徳丸無明のブログ

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100円ショップというディストピア

2017-01-17 21:12:28 | 雑文
労働の現場で現に起こりつつある変化について。
職人の世界では、「◯◯が出来るようになるまで(一人前になるまで)◯年かかる」とよく言われる。これは技術を究めることの困難を象徴するものとして引き合いに出されがちであるが、視点を変えて雇用者側の立場から見ると、「一人前になるまでの◯年間、面倒をみる用意がある」ということである。
仮に◯の中の数字が10であるならば、10年の間技術指導をし、世話を焼く、ということである。一人前でないならば、充分な利益を上げることができないわけで、その分の補填は当然雇用者側の持ち出しになるだろう。
雇う側が身銭を切って後進を育てる。これが親方‐徒弟制度の常識なわけだ。
対して、最近の企業間における常識は、それとは異なりつつある。
少し前に、「即戦力で選ぶ人材サイト」なるCMが頻繁に流れていた。未経験者ではなく、経験者、もしくは有資格者のみに対象を絞った就職斡旋サイトだ。
このCMの中で、面接担当の中年社員が、「どうせ今回も大したのはいないんだろうが」と呟く場面がある。この「大したことないの」というのはつまり、即戦力でない人材のことである。CMはこの後、大したことないと思われていた就職希望者たちが、意外や意外、即戦力だらけであった、というハッピーエンドを迎える。
要するに、このCMはこう言っているのである。「即戦力を求めるのは悪いことではありませんよ。企業が身銭を切って人材を育てようとしないのは、悪いことでも何でもありません。むしろ即戦力でない人材のほうが悪いのです。彼等には、「雇ってほしければよそで経験を積むか、専門学校や職業訓練校に通ってこい」と言わねばなりません。企業は即戦力を求めて当たり前。人材育成を外部に押し付けて当たり前なのです」
この企業観が、職人集団のそれと対極をなしていることは言うまでもない。
費用対効果という言葉がある通り、「効果」を得たいのなら「費用」を支払わねばならない。即戦力を求めるということは、費用(人材育成)を支払わずに効果(労働力)を得ようとしている、ということである。
本来なら自らが行うべき役割(人材育成)を外部に押し付けて恥ともせず、むしろこれこそが企業のあるべき姿なのだと宣言しているのだ。
通常、人は誰しも未経験者として仕事を始める。その未経験者に対して、先輩なり上司なりが手取り足取り仕事のやり方を教える、というのはごく当然のことだ。古くからある慣習がほぼそのまま保持されている職人集団を見ればわかる通り、これは労働の現場では大昔からずっと常識とされてきた。
しかるに、その常識が今、覆されようとしている。
わずかでも利益を上げようと画策する企業が、身銭を切って人材を育てることを拒み、人材育成を外部に押し付けようとしている。先に挙げたCMは、これまで常識であったことを非常識としたうえで、そのことには何ら罪はないのだ、というイデオロギーを宣布するものである。
ただ、このCMだけが問題なのではない。このようなCMが流れるということは、すでに企業の現場において、即戦力だけに絞った登用が常態化しつつある、ということで、つまりはこのCMは現実で半ば常識化しつつある事態を反映したものに過ぎないのだ。
今、即戦力だけを求める企業が多数派になりつつある。
しかしながら、これは一概に企業倫理を批判すればいいというものでもない。
資本主義は「常に発展し続けること」を前提としているわけだが、その資本主義が高度に発展し、これ以上の経済成長が望めなくなった現在、労働の現場では、これまでになかった手法で利益を上げようとする試みが生まれているのだ。
経済成長は難しい。それでもなお、資本主義を経済体制とする社会は「利益を出せ」と要求してくる。ならば、これまで通りのやり方――原材料+労働力で、プラスアルファの差額を生み出せる商品(サービス)を作る――以外の方法で利益を上げるしかない。
過重な残業を強いて、そのうえ残業代を支払わない。会社の商品を社員が購入することを義務化する。些細な過失にペナルティーを科し、違反する毎に多額の罰金を給料から天引きする。等々。
これらはすべて、資本主義の「利益を上げろ」という要請に応えるものである。
もちろん経営者の人格の問題でもある。しかしながら、こうでもしないと利益を生み出せないほど資本主義経済が行き詰まりをみせている、というのもまた事実なのだ。
ならば、企業倫理を非難したり、ブラック企業を取り締まったりするばかりでなく、経済体制の転換を図らねばならないだろう。
個人の責任を追及するだけでなく、問題を生み出してしまう構造そのものを改革せねばならない。猫を払う前に魚をどけよ、ってことだ。

今100円ショップに行くと、うすら恐ろしくなる。「これ100円でいいの?」という商品がたくさん並んでいるからだ。常識的にはとても100円では買えないような商品が、当たり前のように売られている。
大半の人は「こんな良い物が100円だなんてラッキー!100円ショップサイコー!」と思っているかもしれない。でも、小生はあってはならないことが起きている気がする。
「100円なのが信じられない商品」は、原価だけで100円以上しそうに見える。その原価にさらに製造・流通に携わる人達の人件費、光熱費なんかを上乗せしてプラスアルファの利益を出すためには、どう考えても100円では足りない。製造・流通のどこかの段階で搾取が行われていなければ、こんな安値で販売できるわけがない。「100円なのが信じられない商品」が100円ショップに並んでる裏では、誰かしらが泣いているはずである。
企業が、ありとあらゆる手段――違法か、限りなく違法に近い手段――を用いて利益を上げようとする社会において、「100円なのが信じられない商品」を販売する100円ショップが成立する。
我々の労働力を搾取することによって、安すぎる100円ショップは成り立っている。言い換えれば、安すぎる100円ショップを享受したいなら、労働力の搾取を甘んじて受け入れねばならない、ということである。
安すぎる100円ショップに「否」を付きつけねばならない。でなければ、即戦力を求めて恥ともしない企業をのさばらせるばかりである。
ただ、「じゃあそのためにはどうすればいいのか」と問われても、小生には具体的な方策が思い浮かばない。なので、口先だけのヤツだと言われても反論できないのだが、少なくとも今の状況がまともではないという認識を持ち続けておくことに意義があるのではないかと思う。問題意識を失ってしまえば、社会変革が起きる余地すらなくなってしまうのだから。
安すぎる100円ショップは、ユートピアではない。ディストピアである。


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