今日は事後報告です。
殻を剝いた甘栗のパック売り。これが発売されたとき、大ヒットすると同時に、ちょっとした議論も巻き起こしましたね。「殻くらい自分で剝け」とか、「現代人は楽しようとしすぎ」だとか。おもにジジイが文句をたれていたのです。
しかしジジイの警世とは裏腹、日本社会はどんどん「楽する」方向に向かっています。堕落、ブラボー!
そう、年寄りの繰り言なんて気にする必要ないんですよ。栗だけにね。
年寄りの愚痴、あるいはお説教といえば、「世の中は厳しい」っていうお題目ありますよね。僕、あれが嫌いでしてね。
子供のころは、「なんかイヤ」という、なんとなくの反発心があるだけで、なぜイヤなのか、うまく言語化できていませんでした。
ですが、大人になるにつれ、この言葉が嫌いな理由がわかってきました。
ひとつは、この言葉を口にする人が、ある種の「美学」に酔っているから、です。
「世の中は厳しい」と言いたがる人は、「自分はそんな厳しい世の中を力強く生きている」「オレは努力している」「タフガイなオレはカッコイイ」と思っているのです。つまり、「世の中は厳しい」と言いながら、暗に「自分はすごい」と自慢しているのです。
「厳しい世の中を力強く生きているオレ」という美学に酔っている。美学にひたるために「世の中は厳しい」と言っているのです。
つまり、「世の中は厳しい」というお説教は、自分に酔うための口実にすぎないのです。
だから、ナルシシズムが透けて見えてウンザリするのです。
理由のふたつめは、自分自身が厳しく振る舞うために、世の中を免罪符にしているから。
「世の中は厳しい」と言いたがる人は、他人に厳しくしがちです。そして、その厳しさはやむを得ないものだと言う。
「世の中は厳しい、だからこうせざるを得ないんだ」と。
でも、厳しい振る舞いをしているのはその人自身です。世の中が強要しているわけではない。
やさしくしようと思えばできるのに、そうはしない。その人自身が、他人に厳しくするという選択をしているのです。そして、それを世の中のせいにしている。
つまり、その人が厳しい振る舞いをするのは、その人自身の責任でしかないのに、その責任を世の中に押しつけているのです。「世の中は厳しい」と言うことで、責任転嫁を図っているのです。
これはズルい。だからイヤなのです。
理由のみっつめは、世の中を改善しようとせず、現状維持に甘んじてしまうから。
「世の中は厳しい」という言葉が嫌いな僕ですが、じゃあ世の中は厳しくないのか、と問われれば、「たしかに厳しいところもある」と認めざるを得ません。厳しさがないのなら、世の人々の苦しみも少ないはずです。
でも実際には、多くの人々が苦しんでいる。これは世の中に存在する厳しさのせいです。
このような事実があるのなら、「世の中は厳しい」という言葉を受け入れるべきではないかと思えてくるでしょう。真理として認めるべきだと。
でも、僕はそうは思わないのです。
なぜなら、「世の中は厳しい」と断言することで、「厳しさ」を肯定してしまうからです。
たしかに、世の中には厳しさがある。でもそれは、できるだけなくなったほうがいいものです。
厳しさのせいで、人々は苦しみます。厳しさは人を不幸にし、笑顔を失わせる。
厳しさを乗り越えることで強さを獲得し、人生のプラスにする人もいるでしょう。でも、乗り越えられなくて体を壊したり、心を病んでしまう人もいる。みんながみんな、厳しさを乗り越えられるわけではないのです。
だから、厳しさはできるだけ少ないほうがいい。理想はゼロです。世の中の厳しさは、できるかぎり排除していかねばならない。
でも、「世の中は厳しい」と言ってしまうと、そうはいかなくなる。「世の中は厳しい」という言い分は、その厳しい世の中のありようを、存在している厳しさを、そっくりそのまま肯定してしまうのです。
そうすると、世の中が変わらなくなる。厳しさはそのまま温存され、厳しさにさらされている人は、苦しみを味わい続けねばならなくなるのです。
つまり、「世の中は厳しい」という言い分は、安直な現状維持、思考停止なのです。だからよくない。
世の中に厳しさがあるのは事実です。それは僕も認めます。
だからといって、それが素晴らしいわけではない。人々を苦しめるものが、理想的であるはずがない。
厳しさは、できるだけ世の中から排除していかねばならないものなのです。
