに使われていた、ということです。なるほどと思いました。
あとそう、「にけつッ!!」と言えば、千原ジュニアが、「自動車はこれだけ進化しているのに、未だにクラクションの音量が調整できないのはおかしい。小さい音を鳴らしたいときもあるから、調整できるようにすべきだ」という意味の発言をしていたこともありました。
これ、大賛成なんですよね。もっと言わせてもらえば、音量の調整だけでなく、音の種類も変えられるようにすべきだと思うんですよ。
クラクションって、「ビーッ」ていう音しかないじゃないですか。あの耳をつんざくような、とげとげしい警告音。
第一に、事故を防止するためにあるわけだし、ほかの車のドライバー、つまり他車の車内にまで聴こえなきゃいけないから、あのような鋭い音になるのはしかたないことではあるのかもしれません。
でも、いついかなるときでも「ビーッ」という音である必要はないはずです。「ファンファンファ~ン」という柔らかいメロディであっても、充分聴こえる場面だってあります。
車の接近に気づいていない歩行者に対して鳴らすときとかですね。鋭いクラクションだと、ムダに相手を驚かせてしまいます。驚かせずに、注意喚起だけできるよう、「ファンファンファ~ン」という第2のクラクションを取りつけるべきなんですよ。
僕ね、交通トラブルのうちのけっこうな数が、クラクションが原因になってるんじゃないかって思うんですよ。あの鋭いクラクション、鳴らされたほうはけっこう不快じゃないですか。怒鳴りつけられたような気持ちになりますよね。あれキッカケでケンカとか、煽り運転なんかが、少なからず引き起こされてるんじゃないかって思うんです。
だから、柔らかいクラクションが導入されれば、交通トラブルも減少するんじゃないかと思うんですね。今現在の、「ビーッ」というのとは違う、柔らかいクラクションを併設するだけです。それだけで交通トラブルを減少させることができるかもしれない。
コストは多少かかるかもしれませんが、でもそれで交通トラブルが減るのであれば、ぜひ取り付けるべきでしょう。

ただし、2種類のクラクションを併設すると、それによる事故の発生も予想されます。瞬時に「ビーッ」と鳴らすべき場面で「ファンファンファ~ン」と鳴らしてしまい、それが相手ドライバーに聴こえなかったため事故に至ってしまった、という事態が。
ですがそれも回避できます。基本仕様を「ビーッ」にしておけばいいのです。「ファンファンファ~ン」と鳴らすには、ボタンをひとつふたつ押さないといけない、という段階的な仕組みにすればいい。
「ビーッ」は基本仕様で、「ファンファンファ~ン」は何段階かの操作をへて使用できる。そうすればとっさの危機回避の場面でクラクションを間違えずにすみます。
2種類のクラクションを併設すれば、明らかになることもあります。ドライバーの人格を明確に見分けることができるのです。
「ファンファンファ~ン」で対応できる場面であるにもかかわらず、「ビーッ」と鳴らすような人は、ヤカラ、もしくは傲慢、もしくは無神経ということです。クラクションによって、「人を見る」ことができるのです。
「ファンファンファ~ン」でいいのに、「ビーッ」と鳴らしてたら、「そういう人なんだな」と判断できる。極力かかわるべきでない人物だということが明白になるのです。
いますよね、むやみにクラクション鳴らす、感じの悪い人。

クラクションの音量を調節できるようにするのも、2種類のクラクションを併設するのも、技術的にはごく簡単なことでしょう。なのに、未だに実装されてない。
これって、車屋さんたちのあいだにこのような発想がない、ということなのでしょうか。
いや、それは考えにくい。僕みたいな一般人でも思いつくようなアイディア、本職に考えられないはずがない。
だとすると、「思いつかないから実装してない」のではなく、「理由があって、あえて実装してない」ということなのではないでしょうか。
では、その理由とはなんなのでしょうか。
車屋は交通事故や交通トラブルを減らしたいなどとはいっさい考えておらず、「そんなことのためにクラクションのコストを増やせるか」というのが本音とか?
それとも、事故やトラブルは減らないほうがいいと考えている勢力がいる?事故が起きれば、そのぶん修理や買い替えで車屋は儲かるから、むしろ交通事故、願ったり、みたいな・・・。
うーん、このへん突っ込んで考えると、社会の暗部に呑み込まれてしまいそう・・・。
なんにせよ、クラクションが今のまま、音量調節できず、1種類しかないのであれば、本当に使うべきときだけを見極め、必要最小限の音量で鳴らすことを心がけねばなりませんね。僕はペーパードライバーなんですけどね。
今日も安全運転。にけつでゴー!
パトリス・ルコントの映画『タンデム』は名作です。

