徳丸無明のブログ

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理解も解消も困難な差別について②

2016-09-29 21:07:32 | 雑文
(①からの続き)

2016年7月26日、神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設に、元職員の男が侵入し、入所していた障害者数十人を殺傷する事件が起きた。男の手によって19人が死亡し、26人が怪我を負った。
この事件が許し難い蛮行であるのは言うまでもないことだが、ここで取り上げたいのは犯人の差別意識ではない(この犯人が事件を犯す前に衆院議長公邸に渡そうとした手紙の中には、支離滅裂な記述が数多く見受けられるので、犯行の動機が差別によるものかどうかは議論の余地が残る)。世間やメディアといった、障害者を取り巻く者達の差別意識である。
死亡した被害者たちは皆、匿名で報じられた。警察は匿名発表にした理由を、「被害者が障害者であることに鑑み、また、家族も実名を伏せることを望んだため」とした。メディアもまた、独自に氏名を調べて公表することなく、警察にならった。
小生はここで「実名公表しないのは障害者に対する逆差別だ」と言おうとしているのではない。
よく言われることだが、事件の被害者やその家族は、報道によって二重三重の苦しみを受けることがある。自宅を報道陣に取り囲まれ、事件の傷口に塩を塗り込むような質問を浴びせられ、さらにはその報道によって一般人からのいたずら電話や、インターネット上での誹謗中傷、事実無根の情報開示などの嫌がらせが引き起こされる(差別とは関係ない話だけど、メディアはこの手の問題を引き起こす報道姿勢を改めるべきだと思う)。
すべての事件の被害者とその家族がそのような目に遭うわけではないが、可能性として起こりうる以上、家族が匿名を望むのであれば、それを聞き入れるのは至極当然のことだと思う。
しかし、健常者の被害者は、否応なく実名報道されるのである。被害者側に配慮すべきというのであれば、健常者であっても実名公表の可否を問うべきではないのか。
では、やはりこれは「ねじれた差別」、もしくは「逆差別」なのか、というと・・・。何とも難しい。安易にそう断じてはいけない背景があるような気がするのである。
ただ、ひとつはっきりと言えることがある。我々は障害者に接するとき、どうしても腫れ物に触れるような対応になってしまうのだ。
我々の大多数は、差別を忌み嫌っている。差別主義者を憎んでいるし、自らも差別を行わない人間であろうと思っている。しかしながら、それと同時に、「障害者にはどう接したらいいのかがわからない」という事情も抱えている。
個人的な話をすると、小生は以前、介護施設で働いていた。入所していたのは、全員認知症のお年寄り。なので、当然ながら健常者と同じ接し方では問題が発生してしまう。認知症の症状に応じて、接し方を柔軟に変化させることが求められた。
数分前の出来事も覚えていられない人用の接し方。妄想を現実と思い込んでしまう人用の接し方。遠い昔の記憶を、つい最近の出来事として語る人用の接し方。実在しない人や物が見えてしまう人用の接し方。
それほど長く勤めていたわけではないが、介護士経験を通じて、「健常者以外の人々に接するスキル」「“健常者に対する接し方”という固定観念を括弧に入れ、相手に応じて最適な接し方を模索するスキル」を少なからず蓄積できたと思っている。
しかしそれでも、「障害者にはどう接したらいいのかがわからない」という思いを、小生自身も抱えているのである(認知症者と障害者は全くの別物だからそんなの当り前だろう、と思われるかもしれないが)。
「できるだけ普通に接するのが一番いい」とはよく言われることだが、健常者と全く同じでないからこそ「障害者」という呼称が充てられているのであって、それはつまり、何かしらの欠落を抱えているということだから、その欠落に対する配慮はやはり必要なのである。何でもかんでも健常者と一緒にするわけにはいかない。
決して差別するつもりはない。しかし、障害者への応対は、何が正解なのかがわからない。自分ではそのつもりがなくても、何気ない言動を「差別だ」と受けとめられてしまうかもしれない。
我々健常者の多くは、このようなジレンマを抱えている。ゆえに、障害者に対しては腫れ物扱いになってしまう。
できるだけ穏便に。できるだけ実生活と関わらないように。
敬して遠ざけると言うべきか、触らぬ神に祟りなしと言うべきか、我々は差別をしたくないがゆえに、障害者を視界の外に押しやろうとする。障害者と接することがなければ、差別が発生することもないからだ。だからこその匿名報道でもあるのだろう。被害者とその家族への配慮のみならず、自分達が差別者にならないための匿名選択。
そもそも障害者施設自体に社会からの隔離という意味合いがあるし(この点に興味のある向きは、ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』を読まれたし)、障害者の仕事場が、作業所などの、人と接することの少ない場に限られているのも、それが一因であると言える。
やはりこのような態度を差別と呼ぶことはできないと思う。しかし、差別に反するがゆえに差別「的」な、差別とも受けとめられかねない行いをしてしまう、という逆説めいた状況がここにはある。

(③へ続く)