(②からの続き)
日本人は無宗教だ、とよく言われる。それは半分正しく、半分間違っている。キリスト教やイスラム教のような、確固とした教義・体系を有する固有の宗教の類であれば、確かに奉じてはいない。
しかし、信仰心がないというわけではない。固有の宗教をもたないから、その時々で「恐ろしいもの」を神として崇め奉ってきたのである。それは熊であったり、卑弥呼であったり、藤原氏であったり、天皇であったりしてきたのだろう。コロコロと崇拝の対象を変えるその移り気な態度は、クリスチャンやムスリムの目には無宗教に見えるのだと思う。
(蛇足になるかもしれないが、先程少し触れたように、アメリカと原子力と金は、キリスト教の三位一体と奇妙な符合をなしている。父なる神(ヤハウェ)がアメリカで、その父に遣わされた子(キリスト)が原爆(=原子力)、そして聖霊が金である。聖霊は増殖するものとされているが、金もまた増殖する)
「原発=原子力」が宗教だとすれば、そこから脱原発を実現する方法も見えてくる。原子力産業を食い扶持にしている人々を経済面で批判するのではなく、原子力村の住民のもたれ合いを倫理的に批判するのでもなく、宗教的観点からの乗り越えを模索すればいいのだ。
一つのやり方としては、これまでそうしてきたように、原子力に代わるほかの「恐ろしいもの」を見出す、という手法が考えられるだろう。
日本人が様々な対象を崇拝してきたのは、各時代ごとに「恐ろしいもの」が違っていたからだ。だから、原子力以外に「恐ろしいもの」を見付けることができれば、原発は崇拝の対象ではなくなる。
だが、それは高い危険性を伴う。原子力に代わる恐ろしいものは、原発よりもリスクが高い代物であるかもしれないのだ。脱原発を果たすために原発よりも危険なものを導入するのは、本末転倒である。
もう一つ考えられるやり方は、キリスト教やイスラム教のような、確固とした宗教を国教とすることである。ヤハウェやアラーを「畏れ」ていれば、原発などどいう現世的なものを崇拝せずにすむ。
日本には一神教は馴染まない、ともよく言われる。だが、中世の時代にはキリシタンが弾圧を受けるほど増加していたこともある。だから、必ずしも一神教は無理、と断じることはできないと思う。
しかし、それはどれだけ現実性があるだろうか。これまでずっと無宗教で来たのに、今更急に宗教を持つことなどできるだろうか。それに、基本的に宗教とは、魅入られることによって信仰するようになるものであり、脱原発という実利的な目的のために信仰するものではない。そんな動機では本気で信奉することなどできないだろう。
では、一体どうすれば?我々は鉄腕アトムを手に掛けるしかないのだろうか?
おそらくそれは不可能だ。被崇拝者が、「恐ろしいもの」を殺めるのは、原理的に言って難しい。
さて、話はここでまたも中沢新一に戻ってくる。中沢は、東日本大震災を主題として行われた内田樹と平川克美との鼎談本『大津波と原発』の中で、次のように述べている。
宮沢賢治みたいな人が東北をどうするかって考えていたのは、こういうときのためなのだと思うのです。イーハトヴの思想なんて、これからの復興の基本思想に据えていくべきものです。
宮沢賢治はそういう思想を童話で表現しておいたから、甘い話だなんて思う人もいるかもしれないけれど、彼は貧しい東北をどうやったら未来にとってもっとも輝かしい地帯につくりかえられるかということを、本気で考えていた人です。
宮沢賢治の思想が、東北復興の礎となる?
小生は以前、「映画『シン・ゴジラ』評――修羅が再び日本を壊す」という評論を書いた(2016・12・19、20)。その中で、『シン・ゴジラ』に宮沢賢治の詩集『春と修羅』が出てくること、その『春と修羅』の中で、賢治が自分は修羅であるとの名乗りを上げていること、そして、修羅とはまさしくゴジラそのものであり、〈宮沢賢治=修羅=ゴジラ〉の等式が成り立つことを述べた。しかし、それが何を意味するのかまでは分析できずじまいであった。
その未解決の議題が、ここに来て結びつきを見せようとしている。
地震と原発によって破壊された東北が、賢治の思想によって復興を果たす。それはつまり、これまで信奉されてきたものが新たな信仰にとって代わられるということ。「原発=原子力」を崇拝する宗教から脱却し、賢治の思想こそが信仰の対象となるということではないか?
