速水融の『歴史人口学で見た日本 増補版』(文春新書)を読んだ。
速水は日本の歴史人口学の第一人者で、最近では、新型コロナウイルスが流行する前に上梓した『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ――人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店)が、コロナを理解する手掛かりになるとして注目を集めたことでも知られている。本書は、「宗門改帳」という、江戸時代にキリシタンの禁圧を目的として作成されていた人口調査の記録をもとに、昔の日本の家族構成はどのようなものであったか、平均寿命や平均初婚年齢、平均的な子供の数はどうであったか、また、それらの数字の時代ごとの推移や地域差、そして、それらデータから浮かび上がってくるかつての日本社会の描写など、「人口」という観点から日本の歴史をとらえた一冊である。
速水はこの中の第四章「虫眼鏡で見た近世――ミクロ史料からのアプローチ」で、1600年から1620年の頃から徐々に変化が始まり、1670年に勢いが一番盛んだった「人口爆発」に触れ、それがどのような時代の条件を背景としていたか、どのような社会の変化や、人々の意識の形成をもたらしたかを説明している。少し長くなるが引用する。
では、そのころ何があったのかというと、とりもなおさず江戸時代が始まったのである。それが何を意味するかといえば、江戸時代以前というのは戦国時代で、兵農分離がなく、武士は農村に住んで、いざというときに一族郎党を引き連れて戦争に行った。しかし、江戸時代というのはそうではなくて、兵農分離が実施され、都市=城下町ができる。城下町というのは、その内部ではものをつくらないから、農村から城下町向けの生産が起こる。(中略)
都市で需要がつくられ、それに対応して農村がその都市に住む人のために市場向けの生産を始める。伝統的な農業というのは、そういう市場向けの生産はいっさい考えず、自給(自分で食うため)と年貢のために生産をしていた。自給と年貢は強制であり、働かなかったら飢え死にするか罰せられる。しかし、こんどの市場向け生産というのは、働けばカネになって戻ってくるわけで、そこで一挙に状況が変わった。
そうすると、どうすれば能率がいい生産ができるか、あの方法よりこの方法のほうが能率がいいという競争が起こり、結局、日本では農業生産形態のなかで小規模の家族経営がいちばんいいということになった。それはなぜかというと地形の問題がある。水田は水平でなければいけない。水平でなかったら水が流れ出してしまい、農業にならないから、真っ平にしなければいけないのである。そうすると、広い面積を真っ平にするのは難しいので、どうしても一つの単位が狭くなり、狭い面積のところを耕作するようになる。ヨーロッパやアメリカに行くと、畑というのは勾配があろうがなかろうが、ずっと長く畝が続いている。しかし水田耕作というのはそうはいかない。だから単位は小さい。
しかも、労働力が家族であるならば、朝から晩まで働く。働いて得たカネが家族に返ってくるからである。そういう条件の下では人間は一生懸命働く。(中略)農業は広い場所で作業が行われるから、遠くから見てサボっているのか働いているのかわからない。だからこそ社会主義では農業は失敗してしまう。農業は計画生産がいちばん難しいということなのだ。農業は自然依存度が高く、広い場所で生産が行われる上、人間はなるべく働くまいとする傾向があるから、極端にいえば一人の労働者に一人の監督がついて、サボった者は笞打たなければ働かない。しかし、労働が家族ということになると状況は変わるのである。
(中略)
ヨーロッパ型の農業発展は、人口に対して家畜の数が増えていく。そこで、いちばん初めに土地を掘り起こす犂は、一頭が曳いていたものが増え十二頭曳きまでいく。(中略)
しかし日本では、とうとう一頭曳きのものしかできなかった。しかも、日本は家畜を増やさず、だんだん農業に家畜を使わなくなっていく。(中略)
家畜数が減少したということは、それまで家畜のやっていた仕事を人間がやるようになったことを意味する。当時の馬は小さいから、馬一頭でも一馬力は出なかっただろうが、とにかく、馬を耕作に使う場合には、馬が犂を曳いて土地を掘り起こしていき、人間は倒れないように犂を支える。ところがそのようなかたちはなくなり、人間が犂いていくやりかた、夫が引っ張り、妻が後ろで支える方法に変わっていく。(中略)すなわち、家畜がいなくなってその仕事を人間がやる、畜力から人力へというエネルギーの代替が起こるわけである。
この変化は、ヨーロッパ型の農業発展とはまったく逆である。ヨーロッパは家畜をどんどん入れて、多大の外部エネルギーを導入する。これが工業で実現したのが産業革命である。日本はエネルギー源はマンパワーによるのであり、外部エネルギーではない。
(中略)
それではこの時代に農民の生活水準は落ちたのかというと、落ちていない。落ちていないどころかむしろ上がっているのである。たとえば、平均寿命が延びたり、旅行に出る者が多くなるなど、衣食住すべての面について生活水準が上がっている。(中略)
家畜は別名キャピタル、つまり資本である。経済学では生産要素としてふつう、資本と労働を考える。資本部分は大幅に増えて労働は節約する、つまり資本集約・労働節約というのが近代の産業革命、あるいは農業革命である。けれども日本の場合はそうはいかなくて、労働集約・資本節約、つまり資本が減り投下労働量は増えるという方向で生産量が増大することになる。(中略)
問題は、それによって農業に携わる人々の労働時間や労働の強度が大きくなっていくことである。いままで一日六時間ですんでいたものが、八時間、十時間働かなければならないとか、いままでは家族全員は働かなくてよかったのが、こんどは全員が働かなければならないというようになってくる。
そうなった場合に、農民のそういう状況に対する対応はどうであったのかというと、これは日本独特だが、日本人はそこに労働は美徳であるという道徳を持ち込んでしまった。もちろんヨーロッパでも、いわゆるプロテスタンティズムの倫理において、勤労によって得た利益は認められるという考え方が出てくるけれども、日本の場合は宗教ではなくて、実際の生活のなかで勤労は美徳であるという考え方ができ上がる。江戸時代にたくさんの農書が出されたが、そこには必ず、一生懸命働くことはいいことだと書かれている。
そうやって農民は働くようになったのだろうと私は思うが、もし一生懸命働いても、その成果が農民の生活水準の向上にはね返ってこないシステム、たとえば年貢で取り上げられてしまうとか、地主が取ってしまうようであれば、農民はけっして働かなかったであろう。ところが日本では、一生懸命働いて生産量が上がった場合、上がった分をそのまま年貢として取られたり、小作料として取られるというシステムにはなっていなかった。いくばくかは働いている農民のところへ還元された。それによって生活水準が上がるわけである。(中略)
私はこれを勤勉革命(industrious revolution)と呼んだ。つまりヨーロッパ型の発展は産業革命(industrial revolution)で、資本部分が大きくなって、労働資本比率において資本分が増えるかたちの変化。日本は労働部分が相対的に増える変化で、これを勤勉革命と呼んだわけである。(中略)この勤勉は、働かなくては食えないという「非自発的」な性格のものではなく、よりよき生活を、という動機をもった「自発的」な性格のものである。
私はこのことが、よくいわれる日本人は勤勉であるということにつながってくると考える。