安易に「世の中は厳しい」などと断じてしまうと、それができなくなる。世の中の厳しさに、厳しさに苦しむ人々に目をつむってしまうことになるのです。それはよくない。
厳しい世の中は、変えていかないといけない。厳しさをそのままにしてはいけないのです。
だから、「世の中は厳しい」などと言うべきではないのです。安易な現状肯定におちいってしまいますから。
これが「世の中は厳しい」という言葉が嫌いな理由です。
たしかに、世の中には厳しさがあります。物価が上がっても給料は上がらないとか、心身を病むほどに長時間労働を強いられるとか、生活にゆとりがなくて子供に満足な食事をとらせてあげることもできないとか。
じゃあ、それら厳しさは、素晴らしいものなのでしょうか。肯定的に受け入れるべきものなのでしょうか。
そんなことはありません。できるだけ変えていかねばならないものです。
自分に酔いながらの「世の中は厳しい」という発言は、変えるべき厳しさを、そっくりそのまま受け入れてしまうことになるのです。それはいけない。
だから、軽々しく「世の中は厳しい」などと言ってはいけないのです。
でもま、そんなことを言うのはひと昔前の中高年で、今はもう誰もそんなこと言わないのかもしれません。とっくの昔に死語同然になってしまっているのかもしれない。
だとすると、「今さらそんな話しても」というか、振り返る必要のない過去をほじくり出しているだけなのかもしれません。そーゆー意味じゃ、ムダな記事なのかもしれない。
それでもなんか、「昔はこんなことがありましたよ」って記録にはなりますし、ヘンな説教に騙されてはいけないという教訓にもなるはずです。だからまったくのムダとまでは言えない。
皆さんは、世の中は厳しいと思いますか。厳しいとすれば、そんな世の中をどう思いますか。
僕は変えていくべきだと思います。
なので、「甘ったれんな」って言葉もやめるべきなんですよ。
マキシマムザホルモンが、「ぶっ殺す」に反する言葉として「ぶっ生き返す」と歌ってましたが、それと同じように、「甘ったれんな」ではなく、「辛ったれんな」と言うべきなんです。
世の中の厳しさを少しでも減らしていくために、これからは「辛ったれんな」です。
殻を剝いた甘栗のパック売り。これが発売されたとき、大ヒットすると同時に、ちょっとした議論も巻き起こしましたね。「殻くらい自分で剝け」とか、「現代人は楽しようとしすぎ」だとか。おもにジジイが文句をたれていたのです。
しかしジジイの警世とは裏腹、日本社会はどんどん「楽する」方向に向かっています。堕落、ブラボー!
そう、年寄りの繰り言なんて気にする必要ないんですよ。栗だけにね。
年寄りの愚痴、あるいはお説教といえば、「世の中は厳しい」っていうお題目ありますよね。僕、あれが嫌いでしてね。
子供のころは、「なんかイヤ」という、なんとなくの反発心があるだけで、なぜイヤなのか、うまく言語化できていませんでした。
ですが、大人になるにつれ、この言葉が嫌いな理由がわかってきました。
ひとつは、この言葉を口にする人が、ある種の「美学」に酔っているから、です。
「世の中は厳しい」と言いたがる人は、「自分はそんな厳しい世の中を力強く生きている」「オレは努力している」「タフガイなオレはカッコイイ」と思っているのです。つまり、「世の中は厳しい」と言いながら、暗に「自分はすごい」と自慢しているのです。
「厳しい世の中を力強く生きているオレ」という美学に酔っている。美学にひたるために「世の中は厳しい」と言っているのです。
つまり、「世の中は厳しい」というお説教は、自分に酔うための口実にすぎないのです。
だから、ナルシシズムが透けて見えてウンザリするのです。
理由のふたつめは、自分自身が厳しく振る舞うために、世の中を免罪符にしているから。
「世の中は厳しい」と言いたがる人は、他人に厳しくしがちです。そして、その厳しさはやむを得ないものだと言う。
「世の中は厳しい、だからこうせざるを得ないんだ」と。
でも、厳しい振る舞いをしているのはその人自身です。世の中が強要しているわけではない。
やさしくしようと思えばできるのに、そうはしない。その人自身が、他人に厳しくするという選択をしているのです。そして、それを世の中のせいにしている。
つまり、その人が厳しい振る舞いをするのは、その人自身の責任でしかないのに、その責任を世の中に押しつけているのです。「世の中は厳しい」と言うことで、責任転嫁を図っているのです。