〈宮沢賢治=修羅=ゴジラ〉という等式は、賢治がゴジラのような厄介で恐ろしい存在だというのではなく、賢治の思想が「ゴジラ=原発=原子力」の信仰の代替となりうる可能性を秘めている、という暗示だったのではないか・・・。
この解釈は牽強付会だろうか。しかし、中沢の主張は魅力的だし、希望に満ちている。
小生は不勉強なので、賢治の思想がどのようなものなのか、その詳細を知らない。だが、おそらくそれは、「原発=原子力」信仰のような、一神教的で、環境破壊を厭わないような乱暴なものではないだろう。もっと博愛的・寛容的で、より多くの人々、より多くの生物との共生を目指す思想であるはずだ。
日本人が本当に「原発=原子力」の信仰を捨て、賢治の思想を頂くようになるのか。それにどれだけ現実性があるのかは、よくわからない。ひょっとしたら、甘い夢物語なのかもしれない。
だが、それが日本にとって最も望ましい選択肢であることは間違いないだろう。だとすれば、現実的であるかどうかの議論を重ねるよりも、実際に現実に導入していく働きかけこそが求められるのではないか。
しかし、だ。どのようにして「原発=原子力」信仰に賢治の思想を対置させ、止揚を果たせばいいのか。その筋道がわからない。
肝心なその点だけが。うーん・・・。
オススメ関連本・濱野智史『前田敦子はキリストを超えた――〈宗教〉としてのAKB48』ちくま新書
日本人は無宗教だ、とよく言われる。それは半分正しく、半分間違っている。キリスト教やイスラム教のような、確固とした教義・体系を有する固有の宗教の類であれば、確かに奉じてはいない。
しかし、信仰心がないというわけではない。固有の宗教をもたないから、その時々で「恐ろしいもの」を神として崇め奉ってきたのである。それは熊であったり、卑弥呼であったり、藤原氏であったり、天皇であったりしてきたのだろう。コロコロと崇拝の対象を変えるその移り気な態度は、クリスチャンやムスリムの目には無宗教に見えるのだと思う。
(蛇足になるかもしれないが、先程少し触れたように、アメリカと原子力と金は、キリスト教の三位一体と奇妙な符合をなしている。父なる神(ヤハウェ)がアメリカで、その父に遣わされた子(キリスト)が原爆(=原子力)、そして聖霊が金である。聖霊は増殖するものとされているが、金もまた増殖する)
「原発=原子力」が宗教だとすれば、そこから脱原発を実現する方法も見えてくる。原子力産業を食い扶持にしている人々を経済面で批判するのではなく、原子力村の住民のもたれ合いを倫理的に批判するのでもなく、宗教的観点からの乗り越えを模索すればいいのだ。
一つのやり方としては、これまでそうしてきたように、原子力に代わるほかの「恐ろしいもの」を見出す、という手法が考えられるだろう。
日本人が様々な対象を崇拝してきたのは、各時代ごとに「恐ろしいもの」が違っていたからだ。だから、原子力以外に「恐ろしいもの」を見付けることができれば、原発は崇拝の対象ではなくなる。
だが、それは高い危険性を伴う。原子力に代わる恐ろしいものは、原発よりもリスクが高い代物であるかもしれないのだ。脱原発を果たすために原発よりも危険なものを導入するのは、本末転倒である。
もう一つ考えられるやり方は、キリスト教やイスラム教のような、確固とした宗教を国教とすることである。ヤハウェやアラーを「畏れ」ていれば、原発などどいう現世的なものを崇拝せずにすむ。
日本には一神教は馴染まない、ともよく言われる。だが、中世の時代にはキリシタンが弾圧を受けるほど増加していたこともある。だから、必ずしも一神教は無理、と断じることはできないと思う。
しかし、それはどれだけ現実性があるだろうか。これまでずっと無宗教で来たのに、今更急に宗教を持つことなどできるだろうか。それに、基本的に宗教とは、魅入られることによって信仰するようになるものであり、脱原発という実利的な目的のために信仰するものではない。そんな動機では本気で信奉することなどできないだろう。
では、一体どうすれば?我々は鉄腕アトムを手に掛けるしかないのだろうか?
おそらくそれは不可能だ。被崇拝者が、「恐ろしいもの」を殺めるのは、原理的に言って難しい。
さて、話はここでまたも中沢新一に戻ってくる。中沢は、東日本大震災を主題として行われた内田樹と平川克美との鼎談本『大津波と原発』の中で、次のように述べている。
宮沢賢治みたいな人が東北をどうするかって考えていたのは、こういうときのためなのだと思うのです。イーハトヴの思想なんて、これからの復興の基本思想に据えていくべきものです。
宮沢賢治はそういう思想を童話で表現しておいたから、甘い話だなんて思う人もいるかもしれないけれど、彼は貧しい東北をどうやったら未来にとってもっとも輝かしい地帯につくりかえられるかということを、本気で考えていた人です。
宮沢賢治の思想が、東北復興の礎となる?