この「勤勉革命」という造語によって速水が描出した江戸時代の労働観は、現代日本のそれとほとんど同じである。つまり、江戸時代に確立された日本人の労働に対する考え方は、現在に至るまでほぼ変容を被ることなく連綿と受け継がれてきたわけだ。
いかにも日本人らしい「真面目にコツコツ」という美学が、このような経緯によって形成されてきたということ、それ自体はなるほどというか、必然と偶然が入り混じった歴史の流れを感じるし、史実の正確な復元になっているのだろうと思う。しかしなんだか、モヤモヤしたものが残る。
速水は、一生懸命働けば働いただけ見返りがあり、生活水準が向上したから勤勉になった、と書いている。それは大枠においてはその通りなのだと思う。だが、いつの時代も、どこの地域でも、どの世帯でもそうだったのだろうか。
一生懸命働けば、必ず見返りが発生したのだろうか。いくら一生懸命働いても、見返りが得られない場合もあったのではないだろうか。
近代以前、人類はたびたび飢饉に見舞われてきた(正確には近代以降にも飢饉はあったのだが、ここでは議論をわかりやすくするため、あえて「定住農耕社会が成立してから近代を迎えるまで」と「近代以降」の対比で語ることにする。前者が「たびたび飢饉が起こる時代」で、後者が「飢饉がほぼない時代」という区分である)。品種改良した農作物や化学肥料や農薬がなかった時代、食品を長期保存する技術もほとんど確立されていなかった時代、旱魃などの悪天候や虫害の発生は、即食料不足に直結する危機的事態であった。今年が豊作であったとしても、来年はどうなるかわからない。そんな飢饉と隣り合わせなのが、(定住農耕が一般化して以降の)人類の常態だった。
そのような、食料の確保・供給が不安的な時代に、「勤勉の見返り」がつねに望めたはずがない。朝から晩まで必死に働いても、旱魃によって収穫がゼロになる、ということだって普通にあったはずなのだ。
速水は、この時代には「平均寿命が延びたり、旅行に出る者が多くなるなど、衣食住すべての面について生活水準が上がっている」とも述べている。しかし、それはあくまで平均値。飢饉が長引いて平均寿命が下がったりしたこともあれば、資源が乏しくて衣服がほとんど調達できない地域もあったり、旅行に行くなど夢のまた夢だった貧農だっていたはずなのだ。
だから、一生懸命働くことはいいことだという日本人の道徳は、つねに見返りを得られたことからくる功利的なものばかりではなく、一生懸命働かないと最低限の食い扶持も確保することができないかもしれないという切迫した事情、あるいは強迫観念のようなものが根幹にあったのではないだろうか。
仮に豊作の年があって、食生活が豊かになったとしても、それは一時的なものだったはずなのだ。長期保存できる食料は穀物や干物くらいだし、それだって虫に食われてしまうこともある。食生活が豊かになるのは、せいぜい豊作のあと1年間だけ。その先はどうなるかわからない。
そんな「食料の確保が不安定な時代」の労働の見返りなんて、たかが知れているのではないか。現代のように労働の成果を金銭に換え、それを貯蓄できるのであれば、預金通帳の額を増やすことによって、将来の安定した生活を見込むことができる。貯金額の増加こそが勤労の成果であり、その数字が大きければ大きいほど見返りが得られたことになる。
しかし、今ほど市場経済・金融経済が確立されていなかった時代、現金よりも現物給付で暮らしを営んでいた時代、勤労による見返りは、有効期限が1年程度の、ごく短いものであった。そんな時代に、「見返り」がそれほど強いインセンティブになるだろうか。見返りよりも、むしろ「必死に働かなければ飢え死にするかもしれない」という恐怖心がその動力となっていたのではないだろうか。
つまり、「働けば働くほど見返りが増え、生活水準が向上する」ような場合もあるにはあっただろうが、いつの時代も、どこの地域でも、どの世帯でもそうだったわけではなく、コツコツ真面目に働いた成果が、旱魃や台風などの災害によって水泡に帰してしまうような場合もあったはずなのだ。だから、一生懸命働くことはいいことだという道徳は、勤勉であれば必ず自分の利益の増大に直結するという功利主義的な考えに基づいてもいたが、そればかりではなく、「そういうふうにでも考えなければ日々の辛い労働に耐えられない」という、過酷な現実から目を背けるため、暗示をかけることを目的とした、言わば現実逃避のための道徳だったという一面もあるのではないだろうか。
そしてそれは、過ぎ去った過去の話ではない。今もなお、「一生懸命働くことはいいことだ」と思わなければ乗り越えられないような、辛い労働に日々耐えている人たちがいるのだ。だからこそ日本人の労働観は江戸時代から現在まで変化しなかったのかもしれない。
こんな話をしているのは、僕が怠け者だからでもある。日本人は、とにかく仕事が大好きで、仕事こそ生き甲斐という人が多い。生き甲斐とまではいかなくても、仕事がないと何をしていいかわからなくなる、という人だって数多くいる。
僕としては信じられない感覚なのだが、それが多数派の意見なのである。だが、それで世の中が滞りなく回っていけるなら何も問題はない。怠け者がとやかく言う筋合いのことではない。
しかし、勤労は美徳であるという道徳のせいで覆い隠されている理不尽があるのではないか。また、これから先はどうなのか。勤労は美徳だというのが主流の考えだと、将来何かと不都合になってきはしまいか。
まずは第一の点について。先に述べたように、頑張ったぶんだけ見返りが望めるからではなく、日々の辛い労働をなんとか乗り切るために「一生懸命働くことはいいことだ」という道徳を信じ込んでいる人だっているはずだ。マルクスが「宗教は人民のアヘンである」と言ったように、「労働に耐えるためのアヘン」として、勤労の美徳という観念がある。そういう一面があるはずなのだ。
なら、「一生懸命働くことはいいことだ」という道徳は、労働の現場における理不尽から目を逸らさせたり、それが存在していないかのように振る舞わせてしまう効果だってあることになる。過労死スレスレの長時間労働。従業員を薄給でこき使うブラック企業。若者の夢ややりたいことにつけ込んだ「やりがい搾取」・・・。労働基準監督署が対応すべきこれら諸問題は、勤労の美徳によって覆い隠されかねないものだ。
労働の問題を労働の問題として正しく直視するためには、「一生懸命働くことはいいことだ」という道徳は邪魔だったりする。解決すべき問題があるのにそれを直視できなかったり、そもそも問題を立てることすらできなくなってしまいかねない。
一生懸命働くことはいいこと。だから文句を言わず頑張りましょう。そんなふうにして、労働現場の問題は覆い隠される。美徳によって苦痛は肯定され、頑張りはお金に換算できない価値として評価されるのだ。その評価は、本人にとっては自己満足という錯覚でしかないのだが。そして、その錯覚で苦痛を誤魔化し続けているうちに過労死してしまうことも少なくないし、そのうえ雇用者側はお金の代わりに自己満足という飴を与えることで不当な利益を得続けることになるのだが、勤労を美徳とする人たちは、その現実からつねに目を逸らしている。
今こうしているうちにも過労死へと追いやられている人たちがいるし、死に至らないまでも、心を病んで長期療養を余儀なくされる人だっている。そのダメージがあまりに大きいと、一生仕事復帰できなくなってしまうかもしれない。これら諸問題は、勤労の美徳を旨としていると、直視するのが難しい。
男などはよく、「寝てない自慢」をしがちだ。「長時間働いているほうが偉い」(=睡眠時間を削っているほうが偉い)という価値観がはびこっているからだ。世の中には、「1日3時間睡眠を30年続けている」ような人もいる。しかしそれは特殊例。一般的には、睡眠時間が短いほど寿命が短く、病気にもなりやすい。徹夜しているほうがカッコイイという、馬鹿げた美学がはびこっているから過労死も起こるし、心や体を病む人も増えるのだ。「寝てないほうがカッコイイ」などという美学は馬鹿げている。しっかり睡眠を取ったことを自慢する世の中になるべきだ。