一枚絵・『ザドク』

2024-12-17 00:54:47 | イラスト



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ニッスイ おさかなのソーセージ

2024-12-13 23:51:53 | 
今日は魚の双子です。




ソーセージブームらしいですね。こちらは魚肉だけのソーセージと違って、オニオンエキスやらかつおエキスなんかが混ぜ込んであります。そのぶん味に奥行きがある。僕はスーパーで売ってるソーセージの中で一番好きです。基本料理はしないんで、弁当だけじゃ食べたりないときのもう一品として重宝してます。
ソーセージと言えば、村崎百郎さんが、唐沢俊一さんとの社会時評対談『社会派くんがゆく! 怒涛編』(アスペクト)の中で、2008年2月に発生した中国製毒入りギョーザ事件に触れ、こんなことを言ってたんですね。


こないだ藤原新也が東京メトロのフリーペーパーに連載してるエッセイで書いていたことなんだけど、藤原の友人が上海のホテルで出された魚肉ソーセージを飼い犬のエサ用に数本持ち帰ったら、犬はまったく食べなかったんだって。それを聞いた藤原はイヤな予感がして、その魚肉ソーセージをもらって帰って、試しに近所の野良猫にあげたら、ガリガリに痩せて腹を空かせた野良猫ですら見向きもせずにソーセージをまたいで逃げていっちまったんだって(笑)。ほとんど餓死しかけてるような野良猫でさえ拒絶反応を示すような食い物を、中国じゃホテルの朝食に平然と客に出してるわけだよ。んで、平和ボケしたおめでたい日本人ってのは、動物ならみんな持ってる“生死にかかわる野生のカン”がクソみたいに鈍くなってるせいか、そういうオソロシイ食い物を平気で大量に輸入して毎日食い続けているんだから、これはもういまさら「毒盛られた!」って騒いでも手遅れ、大騒ぎする方がどうかしてるってさ。


これを読んだ僕は、「でもそれ、ひょっとしたら玉ねぎ入りのやつだったのかもしれないよ」って思ったんです。猫は玉ねぎ食べられませんからね。
猫がキライなものが入ってただけで、ヤバイ添加物入りだとは限らないんじゃないのって。まあ推測ですけどね。
あ、ちなみに皆さん、村崎百郎さんのことはご存じですか?村崎さんは、鬼畜を自称する電波系ライターの方なんですね。鬼畜というのはゲスで下品ということで、電波というのは神や悪魔の声が聞こえる体質ということらしいです。そのうえ趣味がゴミ漁りということで、なかなかアレなキャラクターなんですよ。人前ではKKK(クー・クラックス・クラン)を彷彿とさせる覆面をかぶっておられます。
んで、本もいくつか出されてるし、雑誌に寄稿したりしてるんですけど、いたるところで暴言吐きまくりです。これはひと昔前の話で、まだそんなノリが紙媒体で許容されてた時代だったんですね。
ちなみに「社会派くんがゆく!」は、2000年から連載が始まった対談で、単行本も9冊出てるんですけど、その連載は2010年7月に、唐突な終わりを迎えました。村崎さんが、自宅を訪ねてきたファンを名乗る男に刺殺されたのです。
男は精神病を患っていたそうで、不起訴になりました。そのうえ、村崎さんが事件前に「俺は殺される」と予言めいたことを口にしていたり、犯人の男が、先に特殊漫画家・根本敬さんの家に行っていて、そちらが留守だったから村崎さんのほうに来たとか、様々な憶測を呼ぶエピソードが付随しているのです。
一連の出来事は、村崎さんの妻で漫画家の森園みるくさんが、『私の夫はある日突然殺された』という実録漫画(kindle版のみ)にまとめられています。

