徳丸無明のブログ

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愚痴から始まる現代思想批判のようなもの・前編

2016-10-17 22:02:22 | 雑文
ブログを始めて一年が過ぎた。
そこそこ読んで頂けているようだし、記事をシェアして頂ける割合も増えてきた(ありがとうございます)。
だが、訪問者数がほとんど増えていない。ちょっと増えたかと思ったら減ってを繰り返し、一年間を通して眺めれば「微増」といった程度である。
悪くはない。悪くはないが、物足りない。もっともっと多くの人に見てもらいたいのである。
自分では質の高い記事を提供できていると思っているし(個人の感想です)、マンガという、みんなが大好きなコンテンツを含んでもいる。なのに、訪問者数が伸びない。何故だろう。
過去記事の中の自分の主義主張を、思想の座標軸に位置付けてみると、左側に寄っているのがわかる。とすると、小生は左翼と見て取れる。
左翼は今、流行らないのである。ネトウヨが台頭し、その対抗勢力が存在せず(「右翼」に対して「左翼」があるにもかかわらず、「ネトウヨ」に対する「ネトサヨ」はいない!ネトウヨは本来的な右翼から嫌われてはいるものの、その存在は、現在の右翼の裾野の広さの表れと言えるだろう)、また、論壇の世界においても、若手の言論人はほとんど右ばかりで、左は乏しいらしい。
左は今、流行らない。だから訪問者数が増えない(炎上されてもいいから増えないかな、と思ってしまう)。
だからまあ、もっと読んでもらうための方法は、わかってはいるのだ。「朝日新聞は売国奴だ」とか、「朝鮮人は劣等民族だ」とか、そんなことを書けばいいのである。実に簡単だ。難しいことなど何一つない。
でも、そんな記事にどれほどの意味があるのだろう。
書き手と読み手が罵詈讒謗によって一時的に留飲を下げる働きしかなく、建設的な何かをもたらすことなど皆無に等しい記事に、どれほどの価値があるのだろう。
だから小生は、数を稼ぐためだけ、目先の利益のためだけに記事を書くことをしない。そんなことをするくらいなら、少数の人にしか見てもらえなくても、社会的な価値のある記事を――実際にそうなっているかどうかはともかく、方向性としてはそのような記事を目指して――書いていきたい。
話は少しずれるが、ついでだからもうひとつ。
中国や韓国で事故や災害が起きると、「ざまあみろ」と言う人達がいる。
当人からしたらそれは「当然の報い」ないしは「天罰」であり、彼等の主観においては同情の余地などないのだろう。
だが、中国・韓国に「ざまあみろ」と言い放つことを良しとするならば、日本で事故や災害が起きた時に、中国・韓国から「ざまあみろ」と言われることを甘受せねばならなくなる。「ざまあみろ」の応酬は、あまりに悲しい。
傷付き打ちのめされている時には、助けが必要である。救いの手を差し伸べてもらうには、こちらも救いの手を差し伸べる用意があると示すか、あるいは(そして望ましくは)こちらから先に救いの手を差し伸べねばならない。必要なのは救いの手であり、中傷ではない。
日本人同士で助け合えばいいって?日本人全員が傷付くような事態が発生したらどうするんだよ。それに、中国や韓国に「ざまあみろ」と平気で口走るような人は、ほっといたら同じ日本人に対しても、気に食わないと思ったらやはり中傷を行うだろう。だから「ざまあみろ」には、「やめろ」と言わなければならない。
話を戻す。
先に「自分の主義主張は左に寄っている」と書いた。しかしながら、小生は自分自身を左翼だとは思っていない。では、自覚的には右翼なのかと言うと、そういうわけでもなく、また中道でもない。
それでは、どのような政治的立ち位置を自認しているのかと言うと、そもそも、「右翼」とか「左翼」とかいう区分がどうでもいいと思っているのである。
言論というものが何のためにあるのかと言うと、「より良き社会」をもたらすためにある。「より良き社会」が目的であって、言論はあくまでそのための手段である。
しかし、そうは考えていない人達がいる。自身の知的体系を要塞のごとく高く高く築き上げようとする人達である。彼等は、知的に無謬であることを最上の目的とし、自分が如何に頭がいいかを証明するために、日々たゆまぬ努力を重ねている。
己の優秀さを示すための手っ取り早い方法は、対立する意見を持つ者を批判することである。対立者が如何に愚かであるかを示すことは、同時に自身が優れていることを示すことにもなるからだ。
なので、この手の人々にとって、左右の帰属は重要な関心事となる。相手が同翼に属していれば同胞として遇さねばならないし、逆に対翼であるなら交戦を挑まねばならないからだ。
小生は、思想なんていうのは手段に過ぎないと思っているので、「対立する意見の持ち主であってもより良き社会を実現したいと考えているのは同じなんだから、協力する所は協力して仲良くやっていけばいいじゃない」と思うのだが、そんな言い分は彼等には通じない。
彼等は小生とは逆で、社会のことを第一に考えているフリをしながら、その実自らの思想を完璧なものにすることを最優先している。つまり、手段と目的が逆転しているのだ。
平たく言えば、彼等は威張りんぼである。「どうだ、オレ様は頭がいいだろう」。彼等は常にそう言っている。
頭がいいと証明したい。頭がいいと認められたい。それが彼等の最大の目的である。

(後編に続く)