徳丸無明のブログ

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理解も解消も困難な差別について①

2016-09-28 21:02:44 | 雑文
今回は差別について書こうと思っている。
具体的に書き出す前にこのような断り書きから始めるのは、このテーマが複雑な代物で、一筋縄ではいかないからだ。
これまでにも数多くの人が差別について言及してきたし、差別をなくす取り組みも絶えず行われてきた。だが、差別は相も変わらずこの世界に存在するし、抜本的な対策も見つかっていない。
これはつまり、差別をなくすことは不可能であり、我々に出来ることといったら、なんとかそれと折り合いを付けていくことだけだということなのだろうか。悲しいけれど、それが真理なのかもしれない。でもひょっとしたら、人類の、差別に対する理解がまだまだ浅いだけで、理解を深めることによって解決への道が開けるのかもしれない。
諦めるのはまだ早い。差別について考え続けるのは、決して無駄ではないはずだ。
小生も差別のことは昔からずーっと考えてきた。それなりにわかったこともある。なので、ここではそれをまとめておきたい。
あくまで、現時点での知見である。30そこそこの若輩者が、差別の全てを理解しうるはずがない。なので、ここで示されるのは、最終回答ではなく、暫定的な知見である。現時点での小生の差別に対する理解の程度では、差別解消の一助にすらならないかもしれないし、おそらくは、結論めいたものを提示することさえできずに、尻切れトンボな終わり方をするのではないかと思う。
だが、暫定的なものであっても、差別理解を深める手立てぐらいにはなりうると思う。また、自らの思考を文章化することで、自身の視界がクリアになる効果もあるのではないかと期待している。
言い訳のような、能書きのような前口上はここで終わり。以下、本編に入る。

