飯沢耕太郎『写真の力〔増補新版〕』(白水社)を読んでの気付き。
この本は、写真評論家の飯沢が写真について書いたコラムをまとめたものである。収録された一編、「Memento Mori――死者たちの肖像」と題された章で、飯沢は写真と死、および死者についての考察を展開している。その中で、写真術は発明以後、生者だけでなく死者もその対象としてきたと述べた後、イギリスの小説家ナイジェル・ニールの「写真」というショートストーリーが紹介されている。
以下にその箇所を引用するが、最初が飯沢の地の文で、一行空けて小説の文となっている。また、ルビがふられている部分があるが、ここではルビ入力ができないので、その文字の後に括弧〔 〕で記載する。
ある母親は、彼女の死にかけた息子を医者や司祭ではなく写真家のところへ連れていこうとする。
どうぞ思い出して下さい、先生。わたしがあの子の母親だってことを。わたしは何よりも、ずっととっておくことができるあの子の記憶〔メモリー〕がほしかったんです。
そして息子は、写真に撮られることで自分が死にかけていることを、もはや彼の「魂が宿る家」が定められた以上、彼の肉体は必要なくなってしまったことを悟る。
涙が彼の目からあふれだした。彼はまるで自分のからだの一部が失われたような怒りと恐れを感じた。
写真は死につつある者(しかし考えてみればわれわれはすべて死につつある者ではないか)から魂を、生命力を奪い去る。それらは矩形の小さな柩のなかに封じこまれ、記憶の蜜蠟によってしっかりと封印される。
本章にはロラン・バルトの「実際、その瞬間〔引用者注・撮影の瞬間〕には、私はもはや主体でも客体でもなく、むしろ、自分が客体になりつつあることを感じている客体である。その瞬間、私は小さな死(括弧入れ)を経験し、本当に幽霊になるのだ。」という言葉や、バルザックの「生きた肉体はいずれも無数のスペクトル(分光)からできている。スペクトルはごく小さな片鱗ないしは薄膜状をして、肉体を四方八方からとり囲んでいる。・・・・・・それゆえダゲレオタイプにあっては、写される肉体の一つの層がつかみとられ、剥ぎとられ、感光板に封じこめられる。」という言葉も紹介されているし、飯沢本人も「考えてみれば、写真は死者たちによく似ている。」と述べている。
写真が日本に入ってきたばかりの頃、撮影されると魂を抜かれるという噂が立ったことがある。また、1980年代だったと思うが、3人で写真を撮ると真ん中の人が早死にする、という都市伝説が流行ったことがあった。これらは、必ずしも根も葉もない迷信とは言えない。
写真の被写体となるということは、多かれ少なかれ死を意識せねばならない、ということだ。写真という無機物にその姿を転じれば、自分の死後も、その空間で生き続けることができる。しかしその代わり、有機体である自身は死ななければならない。それは、自分の生命を、わずかながら写真に刻み付ける、というふうに感じられることだろう。
写真を撮れば、自分の死後も、写真が代わりに生き続けてくれる。それはつまり、自分の命を写真が生きるということ、自分の生を写真にとって代わられるということだ。より強い言い方をすれば、写真が生きるために自分が殺される、ということになるだろう。
写真という物体に印刷されれば、損壊を免れる限りにおいて、永久に生き続けることができる。しかし、生身の肉体を有する自分自身は、死ななければならない。写真の被写体となるということは、自分が死すべき存在であることを否が応にも自覚せねばならないということだ。
「自分が自分の体を離れて生きている」。初めて写真の被写体となった人類の感想は、このようなものだったかもしれない。その衝撃は、如何ばかりであっただろうか。
写真を撮られることを極度に嫌がる人もいるが、彼等は写真によって喚起される死の切迫にとりわけ敏感な人達であるのかもしれない。
この本は、写真評論家の飯沢が写真について書いたコラムをまとめたものである。収録された一編、「Memento Mori――死者たちの肖像」と題された章で、飯沢は写真と死、および死者についての考察を展開している。その中で、写真術は発明以後、生者だけでなく死者もその対象としてきたと述べた後、イギリスの小説家ナイジェル・ニールの「写真」というショートストーリーが紹介されている。
以下にその箇所を引用するが、最初が飯沢の地の文で、一行空けて小説の文となっている。また、ルビがふられている部分があるが、ここではルビ入力ができないので、その文字の後に括弧〔 〕で記載する。
ある母親は、彼女の死にかけた息子を医者や司祭ではなく写真家のところへ連れていこうとする。
どうぞ思い出して下さい、先生。わたしがあの子の母親だってことを。わたしは何よりも、ずっととっておくことができるあの子の記憶〔メモリー〕がほしかったんです。
そして息子は、写真に撮られることで自分が死にかけていることを、もはや彼の「魂が宿る家」が定められた以上、彼の肉体は必要なくなってしまったことを悟る。
涙が彼の目からあふれだした。彼はまるで自分のからだの一部が失われたような怒りと恐れを感じた。
写真は死につつある者(しかし考えてみればわれわれはすべて死につつある者ではないか)から魂を、生命力を奪い去る。それらは矩形の小さな柩のなかに封じこまれ、記憶の蜜蠟によってしっかりと封印される。
本章にはロラン・バルトの「実際、その瞬間〔引用者注・撮影の瞬間〕には、私はもはや主体でも客体でもなく、むしろ、自分が客体になりつつあることを感じている客体である。その瞬間、私は小さな死(括弧入れ)を経験し、本当に幽霊になるのだ。」という言葉や、バルザックの「生きた肉体はいずれも無数のスペクトル(分光)からできている。スペクトルはごく小さな片鱗ないしは薄膜状をして、肉体を四方八方からとり囲んでいる。・・・・・・それゆえダゲレオタイプにあっては、写される肉体の一つの層がつかみとられ、剥ぎとられ、感光板に封じこめられる。」という言葉も紹介されているし、飯沢本人も「考えてみれば、写真は死者たちによく似ている。」と述べている。
写真が日本に入ってきたばかりの頃、撮影されると魂を抜かれるという噂が立ったことがある。また、1980年代だったと思うが、3人で写真を撮ると真ん中の人が早死にする、という都市伝説が流行ったことがあった。これらは、必ずしも根も葉もない迷信とは言えない。
写真の被写体となるということは、多かれ少なかれ死を意識せねばならない、ということだ。写真という無機物にその姿を転じれば、自分の死後も、その空間で生き続けることができる。しかしその代わり、有機体である自身は死ななければならない。それは、自分の生命を、わずかながら写真に刻み付ける、というふうに感じられることだろう。
写真を撮れば、自分の死後も、写真が代わりに生き続けてくれる。それはつまり、自分の命を写真が生きるということ、自分の生を写真にとって代わられるということだ。より強い言い方をすれば、写真が生きるために自分が殺される、ということになるだろう。
写真という物体に印刷されれば、損壊を免れる限りにおいて、永久に生き続けることができる。しかし、生身の肉体を有する自分自身は、死ななければならない。写真の被写体となるということは、自分が死すべき存在であることを否が応にも自覚せねばならないということだ。
「自分が自分の体を離れて生きている」。初めて写真の被写体となった人類の感想は、このようなものだったかもしれない。その衝撃は、如何ばかりであっただろうか。
写真を撮られることを極度に嫌がる人もいるが、彼等は写真によって喚起される死の切迫にとりわけ敏感な人達であるのかもしれない。