そういや、こないだ唐沢俊一さんもお亡くなりになりましたよね。66歳と、まだお若いほうでしたが、心臓発作で。
雑学王として知られた唐沢さん。弟で漫画家の唐沢なをきさんの、俊一さんの死を公表したXが話題になっていましたね。
なんでも、俊一さんがなをきさんにずっとひどいことをしていたとか。20年ほど絶縁状態だったとか。
これはあくまでなをきさん側の言い分なので、俊一さん側の意見も聞かないと詳細はわからないわけですが(お亡くなりになったので、それはほぼ不可能でしょうが)、俊一さんはソルボンヌK子さんとも離婚されてますし、ここ10~20年ほど人間関係がトラブル続きだったということも聞いています。
いや、ほんと詳細はわかんないんですけどね。でも得られた情報からは、俊一さんの言動がおかしくなっていってたらしいということが推測されるのです。
これは思ってもみないことでした。仮に俊一さんがいろんな人と諍いを起こそうとも、弟であるなをきさんはずっと味方しているものだとばかり思い込んでいたからです。
以前このブログの記事、「ブルボン ピッカラ 甘口うましお味」(2021・7・9)の中でも紹介しましたけど、俊一さんとなをきさんは、唐沢商会名義で合作をいくつか発表しているんですよね。だから兄弟仲はいいものだとばかり思っていたのです。本当に意外でした。
俊一さんは調子のいいときはいろんなところに文章書いて、本もバンバン出版してて、年収何千万って聞いたことあるんですけど(事実かどうかはわかりませんが)、徐々に仕事がなくなり、なをきさんにたびたびお金の無心をするようになっていたそうで。どうしてそこまで変わってしまわれたのか。
村崎さんも、俊一さんも、まだサブカルチャーに元気があったころの作家さんなんですよね。それを思うと、サブカルチャーの衰退と、お2人の表舞台からの退場は、軸を一にしているようにも見えます。ああ、せつない。
「社会派くんがゆく!」のような暴論も、鬼畜を自称するライターさんも、2010年代まではまだ許容するだけの度量が、社会の中にありました。でも今は、些細なことでもSNSで寄ってたかってメッタ打ちにされるご時世です。
仮にお2人がご存命であったとしても、活躍できる場は、少なくとも出版界にはもう残されてはいないのかもしれません。それを思うと、時代の流れを感じます。
村崎百郎と唐沢俊一は、時代の徒花だったのでしょうか。もはや戻ることのない、サブカルチャー全盛の時代。
せめてお2人の著作を読み返し、思い出にひたるとしましょう。


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フェイクニュースと偏向報道――兵庫県知事選の結果に寄せて

2024-12-12 00:13:56 | 時事
2024年11月17日に最終日を迎えた兵庫県知事選挙は、斎藤元彦前知事の再選によって幕を閉じた。斎藤は、複数の職員へのパワハラ・副理事長2人の不当な解任・知事選の事前運動・次の選挙の投票依頼・商工会議所などへのパーティー券購入の圧力・贈答品のおねだり・阪神とオリックスの優勝パレードを利用しての寄付金集めといった「7つの疑惑」が持たれていた。このため、兵庫県議会が斎藤知事の不信任決議案を全会一致で可決。斎藤は失職し、出直し選挙となっていた。
今回の選挙、XやTikTokなどのSNSや、YouTubeなどの動画サイトが大きな役割を果たしたと言われている。斎藤は失職するまで、連日メディアで大きな批判に晒されていた。ここまで人として、政治家としての不適切さが暴かれてしまった以上、落選は必至と思われていた。その印象を覆しての当選。SNSに批判的報道と反する情報が流され、それに人々が触れることで潮目が変わり、徐々に斎藤支持が増加し、最終的に不支持を逆転。SNSが反対意見を拡げ、状況を一変させ、当落に決定的な影響を及ぼしたのだ。斎藤自身も、選挙前は約7万5000だったXのフォロワーが、選挙終盤には約18万にまで増えたという。斎藤を応援するためだけに立候補した、NHKから国民を守る党の立花孝志の果たした役割も大きいと言われているが、立花の影響力がどれほどのものであったか、正確なところはよくわからない。
また、弱いほう、逆境に立たされているほうを応援したくなる「アンダードッグ効果」が働いたとの指摘もある。だがこれは的外れだ。選挙においてアンダードッグ効果が働くというのなら、衆参議員選挙から市区町村選挙まで、ありとあらゆる選挙で、泡沫候補が高確率で当選していなければならない。だが現実にはそのようなことは起こっていない。「斎藤は大きな注目を集めていたからアンダードッグ効果が起きる条件が整っていたんだ」という反論があるかもしれないが、そもそも注目度が高い時点でアンダードッグとは言えない。やはりSNSの膾炙と伝播力によって、ネガティブイメージを払拭する情報が大量拡散されたのが大きいと見るべきだろう。
現時点では、依頼したPR会社との関わりで公職選挙法違反の疑いが持たれており、その推移は、未だ予断を許さない状況にある。このまま斎藤が知事として任期を満了するのか、それとも辞任や失職によって再度選挙が行われるのか。それは僕にはよくわからない。政治にはあまり関心がなく、知識も乏しい僕には、その辺の予測を立てることはできないし、そもそもあまり興味がない。ここで論じようとしているのは、「マスメディアとSNS」についてである。