小生は以前、「映画『シン・ゴジラ』評――修羅が再び日本を壊す」という評論を書いた(2016・12・19、20)。その中で、『シン・ゴジラ』に宮沢賢治の詩集『春と修羅』が出てくること、その『春と修羅』の中で、賢治が自分は修羅であるとの名乗りを上げていること、そして、修羅とはまさしくゴジラそのものであり、〈宮沢賢治=修羅=ゴジラ〉の等式が成り立つことを述べた。しかし、それが何を意味するのかまでは分析できずじまいであった。
その未解決の議題が、ここに来て結びつきを見せようとしている。
地震と原発によって破壊された東北が、賢治の思想によって復興を果たす。それはつまり、これまで信奉されてきたものが新たな信仰にとって代わられるということ。「原発=原子力」を崇拝する宗教から脱却し、賢治の思想こそが信仰の対象となるということではないか?
〈宮沢賢治=修羅=ゴジラ〉という等式は、賢治がゴジラのような厄介で恐ろしい存在だというのではなく、賢治の思想が「ゴジラ=原発=原子力」の信仰の代替となりうる可能性を秘めている、という暗示だったのではないか・・・。
この解釈は牽強付会だろうか。しかし、中沢の主張は魅力的だし、希望に満ちている。
小生は不勉強なので、賢治の思想がどのようなものなのか、その詳細を知らない。だが、おそらくそれは、「原発=原子力」信仰のような、一神教的で、環境破壊を厭わないような乱暴なものではないだろう。もっと博愛的・寛容的で、より多くの人々、より多くの生物との共生を目指す思想であるはずだ。
日本人が本当に「原発=原子力」の信仰を捨て、賢治の思想を頂くようになるのか。それにどれだけ現実性があるのかは、よくわからない。ひょっとしたら、甘い夢物語なのかもしれない。
だが、それが日本にとって最も望ましい選択肢であることは間違いないだろう。だとすれば、現実的であるかどうかの議論を重ねるよりも、実際に現実に導入していく働きかけこそが求められるのではないか。
しかし、だ。どのようにして「原発=原子力」信仰に賢治の思想を対置させ、止揚を果たせばいいのか。その筋道がわからない。
肝心なその点だけが。うーん・・・。
オススメ関連本・濱野智史『前田敦子はキリストを超えた――〈宗教〉としてのAKB48』ちくま新書
(①からの続き)
「核の平和利用」の名目による原子力エネルギー利用を決定づけた原子力基本法が成立したのが1955年12月のこと。この法律によって今日にまで至る原子力発電所を中心とした我が国のエネルギー政策が規定された。
この前年の3月には、ビキニ環礁での第五福竜丸被曝事件が起こっている。原爆を投下された戦争の記憶がまだ生々しい中、しかも、原水爆の悲劇を新たにした被曝事件の直後において、原子力政策の施行が決されたのである。
この時に国会の中と外で温度差があったわけでもなく、国民の間でも当法はおおむね好意的に受け入れられたという。「被爆国たる日本こそが核の平和利用を率先して推進する使命を背負っているのだ」。このロジックは当時から既に使われていた。
「攻殻機動隊」や「×××HOLiC」などのアニメ脚本家として知られる櫻井圭記は、その著書『フィロソフィア・ロボティカ』の中で、鉄腕アトムの英語名が「astro boy」であることを挙げ、アメリカを含む西洋圏の方が、被爆国である日本よりもむしろ「atom」という言葉の使用に慎重であるように感じる、と述べている。
鉄腕アトムの漫画が(最初は「アトム大使」というタイトルで)発表されたのが1951年のこと。日本初のTVアニメにもなった同作は、子供達におおいに愛され、手塚治虫の代表作のみならず、日本の漫画のアイコンとなった。
被爆国であるはずの日本が、なぜだか原子力に抵抗が薄い。それどころかむしろ、原子力にあこがれを感じ、積極的に社会に取り入れようとしてきたように見える。これは一体、どういうことなのだろう。
原始社会において、崇拝の対象、つまり神として崇められてきたのは、多くの場合野生動物、特に肉食獣であった。
その中でも、世界中で広く崇拝されてきたのが熊である。巨大な肉体を持ち、人間とは比較にならない力を備えた熊は、恐怖の対象であるとともに、狩りによって肉と毛皮をもたらしてくれるありがたい存在でもあった。
肉と毛皮が手に入るというだけならば、草食動物でも同じである。熊が崇拝されてきた要因は、何よりもその強さにあった。