それから第二の点。これから先も、勤労は美徳だという道徳は、主流の考えであり続けるのだろうか。仮にそうだとして、何か新たな弊害が生まれてこないだろうか。
たとえば、今後AIが人間の仕事を代行するようになる、という未来予想。これが事実だとすれば、これからは数多くの人が働かずに暮らしていけるようになる。これまでの歴史を振り返ると、技術革新などのイノベーションが起きた場合、新技術によって既存の仕事(職種)が失われるものの、社会が変容することでこれまでにはなかった新しい仕事(職種)が創出され、一時的に多くの失業者が出はするが、最終的には新しい雇用に吸収される、というのがお定まりのパターンであった。ならば、近々訪れるであろう人間とAIの置き換わり、いわゆるシンギュラリティもまた、新たな雇用(職種)の創出によって、落ち着くところに落ち着き、人々はそれを新しいライフスタイルとして受け入れるようになるのかもしれない。
しかし、必ずしも歴史は繰り返すとは断定できない。今回はこれまでとは違う推移を辿るかもしれない。もし、新たな雇用が創出されなかったらどうだろう。AIが人間の仕事を代行していく一方で、人間の仕事は減り続けるばかりになったらどうだろう。
もしそうなったら、「一生懸命働くことはいいことだ」という道徳が主流の考えだと、精神的に辛くなるのではないだろうか。働くことばかりがそんなに価値のあることではない、ほかにもいろんな価値があり、それらは相対的なものだと考えるべきではないだろうか。そのように考えを改めないと、のちのち辛くなるのではないだろうか。
AIが人間の代わりに働くようになるとして、それはただ単に人間が失業することを意味するわけではない。恐らくはベーシックインカムの導入によって最低限の生活を保障され、裕福とまではいかなくても、貧しさは感じない程度の暮らしを送っていけるようになるはずだ。
ベーシックインカム。全国民に毎月一定額の現金を給付する制度。すべての国民を経済的に補填し、最低限の生活保障を指向するものである(現物給付という案もある)。
このベーシックインカム、よく「財源はどうするんだ」と批判されるが、その調達はそれほど難しいことではなく、現状でも国家予算の振り分けを少し変えることで確保できるのだという。つまり、ベーシックインカムが実現できるかどうかは、国家予算の多寡の問題ではなく、その給付先の土壌の問題なのだ。今の日本社会は、勤労の美徳が支配的だからベーシックインカムが受け入れられない。働かないで飯を食うとは何事だという考えが一般的だから受け入れられないのである。なら、価値観の転換を図ればいい。
また、AIが仕事をするようになれば、AIが稼いだお金に「AI税」という税金をかけ、それをベーシックインカムに回すようにしてもいいはずだ。AIはお金を使わないから、税率は高めにしても問題ないだろう。
そのような、「働かなくても必要最低限の生活費を保証される社会」が実現すれば、勤労の美徳は不要になるし、むしろ人間を苦しめかねない。仕事をAIに奪われた自分はなんとみじめなのだと。人としての尊厳をAIに奪われたに等しいと。そのような苦悩をかかえながら生きていかなくてはならなくなるかもしれない。
だからこそ、勤労は美徳であるという価値観は、相対化される必要があるのだ。働くことばかりが価値のあることではない。仕事以外の、様々な活動にだって、仕事と同等の価値を見出すことができる。・・・そのような相対化が必要になってくるはずだ。
AIに仕事を「奪われる」のではない。仕事を「代行してもらう」のだ。仕事を肩代わりしてもらうことで、自分はほかの、何か違う価値のある営みに注力する。あるいは何もしない「無為」を楽しむ。そういうふうに考えるべきなのだ。
さもないと、不可逆的に進行するであろうAIの発展と導入を、肯定的に受け入れることができない。この流れが不可避である以上、我々は肯定的に受け入れなければならない。それができないなら、精神的に辛くなる。辛さを回避するために、働くことの価値・勤労の美徳という観念を問い直さねばならないのだ。
これはニートや引きこもりの問題とも絡んでくる。外国人から、日本人は勤勉であるとか、接客の態度が素晴らしいなどの称賛をよく受ける。これは日本人の誇るべき美点としてよく語られている。だが、本当にそれは肯定的にとらえるべき長所なのだろうか。
例えば、新幹線の清掃員。彼らのスピーディーな仕事ぶりは、「7分間の奇跡」としてよく知られている。清掃員ひとりにつき1両を担当し、約100席の掃除をこなす。7分以上かかることはまずないという。この早さのお陰で新幹線は発着時間がほとんどズレることのない、正確なダイヤ運行を実現できている。その手早さは外国人の称賛の的となっており、日本側も誇りのひとつと自負している。
だが僕は、なぜあれほど早く作業せねばならないのだろうかと思う。彼らのことを誇らしく思うよりも、気の毒に思ってしまうのだ。なぜもっとゆっくり清掃作業をさせてあげないのだろうか。少しスピードを落としたところで、発車時間はせいぜい2,3分遅くなるだけだ。その程度の時間のゆとりもないのだろうか。新幹線というのは、そんなに慌ただしく運行せねばならないものなのだろうか。
「手早く作業する」のは、けっこう快感だったりする。テキパキ仕事をこなしたり、作業時間を短縮したりするのは、労働の喜びだったりする。それは経験上理解できる。だから、清掃員の人たちが一概に可哀想であるとまでは言わない。ただ、手早く作業できる人も、そうではない人も務まるわけではなく、7分を超過してしまう人は排除されるような、労働条件の過酷さに疑問を呈しているのである。
ほかにも、接客業。日本人の礼儀正しさ、細やかな心配りは、接客の姿勢に端的に表れているとされる。これもまた、日本を訪れた外国人が称賛するところである。
この接客業の礼儀正しさ、気遣いの良さは、「こうじゃなければならない」という基準の、終わりなき増殖によってもたらされている。お辞儀の角度は何度でなくてはならない。何もしていない時には規定の姿勢で立ってなければならない。こう言われた場合はこう返さなければならない。髪型はこうでなくてはならない。服装はこうでなくてはならない・・・。
これら無数の「なければならない」によって、接客業の人々はがんじがらめにされている。その縛り、締め付けに耐えることで、世界に誇る、日本の接客態度は維持されている。だが僕は、そこまでの礼儀正しさ、そこまでの気配りは必要なのだろうかと思うのだ。
「覆面調査員」という仕事がある。一般客を装って来店し、従業員の接客態度や店内の衛生状態をチェックする、という仕事だ。チェック項目は多岐に渡り、よほど完璧な従業員でなければパーフェクトは取れない。この査察を踏まえて反省点を炙り出し、接客態度のさらなる向上を目指す。それが覆面調査の目的である。従業員の立ち居振る舞いや店内環境の改善のために有益な調査であると、大半の人には概ね好意的に見られている。でも僕はそう思わない。覆面調査員には、陰湿なものを感じてしまう。覆面調査というやり方が陰湿に思えてしかたないのだ。
この覆面調査の特徴、加点式ではなく減点式である。100点満点中70点取れればいいという加点式ではなく、100点未満は100点を目指す過程にあるとされる減点式。獲得した点数(+)に注目するのが加点式で、獲得できなかった点数(-)に注目するのが減点式である。この減点式が、日本人の接客業に求められる基本姿勢なのである。接客業の人々は、減点式という基本条件のもとで働かねばならないのだ。