SNSの影響力には、マスメディアからアレルギー的拒否反応が起きていた。選挙直後に「Mr.サンデー」を観ていたら、SNSを投票の参考にしたという兵庫県民が、何人かインタビューを受けていた。その中でインタビュアーが、「SNSにはフェイクニュースもありますよね」と尋ねていた。僕は番組をながら観しただけで、最初から最後まで通しで観てはいないのだが、そのインタビュアーの質問に端的に表れているように、番組全体の論調は「我々マスメディアが、斎藤の悪事(疑惑)を散々暴き立ててやったにも関わらず、愚かな大衆はSNSの誤った情報を信じ込んでしまった」と言わんばかりであった。僕はそこに、マスメディアの驕りを感じずにはいられなかった。他局も含めたそれ以外のニュース番組もいくつか観たが、やはりSNSが大きな影響力を持ったことへの、動揺や嘆きといった否定的な感情が伝わってきた。「何故SNSの不確かな情報を信じるのだ。何故斎藤などに投票したのだ」。そう慨嘆しているように見えた。
確かに、マスメディアはSNSとは違い、うっかり間違った情報を流してしまうことこそあれ、意図的に嘘を付いたりはしない。だが、「偏向報道」は行っている。例えば、以前「迷惑動画による経済損失、その責任を誰に帰すべきか」(2023・2・9)にも書いたことだが、回転寿司チェーンのスシローで撮影された迷惑動画によって大きな騒動が起き、同社の株価が急落、時価総額が約170億円減少したことがあった。
「株価が約170億円の減少」と聞けば、あたかも170億というカネが失われたかのような気になってしまう。だが、これはあくまで株価の変動の問題に過ぎない。株価というのは、つねに何かしらの影響を受けて上下動している。悪いニュースがあれば、当然それを反映して急落する。しかし、下がりっぱなしというわけではない。もし株価が下がったまま元の水準に戻らなければ、明確に「170億円の損失が出た」と言える。だが、まず下がりっぱなしということはあり得ない。スシローほどの大手ならなおのことだ。緩やかにであれ、株価は元の水準に回復していくはずである。現在ではすでに、元よりも高値を付けているかもしれない。
当時、投資家の中には損益を出した人もいるのかもしれない。だが、スシローが170億という現金を失ったわけではないのだ。これは株式市場の性質を鑑みれば、ごく常識に属する話である。しかし、この迷惑動画事件を報じる際、マスメディアは、株式市場のこのような性質を合わせて伝えることをしなかった。それにはいっさい触れず、ただひたすら「約170億円の損失」を強調していた。これは明らかに偏向報道である。
何故マスメディアは、このような偏向を行ったのか。理由は明白だ。そのほうが「ニュースが売れる」からである。事件の被害規模が大きければ大きいほど、テレビは視聴率が、新聞・雑誌は部数が伸びる。マスメディアは、人々の耳目を引き、より多くのカネを稼ぐために、あえて株式市場の性質を伏せ、「約170億円の損失」ばかりをやたらと強調したのである。マスメディアは、利益のために人々をミスリードした。結果的に、ニュースは売れた。そして迷惑動画の制作者は、「170億円の損害を与えた」という、誤った汚名を着せられてしまった。今でも誤解している人は大勢いるし、「一生かけて働いて170億返せ」という中傷もある。すべては偏向報道のせいである。