「恐れ」と「畏れ」は、意味は違えど同じ読みである。このことは、2つの「おそれ」は同じ一つの根元から発生しているということを示している。「恐れ」と「畏れ」は、一つの感情をそれぞれ違う態度で発露したものなのだ。
それはつまり、人は「恐ろしいもの」を「畏れ」ずにはいられない、ということである。恐怖を感じたその瞬間、人はその対象を「畏れ」ている。
外敵から身を守る術が乏しかった原始社会では、人間が肉食獣に食い殺されることも珍しくはなかっただろう。人間にとって熊は恐ろしい存在であった。同時に、人間とは比較にならないその力に、魅入られもした。だから、神として「畏れ」た。
動物のぬいぐるみの中で、圧倒的に人気が高いのが熊である。動物の種類はそれこそ無数にあるにもかかわらず、ことぬいぐるみの数に限って言えば、熊は他の動物を圧倒している。熊だけでシェアのほぼ100パーセントを占めているのではないかと思えるくらいだ。熊のぬいぐるみにだけテディベアという総称があることからも、それは明らかだろう。
宗教学者の中沢新一によれば、これは熊が原始社会に生きていたころの記憶と深く結びついているからだという。熊を神として崇めていた頃は、熊の毛皮を直接的に、神棚や仏壇のようにして、身近なところに飾っていた。そのことによって、熊の力を我が物にしようとし、同時に一種の魔除けの効果も期待されていた。ぬいぐるみの中で熊の人気が圧倒的なのは、その原-記憶が人々の遺伝子の中に深く刻み込まれていて、無意識の願望に訴えかけてくるからだという。(『熊から王へ――カイエ・ソバージュ2』)
おそらく、ゆるキャラのくまモン人気にも、この深層心理が影響しているのだろう(熊本は、県名に「熊」の字が入っていたのが幸運であった)。
もちろん強い力を持つ肉食獣は、熊以外にいくらでもいるのだが、ライオンやチーターなどが生息するアフリカは、ぬいぐるみを製造・販売するほど文明レベルが高くない地域が多いし、また、熊は他の肉食獣よりも生息域が広いので、神として祀られる割合が高かった、という背景もある。
人間は、恐ろしいものを「畏れ」ずにはいられない。
武功を成した戦国武将は、のちに神社に祀られてきたし、連続殺人鬼のような凶悪犯罪者にファンが付くのも珍しいことではない。
神は人間を守ってくれるありがたい存在であると同時に、祀り方を誤れば災いをもたらす恐ろしい存在でもある。これは、良い悪いの問題ではない。この二律背反の感情は、抜き差しならないものとして、人間の脳内にインプットされている。
1945年、原子爆弾を投下された日本人は、その強烈な力に打ちのめされた。その破壊力・殺傷力に、恐怖を覚えずにはいられなかった。「恐れ」てしまった以上、「畏れ」ずにはいられない。かくして、戦後の日本社会において、「原爆=原子力=原発」は、神として崇められることになる。
戦後の日本は、アメリカを崇拝してきた、ともよく言われる。「資本主義教」、もしくは「現金崇拝教」になって金を崇めてきた、とも。
原爆を投下したのはアメリカだし、勤勉に働いて稼ぎ、競争し合う資本主義によってより豊かな社会が築けると、その資本主義による物量・パワーこそが太平洋戦争の帰趨を決したのだと教えたのもアメリカである。おそらく、「アメリカ」「原子力」「金」の三者は、日本にとって相補関係にある(三位一体?)。
戦後の日本は、全国各地で原発の建設をコツコツと推し進めてきた。それはあたかも、神の依り代として集落ごとに神社を建立するように。もしくは、寝室にテディベアを飾るように。
中沢新一は『日本の大転換』の中で、石炭や石油などの化石エネルギーは生態圏の内部のエネルギーだが、原子力は生態圏の外部の太陽圏に属していること、その在り様は極めて一神教的であることを指摘している。
それはどういうことかというと、石炭や石油は動植物の死骸が長い時間をかけて分解されたことによって生み出されたエネルギーであり、生態圏の循環の中にあるのに対して、原子力は核融合という地球のマントルや太陽内部で起きている現象を持ち込んだものであって、太陽圏のそれであるということ。また、アニミズムや多神教の神々は、暴風や洪水などの災害を及ぼすことはあるものの、それはあくまで自然現象の範囲内であり(だから、台風や津波の象徴がアニミズム・多神教の神であるという)、基本的には降雨などの恵みをもたらす存在であるのに対して、一神教の神は、究極的な破局をもたらす極めて危険な存在であるということ。ゆえに、原子力は一神教的であり、人類を破滅に導きかねないエネルギーだということである。