70点に安住してはならず、つねに100点を目指さねばならない。しかもその100点の基準は、「もっとこうしたらいいんじゃないか」という意見によって絶えず修正され、日々精度を増し、達成が困難になっていく100点である。日本の接客業の人々は、このような減点式の査定の中にいる。
この厳しい減点式に研ぎ澄まされることで、世界から称賛される珠玉のサービス精神が培われているのだが、当然これに付いていけなくなる人もいる。70点くらいならなんとか出せるけど、100点目指して終わりなき努力を重ねなければならないのであれば、付いていけない。そんな人たちだって大勢いるはずなのだ。よって減点式は、そのやり方に付いていけない人々を排除する。排除することで成立しているのが減点式なのだ。
また、この数限りない「こうじゃなければならない」は、従業員が自らを律する姿勢のみならず、客の側からの、従業員を査定する視線にも侵食する。その挙げ句に生み出されているのが「客は神」などという暴論と、カスタマーハラスメントの横行である。カスタマーハラスメントを繰り返す人たちの多くは、恐らく、相手が逆らえない立場であることにつけこんで嫌がらせをしている、と自覚してはいない。相手のためを思い、その従業員が、その会社が少しでも良きものになるように働きかけている、というふうに思い込んでいるはずである。もちろんそれは錯覚でしかないのだが、無数の「こうじゃなければならない」というチェック項目で従業員を評価する、減点式の査定方法が常識としてある社会では、そう思えてしまうのである。今や接客業の人々は、「食べログ」などの評価サイトや、SNSの声によって、つねに脅かされている。「悪評」が店にとって命取りとなりかねないので、接客に神経質なまで気を遣わねばならなくなっているのだ。
僕は購入した商品やネットサービスについて、たまに問い合わせをすることがあるのだが、今や電話での対応を行っている企業は稀で、ほとんどがメール対応である。メールだと、応対者の方がこちらの意図を正確にくみ取れないこともあり、質問と微妙にズレた返答が返ってきたりして、ヤキモキする。電話で話せれば数分で済むのに、メールだと数日かけて何往復もやり取りをしなければならない。カスタマーハラスメントが横行しているから、対策として電話口をなくさざるを得なくなっているのだ。カスハラ被害は、スムーズな問い合わせの阻害にまで及んでいる。
5月11日に、「福岡県警察本部が、カスタマーハラスメントに該当するクレームへの対応指針を定めた」というローカルニュースが流れていた。去年の12月に警察官約1万人を対象にアンケート調査を行った結果、市民からの苦情対応に苦慮したことがあるという警察官が約8割にのぼり、そのうち約4割は心身に影響が出たとのこと。本来県民のために活動すべき時間が削られてしまっていることに対処したもので、電話なら30分以内、警察署での対応なら1時間以内など、一定の判断基準を設け、それらを超えた場合は対応を打ち切ったり、署からの退去を警告したりできるとする対応要領をまとめたという。警察本部としてカスハラに該当する行為に組織的対応を定めるのは前例がないそうだが、恐らくはほかの都道府県でも同様の問題に悩まされているはずで、これが先行事例として一定の成功を収めれば、ほかの警察本部も続くはずである。
警察はサービス業ではない。にも関わらず、カスハラに類する行為に悩まされているのだ。日本社会は今、ここまで来ている。
以前「アメトーーク!」の「パチンコバイト芸人」の回で、わらふぢなるおのふぢわらが、「昔は横柄な客がいたら、従業員数人で屋上に連れて行ってボコボコにしていたらしい」という話をしていた。率直に言って、いい話だと思った。ふぢわらが働いていた当時で50年ほど前の話だったそうだが、そういう時代もあったのだ。相手が客だからというだけで何をされてもペコペコするのではなく、店側が一定の規律を持ち、たとえ客であっても一線を越えたらそれに見合った制裁をくらわす。そのような規範が、暗黙のルールとしてパチンコ業界、もしくは接客業界に伏流していたのだ。それが今やどうだろう。心身に不調をきたしてもなお、頭を下げねばならなくなっている。
念のため断っておくが、店側が自警団的に暴力を振るうことを全面的に肯定しているのではない。無制限の暴力を肯定してしまえば、度を越えたリンチが起きかねない。店側が客に暴力を振るうようになればいいという話ではなく、客側が一方的な力を持つことを問題視しているのである。実際には客に暴力を振るう必要はない。いざとなればそのような手段を行使することも可能だという経営体制のほうが望ましいということだ。客が増長して王様のごとく振る舞うのではなく、店側に一定の敬意を払って接する。客と店が一定の緊張感を持って関わる。カスタマーハラスメントを横行させないためにはそのような緊張感が必要であり、その緊張感は、いざとなれば客をボコボコにすることもできるのだという暴力を背後に控えさせることで成立するのだ。
海外に目を向ければ、極端に無愛想で、やる気が微塵も感じられない従業員の人たちがいくらでもいる。客が来店しても寝そべったまま。ゆったりとした動きでの対応。笑顔もなく、愛想ゼロで、感謝の言葉もなし。
そんな人々を見ていると、「これがこの国のダメなところだ」とか、「日本はこうじゃないから経済発展できたんだ」などと思えてくるかもしれない。それは一面では正しい。でも僕は、その見方が唯一の正解だとは思わない。なぜやる気のない接客ではダメなのか。なぜ日本ほどの接客態度が理想とされねばならないのか。僕はやる気のない接客でも別にいいと思っている。
仮に、海外のやる気のない従業員を日本人が指導・監督するのであれば、間違いなくマニュアルを作るだろう。日本人が大好きなマニュアル。ああしなければならない、こうしなければならない。ありとあらゆる「こうじゃなければならない」によって、やる気のない従業員を縛りつけにかかる。それによって規律を植え付け、一定の型にはまった画一的な労働者を作り出そうとする。
そのような、マニュアルでがんじがらめにするやり方にも、うまく馴染める人はいいだろう。でも、馴染めない人、付いていけない人だって少なからず出てくるはずである。付いていけない人は、職場から排除される。無能、もしくは社会不適合者、もしくは怠け者の烙印を捺されたうえで追放される。無数の項目からなるマニュアルで従業員を規格化するというのは、そういうことだ。
このマニュアル化が過剰になり、行き着くところまで行き着いてしまっているのが現代の日本なのではないだろうか。僕はニートや引きこもりというのは、やる気がないわけでも労働意欲が皆無なわけでもないと思っている。働きたい気持ちもあるにはあるのだが、過剰なマニュアル化に付いていけず、脱落してしまった人たちなのだと思っている。
当たり前のことだが、世の中にはいろんな人間がいる。愛想のない人、テキパキ動けない人、気が利かない人、集中力が続かない人。そして、どんな人でも――貯蓄や福祉などの財源がなければ――働いて糧を得ねばならない。やる気がない従業員が普通に働いている国は、マニュアルがほとんど存在していない国だ。それは、いろんな人間を包摂する社会だ。愛想のない人だろうと、テキパキ動けない人だろうと、気が利かない人だろうと、分け隔てなく労働市場に包み込む。マニュアルで人をはじかない社会だ。
日本は、その真逆なのである。日本人の接客の態度は素晴らしい、素早く効率的に仕事をこなすと称賛されているが、それは過剰なマニュアル化の結果としてある。そしてその影で、過剰なマニュアル化に付いていけなくなった、数多くのニートや引きこもりを生み出しているのだ。
日本社会が抱える問題のひとつ、ニートと引きこもりの増加。これは、過剰なマニュアル化の代償としてある。過剰なマニュアル化によって、テキパキ働けて細やかな気配りができる労働者を一定数作り出すことに成功しているのだが、その代わりに、過剰なマニュアルに付いていけない人をも生み出しているのである。