また、マスメディアがよくとりがちなのが、単純な善悪二元論に基づいての報道である。マスメディアは、事件を報じるにあたって、まず善と悪を明確に決めようとする。そして、ひとたび善悪が決まれば、「善」とされた者(あるいは集団)に関しては良い情報しか流さず、「悪」とされた者(あるいは集団)に関しては悪い情報しか流そうとしない。善と悪という、決められたイメージに沿った情報しか出そうとしないのだ。
現在も継続中の、ロシアとウクライナの戦争においても、それは見られる。この戦争は、ロシアがウクライナを侵攻したことにより始まった。ロシアは大国で、ウクライナは小国である。これらの事情から、日本のメディアはウクライナを支持し、ロシアを批判する立場を取った。ウクライナを「善」、ロシアを「悪」とすることに決めたのだ。ひとたびそのような決断がなされると、「善」と「悪」に基づいた情報ばかりが選択されるようになる。ウクライナに関しては「善」のイメージに沿うよう、善良な言動の情報ばかりが、ロシアに関しては「悪」のイメージ通りの、残酷な言動の情報ばかりが、選択的に報じられるようになったのだ。今もなお、それは続いている。
いくら侵略された祖国を防衛するという大義があったとしても、ウクライナ兵の全員が全員清廉潔白であるはずがない。ロシア兵ほどではないにせよ、多少は残虐行為・非人道的行為を働いているはずなのだ。それが戦争というものだ。だが、日本のメディアはウクライナ側のそのような行為を報じようとはしない。「ウクライナ=善」のイメージを崩さないよう、あくまで「暴虐な強国に立ち向かう勇敢な戦士達」として報じようとする。当然ロシアはその逆だ。このように、マスメディアは単純な善悪二元論で世の出来事を捉えようとするのである。
これは何も、「ウクライナとロシア、どっちもどっち」という話ではない。まして、「残虐行為・非人道的行為を行っているウクライナを支持すべきではない」と主張しているわけでもない。ウクライナが被侵略国である以上、そちらを支持するのが道義的であることに疑いの余地はない。それはそれとして、日本のメディアでは露骨な偏向報道が行われているということを指摘しているのである。確かに、支持すべき側、侵略された側であるウクライナの残虐行為・非人道的行為を、あえて報道する必要性はないのかもしれない。大事の前の小事として目を瞑るのが、筋の通った判断であるのかもしれない。しかしそれでも、そのような善悪二元論に基づいた偏向報道が視聴者を辟易させ、マスメディア離れを起こさせてしまった原因であることもまた事実なのである。また、戦場で発生しているすべての出来事を報じることなど不可能で、どうしたって取捨選択は必要になってくる。それはやむを得ないことだ。だが日本のマスメディアは、何を切って何を選び取るかの選択が偏り過ぎている。アンバランスが過ぎるのだ。

今回の兵庫県知事選、兵庫の有権者からは、「斎藤さんがあまりにも一方的に批判されてるので、自分で調べてみようと思ってSNSを見るようになった」という声が聞かれた。斎藤元彦もまた、善悪二元論によって「悪」と判断されていた。「一方的な批判」とは、「悪」のイメージに基づいた、偏った裁断のことである。人々は、幼児向け物語のような、あまりにも単純な善悪二元論に、ウンザリしてしまったのだろう。
僕自身は、今回の兵庫県知事選、及び斎藤元彦に関して、SNSやYouTubeでの情報収集をいっさい行っていない。情報は、マスメディアからしか得ていない。なので、ひょっとしたら僕の印象も偏っているのかもしれない。今回の件でもマスメディアが偏向報道を行っており、僕はそれに毒されているのかもしれない。なので、選挙結果の良し悪しについては言及しない。また、斎藤が知事に、公人に相応しい人間であるかどうかを評することもしない。その人格を云々することもしない。ここではあくまで、「マスメディアとSNS」に焦点を当てて議論する。
マスメディア関係者は、SNSを主な情報源とする大衆に呆れているのかもしれない。「フェイクニュースが氾濫するSNSを信じるなど、なんと愚かなことか」と。だが、そもそも大衆がマスメディアから離れ、SNSに流れていったのは何故なのか。マスメディアが信頼を失ったからではないのか。単純な善悪二元論によって、故意に特定の情報を報じようとしない偏向報道によって、人々が愛想をつかしてしまったからではないのか。
マスメディア関係者は、SNSを主要な参考元とする人々を、愚かだと思い込んでいるのかもしれない。だが、本当にそうだろうか。人々は、まともに考える頭がないからフェイクニュースだらけのプラットフォームに飛び込んでいるのだろうか。それは違うと思う。確かに、中には明らかに矛盾した陰謀論に安易に騙されてしまうような短絡思考の人もいる。だが、それはあくまでごく一部。大多数の人々は、SNSに誤情報が含まれていることなど、重々承知している。承知の上で、SNSを参照しているのだ。
では、何故誤情報だらけのSNSを、あえて参照するのか。それは、「偏向報道を含むマスメディア」よりも「フェイクニュースを含むSNS」のほうがマシだ、と判断したからである。人々は、「偏向報道を含むマスメディア」と「フェイクニュースを含むSNS」を天秤にかけて、SNSのほうが「よりマシ」と判断した。だからマスメディアよりSNSのほうが参照されるようになったのだ。愚かだからではない。偏向報道を繰り返すマスメディアが、人々に見限られたのだ。マスメディア関係者が、その社会的地位に甘んじ、自らの偏向報道を顧みずに反復し、自分達はSNSなどとは違ってフェイクニュースなど流していない、自分達は木鐸だと思い上がっているあいだに、人々の心は、社会的関心は、少しずつSNSのほうへ移っていったのだ。マスメディア関係者は、事あるごとにやれメディアリテラシーだ、ファクトチェックだと、偉そうにお題目を並べてみせるが、その厳しい目を自分自身に向けようとはしない。そして、それが人々から愛想をつかされた原因であるとは、夢にも思っていない。
「フェイクニュースを含むSNS」には、確かに問題がある。でも、「偏向報道を含むマスメディア」にも、それと同じくらい問題がある。両者には、「どちらのほうがマシか」という差があるだけだ。なら、両者を比較考量して、「よりマシ」なほうを選ぶのが賢明な判断である。多くの人々にとっては、SNSのほうが「よりマシ」なのだ。「偏向報道を含むマスメディア」のほうが、問題がより大きいと判断された。それだけのことだ。マスメディア関係者は、「(意図的な)フェイクのないマスメディア」と「フェイクニュースを含むSNS」の2択と思っているのかもしれないが、そうではない。「偏向報道を含むマスメディア」と「フェイクニュースを含むSNS」の2択なのである。マスメディア関係者は、そのことに気づいていないのだろうか。そして、それを踏まえると、今回の兵庫県知事選、斎藤元彦が再選を果たした選挙であると同時に、「マスメディアがSNSに敗北した選挙」だったと見做すこともできるだろう。