日本社会が東日本大震災を経てもなお脱原発へと舵を切れない理由。それは、日本にとって、「原発=原子力」が宗教であるからだ。原発に問題があると頭で理解していても、それでもやめることができないのは、それが理性を超えた「何か」であるからだ。宗教は、理性を超えるものである。だから、「原発=原子力」が宗教だと捉えれば、囚われ続けていることの説明がつく。(日本政府が核廃絶に消極的なのは、アメリカ追従だけが理由ではないし、右側の人達が核武装を訴えるのも、国粋主義的願望だけが要因ではないだろう)
(③に続く)
「核の平和利用」の名目による原子力エネルギー利用を決定づけた原子力基本法が成立したのが1955年12月のこと。この法律によって今日にまで至る原子力発電所を中心とした我が国のエネルギー政策が規定された。
この前年の3月には、ビキニ環礁での第五福竜丸被曝事件が起こっている。原爆を投下された戦争の記憶がまだ生々しい中、しかも、原水爆の悲劇を新たにした被曝事件の直後において、原子力政策の施行が決されたのである。
この時に国会の中と外で温度差があったわけでもなく、国民の間でも当法はおおむね好意的に受け入れられたという。「被爆国たる日本こそが核の平和利用を率先して推進する使命を背負っているのだ」。このロジックは当時から既に使われていた。
「攻殻機動隊」や「×××HOLiC」などのアニメ脚本家として知られる櫻井圭記は、その著書『フィロソフィア・ロボティカ』の中で、鉄腕アトムの英語名が「astro boy」であることを挙げ、アメリカを含む西洋圏の方が、被爆国である日本よりもむしろ「atom」という言葉の使用に慎重であるように感じる、と述べている。
鉄腕アトムの漫画が(最初は「アトム大使」というタイトルで)発表されたのが1951年のこと。日本初のTVアニメにもなった同作は、子供達におおいに愛され、手塚治虫の代表作のみならず、日本の漫画のアイコンとなった。
被爆国であるはずの日本が、なぜだか原子力に抵抗が薄い。それどころかむしろ、原子力にあこがれを感じ、積極的に社会に取り入れようとしてきたように見える。これは一体、どういうことなのだろう。
原始社会において、崇拝の対象、つまり神として崇められてきたのは、多くの場合野生動物、特に肉食獣であった。
その中でも、世界中で広く崇拝されてきたのが熊である。巨大な肉体を持ち、人間とは比較にならない力を備えた熊は、恐怖の対象であるとともに、狩りによって肉と毛皮をもたらしてくれるありがたい存在でもあった。
肉と毛皮が手に入るというだけならば、草食動物でも同じである。熊が崇拝されてきた要因は、何よりもその強さにあった。
「恐れ」と「畏れ」は、意味は違えど同じ読みである。このことは、2つの「おそれ」は同じ一つの根元から発生しているということを示している。「恐れ」と「畏れ」は、一つの感情をそれぞれ違う態度で発露したものなのだ。
それはつまり、人は「恐ろしいもの」を「畏れ」ずにはいられない、ということである。恐怖を感じたその瞬間、人はその対象を「畏れ」ている。
外敵から身を守る術が乏しかった原始社会では、人間が肉食獣に食い殺されることも珍しくはなかっただろう。人間にとって熊は恐ろしい存在であった。同時に、人間とは比較にならないその力に、魅入られもした。だから、神として「畏れ」た。
動物のぬいぐるみの中で、圧倒的に人気が高いのが熊である。動物の種類はそれこそ無数にあるにもかかわらず、ことぬいぐるみの数に限って言えば、熊は他の動物を圧倒している。熊だけでシェアのほぼ100パーセントを占めているのではないかと思えるくらいだ。熊のぬいぐるみにだけテディベアという総称があることからも、それは明らかだろう。
宗教学者の中沢新一によれば、これは熊が原始社会に生きていたころの記憶と深く結びついているからだという。熊を神として崇めていた頃は、熊の毛皮を直接的に、神棚や仏壇のようにして、身近なところに飾っていた。そのことによって、熊の力を我が物にしようとし、同時に一種の魔除けの効果も期待されていた。ぬいぐるみの中で熊の人気が圧倒的なのは、その原-記憶が人々の遺伝子の中に深く刻み込まれていて、無意識の願望に訴えかけてくるからだという。(『熊から王へ――カイエ・ソバージュ2』)
おそらく、ゆるキャラのくまモン人気にも、この深層心理が影響しているのだろう(熊本は、県名に「熊」の字が入っていたのが幸運であった)。