「こうじゃなければならない」が際限なく増殖していく社会とは、速度が上がり続けるマラソンのようなものだ。速度が上がれば上がるほど、脱落者が増えていく。その「速さ」(=無数の「こうじゃなければならない」に下支えされたサービスの良さ)に、人々は称賛を送るかもしれない。しかしその陰では、多くの脱落者(ニートと引きこもり)を生み出してしまっているのだ。これが日本の労働現場の光と影なのである。
これを社会問題と認識している人はほぼいないので、マラソンの速度(「こうじゃなければならない」の増殖)は今後も上がり続けるだろう。それによって、ますますその速さについていけない人を生み出してしまうだろう。脱落者(ニートと引きこもり)は増える一方になるだろう。
ニートや引きこもりは、ただ単に怠けているだけとしか見做されない。でも僕は、それは違うと思う。彼らも働く意欲はあるのだが、日本の労働環境が厳格すぎて耐えられないのだと思う。だとすれば、日本社会が労働現場に過剰なマニュアル化を持ち込むことを止めれば、ニートや引きこもりも労働現場に参入し始める、ということになる。
それはつまり、愛想のない人、テキパキ動けない人、気が利かない人、集中力が続かない人を受け入れるということだ。彼らを包摂する社会になるということ。不愛想な従業員、無気力な従業員が当たり前に存在する外国のように。恐らく、マニュアルが過剰であればあるほどニートや引きこもりの数が多いという法則は、どこの国にも当てはまるはずである。
だから僕は、過剰なマニュアルを止めるべきだと思っている。ニートや引きこもりは一般的に本人のやる気の問題、私的な問題だと考えられている。だが僕はそうではなく、社会の側の問題だと考えている。ニートや引きこもりである本人が変わるのではなく、社会が変わることによってしか解決しない問題だと考えている。議論をわかりやすくするために、あえてニートと引きこもりだけを引き合いに出しているが、体を壊してしまったり、心を病んでしまったりして働けなくなる人もいる。過労死や過労自殺に追いやられてしまう人も。僕の主張は、それらすべての「労働現場からはじき出されてしまった人たち」を対象としているものと理解していただきたい。
職場においては、マニュアルのみならず、マナーの問題もある。現在はマナー講師という職業もあり、彼らは新米社会人を相手として、「一人前の良識ある大人」を育成すべく、様々な場面における立ち居振る舞いを教示している。
このマナー講師、基本的な、誰でも常識として理解できるたぐいのマナーを教えるだけであれば問題はない、と思う。だが、彼らはそれだけに留まらない場合が多い。彼らは、「こんなマナーがあるなんて知らなかった」とか、「こういう時のマナーなんて気にしたことなかった」といった、ほとんど誰も知らないマナー、社会全体の常識として登録されていないマナーをも持ち出すのである。それはつまり、彼らが自ら作り出したマナーだということだ。自分たちでマナーを作り出し、「これを常識としましょう」と提示しているのである。
マナーとは、相手を不愉快にさせないための気遣いである。だからこそそれは、「普通はこうすべきだよね」という、社会全体の暗黙の了解で決まってくるものだ。特定の誰かではなく、社会全体が決めるもの。それがマナーである。にも関わらず、マナー講師は自分の判断でマナーを生み出している。なんの権限があってそんなことをしているのかはわからない。自分が社会全体を代表できると思い上がっているのだろうか。いずれにせよ、彼らは恣意的、かつ闇雲にマナーを生み出し、「こうじゃなければならない」の増殖に一役買っている。
彼らは、そうすることで社会全体の礼儀作法の向上に寄与していると自認しているのかもしれない。だが現実には、「今自分のマナーは大丈夫か」「この場面でのマナーは何か」と、四六時中マナーに神経質になり、気が休まることのない病的な社会人を生み出してしまっているのだ。「この場面ではこれをマナーにしましょう」「こういう時はこうするのをマナーだとしましょう」という提案によって、際限なく増殖していくマナー。「これがマナーだ」と言い出さなければ誰も気にしなかったようなことでも、一旦マナーとされてしまえば、不快に感じるようになる。本来気にもならなかったはずのものが、マナーを増殖させたことで気になるようになってしまうのだ。
なぜマナー講師はマナーを増殖させるのか。そうすれば、自分たちの仕事が増え、ずっと安泰になるという計算があるのかもしれない。マナーを増やすことで、「自分が知らないマナーがあるかもしれない」と人々を不安にさせ、自分たちへの依頼を喚起する。そのような目的があるのかもしれない。人々の不安につけこんで儲けようとしている、マッチポンプ的商法ということだ。
マナー講師の人たちは、自分の仕事に誇りを持っているのかもしれない。自分たちが社会を上品にしていると自負しているのかもしれない。でも僕は、そう思わない。マナー講師という職業は、大幅に制限すべきと思っている。必要最低限の作法を教えるだけで、過剰なマナーは教えてはいけない。また、自分でマナーを作り出してはいけない。そのような制限をかけるべきだと考えている。そうしないと、日本社会の「こうじゃなければならない」は、増え続けるばかりだ。「こうじゃなければならない」が増え続けるということは、それに比例してニートや引きこもりも増え続けるということであり、社会がどんどん息苦しくなっていくということにほかならない。
マナーなどわざわざ人から教わらなくても、常識の範囲内、自身の肌感覚に従って礼儀をわきまえておけば、それでだいたい事足りる。我々が学ぶべきはむしろマナーではなく、他人の些細な言動にいちいち目くじらを立てない鷹揚さだ。無数の「こうじゃなければならない」を張り巡らせることは、社会の礼儀を向上させることではない。社会を息苦しくさせて、窒息する人を大量に生み出し、精神的に追い詰めることにほかならない。
増殖する「こうじゃなければならない」は、身だしなみにも及ぶ。かつて日本の一般住宅には、ほとんど風呂がなかった。週に1,2度程度の銭湯通いが平均的な慣習で、毎日風呂に入っている人などほとんどいなかった。データをきちんと調べたわけではないのだが、概ね1960~70年代まではそんな具合だったはずだ。人々の衛生観念はそのようなもので、他人の汚れやニオイにほとんど無頓着であった。わずか50~60年前まではそんなものだったのである。
それが今やどうだろう。毎日風呂に入っていなければ「汚い」と断じられ、男性は毎朝の髭剃りを、女性は化粧を常識として求められる。テレビは朝から晩まで消臭・除菌グッズのCMを流し、「いい匂いを漂わせましょう。臭いと嫌われますよ」と脅迫してくる。
「加齢臭」という言葉が使われるようになったのはここ20年くらいのことだ。この言葉が共通言語として登録されたということは、何を意味しているか。日本社会が、他者のニオイに不寛容になってきた、ということである。
元々は誰も気にしていなかった、もしくは、多少気にしてはいても言挙げするほどではないと思われていたことに言及するようになった、ということだ。ことはニオイだけに留まらない。ニオイに対する不寛容さは、他者全体に対する不寛容さに繋がるからだ。
清潔でなければならない。汚れていてはならない。乱れていてはならない。臭ってはならない。菌がいてはならない。今やこれらの、身体に関する「こうじゃなければならない」は社会に張り巡らされ、社会人はそれを内面化している。内面化されることで身だしなみは相互監視の網目の中に置かれ、少しでも汚れや乱れがあれば周囲から「汚い」との指摘を受ける。