これはズルい。だからイヤなのです。
理由のみっつめは、世の中を改善しようとせず、現状維持に甘んじてしまうから。
「世の中は厳しい」という言葉が嫌いな僕ですが、じゃあ世の中は厳しくないのか、と問われれば、「たしかに厳しいところもある」と認めざるを得ません。厳しさがないのなら、世の人々の苦しみも少ないはずです。
でも実際には、多くの人々が苦しんでいる。これは世の中に存在する厳しさのせいです。
このような事実があるのなら、「世の中は厳しい」という言葉を受け入れるべきではないかと思えてくるでしょう。真理として認めるべきだと。
でも、僕はそうは思わないのです。
なぜなら、「世の中は厳しい」と断言することで、「厳しさ」を肯定してしまうからです。
たしかに、世の中には厳しさがある。でもそれは、できるだけなくなったほうがいいものです。
厳しさのせいで、人々は苦しみます。厳しさは人を不幸にし、笑顔を失わせる。
厳しさを乗り越えることで強さを獲得し、人生のプラスにする人もいるでしょう。でも、乗り越えられなくて体を壊したり、心を病んでしまう人もいる。みんながみんな、厳しさを乗り越えられるわけではないのです。
だから、厳しさはできるだけ少ないほうがいい。理想はゼロです。世の中の厳しさは、できるかぎり排除していかねばならない。
でも、「世の中は厳しい」と言ってしまうと、そうはいかなくなる。「世の中は厳しい」という言い分は、その厳しい世の中のありようを、存在している厳しさを、そっくりそのまま肯定してしまうのです。
そうすると、世の中が変わらなくなる。厳しさはそのまま温存され、厳しさにさらされている人は、苦しみを味わい続けねばならなくなるのです。
つまり、「世の中は厳しい」という言い分は、安直な現状維持、思考停止なのです。だからよくない。
世の中に厳しさがあるのは事実です。それは僕も認めます。
だからといって、それが素晴らしいわけではない。人々を苦しめるものが、理想的であるはずがない。
厳しさは、できるだけ世の中から排除していかねばならないものなのです。
安易に「世の中は厳しい」などと断じてしまうと、それができなくなる。世の中の厳しさに、厳しさに苦しむ人々に目をつむってしまうことになるのです。それはよくない。
厳しい世の中は、変えていかないといけない。厳しさをそのままにしてはいけないのです。
だから、「世の中は厳しい」などと言うべきではないのです。安易な現状肯定におちいってしまいますから。
これが「世の中は厳しい」という言葉が嫌いな理由です。
たしかに、世の中には厳しさがあります。物価が上がっても給料は上がらないとか、心身を病むほどに長時間労働を強いられるとか、生活にゆとりがなくて子供に満足な食事をとらせてあげることもできないとか。
じゃあ、それら厳しさは、素晴らしいものなのでしょうか。肯定的に受け入れるべきものなのでしょうか。
そんなことはありません。できるだけ変えていかねばならないものです。
自分に酔いながらの「世の中は厳しい」という発言は、変えるべき厳しさを、そっくりそのまま受け入れてしまうことになるのです。それはいけない。
だから、軽々しく「世の中は厳しい」などと言ってはいけないのです。
でもま、そんなことを言うのはひと昔前の中高年で、今はもう誰もそんなこと言わないのかもしれません。とっくの昔に死語同然になってしまっているのかもしれない。
だとすると、「今さらそんな話しても」というか、振り返る必要のない過去をほじくり出しているだけなのかもしれません。そーゆー意味じゃ、ムダな記事なのかもしれない。
それでもなんか、「昔はこんなことがありましたよ」って記録にはなりますし、ヘンな説教に騙されてはいけないという教訓にもなるはずです。だからまったくのムダとまでは言えない。
皆さんは、世の中は厳しいと思いますか。厳しいとすれば、そんな世の中をどう思いますか。
僕は変えていくべきだと思います。
なので、「甘ったれんな」って言葉もやめるべきなんですよ。
マキシマムザホルモンが、「ぶっ殺す」に反する言葉として「ぶっ生き返す」と歌ってましたが、それと同じように、「甘ったれんな」ではなく、「辛ったれんな」と言うべきなんです。
世の中の厳しさを少しでも減らしていくために、これからは「辛ったれんな」です。