この傾向は近年急速に発生したのではなく、30年ほど前から緩やかに生じていたのだと思う。元々社会情報の発信元の立場をほぼ独占していたマスメディアは、インターネット誕生以降、その信憑性を徐々に相対化されていくことになる。その後、YouTubeなどの動画サイト、X(元Twitter)やTikTokなどのSNSが生まれた。マスメディア以外の情報源がどんどん増えていった。その果てが、今現在のこの状況である。「マスゴミ」という侮蔑語が生まれて久しい。マスメディアの信頼は少しずつ失われ、人々は他の媒体、主にSNSを参考元とするようになっていったのだ。
今回の兵庫県知事選挙で、多数派が逆転したのだろう。ネットが普及して以降の傾向として、マスメディアを参照する人が徐々に減っていき、それに反比例してSNSを参照する人が増えていたが、今回の選挙で、その数が逆転した。SNSを参照する人の数が、ついに多数派になったのだ。斎藤元彦に関する報道が、その流れをより加速させてしまったのかもしれない。今回の兵庫県知事選、「マスメディアがSNSに敗北した選挙」であったが、それは角度を変えてみれば、「大多数の人々がマスメディアよりSNSを情報の主要な参照元とするようになった、分水嶺の選挙だった」ということだ。今回の選挙で、決定的な切り替わりが起きたのだ。
ただしこれは、「今後の選挙はすべてSNSによって勝敗が決するようになる」ことを意味するわけではない。今のところはまだマスメディアにも力がある。しばらくのあいだは、「SNSが勝敗に大きな影響を与える選挙」と「マスメディアが勝敗に大きな影響を与える選挙」が混在する状況が続くだろう。そして徐々に、「SNSが勝敗に大きな影響を与える選挙」の割合が増大していく、という流れになるはずである。
恐らく、この流れは当面変わることはないだろう。人々は今まで以上にマスメディアから離れていき、SNSを主な情報源にしていくことだろう。マスメディアにまったく触れなくなるとまではいかないだろうが、あくまでSNSの補助、SNSの不足分を補完するため、もしくは参考のため、あるいは――マスメディア嫌いの人達がそうしているように――批判的視聴のために軽く触れる程度になっていくことだろう。それが現状の日本の傾向である以上、避けることはできない。では、この流れは歓迎すべき事態なのだろうか。マスメディアを参照するのはやめて、SNSに頼っていくべきなのだろうか。
今、テレビも新聞も見ない若者がどんどん増えているという。対して、SNSは仲間内で話を会わせるためにも閲覧必須の媒体となっている。中高年ですらSNSの利用者が増加しているのだ。その傾向を踏まえると、マスメディアは廃れるいっぽうで、SNSは益々栄えるばかりに思える。これは望ましい傾向なのだろうか。それがこれからの、理想の社会像なのだろうか。
それは違う。何度も繰り返しているように、SNSには少なからずフェイクニュースが含まれるからだ。ある程度の審査力と情報力が備わってない限り、フェイクの完璧なより分けは難しい。その判別能力を、市井の人々全員に求めるのは、要求の度合いが高すぎる。SNSは、誰でも情報を発信することができる媒体である。故意に噓情報を垂れ流すことも容易だ。その情報の責任を取る最終的な主体は、――情報開示請求や民事訴訟といった手段を採る場合を除いて――今のところ存在していない。いくらでもやりたい放題なのである。
現に今回の選挙では、立候補者のひとり、前尼崎市長の稲村和美が、「外国人参政権を認めようとしている」とか「県庁の建て替えに1000億かけようとしている」といった誤情報を拡散されていたらしいし、稲村の支援組織「ともにつくる兵庫みらいの会」のXアカウント「ともにひょうご」が、不特定多数のユーザーからルール違反の通報をされ、2度にわたって凍結されたという。これらは選挙結果に大きな影響を与えたはずだし、明らかにSNSの負の側面と言わざるを得ない。このような問題含みのSNSを主な情報源とするのは、あまりにリスクが高い。マスメディアからSNSへ移っていく流れを、諸手を挙げて歓迎するわけにはいかない。
それに普通に考えて、SNSの利用者が増えれば増えるほど、自分の意見や思想を広めたい人や、人々を混乱させたい愉快犯などによるフェイクも増えていくはずである。閲覧者が多いほど利用価値が高いわけだから、都合よく利用してやろうと企む者が、そのぶん出てくるはずなのだ。だから、当面のあいだSNSユーザーが増え続けるということは、同時にその中のフェイクニュースも増加のいっぽうを辿るということに他ならない。フェイク以外の情報も並行して増えるだろうから、割合的にはさほど変化はないかもしれない。だが、フェイクの数がフェイク以外を圧倒するような状況にならないとも限らない。その可能性を思うと、やはりSNSが一番参照されるのは危険性が高い。