「汚れ」に神経質になるということは、他者との親しい関係を取り結ぶことが難しくなるということでもある。なので、社会のデオドラント化が進めば進むほど、人間関係は希薄になっていき、中間共同体は空洞化する。日本人の生涯未婚率が上昇し、少子化が加速しているのもむべなるかなである。
食料品や医療品の製造・管理など、清潔さが必須の職場ならともかく、なぜそうでない所でまでそのような身綺麗さが求められなければならないのか。相互監視による身だしなみチェックでは、減点対象となれば社会人失格の烙印を捺されてしまい、人事考課にも響きかねない。生身の存在である人間が、なんらかのニオイを放っているのは当たり前のことである。なぜ他人のニオイに神経質になるのか。身だしなみなど、最低限の衛生状態を保っていてくれればそれでいいはずだ。細かい査定のまなざしを人様に向けるべきではない。
聞くところによると、最近10代や20代の中には、あまり風呂に入らない人が増えているという。本当に増えていると言えるほど、まとまった数が存在するのか。データを見たわけではなく、噂レベルの話を聞いただけなので、断定的なことは言えない。だが、それが事実なら歓迎したい。恐らく彼らは、過剰な衛生指向の揺り戻しとしてある。ほぼ無自覚であろうが、極端なデオドラント化を馬鹿馬鹿しく感じており、そこから積極的に降りるために、衛生にあまり気を遣わない生活習慣を選び取っているのだろう。
自覚なきアンチテーゼ。ニオイや汚れに神経質な日本社会の目を醒ましてくれるのは彼らだろう。
加点式ではなく減点式で評価する思考法は、労働現場だけに留まるものではない。それは私的な領域、家庭の領域にも入り込んでいる。そして、いつの間にかその思考法に頭を乗っ取られ、人生そのものを減点式でしか判断できなくなっている。
日本人は幸福感が低い、とよく言われる。それは各種統計調査にも表れている。なぜ自分は幸せだと思えないのか。人生を減点式でとらえているからではないのか。70点以上なら良しとする加点式ではなく、100点以外は100点を目指す途上にあるとされる減点式で考えているからではないのか。なぜ減点式でしか考えられないのか。なぜ加点式に改めることができないのか。減点式で思考し続ける限り、日本人はあまり幸せを感じられない人生を送り続けることになるだろう。(「70点以上なら良しとするのを加点式」と書いたが、これはあくまで一例であって、「加点式であっても最低70点は取らなきゃならない」ということではない。業種によって、企業によって、求められる最低ラインは異なる。「60点でいい」という職場もあれば、「15点でオッケー」という所もあるだろう。要は、100点(=完璧)を目指さないというのが重要なのであって、「ウチはそういう基準もないし、採点なんかしない」という職場があるなら、それでもいいのである)
また、減点式の見方が人間関係に入り込んだらどうだろう。多様性を重視し、個性を尊重するのが加点式の思考であるならば、細かい差異を際立たせ、嘲笑の的にするのが減点式の思考である。つまり、減点式はいじめの思考でもあるのだ。減点式の思考を良しとする社会は、いじめを良しとする社会でもある、ということだ。減点式の思考は、いじめの母体でもあるのだ。僕が覆面調査員に感じた陰湿さは、恐らくいじめの陰湿さと共通しているのだろう。
労働というテーマから逸脱してしまうが、このことは、登校拒否児童の問題とも無縁ではない。登校拒否児の数は、引きこもりと同様に増加の一方のようだが、学校現場も大人社会の影響で、少なからず減点式の思考が流れ込んでいるはずなのだ。公教育の現場は、大人社会の反映としてある。減点式の強化によって引きこもりが増加するように、登校拒否も増加の一歩を辿っているのだ。
だから僕は、減点式を止めて加点式にすべきだ、と訴えたい。仕事のみならず、私生活や人間関係もより良くするためには、減点式ではなく、加点式でなければならないのだ。労働現場が過剰なマニュアル化を止めない限り、ニートも引きこもりも増え続けるばかりで、けっして減ることはないだろう。
ただ、ひとつ断っておくが、僕はニートと引きこもりをなくすべきだとは考えていない。ニートも引きこもりも、本人がそのままでいいと思っているのであれば、周りがとやかく言う筋合いはない。問題視しているのは、ニートや引きこもりにとって、労働現場の壁があまりに高すぎるのではないか、ということだ。働いたほうが幸せになれるという人のために、労働現場に難なく参入できるよう、壁をできるだけ低くすべきだと主張しているのである。
減点式と過剰なマニュアル化。このふたつが日本の労働現場を、いや、それだけでなく日本人の私生活をも締め付け、日本人から幸福の実感を奪い取っている大本なのだ。放っておけば、今でさえうんざりするほど存在する「こうじゃなければならない」は、今後も増殖を続けるだろう。この流れを逆転させねばならない。オッカムの剃刀よりも鋭利に研ぎ澄まされた刃物によって、闇雲に増やされた「こうじゃなければならない」を切り捨て、マニュアルを必要最小限にまで彫琢する。接客は最低限のことをしてもらえれば、あとはとやかく言わない。そういうふうに労働観を転換させねばならない。
最近では服務規程を緩和し、服装や髪形を自由化している職場も増えていると聞く。いい傾向だと思う。頭の固い年寄りなどは、未だにスーツや制服じゃなければ「だらしない」などと非難するが、そもそも規則があるからだらしないと思えてくるのであって、それがなければだらしないも何もないのである。
過剰な「こうじゃなければならない」の羅列ではなく、必要最低限やってくれればそれでいいという鷹揚さへ。
100点未満をすべて不正解とする減点式ではなく、及第点取っていればあとは気にしない加点式へ。
細かい差異に目くじらを立てて非難・嘲笑する相互監視ではなく、差異を個性として尊重する寛容社会へ。
髪型や服装を細かく規定して労働者の個を殺し画一化する、ロボット製造工場のような職場ではなく、髪型や服装を自由化し、規則の「緩さ」が「働きやすさ」をもたらすような職場へ。
スピードや心配りを向上させるその裏で、無数の脱落者を生み出す排除の社会ではなく、できる人もできない人も分け隔てなく受け入れる包摂の社会へ。
これらの転換を今、求めなければならない。それが叶わぬならば、マラソンの速度はなおも上がり続け、脱落者は増加の一途を辿ることになるだろう。
先に述べたように、僕は怠け者である。できることなら何もしないでひたすらボーッとしていたいと願っている。そんな僕には、仕事を至上の価値とする大多数の日本人の感覚は不可解なものでしかない。
また、僕は「働かざる者食うべからず」という言葉が大嫌いだ。この言葉を、「時は金なり」とともにこの世から葬り去りたいと思っている。
なぜ働かなければ食べてはいけないのか。労働というのは食い扶持を確保するために行うもののはずだ。だったら、食い扶持が確保できていれば働く必要はない。蓄えがあれば、働かなくても問題ないのである。なのに、仮に蓄えがあったとしても、働いていなければ一人前の大人とは認められないという支配的な空気がある。不労所得にも否定的だ。
人間の仕事も、効率的に行えるよう、だいぶ洗練されてきている。少ない労働量で、多くの成果を出せるようになってきているのだ。労働量とその利益は、必ずしも1対1ではない。
現在では、仕事の成果が見えにくくなっている。労働力の投下から給金という対価の給付までの間に、いくつもの段階が挟まっているからだ。狩猟採集や農耕を営んでいるならば、労働力の投下は成果に直結しているため、自身の働きがどれほどの成果をもたらしたかが明瞭にわかる。
