徳丸無明のブログ

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戦後の時間は終わらない・前編

2018-04-23 21:58:10 | 雑文
政治学者の姜尚中は、『「戦後80年」はあるのか』と題されたアンソロジーのまえがきに、次のように書きつけている。


「かくも長き戦後」とは、アメリカを代表する日本研究者キャロル・グラックの言葉である。戦後五〇年、戦後六〇年、戦後七〇年。すでに三世代以上におよぶ年月を「戦後」の一語で一括りにし、今も当たり前のように人口に膾炙している国は、おそらく、日本以外にはないだろう。


日本人の多くが疑うことなしに口にしている「戦後」なる言葉。あまりに当たり前のように使われているので皆ごく自然に受け入れているが、これはなかなか奇妙なことだ。言葉そのものが奇妙なのではない。言葉の使われ方が奇妙なのである。
誰であったか、「日本がまた戦争を始めるまで戦後は続く」と言っていた者がいた。なるほど、確かに不幸にもまたこの国が戦火にまみれることになれば、間違いなく「戦後」は終わるだろう。しかし、それでは70年もの長きにわたって「戦後」という呼称が使われ続けてきたことの説明がつかない。
姜も指摘しているように、これだけ長く戦後が続いているのは日本だけである(ひょっとしたら、あまり知られていないだけで、世界のどこかには日本と同じように戦後が長く続いている国もあるのかもしれない。もしあったとしたらごめんなさい)。もし、単純に「戦争が終わり、次の戦争が始まるまでの間」、「戦争と戦争の間」を戦後と呼ぶのであれば、世界中のほぼすべての国で「戦後」の使用が認められるはずである。現実はそうなっていないからこそ日本の「戦後」は特異なのだ。
日本国内に限定して考えてみてもいい。「日清戦争と日露戦争の間」、及び「日露戦争と日中戦争の間」の期間は、「戦後」であったか。こちらもやはり否であろう。
この、特異なる「戦後」の使われ方は、日本の、それも太平洋戦争後だけに限られるのである。
これはどういうことなのか。この「戦後」という時代区分は、字義通りの「戦争の後」という意味では使われていない、ということである。いや、もちろん「戦争の後」という意味も含まれてはいる。だが、それだけではないのだ。「戦後」には、他にプラスアルファの意味が込められている。そして、そのプラスアルファこそが、日本の「戦後」を特異たらしめているのだ。「日本がまた戦争を始めるまで戦後は続く」というのは、このプラスアルファを見落とした言い分である。
一口に「戦後」と言っても、70年の間に、日本社会は様々な変動を蒙ってきた。
1956年7月、前年のGNPが戦前の水準を超えたことから、経済企画庁は経済白書の中で「もはや戦後ではない」と宣言。しかし、戦後は終わっていなかった。
経済が順調に成長を続ける1979年、日本人はエズラ・ヴォーゲルから「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と賛辞を寄せられ、全能感に酔い痴れた。しかし、なおも戦後は終わらなかった。
1995年には阪神大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生。ちょうど戦後50年目に起きた2つの出来事は、時代が大きく変わりつつある予感を人々に植えつけた。しかし、それでも戦後は終わらなかった。
2011年3月には東日本大震災と、それに伴う福島第一原発の事故が発生。この出来事の前後で日本の空気は一変した。ある政治学者は、「「戦後」が終わり、「災後」が始まる」と書いた。しかし、またしても戦後は終わらなかった。
様々な変化・変容がありながら、それでも「戦後」が終わることがなかったのはなぜか。それは、それらの社会的変化では「戦後」のプラスアルファを消失させることができなかったからである。では、そのプラスアルファとは何か。

私見を述べれば、「先の戦争が未だ清算されていない」という共通認識が「戦後」という言葉を日本国民に使わせ続けているのだと思う。太平洋戦争の敗北によって締結されたアメリカとの非対称的な国際関係は、段階的に緩和されてゆき、敗戦直後と比べるとほとんど意識されることがないほど希薄になってはいるものの、今も様々な形で残存している(希薄になっているというより、その関係があまりに長く続いているせいで空気のように認識されにくくなっている、という面もあるのだろうが)。
俗に「思いやり予算」と称される在日米軍への多額の助成金。アメリカ空軍の航行優先のために大幅な制限を蒙っている航空域。日本側の裁判権の制限を定めた不平等関係の象徴たる日米地位協定。等々。
これらは対米戦争の敗北の結果として、敗戦国となった日本が担わされてきた罰則に他ならない。敗戦のツケを今もなお支払わされ続けているということ。日本人は皆、意識的にせよ無意識的にせよそのことを理解している。だからこそ、戦後の時間は終わらない。
この見方が正しいとすると、アメリカとの非対称的な力関係を解消することができれば、日本の「戦後」は正しく終結することになる。しかし、それは可能なのだろうか。可能であるとすれば、どのような方策であれば実現するのだろうか。

(後編に続く)