もちろん強い力を持つ肉食獣は、熊以外にいくらでもいるのだが、ライオンやチーターなどが生息するアフリカは、ぬいぐるみを製造・販売するほど文明レベルが高くない地域が多いし、また、熊は他の肉食獣よりも生息域が広いので、神として祀られる割合が高かった、という背景もある。
人間は、恐ろしいものを「畏れ」ずにはいられない。
武功を成した戦国武将は、のちに神社に祀られてきたし、連続殺人鬼のような凶悪犯罪者にファンが付くのも珍しいことではない。
神は人間を守ってくれるありがたい存在であると同時に、祀り方を誤れば災いをもたらす恐ろしい存在でもある。これは、良い悪いの問題ではない。この二律背反の感情は、抜き差しならないものとして、人間の脳内にインプットされている。
1945年、原子爆弾を投下された日本人は、その強烈な力に打ちのめされた。その破壊力・殺傷力に、恐怖を覚えずにはいられなかった。「恐れ」てしまった以上、「畏れ」ずにはいられない。かくして、戦後の日本社会において、「原爆=原子力=原発」は、神として崇められることになる。
戦後の日本は、アメリカを崇拝してきた、ともよく言われる。「資本主義教」、もしくは「現金崇拝教」になって金を崇めてきた、とも。
原爆を投下したのはアメリカだし、勤勉に働いて稼ぎ、競争し合う資本主義によってより豊かな社会が築けると、その資本主義による物量・パワーこそが太平洋戦争の帰趨を決したのだと教えたのもアメリカである。おそらく、「アメリカ」「原子力」「金」の三者は、日本にとって相補関係にある(三位一体?)。
戦後の日本は、全国各地で原発の建設をコツコツと推し進めてきた。それはあたかも、神の依り代として集落ごとに神社を建立するように。もしくは、寝室にテディベアを飾るように。
中沢新一は『日本の大転換』の中で、石炭や石油などの化石エネルギーは生態圏の内部のエネルギーだが、原子力は生態圏の外部の太陽圏に属していること、その在り様は極めて一神教的であることを指摘している。
それはどういうことかというと、石炭や石油は動植物の死骸が長い時間をかけて分解されたことによって生み出されたエネルギーであり、生態圏の循環の中にあるのに対して、原子力は核融合という地球のマントルや太陽内部で起きている現象を持ち込んだものであって、太陽圏のそれであるということ。また、アニミズムや多神教の神々は、暴風や洪水などの災害を及ぼすことはあるものの、それはあくまで自然現象の範囲内であり(だから、台風や津波の象徴がアニミズム・多神教の神であるという)、基本的には降雨などの恵みをもたらす存在であるのに対して、一神教の神は、究極的な破局をもたらす極めて危険な存在であるということ。ゆえに、原子力は一神教的であり、人類を破滅に導きかねないエネルギーだということである。
日本社会が東日本大震災を経てもなお脱原発へと舵を切れない理由。それは、日本にとって、「原発=原子力」が宗教であるからだ。原発に問題があると頭で理解していても、それでもやめることができないのは、それが理性を超えた「何か」であるからだ。宗教は、理性を超えるものである。だから、「原発=原子力」が宗教だと捉えれば、囚われ続けていることの説明がつく。(日本政府が核廃絶に消極的なのは、アメリカ追従だけが理由ではないし、右側の人達が核武装を訴えるのも、国粋主義的願望だけが要因ではないだろう)
(③に続く)
2017年6月13日、九州電力玄海原発の再稼働差し止めを求めた住民訴訟で、佐賀地裁は原子炉施設の安全性に欠けるところは認められないとして、仮処分の申し立てを却下した。
高浜原発でも、川内原発でも、伊方原発でもほぼ同じ流れになっている。再稼働差し止めを求める訴訟は次々と退けられ、福島第一原発の事故以降沸き起こった脱原発の機運はすぼまり続け、全国至る所で原発が稼働する、事故以前と変わらぬ光景が取り戻されようとしている。
3月31日には浪江町、飯舘村、川俣町で、翌1日には富岡町で帰還困難区域を除いて避難指示が解除されたが、これにも欺瞞を感じずにはいられない。素人考えと言われればそれまでだが、僅か6年で放射能の危険性が弱まるとは思えない。
平たく言えば、「福島、並びに東日本は安全であるとアピールしたい政府」が、「一日も早く帰郷したい避難民」の願望に付け込んでいるようにしか見えないのだ。つまり、政府にとっての最優先事項は、外国人観光客の減少の食い止めと、2020年の東京五輪をつつがなく開催するための下地作りだということ。要するに「金目」が何よりも大事ということであり、避難民のことなど2の次3の次・・・いや、それどころかむしろ、できるだけ見て見ぬフリをし、切り捨てられるは「自己責任」の名のもとに切り捨てたい、目障りで厄介な存在くらいにしか考えていないのではないだろうか。