だが現代ではそうはいかない。勤め人であれば、まず会社に労働力を提供し、それがいくつかの部署、もしくは他社を経て利益を上げる。純利益はいったん会社がすべて預かり、その中の一部が給料として支払われる。その途中でいくつか引き抜きが行われる。それは会社の維持費だったり、新たな事業開拓のための投資だったり、はたまた所得税などの各種税金だったり、国民年金保険料や生命保険料なんかだ。それは社会設計上しかたのないことではあるのだが、そのせいで正確な労働の成果がわかりにくくなっているのだ。労働量とその利益が1対1になっていないというのは、そういうことだ。
なので、搾取と呼ぶに値するような「中抜き」が行われている可能性もある。1日働けば1週間は遊んで暮らせるだけの稼ぎを出しているにもかかわらず、その大半はどこかの誰かに抜き取られている可能性が。そうして「生かさぬよう殺さぬよう」調整されながら、食べるためには休むことなく働き続けねばならないと信じ込まされている。
労働環境のブラックボックス化。不可視にされたいくつもの段階の中で、我々の利益はどこかに持ち去られている。
それは社会構造上やむを得ないことであるのかもしれない。しかしそれをもって、「働かざる者食うべからず」という道徳の裏付けとすべきではない。我々は、そう信じるように仕向けられているのだ。誰によって?社会の支配者層によってか?いや、恐らくは資本主義によって。
人類が原始的な狩猟採集を営んでいた時代、人々の1日当たりの労働時間は、平均2,3時間程度であったことはよく知られている。それだけで充分な食い扶持を確保できていたのだ。なにゆえ現代の我々は8時間かそれ以上の勤労を求められなければならないのか。
「働かざる者食うべからず」は、「一生懸命働くことはいいことだ」と同様に、直視すべき事実から目を逸らさせる作用のある言葉だ。我々は、「働いていない人は食べてはいけないんだな」と思い込まされている。その思い込みによって、見えているはずのものを見落とし、自らが被っているはずの理不尽を自覚できなくなっている。
ならば、錯覚を錯覚と認識することから始めなくてはならない。そこから見えてくるものがあるはずなのだ。そもそも、なんのために働いているのか。働かないということは、餓死に値するほどのことなのか。
日本では、小泉構造改革が推進した新自由主義が蔓延した2000年代に、餓死者が何人か出て話題となったことがある。彼らは職を失い、家族や親戚に助けてもらうことができず、生活保護も断られ、電気や水道を止められた自宅で孤独に飢え死にしていた。僕は当時、食べるためならいくらでも方法があったんじゃないか、と思った。飲食店やスーパーのゴミを漁ったり、わざと軽犯罪を犯して警察のご厄介になったりすれば食べるものにはありつけたのではないかと。あるいは、ご近所さんに片っ端から物乞いしてもいい。恥も外聞もなく行動すれば、なんとか食べていくことはできたはずだ。だが彼らは、そうしなかった。それは恐らく、「働かざる者食うべからず」という道徳を内面化していたからだ。自分は働いていないから、食べてはいけないのだ。他人様に迷惑をかけてまで食事にありついてはいけないのだ。そのように考えていたからこそ、何も行動を起こさずに、ただひたすら飢えを受け入れ、孤独に死んでいったのだ。ひょっとしたら、小泉純一郎が流行らせた「自己責任」という言葉も一役買っていたのかもしれない。
もし、「働かざる者食うべからず」という道徳がなかったらどうだろう。彼らは積極的に行動を起こし、ゴミを漁ったり、軽犯罪を犯したりなどして、なんとか食いつないでいたことだろう。「働かざる者食うべからず」という道徳が、彼らの行動を抑制したのだ。強い言い方をするなら、彼らは「働かざる者食うべからず」という道徳に殺されたのである。
「働かざる者食うべからず」という道徳が、日本社会に常識として登録されていなければ、彼らは飢え死にすることなどなかった。この事実をもってしてもなお、日本人は「働かざる者食うべからず」と言い続けるのだろうか。この道徳を、疑う余地のない真理として崇めたてるのだろうか。
動物は、腹が満たされている時には何もしない。空腹になればようやく動き出す。「働かざる者食うべからず」などと軽々しく口にする人は、動物を見習うがいい。食べるための労働とは、そういうことだ。
怠け者の僕にとってもうひとつ不可解なのが、「怠ける美徳」が存在しないということである。日本(のみならず、ひょっとしたら世界中ほとんどの国で)には、「勤労の美徳」があるばかりで、「怠ける美徳」がない。これは不思議なことだと思う。
額に汗して働く姿は美しい。身を粉にして仕事に打ち込む姿勢は尊い。これが勤労の美徳。誰にでも理解されやすく、受け入れやすい道徳だ。
対して、「何も生産せずダラけて過ごすのは誇らしい」とか、「ひたすら遊びに没頭する姿はまぶしい」などとは誰も言わない。仮に言ったとしても理解されず、受け入れられることもない。あるのは勤労の美徳だけなのだ。
いや、その理由はわかっている。「怠ける美徳」は、「勤労の美徳」とは共存できないと思われているからなのだ。怠ける美徳は、勤労の美徳を脅かす。勤労の美徳を否定し、毀損しかねない。勤労の美徳にとって、怠ける美徳は危険因子なのだ。だから勤労の美徳を旨とする人たちは、必死になって怠け者を批判する。ニートやホームレスや生活保護受給者をあしざまに罵る。彼らはそれを正しいことだと信じきっている。
でも、本当にそれでいいのだろうか。AIが仕事を代行するようになり、ベーシックインカムが導入され、大多数の人間が働かなくても暮らしていけるようになった時、勤労の美徳だけだと辛くならないだろうか。
一生懸命働くことだけしか価値として認められないなら、働かなくていい暮らしは無価値になってしまう。趣味に没頭したり、ひたすら遊んでていい生活を手に入れても、それがくだらないものと否定されてしまう。それはもったいないし、悲しいことだと思う。
だからこそ、来るべき近未来、AIが仕事をし、人間は遊んでていい時代を迎えるにあたって、怠ける美徳を新しい道徳として提唱していくべきではないだろうか。怠ける美徳によって、勤労の美徳を少しずつ相対化し、働くことばかりが価値じゃないのだという考えを広め、常識にしていく。そうすることで、「働かないのも悪くないな」と思えるような共通認識を形成し、来るべきシンギュラリティに備える。そうしないと、のちのちみんな辛くなると思うのだ。
「失われた30年」という言葉がある。最初は10年だった。バブル崩壊以降、日本経済は回復することなく停滞し続けたとして、その期間が失われた10年と呼ばれるようになったのだ。それがさらに10年経って失われた20年となり、現在に至って30年となっている。日本経済は30年間回復しなかった、というわけだ。
この言葉、経済情勢の正確な反映として日本社会に登録され、共通言語として広く用いられている。だが、それは正しいのだろうか。
「失われた」というからには、「得られて当然のものがあった」という前提がなければならない。バブル崩壊以降の日本は「失われた30年」だったという見方を共有している人たち、「失われた30年」を自明のものとしている人たちは、当然この前提も共有している。「得られて当然のものがあった」という前提。それは言い換えるならば、「経済はとどまることなく成長し続けなければならない」ということだ。
しかし、それは本当に正しいのだろうか。本当に経済は成長し続けなければならないのだろうか。
太平洋戦争後、戦争に敗れた日本は、空襲によって国土を焼き尽くされていた。当時の日本には、大幅な「経済成長の余地」があった。
だが、今はどうだろう。今もなお、かつてと同じくらいの経済成長の余地が残されているのだろうか。ある程度成長できるまで成長しきったから、もはやこれ以上の伸びしろは残されていないのではないだろうか。事実、日本経済はすでに成熟している、という指摘もある。