ひょっとしたら将来的には、フェイクニュースを完璧に削除できるシステム、もしくはフェイク情報を発信したユーザーを即排除できるシステムがSNS内に構築されるのかもしれない。僕はこの手のメカニズムにはさっぱりなので、確定的なことは言えないが、そういう未来もあり得るのかもしれない。だが、そうはならないかもしれない。SNSは今まで通り、悪質な嘘が垂れ流される、問題含みのプラットフォームのままであるかもしれない。むしろそちらのほうが、蓋然性が高そうである。なら、人々が社会情報・政治情報を収集する主な媒体が、SNSであり続けていいはずがない。嘘を付かないことを自らに課している、マスメディアがその任を担うべきである。マスコミ嫌いの人などは、「マスメディアはこのまま先細りして消えてなくなればいい」と考えているのかもしれない。でも、僕はそう思わない。情報の責任を負う主体が存在しないプラットフォームが、主要な情報源であっていいはずがない。やはり主要な情報源はマスメディアであるべきなのだ。
マスメディアは、謝罪はしても反省はしない、という問題点もある。例えば、不適切な取材や報道が行われた場合。その際は会社として謝罪文が発表される。だがそれでキチンと反省し、同じことを繰り返さないかといったら、そうではない。何食わぬ顔をして、また繰り返すのである。どうせ視聴者はすぐ忘れるとタカをくくっているのか。視聴者は大勢いるので、多少嫌われようが物の数ではないと開き直っているのか。倫理や道徳、ルールよりも収益が大事という思考から抜け出すことができないのか。これは長らく未解決の案件で、やはり人々の関心を離れさせてしまった要因のひとつである。
この反省のなさも、多くの人がマスメディアを良く思っていない一因なのだが、それでも僕はSNSよりマスメディアが主な情報源であるべきだと思っている。反省が乏しかろうが、同じ過ちを繰り返そうが、曲がりなりにも「責任を取る主体」として存在しているのがマスメディアだからだ。「責任を取る主体」は、反対意見を受け止める覚悟を持って活動している。そこが無責任な匿名者ばかりのSNSとの違いだ。反省すべきは反省し、同じ過ちを繰り返さないよう、社内体制と個々の意識を改めるべきではあるのだが、それはそれとして、「責任を取る主体」としてあり、放送法やBPO(放送倫理・番組向上機構)といった縛りのもとで情報発信しているのは、SNSと比較して、やはり大きなアドバンテージだ。そのような在り方を鑑みれば、本来マスメディアが一番信頼に足る媒体であるはずなのだ。なのに、そうなっていない。これはやはり偏向報道(及び反省のなさ)のせいである。
だからマスメディア関係者は、今こそ人々の信頼を取り戻す努力をすべきなのである。SNSの情報を信じる人々を愚かだと、高みから嘆いている場合ではない。SNSのフェイクニュースを、声高に批判している場合ではないのだ。それよりも、その批判の目を、自身の偏向報道に向けるべきなのである。元を辿れば、マスメディアが偏向報道を繰り返したせいで、人々はSNSへと流れていったのだから。マスメディアとSNSを比較して、「自分達マスメディアにはフェイクはない」と自負しても、なんの意味もない。そんなことは、みんなわかっているのだ。みんなが問題視しているのは、フェイクではなく偏向なのである。マスメディアの偏向報道のせいで、「フェイクを含むSNSのほうがよりマシだ」と判断されるようになってしまったのだ。マスメディア関係者は、まずそこに気づかねばならない。
自身の過去を振り返り、その体制を捉え返し、反省点をえぐり出す。そのようにして、自分達のどこに問題があったのか、何故人々は自分達から離れていったのかを明らかにする。そうした作業を通して、偏向報道を正していかねばならない。そうすることによって、SNSに移っていった人々を、再びマスメディアに取り戻さねばならない。流出する一方の流れを逆転させ、流入に転じさせねばならない。意図的な嘘は付かないプラットフォームこそが、真に情報の参照元たるに相応しいのだから。大多数の人々がマスメディアの偏向報道に辟易したように、いずれみんながSNSのフェイクニュースに辟易する日が来るかもしれない。その時が流れを逆転させるチャンスである。それまでに偏向を正しておけば、「参照元に一番相応しいのはマスメディアだ」と再認識してもらえるだろう。
それがマスメディア関係者にできるだろうか。単純な善悪二元論の報道は、稚拙な幼児向け番組そのものでしかないが、自己中心的な思考しかできない幼児の頭では、反省することはもとより、反省すべきと思いつくことすらできない。だから偏向報道には目を向けず、フェイクニュースを嘆いてばかりいるのだ。その過ちに気づけるだろうか。