2016年7月26日、アメリカのミネソタ州セントポール郊外にて、車を運転していた黒人男性を、白人の警察官が射殺する事件が起きた。黒人男性は、警官に停車を命じられ、免許証の提示を求められたので、懐に手を入れようとしたところ、銃撃された。事件の様子を、助手席に同乗していた黒人女性がスマートフォンで撮影し、フェイスブックで公開したことから拡く知れ渡り、大きな騒ぎとなった。当然のごとく、白人による黒人差別だとして、批判の声が沸き起こり、抗議デモも発生した。
しかし、白人が黒人を射殺すれば差別なのだろうか。
警察は、治安の維持を本務としている。そのためには不審者、あるいは明らかに危険な人物と接触しなければならないわけだが、銃社会アメリカでは、相手が銃を所持しているのではないか、ヘタな対応をすれば自分が撃たれるのではないか、という不安が常につきまとう。それは、極言すれば「撃たなければ撃たれる」ということである。アメリカの警察官は、勤務中は常にこの不安につきまとわれざるを得ない。(ゆえに、不審者に対してはまず銃口を向け、「ドント・ムーブ」と命じる)
この不安の下では、「自らが撃たれるくらいなら、相手を撃つ方を選ぶ」という思いを禁じえなくなる。もしも自分がアメリカの警察官だったら、と仮定してほしい。「そうそう人殺しなどしたくはないが、殉職するよりは相手を射殺する方がマシだ」と考えずにいられるだろうか。
当該事件の動画をニュースで観た。顔は映っていなかったが、白人警官の口調は恐怖に怯えているようにも聞こえた(報道によれば、黒人運転手が「合法的に銃を所持している」と話した後で、免許証を出すために懐に手を入れたところを撃ったらしいので、撃たれるかもしれない恐怖に囚われていた可能性は高い)。この白人警官には差別意識などなかった、と言いたいわけではない。ましてや、正当防衛が認められると言いたいわけでもない。差別意識は、あったかもしれないし、なかったかもしれない。ニュースで伝え聞いた範囲だけでは、どちらとも判じ難い。
より正確を期して言うならば、仮にこの白人警官が差別主義者であり、日頃から「ニガー」などの蔑称を平気で口にする人物だったとしても、発砲そのものは差別感情に基づいて行われたわけではなく、恐怖心によるものであったかもしれないのだ。ただし、日頃から差別感情を抱いている相手の方が、そうでない相手よりも、引き金を引くことへの心理的抵抗が弱い、というのもまた事実であるかもしれないが。
ここで言いたいのは、白人が黒人を射殺したからといって、安易に差別だと断じるべきではない、ということ、差別以外の原因を可能性として検証すべきだ、ということである。安易な決めつけは差別を解消するどころか、問題をよりこじらせる結果に繋がってしまう。
この事件で問題にすべきはむしろ、警官が「撃たなければ撃たれるかもしれない」というプレッシャーにつきまとわれざるを得ない銃社会の構造のほうではないだろうか。
事件を報じるに際して、人種ごとの警察に射殺された人数が、データとして紹介されていた。今年(2016年)に入って警官発砲により死亡したのは約500人であり、黒人はそのうちの約4分の1を占め、人口比率と比較すると倍近くなる、とのことだった。
ここで見落としてはならないのは、必ずしも黒人だけが射殺されているのではない、ということ。また、当たり前だが、警察=白人ではない、ということだ。黒人の警察だっているわけで、つまりは黒人警官による白人の一般市民の射殺や、黒人警官による黒人の一般市民の射殺だって行われているのだ。黒人が射殺されたからといって、それを即「差別だ」と断じるのはあまりに乱暴すぎる。
また、もっと複雑な問題もある。アメリカでは、過去に黒人が差別を受けてきた、というのは疑いようのない歴史的事実である。この過去を踏まえて起こりうるのが、白人側の「黒人は自分達に敵意を抱いているのではないか」という恐怖心である。
黒人は、「白人どもはみんな差別主義者だ」と思い込んでいるのではないか、敵意をもって自分達に接してくるのではないか、自分の言動の全てを差別の表れだと解釈されてしまうのではないか・・・。白人は、そんな恐怖心に囚われてしまう可能性を秘めている。
これは、実際に黒人がそう思っているかどうかとは無関係である。過去に、白人が黒人を差別してきたという、動かしようのない事実が、そのような恐怖心を生み出してしまうのだ。そして、その恐怖心を白人が抱いている時、その場に差別感情が皆無であったとしても、あたかも差別が存在しているかのような状況が出現してしまう。
先程言及した事件の動画で、白人警官は恐怖に怯えているようであった、と書いたが、それは「撃たれるかもしれない」という恐怖ではなく、「相手(黒人)が自分に敵意を抱いているのではないか」という恐怖であったかもしれない(その両方の可能性もある)。
差別意識がなかったとしても、過去に差別が行われてきた歴史があるという事実が、差別が今もなお存在しているかのような状況を生み出し、差別の問題を複雑で、解決の困難なものにしている。
ことほど左様に、差別とはその全容を掴むのが難しい問題なのである。
この黒人運転手射殺事件に憤りを覚えた他の黒人が、報復として白人警官を無差別に銃撃する事件を起こした。このとき数人の白人が殺害されたが、彼等が差別主義者であったかどうかはわからない。
くり返しになるが、差別は複雑で、理解するのが難しい問題である。その複雑さを、複雑なまま理解しようとせず、単純化して捉えようとする者が、「白人警官はみな差別主義者だ」という短絡を起こすのである。
真に差別の解消を目指すのであれば、複雑さに耐えうる知的耐久性が求められる。
とは言え、望みもある。黒人運転手射殺事件に対して起こされた抗議デモの中には、白人の参加者も散見されたからだ。(確か、1994年のO・J・シンプソン裁判の時には、白人と黒人の間に深い断裂があったと記憶している)
差別意識は、人種や職業に帰属するのではなく、あくまで属人的なものであるということ。この事実が、常識として広まりつつあるのだろう。アメリカ市民の良識に期待したい。

(②に続く)