何も難しい話ではない。全員にパイが行き渡らないのであれば、パイの増産に励まねばならないが、パイの総数がすでに十二分なのであれば、それをどう配分するかが問題になるのだ。現在の日本の貧困は、労働の成果を得るための生産力の不足というより、生産された富の配分の不適切さによるところが大きい。グローバル経済の競争の結果、低いままに留め置かれた賃金や、金持ち優遇の税制、生活保護の捕捉率の低さ(統計によってまちまちのようだが、だいたい約2割程度)に象徴される福利厚生の粗雑さ。それらが貧困の大本なのであって、経済成長率の低迷が原因なのではない。
また、厳密には日本経済は、バブル崩壊以降もつねに成長し続けている。その成長率は高度経済成長期と比較すればゆるやかな、低成長ではあるものの、成長していることには違いないのだ。
それに、急激な経済成長は、地球環境に大きな負荷をかけかねないし、将来世代に負債を残してしまう恐れだってある。経済成長には、「節度」も必要なのだ。かつて高度経済成長は、公害ももたらした。高い経済成長を盲目的に良しとするのは、あまりに短絡的すぎる。
このような事実があるにも関わらず、現在の日本は「失われた30年」の中にあるという。なぜそのような言い方をするのだろうか。それは、高度経済成長のような成長率こそが、あるべき成長率だという思い込みがあるからだ。そう、それは単なる思い込みでしかない。虚心にデータを眺めれば、日本経済はずっと成長していることがわかるし、それを「失われている」とするのが不適当だということがわかるだろう。
なぜそのように認識を改めることができないのか。それは、思い込みの強さゆえ、異なる意見を聞けず、違う角度の視点を持てずにいるからだ。経済成長を至上とする人たちの思い込みというのは、それほど強固なのである。この偏執的な思い込みを解除するには、どうしたらいいのだろうか。
それにはやはり、怠ける美徳を持ち出さねばならないだろう。
断っておくが、僕は勤労の美徳を全否定はしない。それもひとつの価値だと思うし、これからも道徳のひとつとしてあり続けていいとも思う。僕が言っているのは、なぜ勤労の美徳「しか」ないのか、ということだ。なぜ怠ける美徳は認められず、勤労の美徳との共存が許されないのか、ということだ。
怠ける美徳を旨とする僕は、勤労の美徳を旨とする人たちと、共存する用意がある。しかし、勤労の美徳を旨とする人たちはそうではない。勤労の美徳を旨とする人たちは、怠ける美徳を認めようとしない。怠ける美徳を旨とする人たちとは共存したくないと、怠ける美徳を棄却し、勤労の美徳に転向するべきだと思い込んでいる。
なぜ共存できないというのか。それはただの偏見ではないのか。
勤労の美徳と怠ける美徳は、二律背反の関係にあるわけではない。必ずしも一方が存在すれば他方が棄却されるというものではなく、人々の気持ちの持ちようで併存させることも可能なはずなのだ。そのありかた、社会設計について、今から模索を始めるべきではないだろうか。
その日は、間もなく来ると言われている。技術革新の速度が急激に高まることもあるだろうから、意外とすぐそこまで来ているのかもしれない。その来るべき未来に、勤労の美徳という道徳「しか」ないのでは、辛すぎる。来るべき未来を受け入れるには、怠ける美徳「も」必要なのだ。
勤労の美徳と怠ける美徳。このふたつの道徳が並び立ってこそ、来るべき未来、人間が働かなくていい時代を心穏やかに受け入れることができるのだ。勤労の美徳「しか」ないのなら、それはディストピアになってしまう。せっかく遊んで暮らせる(僕からしたら)夢のよう社会が実現したとしても、それを肯定的に受け入れるための道徳が基本条件として社会に備わっていなければ、悪夢に「見えてしまう」のだ。
だからこその「怠ける美徳」なのである。
怠けることは美しい。無為は輝かしい。何も生み出さないって素晴らしい。そんな怠ける美徳が、これから必要になってくるのだ。それは決して勤労の美徳を排除しない。勤労の美徳との共存を選ぶ。だが、勤労の美徳よりも上位の道徳として承認されるようになるだろう。
話はそれだけにとどまらない。怠ける美徳は、ブラック企業対策や過労死対策にも資するのだ。薄給でこき使われたり、命を削ってまで働いたりといった理不尽を、勤労の美徳は覆い隠してしまいかねない。理不尽から目を逸らしたり、むしろそれは素晴らしいことなのだと、解釈を歪めさせてしまったりする。だから、ブラック企業をのさばらせないためにも、1件でも多く過労死を減らすためにも、怠ける美徳は不可欠なのだ。
勤労の美徳を旨とする人たちだって、仕事に打ち込みすぎることの弊害を、ちゃんと理解しているはずだ。戦後復興このかた、高度経済成長からバブル崩壊まで、日本人は身を粉にして働いてきた。それこそが大人として、社会人として、良識ある人間としての当然のありかただとされてきた。でも、経済成長の代償として失われてきたものもたくさんある。個人が個を殺し、社会の歯車として働き続け、会社の成長や日本の国力増大を成し遂げる代わりに、心を病んだり、体を壊したり、過労死に追いやられたりしてきたのだ。
「失われた30年」が訪れる以前、それは経済面では得られるものばかりであったかもしれない。しかし、その代償として、経済以外のものが失われてきたのだ。ならば「失われた30年」とは、経済力を失う代わりに、過重労働によって失われていたものを取り戻してきた30年だったと見ることもできるだろう。
ならば、この30年を無駄にするべきではない。失われた30年とは、ネガティブにとらえるべきものではない。それはむしろ、ポジティブなものなのだ。経済ばかり追求してきた過去を反省的にとらえなおし、労働環境の問題点をえぐり出し、勤労は美徳であるという道徳を考え直すための機会だったのだ。
だとすれば、失われた30年とは、これから先、来るべき未来へ向けての滑走期間だったということになる。来るべき未来へ飛び立つための助走。新しい価値観に触れ、それを理解し、受け入れるための準備期間。それこそが失われた30年だったのだ。
今、その準備期間を経て、飛び立たねばならない。怠ける美徳が主流の道徳である社会へ。働かざる者も食べていい社会へ。仕事以外の多様な価値観、多様な生き甲斐が併存する社会へ。
勤勉革命を相対化する、「無為革命」を起こさねばならない。
無為革命後の世界は、どのような世界になるのか。それは当然、無職者が非難されず、疚しさを感じる必要もない世界となる。ベーシックインカムによって、すべての人の最低限の生活が保障され、お金の心配をしなくてもよくなる。なおも働き続けたい人は、自由に働くことが認められる。いざとなれば生活の保障があるので、劣悪な環境の職場に懸命にしがみつかなくてもよくなり、その結果、ブラック企業は淘汰され、優良企業だけが生き残る。
怠け者が縁側でゴロ寝する横を、勤勉な労働者が通り抜け、「気持ちよくされていますね」「精が出ますな」とお互いを称え合う。それが、勤労の美徳と怠ける美徳が共存する社会だ。
ああ、早くそんな、働かなくてもいい世の中にならないだろうか。僕は本気でそう思っている。
オススメ関連本
湯浅誠『反貧困――「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書)
雨宮処凛『反撃カルチャー――プレカリアートの豊かな世界』(角川学芸出版)
坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』(太田出版)
石井あらた『「山奥ニート」やってます。』(光文社)
酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎――クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』(講談社現代新書)
レイチェル・ボッツマン、ルー・ロジャース『シェア――〈共有〉からビジネスを生みだす新戦略』(NHK出版)