今から5~10年後に今回の選挙を振り返って、人々は、マスメディア関係者は、どのような感想を抱くだろうか。「あれ以降SNSがすべてを決するようになってしまった。フェイクが真実としてまかり通る世の中になってしまった」と思うだろうか。それとも、「あれをきっかけとしてマスメディアが偏向報道を正してくれたお陰で、多くの人々は、信頼性の高い情報を参照するようになった。マスメディアが生まれ変わってくれてよかった」と思うだろうか。どちらになるかは、これからのマスメディア関係者の意識にかかっている。正しく反省することができるだろうか。高みからSNSを見下す態度を改めることができるだろうか。「意図的な嘘は付かないマスメディア」と「フェイクニュースを含むSNS」の比較ではなく、「偏向報道を含むマスメディア」と「フェイクニュースを含むSNS」の二者択一が起きているということに、気づけるだろうか。優先的に問題視すべきは、(SNSの)フェイクニュースより(自分達の)偏向報道だと気づくことができるだろうか。人々は愚かだからフェイクを含むSNSを参照するのではなく、偏向報道に辟易したからマスメディアから離れていったのだということが、理解できるだろうか。偏向報道を改めることで、SNSに移っていった人々を、自分達のもとへ取り戻すことができるだろうか。
これから先、どのような未来が来るのか。「フェイクニュースに踊らされる人々が増える未来」が来るのか、「情報に責任を持つ主体が発信する媒体がもっとも多くの人から参照される未来」が来るのか。それは、これからのマスメディア関係者の取り組みにかかっている。
そんなことを考えさせられた兵庫県知事選だった。

一枚絵・『クムラン』

2024-12-09 23:45:56 | イラスト



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