ついでに言えば、これは「風評被害」の問題とも繋がってくる。もともと風評被害というのは、「事実に反するネガティブな情報による損益」、もしくは「事実に即してはいるものの、過剰な伝達によって、必要以上にネガティブさが強調された情報による損益」といった意味であったはずだ。しかし今となっては、ネガティブな情報はすべて風評被害と呼ばれるようになり、相手が被災等の困窮した立場にある場合、一切のネガティブ情報の発信を行うべきではないという意味合いでこの語が用いられるようになっている。
東日本大震災に関しては、主に福島産の農作物の放射能汚染問題において語られる。被災者を支援したいという気持ちはよくわかる。だが、風評被害を無くそうとする取り組みは、農作物の放射能汚染への言及を認めようとしない、ということであり、それが安全であるか否かに関わりなく、とにかく「福島の野菜を買うべき」という主張になるだろう。
小生は、被災者の復興支援と、福島産の農作物を避けることは、矛盾しないと思う。
風評被害に対する批判が、善意で行われていることは間違いないだろう。しかしそれは、長期的に見れば甲状腺癌の増加に加担することになってしまうかもしれないのだ。放射能と甲状腺癌の因果関係は、明確にはわかっていない。長年かけて影響が出てくる事例がほとんどなので、放射線をどれだけ取り込めば癌になるかを、数値で明らかにすることができない。もちろんその影響には個人差がある。だからこそ簡単に風評被害批判ができてしまうわけだが、身の安全のために放射能を少しでも避けたいと考えている人に、福島の農作物の摂取を強要することは倫理的に許されないし、本当の意味での被災者支援にも反すると思う。
そして、福島の農作物の放射能汚染に関する言論を抑え込もうとすることは、無自覚的に「福島、並びに東日本は安全であるとアピールしたい政府」の片棒を担ぐことになってしまうのだ。
風評被害という言葉の使用に、もっと慎重にならなくてはならない。風評被害を過度に恐れていては、放射能汚染などの情報開示に及び腰になってしまう。それはつまり、被災者のためを思ってしたことが、巡り巡って逆に被災者を苦しめることになるかもしれない、ということである。真に被災者、並びに東日本の人々の安寧を願うのであれば、開示すべき情報は適切に開示されなければならない。
「やむを得ない風評被害」、もしくは「必要悪としての風評被害」もあるのだ。誤った情報に基づく風評被害は正されねばならないが、やむを得ない風評被害に対しては、無くそうとするのではなく、社会保障などによる補填で応じるべきだろう。
話を戻す。
東日本大震災を経てもなお、日本社会は原発依存から脱却できずにいる。何故だろう。
原子力産業が、もはやそれ抜きではやっていけないほど国内経済のうちの大きな比重を占めているからだろうか。原子力行政における利害関係、つまり原子力村の人的構造が、日本社会に骨絡みになっており、剔抉するのが困難であるからだろうか。あるいは、官民挙げての脱原発への取り組みは、理論上は不可能ではないものの、日本社会特有の「空気の支配」が、その実現を妨げているからだろうか。
どれも一理あると思う。しかし、これらの指摘は、福島第一原発の事故からこっち、数多くの論者によって言及されてきたことである。それこそ、耳にタコができるほど聞かされてきた。
ならば、それを踏まえてこう問わなければならない。「原発をめぐる問題点は百出し、その解決策も多数提示されているにもかかわらず、なおも日本社会が脱原発へと舵を切れないのは何故なのか」。
小生の仮説は次の通り。「経済でも、利害関係でも、空気の支配でもない、あまり意識されることのない問題点があり、それこそが脱原発を阻む大きな要因となっているのではないか」。
以下にその理路を述べる。
(②に続く)
高浜原発でも、川内原発でも、伊方原発でもほぼ同じ流れになっている。再稼働差し止めを求める訴訟は次々と退けられ、福島第一原発の事故以降沸き起こった脱原発の機運はすぼまり続け、全国至る所で原発が稼働する、事故以前と変わらぬ光景が取り戻されようとしている。
3月31日には浪江町、飯舘村、川俣町で、翌1日には富岡町で帰還困難区域を除いて避難指示が解除されたが、これにも欺瞞を感じずにはいられない。素人考えと言われればそれまでだが、僅か6年で放射能の危険性が弱まるとは思えない。
