徳丸無明のブログ

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明星食品 一平ちゃん夜店の焼きそば 豚旨塩だれ味

2024-06-29 00:00:55 | 
今日はナイトヌードルです。




僕は焼きそばはソースより塩味のほうが好きなんですよね。塩、スパイス、ニンニク、マヨネーズ。この組み合わせがたまらない。
一平ちゃんは昔、松村邦洋が下品なCMやってましたね。ところで、通訳の一平ちゃんは今どこで何をしているのでしょうか。
通訳、・・・それすなわち国際的。国際標準の話をしましょう。
今、韓国のミュージシャンが世界を席巻しています。BTSやTWICEやBLACKPINKなど、様々な国でコンサートを開催していますよね。
そんな韓国のミュージシャンの活躍を見て、「それに比べて日本のミュージシャンは遅れを取っている」みたいな言い方する人いるじゃないですか。日本のミュージシャンだってYOASOBIとかBABYMETALとか、けっこう世界に受け入れられてますけど、経済規模で比較するなら韓国のミュージシャンのほうがずっと上回っているみたいなんですよね。
なので、「日本のミュージシャンは国際標準に対応できていない。そこは韓国のほうがうまくやっている」と言っているのです。
でも、僕はちょっとまてよと思うのです。
まず、ぞれぞれの国の事情が違います。韓国は、人口が日本の3分の1と、小規模。また、芸能界の構造上の問題もあるのか、国内のマーケットだけでは経営が成り立たないのです。したがって、最初から国際標準を視野に入れて音楽活動を開始せざるを得ない。
それは国策でもあったそうで、韓国では官民挙げてミュージシャンを世界に売り込んできたのです。いわば、それは生き残り戦略だった。
それに対して、日本は国内の稼ぎだけでも黒字が出せるため、国際標準を念頭に置く必要がないのです。お互いの国の事情が違うのです。
話はそれだけにとどまりません。たしかに、経済という面にだけ着目すれば、最初から国際標準を意識していたほうがいいのでしょう。ですが、それはいいことばかりなのでしょうか。マイナスの要素もあるのではないでしょうか。
僕はあると思います。国際標準(正確には欧米基準ということですが)であるとは、普遍的だということです。普遍的な音楽。それは、自国の独自性を排除した音楽となるはずです。
その国ならではの文化、受け継がれてきた伝統。それら独自性を捨て去って成立するのが普遍的な音楽なのです。
だとしたら、国際標準のミュージシャンは、高い経済力を獲得するのと引き換えに、独自性を犠牲にしてしまっている、ということになるわけです。
それは、本当に素晴らしいことなのでしょうか。日本のミュージシャンも、そのような国際標準を目指すべきなのでしょうか。
僕はそうは思いません。
マーケットの規模は縮小したとしても、独自性を守った音楽活動があっていいと思います。
もちろん、「オレはとにかく稼ぎたい。ハナから国際標準でいくぜ」というミュージシャンがいてもいい。でも、国内のマーケットだけで食べていけるのなら、その規模に見合った活動をしていればそれで充分だと思います。

それに、国際標準じゃないと世界に受け入れられない、というものでもありません。日本の独自性を面白がってくれる外国の方だってたくさんいます。今は松原みきさんの「真夜中のドア stay with me」とか、竹内まりやさんの「プラスティック・ラヴ」とか、シティポップに注目が集まっているそうですね。
自分の立場で考えてみればわかることです。日本の文化にはない、外国の独特の音楽に触れるとき、好奇心やら不思議な感覚やら、なんとも言えない関心が引き起こされたりします。独自性は、魅力でもあるのです。
だから、軽々しく国際標準こそが絶対であるかのような言い方をすべきではないのです。国際標準によって、失われてしまうものもある。それはお金には換算できない価値だし、長い目で見たら、そちらのほうがお金を生み出すことだってある。
普遍的な音楽は、瞬間的には多くの利益を生み出すものの、あっという間に消費され、忘れ去られてしまうかもしれない。それに対し、独自性のある音楽は、細く長く聴き続けられていくかもしれない。韓国の音楽シーンは、当座の高い収益性を得るのと引き換えに、そのような独自性を喪失してしまっているのかもしれないのです。
国内のマーケットだけでも黒字を出せる、日本の芸能環境を喜ぶべきではないでしょうか。否応なしに自国の独自性を捨て、国際標準に合わせる必要がないのですから。
経済学者の佐伯啓思さんと、文芸評論家の三浦雅士さんが、対談本『資本主義はニヒリズムか』(新書館)の中で、「アメリカは60年代までは、映画であれば西部劇の『駅馬車』や『大いなる西部』や『アラモ』といった、アメリカ独自の文化が感じられる作品があった。70年代以降は『ブレードランナー』とか『エイリアン』とか、独自性が感じられない普遍的なものになってしまった。音楽や文学においても同じような変化があった」という話をしています。アメリカのような、世界のリーダーヅラしていばりちらしているような国ですらそうなのです(いや、ひょっとしたら、アメリカのような国だからこそ否応なく普遍化してしまう、ということなのかもしれませんが)。国際標準、つまり世界規模でカルチャーをお金に換えることを意識すると、独自の文化が普遍化してしまう。独自色を失い、無色透明になってしまうのです。
とにかく強調しておきたいのは、収益性が高ければ高いほど素晴らしいとか、国際標準に適しているほうが優れているだとか、欧米様のお眼鏡に適うようにすべきだとか、そういう考えを盲信すべきではないということです。それもひとつの価値ではあります。でも、それ以外の価値もある。
国際標準に合わせることによって失われてしまうものもある。そんな一面も気にかけるべきです。
ダイナマイトもいいけど、大悟マイトもいい。そーゆー価値相対主義でいきましょう。


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