平たく言えば、「福島、並びに東日本は安全であるとアピールしたい政府」が、「一日も早く帰郷したい避難民」の願望に付け込んでいるようにしか見えないのだ。つまり、政府にとっての最優先事項は、外国人観光客の減少の食い止めと、2020年の東京五輪をつつがなく開催するための下地作りだということ。要するに「金目」が何よりも大事ということであり、避難民のことなど2の次3の次・・・いや、それどころかむしろ、できるだけ見て見ぬフリをし、切り捨てられるは「自己責任」の名のもとに切り捨てたい、目障りで厄介な存在くらいにしか考えていないのではないだろうか。
ついでに言えば、これは「風評被害」の問題とも繋がってくる。もともと風評被害というのは、「事実に反するネガティブな情報による損益」、もしくは「事実に即してはいるものの、過剰な伝達によって、必要以上にネガティブさが強調された情報による損益」といった意味であったはずだ。しかし今となっては、ネガティブな情報はすべて風評被害と呼ばれるようになり、相手が被災等の困窮した立場にある場合、一切のネガティブ情報の発信を行うべきではないという意味合いでこの語が用いられるようになっている。
東日本大震災に関しては、主に福島産の農作物の放射能汚染問題において語られる。被災者を支援したいという気持ちはよくわかる。だが、風評被害を無くそうとする取り組みは、農作物の放射能汚染への言及を認めようとしない、ということであり、それが安全であるか否かに関わりなく、とにかく「福島の野菜を買うべき」という主張になるだろう。
小生は、被災者の復興支援と、福島産の農作物を避けることは、矛盾しないと思う。
風評被害に対する批判が、善意で行われていることは間違いないだろう。しかしそれは、長期的に見れば甲状腺癌の増加に加担することになってしまうかもしれないのだ。放射能と甲状腺癌の因果関係は、明確にはわかっていない。長年かけて影響が出てくる事例がほとんどなので、放射線をどれだけ取り込めば癌になるかを、数値で明らかにすることができない。もちろんその影響には個人差がある。だからこそ簡単に風評被害批判ができてしまうわけだが、身の安全のために放射能を少しでも避けたいと考えている人に、福島の農作物の摂取を強要することは倫理的に許されないし、本当の意味での被災者支援にも反すると思う。
そして、福島の農作物の放射能汚染に関する言論を抑え込もうとすることは、無自覚的に「福島、並びに東日本は安全であるとアピールしたい政府」の片棒を担ぐことになってしまうのだ。
風評被害という言葉の使用に、もっと慎重にならなくてはならない。風評被害を過度に恐れていては、放射能汚染などの情報開示に及び腰になってしまう。それはつまり、被災者のためを思ってしたことが、巡り巡って逆に被災者を苦しめることになるかもしれない、ということである。真に被災者、並びに東日本の人々の安寧を願うのであれば、開示すべき情報は適切に開示されなければならない。
「やむを得ない風評被害」、もしくは「必要悪としての風評被害」もあるのだ。誤った情報に基づく風評被害は正されねばならないが、やむを得ない風評被害に対しては、無くそうとするのではなく、社会保障などによる補填で応じるべきだろう。
話を戻す。
東日本大震災を経てもなお、日本社会は原発依存から脱却できずにいる。何故だろう。
原子力産業が、もはやそれ抜きではやっていけないほど国内経済のうちの大きな比重を占めているからだろうか。原子力行政における利害関係、つまり原子力村の人的構造が、日本社会に骨絡みになっており、剔抉するのが困難であるからだろうか。あるいは、官民挙げての脱原発への取り組みは、理論上は不可能ではないものの、日本社会特有の「空気の支配」が、その実現を妨げているからだろうか。
どれも一理あると思う。しかし、これらの指摘は、福島第一原発の事故からこっち、数多くの論者によって言及されてきたことである。それこそ、耳にタコができるほど聞かされてきた。
ならば、それを踏まえてこう問わなければならない。「原発をめぐる問題点は百出し、その解決策も多数提示されているにもかかわらず、なおも日本社会が脱原発へと舵を切れないのは何故なのか」。
小生の仮説は次の通り。「経済でも、利害関係でも、空気の支配でもない、あまり意識されることのない問題点があり、それこそが脱原発を阻む大きな要因となっているのではないか」。
以下にその理路を述べる。
(②に続く)